5話から突然語りだす「あなたのことはそれほど」

 最近話題になっている「あなたのことはそれほど」。最近、とんとドラマを見ていなかったが、結構な話題作であることがわかり、興味本位で覗いてみた。

 

 永遠の愛を誓う。例えそれを誓った相手が浮気をしようとも、自分に愛情が向けられていなくても、その言葉を忠実に守ろうとする涼太。彼の怒りの矛先は、表向きには美都に向けられることはなく、「有島君」に向けられている。

 「お天道様の罰が当たった」とは作中で出てきた、涼太の表現であるが、それは誰に向かっての言葉なのか。普通に考えれば、不倫をしている美都と有島君たちのことであるが、涼太本人にもこの言葉は向けられてはいないか。直接、美都に怒りなり苦しみを伝えればいいところを、あえて美都の浮気相手である有島君を牽制しに行く。二人が繋がっているのは知っていて、そのことが美都に伝わることは明らかで、遠回しに怒りをぶつけている。

 それは、こんな行動をとらせてしまったあなたと相手に、お天道様の罰が当たっているのであり、その怒りを直接美都にぶつけることができず、捻じ曲がった方法で怒りを表すことになってしまう「お天道様の罰」が涼太本人に当たっているのか。私はこんなにもあなたのことを想っているのに、あなたが私に振り向いてくれることはなく、別の男に視線が向いている。どうしようもできないモヤモヤがあるのに、それを発散する機会を使うことはなく、それは直接咎めることができない涼太に対しての「罰」。今回の話で涼太が行った行為が不倫している二人への「罰」。

 涼太は(おそらく)どうしようもなく美都のことが好きで、仕返しとか、不倫のことへの怒りを表現する前に、愛することを誓ってしまったから、美都に直接行動できなくなってしまったのではないか。そして、いざ自分の愛情に答えてくれないことへの不満が溜まった時に、美都へ向けることのできない(しない)怒りは、美都の不倫相手である有島君へと向けられた。

 

 とまぁ、ごちゃごちゃ書きましたけど、見ていて思うのは、なんだこのゲスな雰囲気、もっとやれ! といいますか。実際に自分の周りで起きていたら他所でやれよと、非常に迷惑なものではありますが、四人の観点から同時に見ることができるドラマの特性と言いますか、割とあっちこっちに見ているこちらの感情が行ったり来たりできるので、そこら辺はいいですね。

 ただの甘いものにうんざりしていた人には、丁度いいくらいの不快感とハラハラ感になるのだと思う。5話しかみてないのに、見たくないけど見たい、というなんとも不思議な気持ちになる話でした。

衝撃により沼に落とされる怪獣映画 【シン・ゴジラ】

 衝撃的であり、見ていて呆然とするほどの虚しさが生まれる破壊が描かれた映画。第1印象はこれである。

 特に超巨大なゴジラになって再度突き進んでくるシーンは強烈であった。様々な制約を突破して、ようやく開始された人間側の攻撃は、圧倒的な力をもつゴジラには届かず、逆にゴジラの口から吐かれる火炎によって街は焼き尽くされてしまう。しかも、ゴジラが火炎を吐いたのは自身の存在を及ぼす攻撃が来たから排除するためである。それまではただひたすらに「歩いていた」だけにすぎない。

 どうしようもない理不尽さと、あっけなく消えていく人命や見覚えのある建物たち。出血するシーンや残虐なシーンをほぼ使うことなく(示唆されたりするシーンは山ほどあるが)ここまで圧倒的存在による絶望感を描き出せたのは、なるほどこの映画が話題になるだけのことはある。

 

 批判の中には、ヱヴァンゲリヲンにしか見えないだの、俳優の演技に差がありすぎるだの、セリフが早すぎて何が起こっているのかさっぱりだの、最後のゴジラのあっけなさとか色々ある。

 見ていて筆者もそのように思った場面はいくつかある。明らかにご都合主義のように思われるシーンがあるのは間違いないし、先程挙げた批判も作品を見て思った感想の中に確かに存在する。ごもっともである。

 

 ただ、それ以上に大事であると筆者が思ったのは、これが「ゴジラが21世紀に現れたとしたら」という、真っさらな状態をイメージして作られた作品であるということ。はじめて、この作品を見た時には先も書いたように衝撃があまりにも大きかった。次に出てきた印象は、なぜ? である。ご都合主義な展開を置いておくとしても、見ていて「なぜそこでそうしないんだ」というシーンはいくつもでてくる(最初にゴジラが来た時の対応など)。その興味から私は、私より前にこの作品を見て、作品の状況説明ができる先輩の解説付きでもう一度作品を見直すことにした。

 そこで出てくるのが、「ゴジラが21世紀に現れたとしたら」という仮定を忠実に再現しようとする魂胆である。まどろっこしいと思っていた部分も、全てもしこのような事態が起きたら、を想定したときに行われるであろうシミュレーションのような側面もある。

 苦評はもっともだと思う部分もあるが、最初のコンセプトは十二分以上に満たされているように思う。それでいてみた人をここまで引き寄せることができるのだから、ただの独りよがりな作品ではないことは明らかであろう。最近販売されたDVDやブルーレイにはメイキング映像もついており、この「シンゴジラ」を更に強固なものとしてくれる。

 見るたびに新しい発見を生み出してくれるような作品なのだと筆者は思う。

 

 作品の最後では、ゴジラは凍結に成功したことにはなっているが、それだけである。目の前の危険は遠ざけることができたが、以前として無くなってはいない。いつゴジラが動き出し、災害を引き起こすかわからない状態で作品は終わる。必ずしもハッピーエンドとは言えない、この終わり方こそが、言いようのない不気味さを際立たせており、私たちが直面するかもしれない問題の示唆なのかもしれない。

普段見ない洋画を見る 「グリーンマイル」

普段洋画を見ることのない私が、有名な作品だからと勧められて一つの洋画を見た。

 

グリーンマイル。トムハンクス演じる看守のポールが1人の不思議な力をもつ黒人の死刑囚、コーフィと出会い、グリーンマイルと呼ばれる勾留所での出来事についてのお話。(なおそれらの話は老人となった主人公の口から過去の話として語られる)

 

物語の途中までは、どこかで起こっていたとしても不思議ではないような感じがして、映画にのめり込む自分がいた。生々しく描かれた死刑執行のシーンは、こちらにまで電気が走るかのような緊張感と、その後のやるせなさを私に与えた。

そののめり込みがあだになったのか、作中でコーフィが不思議な力を使ってポールの病気を治したあたりから、途端に白けてしまった。

 

全編を見終わって、振り返ってみればとても楽しめたと思う。終わり方からして、清々しく終わることはできないが、全貌を知るスクリーンの向こう側の人として、理不尽さと、どこかで似たような冤罪が起きていても不思議ではないと思わせることのできる作品であったように思う。

 

 

その不思議な力を用いて死刑囚のコーフィと看守たちは人助けをしたり、悪者をこらしめたりする。

また、その不思議な力によって、コーフィ自身は死刑囚になるような事件を起こしていないことが主人公に明らかにされるが、真犯人は死亡しているし(コーフィが力を使って罰を与えたことにより)無実を証明できずに、コーフィは死刑の執行を迎える。

主人公たちは、無実でなおかつ聖人(少なくとも主人公たちにはそう見える)のコーフィを殺さなくてはいけないことに涙し、それでも死刑を執行する。

 

いくつか気になった点をあげよう。

  • 何故不思議な力をもつ男はコーフィなのか。この映画では主要な役割を持つ黒人はコーフィのみである。悪事を働いた(と思われる)男は白人であるし、問題児の看守も白人。それ以外の看守たちも白人が演じる。ここに意図はあるのか。
  • どう頑張ってもコーフィの無実は証明できなかったこと。不思議な力で犯人を特定しても、それはコーフィと、コーフィに力を与えてもらった人にしか理解できない。見るからに善人として作中で描かれているコーフィーへの理不尽さ。
  • 主人公が過去を振り返ることによってこの作品は成立している。また、作品の最後には長く生きてしまって、身近な人の死を見なくてはいけないのは、コーフィを殺してしまった罰であると主人公は思っている。この作品において、未来とは希望の物語ではなく、償わなければいけない罰であるのか。

 

気になったというか、理不尽さへの何故? ということか。コーフィも不思議な力によって苦しみを感じ続けることが嫌になったと、生きることを諦めてしまっているところが、尚更やるせなく感じる。

ハッピーエンドな作品ばかりを見ている人がこのような作品を見ると、どこかむかむかしたような感覚に陥るかもしれない。

 

モヤモヤしている私がここにいる。

 

 

読んでくださってありがとうございました。