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お風呂にはいってぼんやりと考え事をしていた。
大学卒業まじかになって、今までの自分の時間の過ごし方を少し悔やんだ。
常に人と一緒にいて、一人の時間がなかった。
へこんだらすぐに励ましてくれる人がいた。
自分で自分を励ますことを忘れてしまった。
好きなアーティストを聴きながら、その心のこもった歌詞に涙を流すことや、日記にグリグリと愚痴を書くことや、大声で好きな歌を歌うことが減った。
とても大切なその時間を好きな人に捧げていた。
好きな人といることの方を選んだ。
私はもう少し私と話す時間が欲しい。
一人の部屋がないとやっていけないと思った。
お風呂に入りながらそんなことを考えた。
でもこんなこと、もう何万回も考えてきたんだけれど。
浴室をぐるりと見回した。石鹸やシャンプーや、少し黒くなった壁のタイルや、白い桶。
テレビの画面からは、どこかのラジオが流れていて、そんなに有名でないアーティストが歌を歌っている。
ふと思った。
このラジオも、この白い桶も、私が選んだものじゃないってこと。
これ、私が本当に心から選んで使っているものじゃないって。
この歌も、なんで耳に入れているのかもわからないし、シャンプーだって別に愛をこめて使っているわけじゃない。
この浴室にあるものは、全部私以外の人間が作ったものなんだと気づいた。
私がつくったものなんか、何一つない。知らない人が作った優秀なものに囲まれて、恐怖に襲われた。
私ってなんて価値がないんだろうと思った。
何も作ったことがない。
作ろうとも思えない。
苦しい。
私がしたいことってなんだろう、なんてバカみたいなことを一年ほど考えているけれど、あるわけがない。
なにもつくったことがないんだから。
足が止まりそうになる。
一体私の人生は誰のためのものなんだろう。
正直にいきれない自分に疲れた。
もっと幸せな子供時代をきずきたかったとか、お門違いな言い訳さえ頭に浮かんでくる。
十分私は幸せだ。
私を不幸せにしているのは私だ。
だからここが踏ん張りどころなんだ。
この無力感を消すには、とにかく前に進むしかない。
日記とか発信とかって意味あるの?
日記を書こうと思ったのだけど、自分の日常を公開することに意味なんてあるのかな?と思ったので、それについて書きたいと思う。
まず、大問題なのだけど、私の場合伝えたいことがなかなか見つからない。
うおおおおこれ書きてえええ!!!
ってなったことがない。
だから、おもしろい日記を公開している人は本当にすごいなと思う。
でも、そんな日記には、筆者の見えない努力が、惜しみなく注ぎ込まれているのだろう。
だから、毎日面白い日記を更新している人はほんとにすごいと思う。
パワーがすごいなって。
創作って、もともとなくてもいい存在なのに、なぜか正解を探してしまう。
だってみんな読みやすい文章とか、うまい構成とかって、よくいうじゃない。
でも、文章をうまくきれいに書くのと、正解を求めることって違うんだなと、やっと気づいた。
それは、「伝えたい」という思いのエネルギーの違いなのだ。
たとえば日記。
私の場合、日記は自分の頭のなかを整理するために書いている。
だから文字も汚いし、文章の構成もすごく雑だし、たぶん読んだら気持ち悪くなるようなことばかり書いていると思う。
でも、これが他人に知られたいことかというと、微妙なんだよね。
だって、これは私がもっと成長するためにつかっているものだから。1分1秒前の自分の遺書を書いているような気持ちで書いている。
一方で、ブログとかで発信する日記は、また違った意味を持っているように思う。
自分が思ったことを他人にうまく伝えること。発見したことをうまく表現して相手に伝えること。
まだ私もよくわからない。
お得な情報なんて素人の日記にはないし、文章が汚かったら誰も見向きをしない。
だから日記をネット上で読んでもらうのって、とても難しいことだと思う。
だって、ターゲットが見えないから。
日記のターゲットは、自分だから。
自分のために書くこと、作ること。
そうした創作物を喜ぶのは、果たしてどんな人物なんだろうか。
書き手の考えに共感している人。同じことで悩んでいる人。暇な人。その人が好きで好きで仕方がない人。
こんなかんじ?
じゃあ、なんで日記を発信する人は、発信するのだろう。
認められたいから?日記なら簡単そうと思ってるから?疑問をぶつけたいから?
それならツイッターとか、チャットとか電話があるじゃんって思うけど。
難しいね。
私も、発信しはじめたばかりだから、何もわからない。
これを書いている今だって、ふだん自分がコソコソ書いている日記と変わらないじゃんって思っている。
匿名で発信することが好きなのかな。
でもそのくせ認められたいって思ってるから、難しいよね。
ほんとは日記じゃなくて、小説をかいてみたかったりもするし。
たぶん私が伝えたいことって、まだそんなにないんだと思う。
いったいみんなどんなときに、絵を描いたりピアノをひいたりしているの?
そばに誰もいないとき?孤独で孤独で仕方がないとき?すごく苦しいとき?
私の中に「文を書いてないと死ぬ!!」みたいな激しい衝動は、いまのところ残念ながらない。
作ることよりも、正解を求めてばかりで、他人の言葉ばかりきいていた私。
20年ばかし、ずっとそんな状態だったから、もう私は何もできないかもしれない。
きれいな音楽を生み出すことも、劇をすることも、有名な画家になることも、透明で綺麗な文を書くことも、もうできないかもしれない。
もう20を過ぎたら、人生は下降のみかもしれない。
それでも、私はなにかを作りたい。
とゆーか、私は自分になりたい。
むやみに絵を書いて、狭いリビングでくるくる踊って、動物に話しかけて、詩を作っていた頃の自分に戻りたい。
誰にも、今の歳が、若いときが一番だよ、なんて言わせたくない。
今まで以上に輝いていたい。
だから、伝えたいことがなくたって、ものすごい天才がそばにいたって、焦らないでいたい。
常に心の声を聞くことは忘れないで。
ゲーテ「若きウェルテルの悩み」
ゲーテ「若きウェルテルの悩み」
恋する青年の代名詞ともなっている名作古典「若きウェルテルの悩み」
1ゲーテのこと、2あらすじ、3この作品のすごいところ、4名言
今回はこの4点についてご紹介したいと思います!
1.ゲーテってどんな人?
ゲーテは1749年にドイツで生まれます。1749年というと、日本は江戸時代。絶賛鎖国中です。
1774年、ゲーテは25歳の時に「若きウェルテルの悩み」を書きます。まさにうら若き頃、この処女作で一気に文名を高めたのです。
またゲーテは勉強家で、大学で法律を学んだ後、弁護士を開業します。
その後も詩集や小説、戯曲を発表するかたわら、内務長官、宮廷劇場の総監督といった職業にも就く、本当にすごい人。
最後の作品は「ファウスト」、着想から60年をかけて書き上げた大作であり、この作品を書き終えた翌年(1832年)肘掛け椅子の左隅にもたれたまま、82年の生涯を閉ざします。
2.「若きウェルテルの悩み」あらすじ
この作品はフィクションではありません。
ゲーテ自身の恋愛、実体験をもとに作られた作品です。
許嫁のいる女性ロッテに恋い焦がれるウェルテルは、自分の恋が遂げられぬ恋であることを知り、苦悩の果てに命を絶とうとします。
3.この作品のすごいところ
この作品は、当時の小説界に驚嘆の渦を巻き起こします。
まず、書簡という形態で描かれた小説は、当時にとってはとてつもなく斬新な手法でした。
また、17,8世紀の小説は読者に娯楽と知識を提供することを目的としていました。
しかしながら、ゲーテが発表したこの作品は、ひたすら主人公が自分のことを喋り続け、挙句の果てに自殺するといったもの。
驚き、なぜ死ぬ!?
この衝撃的な小説に、いっとき自殺が流行ってしまったほど…
ゲーテが登場するまで18世紀もの間、こんな小説はお目にかかれなかったということですね
己の内面と深く向き合い、永遠の愛を留めるために死を選ぶ。
新しい小説でありながら、人間の生き方と深く向かい合ったこの作品は、時代を問わず多くの人に読まれる、古典となります。
4.最後に
作品の文体の美しさもぜひじっくりと味わってみてください!
名言の宝庫でもあり、恋に悩む人だけでなく、どんな人も励まされます。
ゲーテに惚れること間違いなしです!
印象的だった一文をあげて締めくくりたいと思います。
「前人未到の道を歩いて足の裏を一足ごとに傷つけても、その一足一足は悩める魂の鎮痛剤の一滴である。」
荻原浩『二千七百の夏と冬』
今回読んだ荻原浩さんの『二千七百の夏と冬』は、まさに徹夜本!
歴史ものでありながら現代と古代がリンクする美味しいストーリー構成。
現代の新聞記者である香梛は、ダムの建設中に発掘された、縄文人の人骨について記事を書いていた。
もう一人の主人公は、まさに発掘された人骨、ウルクである。
時は縄文時代と弥生時代の狭間で、成人の儀式を控えるウルクは虫歯に悩まされていた。
現代と古代のリンク、といったが、このリンクがとても面白い。
まず、香梛とウルクは同様に虫歯に悩まされている。
治療といっても歯を抜くしか手段のないウルクはガチで虫歯に悩まされる。しかも虫歯とは別に、成人の儀式で歯抜きをしなければいけないのだ…
恐ろしい。
また、冬の前触れである秋には、現代人好物の紅葉が訪れるが、ウルクたちは紅葉を葉の恨み、葉が死にかけ血を流している、とたとえている。
このたとえに、紅葉を楽しむところではない、食物の蓄えだ!衣服を作れ!という縄文時代の厳しさを垣間見ることができる。
また現代の日本文化の根源をウルクの目から知ることもできる。
ウルクたちの暮らす自然の中には神がたくさんおり、ウルクたちは山の動物や川の魚は、神が天から落としてくれた恵みであると考えている。神が怒るので獲物の取りすぎはよくない、などこれらの考えはアニミズム概念であり、日本の哲学や文化に深く根ざした考え方である。
作中のリンクは香梛とウルクの結びつきを強めるし、なにより部外者である私たち読者もそうだ。
この知っている、分かる!という快感がたまらない。
現代に通じる共通点を登場させることで物語に入りやすくなった。
そして縄文時代特有の、狩猟のシーンが痛快である。
テンポよく進む物語と、つい待ちきれなくて結末の文章を見てしまいそうになるほどの緊張感。
風の動きを読むために頬に唾をつけたり、川の音の種類や矢の作り方など、無人島生活がしたくなるような豆知識もいっぱい。これが本来ヒトの生きる姿なんだなと思った。
いつの時代も生き物は恋をしている。
縄文人は今の人間とはかけ離れた存在だと思っていた。
けれどこの本を読んで、縄文人は現代の私たちよりもよほど自然の真理を知り尽くしていたのだと思った。
弥生時代の米の普及により、田畑をつくるためのリーダーが生まれ、そこから権力やら国やらができたという人類の歴史はよく知られた話である。
この本を読んでまるでタイムスリップしたかのように、歴史が変わった瞬間をウルクの目から知ることができた。
今も現代に残る彼らの生活の跡に、人類の歴史の短さを感じる。
人間が寿命を全うしたとして、90歳まで生きたとすると、それをたったの30回繰り返せば、''二千七百年前''にたどり着くらしい。
獲物の肉は命と引き換え。
便利さは争いと引き換え。
お釜からひょいっと米をすくえるけれど、これを手に入れるのにどれほどの苦労があったのか。結局これを選んで私たちは幸せになったのか。
神も仏もないこの世で、私たちは今までの歴史と自分をもう一度見見直す必要がある。
見城徹「たった一人の熱狂」
様々なエピソードを短く書いているので比較的読みやすかったです。
が、本人は当たり前のことを書いてるつもりでも、命を張っている編集者らしく、ページの向こうから激しいオーラが伝わってきました。
大きい文字と相まってなかなかパワーのある一冊でした。
わたしが見城さんを知ったのはNHKのテレビ番組「課外授業 ようこそ先輩」
の再放送でした。
見城さんは母校の小学校を訪ね、生徒同士で作文を編集する、という授業を行います。
グループごとに分けられ話し合いをするものの、なかなか進まない生徒も居ました。
そんな中見城さんは生徒たちの個性を見つけていきます。
個性というと、ずば抜けて完成されたもののようですが、見城さんを見ていると、それが全員にあって、自分からしたらなんでもない、下手したらくだらないことなのだと気づきました。
一見全然かっこよくなかったり地味
だけれど魅力的、なものも個性であり、彼はそれを見抜いて引きずり出す天才でした。
本書には彼の信念や人間性が淡々と綴られています。
どれも正真正銘の彼の強い言葉です。
見城さんは学生の頃いじめられていたと語っています。
「今ある現状がどんなにひどくても、それはプロセスになる。大事なのは最後死ぬ時自分がどう思うかである。」
孤独を味わい、自分と見つめ合ってきた人は強い。
自分の生き方を肯定させられ、そしてこんなもんでいいのかと焦せらされる本でした。
ぜひこの生きた強い言葉を味わってみてください。
瀬尾まいこ『卵の緒』
僕は捨て子だ
この続きがなんとも気になる一文から、このお話は始まる。
わずか81ページほどの短編だが、ページをめくる手を止められない、それくらい魅力にあふれる登場人物ばかりだった。
特に主人公の母の愛は偉大である。
天真爛漫な母の言葉に振り回され続ける主人公だが、彼らの周囲にはしっかりとした愛の感触で溢れている。
題名の柔らかさとも相回って、とても温かく大切にしたい一冊になった。
新潮文庫の本書には2編の短編集が収録されています。
ぜひ読んでみてください、おすすめです
乃南アサ『しゃぼん玉』
今回は初めて読む作家さん、乃南アサさんです。
ちょっとした描写から容易に登場人物の人格を想像できるくらい、分かりやすい文章をかく人で、スピード感もありページをめくる手が止まらず。
『しゃぼん玉』の主人公は、強盗で日々の生計を立てている。地図も何も見ずに一心不乱に逃げた先は、九州の山奥だった。
殺す、という考え方を近くに置き、「しょうがない」「仕方ない」という考え方がクセになっている主人公は、そう思うことで自らの罪から目をそらしていた。
程度の差はあれど、みんなも思ったことがあるんじゃないか。「めんどうくさい」「知らない」「関係ない」と。
わたし自身にもある。斜に構えて全力で楽しむことをしない、できない。責任を持ちたくないし、新しい環境をまたつくるのであれば、このままぬくぬくと過ごしていたい、と。
罪を重ねようとする主人公に焦らされた。
彼は自分がこうなった原因を家族のせいにしている。確かにDVや言葉の暴力など、家が劣悪な状態では成長に大きな妨げとなるだろう。
愛なくして豊かな心は育たない。
23歳の主人公は見知らぬ山奥の村で、心の休憩をとる。
温かいお湯で傷口を洗うように、癒えていく傷と、しかし少しの痛みを伴う罪悪感から、主人公は前に進んでいく。
人にはやはり温かく愛のある場所が必要なこと、人の内面や背景を知るのは大事なことだと思った。
日常すれ違う人々の今までの歴史など、そう簡単にわかるものではないが、本なら、性別の違う人、歳の違う人、国の違う人、犯罪を犯してしまった人、様々な人の背景に触れることができる。
例えそれが作られた世界の話だとしても、読書をすることで多面的に見る力が養われていくとわたしは考える。
仕方ないと諦め、逃げる人に、どう一緒に楽しめるか、成長できるか、横のつながりの大切さを、この山奥の村で教えられた。