メモランダム

アクアフレッシュを口に含んだ瞬間福井をおもいだした。
『電極的』と想像すると即物的でいやになるけれど、
そもそも記憶は、いつでもランダムアクセスだ。
メモランダムということばにrandomという語感を感じてしまう。

18歳のときDUMB TYPEの『メモランダム』を見た。
あれはrandomだったのかな。

板橋から初台まで自転車で行き、
初台で会った人に、
初台から駒場まで行ってまた初台に戻ってきた時に、
また会ったことを思い出した。

小学4年生のとき
「紺色の帽子」クラスだった時の水泳のコーチが
スイミングスクールをやめて、
別のスイミングスクールに勤めることになった時、
「おまえも一緒にこないか」と言われたことを
思いだした。


系の中に視点を持っていても、
念入りに観察すれば、俯瞰的な考察を得られるという比喩。

変化する文法の外側にあって文法を変化させられないもの。

おそらく終止形/連用形/連体形/命令形/未然形
では足りない。

ゆっくり思い出すかのように想像力は発揮される。

人体の生命としてのつくりも、人間の言語も、
まるで完全ではなく、
ゆっくり思い出すように想像力を拡充すると
その不十分さに思い当たるようだ。

体言止は僕の思考を救えない。
好んで使う人たちがいるけれど、

名詞よりもやや動詞よりで、
そっと、重さを感じさせずにのっかるかのような
終止法があればいいのに、と思う。

溶ける魚というリアル

O氏と赤坂で韓国料理を食べた。
唐辛子の多いその食品群は、
僕の体の内側から
細胞の1つ1つに戸別訪問して、
賛成多数をかちとった、といったニュアンスで
体の中に元気の一大ムーブメントをおこしつつ。

唐辛子やにんにくも特徴的だが、
味付けの奥には魚があることの発見。

日本食も同様で、醤油の奥に魚を感じる。

魚肉の形は見えなくても、
料理のはしばしに魚が隠れているという意味で
共通の文化を感じつつ。

隠された魚からの視点で、
食文化の共通点と相違点のバリエーションを
強く描けないだろうか、という漠然としたアイディア。

相変わらず比喩について。

比喩は機械的な接辞でなく。
無から、比喩を見つけ出す過程に美がある気がする。

今日を表すのにうってつけな比喩は
「山と山の間の巨大な谷を渡るロープウェイがあって、
 そのロープにタオルをかけて、
 すべり落ちるんだけど
 握力は意外と持ちそうだけど、
 タオルがすりきれそうだ。
 そして、すごい勢いですべりおちているが、
 落ちているという比喩としても捉えられるが
 ゴールに向かって加速しているという比喩とも考えられるな、
 と考えながら
 タオルを心配している」・・・という比喩。

比喩を思う比喩という再帰性

煩雑すぎて人に説明できない。
けど、言葉は別に人に説明するためだけにあるのではない。

から、まあいいのではないか。
加羅、まあいいのではないか。

虹彩に挟まる

「夜更けにたばこに火をつけて
 うまれかわるなんてできない。」

ぼん、てん、ぼん、てん、と歩きながら、
気ままに色んなことを考えた日。
人に説明するにはあまりに無愛想ながら、
備忘として書き記してもよいだろうか。
あるいは、誰かがケッヘルになってくれるだろうか。

ホラズム

音楽商材=データの時代に

かつて出した音源と
同じデータを収録してベスト版CDとして売る、

なんて、ぜんぜん分かってない行為だと思う。

映画と違って音楽は、
「場に持ち込める」という特性がある。

場をどう設定するか、にもっと色々なアイディアが
考えられると思う。

あー
今の自分には、未来の輝けるエンタテイメントの世界が
見えるような気がするだ。


さぁ頭がまわってるうちに活動しよう。

でも 今日は寝よう。

変種脳トレ

目は見えない代わりに
体中全ての細胞で匂いを感じ取れる生き物になった感覚を
想像するという脳トレを実施。


その生き物の切ない感覚をよく理解できた。

脳はアダプティブル。

他の生き物の感覚を想像したり、
男が女の感覚を想像したり、
やろうと思えば不可能ではない。

耳を動かそうとがんばるとき
ややこしい話を理解しようとがんばるとき

自分のすごく「はじっこ」の方に力をいれている感覚になる。

自分が持っていない器官の感触を想像することも同じで、
「はじっこ」に力を入れて頑張って想像すると
なんとなく理解できる気がする。

「はじっこ」の神経をきたえよう。