全体性と無限

原因はストレスですね何か思い当たることはありますかお仕事はどうですか、と言われると、様々なことが改めて頭に浮かび、結局、そうですねストレスですかないことはないけどどうですかね、とよくわからない返事をしてしまう。

 

私は、たとえば、誰かの尊厳を守らなくてもいいものとしている限り、自分自身を含むどの人の尊厳もまた条件付きで仮初めに尊重されているだけの存在となってしまうわけで、そういうことが心底きつい。
条件なんかつけずに誰のことも何のことも祝福してほしいし、ほしいというかそうでないとおかしいと思うし、神様を発見した人の気持ちがとてもわかるし、未発見だったら私が見つけていた。それは願いというか、誰かが生きようとするならば、そうでなければ論理が破綻してしまうから、そういう前提は必須というだけだ。

また、こんなこと誰の身にも起こらないでほしいと思うさまざまなことが既に起きている / 今も起こり続けているという事実だけで十分に致死量の絶望で、正直そうした現実と一体どう折り合いをつけることができるのか全くもってわからない。折り合いをつけるべきとは思っておらず、むしろ折り合いをつけずに抱え続けることこそが自分のできる限りの誠実な応答だと思ってはいるものの、まともに向き合ったら生活も生存もできないとも思う。どこまで何をしたら充足するなんてものはなく、どこまでもどこまでも尽きることなく応答は求められる。その声に対し自分が壊れない程度に応える、それ以降はそれとなく聞こえないふりをする。聞こえないふりをしても見えないふりをしても、あえてずらした焦点の外にはいくつものぼやけた深淵がちらつく。私は誠実に生きられているだろうかと、誠実には生きられないのだろうかと、常に諦念と絶望がぼんやり底を流れる。

子曰く、人は正気になってしまうと生きていくことができないので、生まれてから3分間だけ正気で、あとは全て気が狂っているらしい。

 

 

希死念慮で落ち込みたくない。生きようと思えるようになったと思ってたのに、子宮頸がんワクチンを打ったら死ぬチャンスをひとつ逃すかもしれないとふと思って予約できないことに悲しくなりたくない。生きてたら死にたくなるのは当たり前で、死ぬまでこうした気持ちになることは何度も繰り返されて、だからただ海を眺めてるみたいに過ごしたい

 

 

はれときどきぶた

 

6/17(水)晴れ

今日は午前中で仕事を片付けてレビュー依頼を投げたあと、溜めておいた手続きを終わらせて、部屋の片付けをした。片付いた部屋で本を読みつつ、ずっと放置されていたラズパイをひとまず画面につなげて立ち上げてみた。何をつくろう。お風呂あがりにストレッチをしてから寝た。

 

6/18(木)曇り

眼の手術をしてみたら、驚くほどストレスがなくなり、あらゆることのモチベーションが湧いてきた。

自分で1からできることを増やして、自分がほしいものを大量につくるマッドサイエンティストになることにした。自分を世界から疎外させたくなさすぎる。でかいパラボラアンテナを家に取り付け、ミルクの妖精のような飛び出し坊やを庭に置くことにした。

 

貝殻を30年収集している人のきっかけの話が大好きで、自分はこういう瞬間のために生きていると思う。

きっかけは上司の一言なんですよ。海の近くに住んでますって会社の上司に話したらね、「その海岸には何種類くらいの貝がいるのかね」と聞かれたんです。それがきっかけ。

 

何者になりたいわけでもなくだれかに認められたいわけでもなく、単におかしなことに加担したくないだけだが、生きている限りそれは無理なことであり、生まれた時点ですでにある搾取や加害性を含んだ構造のうえにほっぽり出されてしまうので、抗う努力をしてもすべてのことに抗うことはmortalsであり有限な存在であるため無理なので、何かには加担してしまうわけで、おいおいこんな消極的でささやかな願いすら叶わないのかよと、それに耐えられなくなり無理だこれ以上は続けられないと思う日もしばしばあるけど、その耐えられなさとどうしようもなさとともにありつつ、同時に、海きたし泳ぐか、という気持ちで、生まれたし生きるか、と思って、生き延びていきたいものだよ

 

 

夜中に部屋を漁っていたら、大学のころ買って一度だけ読んだ末井昭の『自殺』が出てきた。内容はあまり覚えていないが、当時読んだ際に途中から「なんやねん」という気持ちになって投げやりに読み飛ばした記憶があり、特に今後読み返すこともなさそうなため、売ることにした。メルカリを開いて調べてみると、これがけっこう売れている。今自殺について考えている人が結構いるのだろうと思うと同時に、こう何か救いになるものに手を伸ばそうとしていることに希望のようなものを感じた。まあすべては勝手な想像でしかないのだけど。

 

どうしてもこの夜を乗り越えられない、と思う瞬間がある。まわりの人々や過去のことこれからのこと全てから引き剥がされ、たった今の自分ひとりで、このときを耐えられるかを試される瞬間がある。強制的に一対一で対峙させられ、だれも何も助けにはならない瞬間がある。何度もあったのに、いつも怖くて、どうしていいかわからなくなる。どうにか乗り越えられますようにと、時間潰しにしかならないけど、どうにか時間を潰すことが大切で、祈るように今も書いている。

 

 

ラインマーカーズ

 

大学のころ、とある宗教の勧誘の人とよく話す機会があった。当時住んでいたアパートにはオートロックもインターホンもなかったため、ドアを叩く音が来客の知らせで、扉を開けるともう目の前に人がいた。丁寧な話し方をする、眼鏡をかけた中年の女性だった。顔を思い出そうとしてみると、阿佐ヶ谷姉妹のどちらの顔も浮かんでくる。

何となく無下に扱いたくないのと、この人がどんなことを信じているのか単純に気になり、ひとまず話を聞いてみた。
彼女は、世界は神によりすべてデザインされている、生死を含むすべての事柄には理由があり、世界の整合性は神により保たれているのだ、というようなことを話した(と自分は理解した)。

わたしは、たしかにこの世界について考えたときに、あまりにも複雑なものがこんなにも奇跡的に噛み合って存在することなどに感動することはあるし、神のような超越的な存在について思いを馳せることもある、でも、死ぬことや生きることや存在それ自体やあらゆることにたいして、とくに意味も納得できるような理由づけも存在しないと思っており、そりゃ納得できた方が精神衛生上大変よいだろうけど、とても安心するだろうけど、その根本的な無意味さから逃げずに生きることは自分にとって大切なことなのだと伝えた。
彼女は、しばらく考え込んだあと、また勉強してからきますね、と言い帰っていった。

  

  

昔、「ものすごくうるさくて、ありえないほど近い」という映画を観た。この映画は、911で父親を亡くした子どもの話で、彼は非定型発達的な気質があり(映画では診断を受けつつその結果については明示されていなかった気がする)、とても聡明で厳密だった。

自分がこの映画を観たとき、この主人公の気質により、父の死の理不尽さが際立つことが印象的だった。なぜ父は死んだのか、なぜ死ななければならなかったのか、いくら考えたところで納得できる説明は見当たらない。厳密な彼が父の死と向き合おうとするとき、どうしようもない深淵を見つける。理由もなく、均衡もなく、意味もなく、ある出来事は起こりあるものは存在する。気づいたときには心底呆然とする。なんて拠りどころのない場所に投げ出されてしまっているのだろう。世界はまったく「正しく」なかった !

 

わたしは、自分たちが常にそんな底のない無意味に曝されてることをいつも忘れないようにしている。それは決して真っ暗な絶望ではない。むしろ、強い光ですべてが満たされたような、そんな白で、そんな諦めで、そんな絶望で、そんな祝福だ。

私たちは意味がなくとも生きていけるし、むしろ意味がなければ生きられない方がおかしい。人生にあるのは、意味ではなく味わいで、喜びだけでなく自分の痛みも苦しみも、味わいだから、私のものだから手放したくないと思う。
途方もない理不尽な世界で生きることを、生きる自分自身を、わたしは心から祝福し、ウケるな〜と思っている。

  

 

 

一週間後、ピンク、緑、黄色のマーカーが引かれたパンフレットを携え、彼女はまた会いにきた。あなたの問いに答える準備をしてきました、と笑うその人の瞳は、西陽に透けるときれいな茶色に見えた。