最悪だ。
恋人の目の前で誕生日を間違えた。
破滅してしまう僕たちは
僕や僕の周りの人たちは生きるのが下手くそである。
下手なんてもんじゃない。時には生きられず死ぬ友人もいる。「どうして下手なのか、なんでもっと上手くやれないのか肝心なところでつまずくのか終わっちゃうのか進めないのか」そんなことをぐるぐると、今朝考えていた。それは、きっとこうなんだろうという思いつきからこんなツイートを書いた。
緩慢な自殺とは清算できないリスクを負っていくことだ。溜まった負債は真綿として首を絞めるそして死ぬ。
— ぐっちょむ (@gutchom) 2017年3月16日
どうしてもこうしても上手に生きられないもどかしい友人たちのみんなというわけではないけれども、下手な人たちには緩やかにバレないようにと「死」が僕たちを引き込もうとしているのかもしれない。死神が憑いているとも言えようか。
しかし、やはり、単純に表現すると、「向いていない」という一言に尽きるのだと思う。
生きることそれ自体に不安を抱えてしまうから、僕はそれをぶち壊して台無しにしたくなって、時限爆弾を仕掛けるように自分の落ち度の貯金を増やそうとしてしまう。いつか溢れて死ねれば、勝手に、自動的に、意思とは関係なく、抗えず、しょうがなく、そういうふうな段取りを組めれば、なんていうか自由になれるのかもしれない。
しかしそんな馬鹿な話であればたまったものではない。
生きているからには生きなくちゃいけない。こんな最悪な理屈で動く宇宙に生まれて本当に嫌な気分だけど、ここでは楽しもうと思えば楽しいことができてしまうから、だから楽しむしか道は無いんだ。探して楽しむのか座して死ぬのか、その二択だ。
だから、生きている限りはどうか楽しく笑って暮らせるように、大切な人たちがそうであるよう願ってやみません。
どうか僕自身が誰かのそれの妨げになっていませんように。
追記。
文章の流れがめちゃくちゃで、話の対象が全体を通すと噛み合っていませんがご容赦ください。
友人たちが死んでいくということ
一昨年に友達が死んだ。去年にも死んだ。今年も死んだ。夏に死んだ。僕を慕ってくれていた友達たち。
何してもいいから死ぬのだけはやめてくれよ。
友達が死んでいつも思うのは全く慣れやしないということ。三人死んでも、一人の死は三分の一にはならない。一人一人が三人死ぬ。三倍だ。楽しかった思い出も申し訳ない出来事も、三倍だ。そして彼らとそれはもう話せない。何か楽しいことがあっても呼べやしない。面白いことを見せられもしない。ただ単に淋しい。いないことが淋しい。あいつがいれば、あいつがいれば、もっと何か、何でも、たくさんできたのに、ただ、そう思う。
僕も死にたいと常々思っているので責めようと思わない。「ご苦労様」としか言えない。人が死ぬのは不幸だ。その先の余生に何も見えなくなるのだろうかと僕は思う。満足して死んでくれていればいい。けれど彼らの最期の状況を聞くと本意だったとは思えない。虚しさが募る。
とにかく死なないでほしい。とにかく死なないでほしい。
僕は、満足して死にたい。人生に後悔が無いと思って生きているから。
それが自殺であっても。
お願いですからここから出してください
ここというのがどこなのかを説明するのは難しい。この状況でも実際の居場所でも無い。しいて言えば自分自身という存在から解放されたいというような気分。
信じるって
信じるということは頭の中に勝手な妄想を抱くこと。信じるということは相手の中に勝手な期待を寄せること。信じるということは。信じるということは何か。
時によってそれはとても重い存在だ。「君は賢いね」と言われれば賢くなんてないだとか、もっと賢くならなきゃだとか、少なくとも言われたことで縛られる。でもこれは的外れな場合。
時によってそれは救いにもなる。「君は賢いね」その一言で人を勇気付けることもある。その一言が勝手に決めたことが相手の新しい一面を開くこともある。
要は反感を買うかどうかだと思う。
死にたいを乗り越えた生きたさの先に待つ死にたい
死にたいと思ってるのはこの半年前から。
2015年12月、僕はいままで無理だと思ってた勉強が楽しくなった。そしたら何やら自分が成し遂げたような気になってしまい、結局全部がつまらなくなった。そういうことなんだろう。
面白いこと、楽しいこと、刺激、喜び、全部がなんだか嘘っぽいようなその場限りのような気になってしまう。
どこかで見たような気もするし、そのうちいつか見れるから今はいいやと思ってしまう。
とにかく生き抜くためのエサを探してる。
シェアハウス。
そろそろ一人暮らしがしたい。静かに暮らしたい。
シェアハウスで暮らしたのは2011年10月からなので、今は四年と少し。五年目になった。色々と経験できたし、住めてよかった。
半年以内には資金を貯めて一人暮らしに移ろうと思う。