被害に遭う方が悪いという風潮が行きすぎた自己責任論に通じる、という話
先日、女性のソロキャンパーが、一人でキャンプをしていたら男性のキャンパーからの犯罪に巻き込まれそうになったという発言をしていた。
これに対し、「そもそも女性一人でキャンプをしている方が悪い」という意見も多くみられ、なんで被害者がそんなにバッシングされるのだろうと不思議に思ったが、割とこういう批判はみられる。
・バッグを盗まれた人に対し、無防備に大金を入れて持っているのが悪いと言う
・痴漢にあった人たにちに、痴漢に合いそうな格好をしているのが悪いと言う
などだ。なぜこのような被害者を余計に傷つけるような批判が起こるのだろう。
確かに犯罪に巻き込まれないようにするために、ある程度の対策は必要だろう。だが普通にキャンプ場でキャンプをしていただけ、普通に街を歩いていただけ、電車に乗っていただけで、運悪く被害にあってしまった人たちを無防備だとバッシングするのはおかしい。
大前提として、悪いのは加害者である
当たり前だが悪いのは加害者である。対策が十分でない被害者も悪いというなら、そういう被害者に対してなら加害しても仕方ないということになり、ある程度の犯罪を容認することになってしまう。目の前に無防備に現金持っている人がいたら盗んじゃっても仕方ないよね、なんてことには絶対にならない。
被害者をバッシングするのは過剰な自己責任論につながる
防犯はしなくていいと言っているのではない。もちろん防犯は必要だ。犯罪の被害者に対して、「そんなの被害に遭っても仕方ない」と外野が批判するのはおかしいということだ。
これが行き過ぎると「犯罪被害に遭ったのは本人の防犯が不十分であった事による自己責任である」ということにつながってしまう。それで日本は安心安全な国であるというのならとんでもない矛盾である。
社会全体として犯罪を減らしていきたいなら、被害者をバッシングすることはなんの意味もないし、余計に被害者を傷つけるだけだと言うことを認識すべきだろう。
自分がいなくなると仕事が回らないなんてことはない、という話
最近、知人が仕事を辞めるかどうかで悩んでいて、悩んでいる理由を聞くと「残された人たちの仕事量が増えて大変になるんじゃないか」ということらしい。
僕にはそれが退職を思いとどまる理由になるのがどうしても不思議だったが、退職するしないは最終的には本人の自由なので何も口を挟まなかった。
最低限の引き継ぎさえしてしまえば、いや時には引き継ぎすらなく退職したところで意外と組織というのはどうにかなるので退職してしまった方がいい。その理由を考えてみたいと思う。
自分でなければならない仕事なんてあるのか
そもそも、その人でなければならない仕事とは世界にどのくらいあるのだろう?
会社の社長?会社の社長なんてしょっちゅう変わるし、それでもなんとかなったりすることが多い。アップルですらジョブズがいなくなった後も業績を伸ばし続けている。
一国の首相や大統領?なんらかの理由で国のトップが働けなくなっても一時的に副大統領などが引き継ぎ、そのうちすぐに新たな大統領が誕生する。
天才科学者?アインシュタインでさえ「彼がいなかったとしてもポアンカレ(フランスの数学者)が相対性理論を作り上げていただろう」と言われている。
そうすると、ただの会社員がひとり退職したところで、対して世の中に影響しない。その人の仕事に意味がないと言いたいわけではない。自分がいないと職場が崩壊する、なんてことはないということだ。
残された人も大変なのは最初だけ
いやいやそうは言ってもその人の仕事の負担が残った人にかかるのは間違いないだろうという意見もある。それはそうかもしれないが、大変なのはせいぜい最初の数週間くらいだ。そのうち新しい人が来るかその状況に慣れてしまって、誰かが退職したことなど過去の話になる。
会社はあなたの人生の責任を取ってはくれない
仮に退職せずに残って会社に貢献したとして、会社はあなたの人生に責任を取ってくれるわけではない。辛い職場で働き続けて体調を壊してしまったら人生台無しだ。自分の人生は自分で守るしかない。
辞めると決めたら何も考えずにスパッと辞めればいい
辞めると決めたら残された人たちのことは考えなくていい。そんなこと考えたらいつまでも辞められないし、その人たちもどうせいつか辞める。それよりも自分がこれから何をしたいかを考えていく方がよっぽど人生に取って大切だろう。
状況を変えるには自分から動くしかない、という話
人生は常に順風満帆ではなく、時には自分が望まない環境に置かれたり、もっといい環境に移れるチャンスが訪れたりする。
その時に大切なことはただ一つ、自分から動く、ということである。
待っていても状況が変わることはない
例えば労働環境において、給料が少ない、労働時間が長い、などの問題を抱えている人はたくさんいて、そういう時に国が何とかすべきだという論調が多くなる。
人間関係においても心地よくないならば離れる、やりたいことがあるならとりあえずやってみる、など自分から動かないことには問題は解決しない。
もちろん、国が周囲ができる手助けも必要だが、それを待っていても自分が望むようになるとも限らないし、時間もかかる。であれば自分から動く方が早く、何より自分がどういう環境を欲しているかというのは自分にしかわからない。
動かないということを選んだのも自分の選択
環境を変えるために引っ越す、転職する、など人生には色んな選択があるが、何かに直面した時に行動した場合、それによる結果を引き受けるのは自分だ。動いたことによる責任は自分が負うしかない。だが、動かなかった場合、それも自分が選んだ選択の一つだ。であればそれによって不満を抱いても、その責任を引き受けるのは自分しかいない。
ここで過剰な自己責任論を押し付ける意図はない。自分にはどうすることもできない不慮の事故や不運は人生につきものだし、それは社会による手助けが必要だ。ここで言いたいのは、自分の行動で変えられることに対しては、その責任は自分で取るしかないということである。
動かないのはそのほうが楽だからか失敗が怖いから
今の状況に不満があったりやりたいことがあっても動かないのは、結局は動き出す億劫さよりも不満を言いつつ今の環境にいる方が楽だからか、失敗する不安があるからだろう。
だが、何かを待っていても誰かが自分の人生をよくしてくれるわけではないし、結局は自分で動くしかない。残りの人生で一番若いのは今この瞬間であるから、とにかく今できる小さなことから始めるだけでもそれが人生を変えるきっかけになるだろう。
現代はお金がそんなになくても楽しめることが多い、という話
以前、友人と「今の時代は楽しく生きるのにそんなにお金は必要はない」という話をしたことがある。友人とは意見が真逆で、彼は楽しく生きるのにある程度のお金は必要だし、贅沢な生活がしたい、という立場だった。
別に正解がある問題でもないし、人それぞれ好きに生きるのがいいと思うが、僕はなぜそんなにお金は必要ないと思うのかという話をしたいと思う。
娯楽が昔と比較にならないほど安くなった
まずはこれ。今のような動画配信サービスが普及する前は、レンタルDVDなどで映画1本300円くらいだったが、今は月額1000円もせずに大量の映画やアニメが見られるサービスがたくさんある。YouTubeにいたっては無料である。
Switchなどのゲームもセールのタイミングなら1000円もせずに楽しめるタイトルが選べないほどある。月200円でオンラインで友達と遊ぶことも可能だ。ゲーム1本が1万円くらいした時代もあったことを考えると本当に安くなった。
僕は旅行が好きだが、旅行も同じ。LCCを使えば例えば東京から札幌の往復は1万円ちょっとで行けるし、東南アジアでも東京から往復2〜3万円のLCCなどがある(最近は様々な要因で航空券が上がっているが)。これならどうしても旅行したければ数日バイトすれば稼げない額ではない。
外食や食品がクオリティに対して安い
これは僕がマレーシアに住んでいるからかもしれないが、日本は外食がとにかく安い。外食でなくても例えばスーパーの冷凍食品やコンビニのスイーツなどは驚くほどハイクオリティで安価だ。もちろん外食が安いのはいいことばかりではなく、僕は外食はもっと価格をあげるべきだという立場だけど、それは別としてとにかく美味しいものが手に入りやすい国だ。
結局はちょっとしたことに幸せを感じられるかがカギ
こうして並べてみると、結局は手にできるものに幸せを感じられるかがカギとなるだろう。経済的に贅沢な生活を求めるとその分稼がなければならないし、それに慣れるともっと贅沢がしたくなるかもしれない。そこまでしなくても意外と手の届く範囲にたくさんあるということに気づくと、そんなにお金はなくても楽しめることに気づけるかもしれない。
他人と比較することの無意味さもゲームから学べる、という話
ゲームは色々と教えてくれるという話をしたが、他人と比較することの無意味さを簡単に理解させてくれるのはRPGである。
僕は子供の頃からドラクエが大好きでリメイクなども含めてかなりのタイトルを遊んだけど、RPGの好きなところは多様なキャラを組み合わせてパーティを組むところだ。
得意と不得意を組み合わせて目的を達成する
パーティを組むときに強い組み合わせは戦士タイプだけで固めず、魔法使いタイプや素早さのあるタイプなどを上手くミックスした方が良い。
なぜかというと敵キャラも様々なタイプがいて、いろんな状況に対応できるようにするためだが、それを可能にするのは各キャラの個性である。お互いのキャラの得意な部分と不得意な部分がそれぞれをカバーし合い、強いパーティが生まれる。
では、どのキャラが一番優れているのだろう。
戦士は魔法使いを、魔法使いは戦士を羨ましがったりしない
そのRPGの世界において一番大事なパラメーターは何だろう?
ちから、賢さ、素早さ、体力など色々あるがどれが一番大事か決められるだろうか。
ゲームにもよるが、どれが一番かは決められない。むしろそれが決まってしまうゲームは面白くない。どれが良いかは状況に左右されるし、状況は刻一刻と変化する。
この世界において、ちからは戦士の方が魔法使いより優れているがだからと言って魔法使いは戦士を羨ましがるだろうか。そんなことはない。逆もそうだ。それはお互いの個性がすごくわかりやすい状況にあるからだ。
現実世界はゲームの何倍も複雑である
現実世界を考えると、個人の特性は数値化できるわけもなく、またできたとしてもそのパラメータは無限にある。ちからといっても腕力が強い人、脚力がある人など一人一人全員異なるし、賢さも記憶力や計算力や読解力などいくらでも枝分かれする。
現実世界の人間は人間が把握できるほど単純ではなく、到底理解できないほど複雑である。
にもかかわらず、人は他人の一側面だけを比較して優越感や劣等感を感じる。それは無意味だ。それは戦士が魔法使いを羨ましがるのと同じである。
いや、レベルが低い戦士がレベルが高い戦士を羨ましがるのは当然だという反論があるかもしれないが、それが起こりうるのはゲームの中だけだ。現実世界の個人同士は一人一人が全て違う。
もし他人のある側面について劣等感を感じたとしても、必ずあなたにはその人が持っていない何かを持っているはずであり、逆に他人があなたを羨ましがってるかもしれない。
だから、他人と比較することは無意味である。もし他人と比較してしまうときは一歩引いて、自分は自分という唯一無二にキャラクターであることを自覚しよう。
スキルの身につけ方はゲームに学べる、という話
僕はゲームが好きで、休日にSwitchやPSで遊んだりする。
海外に住んでいても日本の友人とネット対戦できたり、とても便利な世の中だ。アクションやRPGやスポーツゲームなど何でもするが、時には時間を忘れて熱中してしまうこともある。
ゲームは一種のスキル習得である
最初は下手で弱い敵にさえ苦戦するし、少し上手くなってもボスキャラにやられたりするけど、試行錯誤しながらだんだん上手くなっていく。この「だんだん上手くなって勝てていく」という過程が楽しい。
そう考えてみると、ゲームというのは1つのスキルを習得することに他ならない。特にアクションやスポーツではそれが顕著で、そのゲームの世界のルールを覚えて少しずつ上達していき、クリアする頃には最初とは比べ物にならないくらい上手くなっている。
これを実生活におけるスキル習得にも応用できないだろうか。そもそもなぜ多くの人はゲームを楽しいと思うのだろう。
ゲームは少しずつ上手くなるように設計されている
最初から強い敵が出てきて初心者は絶対勝てなかったり、弱い敵ばかり出てきていくら上手くなっても歯応えがないゲームは面白くない。面白いゲームは絶妙に難易度調整されていて、何回かの失敗の末にクリアできる設計になっている。
ボスキャラなどは1回でクリアできることは少なく、何度もやられてリトライすることで相手の行動パターンや弱点を発見していき、そのうち倒せるようになる。
これは少し努力することで克服できる課題であって、人はあと少しでできそうということに熱中しやすい傾向がある。あと少しで鉄棒の逆上がりができそうな時に頑張るのも同じだろう。
スキル習得をゲームのように楽しむ
これを実生活で他に身につけたいスキル、楽器でも料理でも語学でもいいが、それらを学んでいくにはスキルを分解して少しずつクリアできる目標を置くのがいい。楽器であれば好きな曲の1フレーズずつや1小節ずつ練習する、語学なら挨拶のフレーズ、買い物のフレーズとかに分けて覚える。小分けにしたスキルをゲームの敵キャラのように攻略していく。
挫折で多いのは、高すぎる目標を設定して現実とのギャップを直視できなくなってしまうパターンだろう。外国語をネイティブのように話したいと思ってもそれは何年も何十年も根気よく続けることが必要で、大体続けられる人というのは一気に上手くなろうとせず少しずつ前進していく。おそらく無意識にそうしている人も多いだろう。
勉強でも仕事でも趣味でも、何かを身につける時にはそれをゲームをプレイするように捉えてみてはどうだろうか。
自己肯定感を下げるのは何か、という話
自己肯定感とは何か
日本人は失敗を過剰に恐れネガティブな感情を抱きやすく、自己肯定感が低いとよく耳にするが、自己肯定感とは何だろうか。
自己肯定感というのは、ありのままの自分を受け入れる感覚のことである。長所も短所も含めてこれが自分だと素直に受け入れる感覚のことであって、これがどの程度あるかは人生の幸福度にかなり影響する。
自分にとって重要でないことは受け入れやすい
例えば、僕は走るのも遅く、泳ぎもそれほど得意ではない。ところが僕は陸上選手でも水泳選手でもないから、なんで速く走れないんだろうとか上手く泳げないんだろうと悲観することもないし、運動が得意な人を見ても比較することなく素直にすごいなと思う。足が遅い、泳ぎが下手な自分を素直に受け入れることができる。気にしないと言い換えてもいいかもしれない。
仕事で昇進することに全く興味がない人にとっては、友人が昇進することに劣等感を感じず、独身が楽しくて仕方ない人にとっては友人の結婚を素直に喜べるはずである。今の仕事に満足し、独身である自分を受け入れることは何の困難もない。
では、どんな時に自分を受け入れるのが困難となるのか。
自分にとって重要だと思っていることを他人と比較するから苦しくなる
裏返せば、自分が重要だと思っていることを他人と比較するから劣等感が生まれる。年収が重要だと思っている人は他人と年収を比較し、地位が重要だと思っている人は肩書きを比較し、勝った負けたで一喜一憂する。年収や肩書きが低い自分を素直に受け入れることに抵抗を感じ、つまり自己肯定感が低下する。
これを防ぐにはどうすればいいだろうか。
重要なことでも他人と比較する必要はない
トップアスリートなどは常に自分を高めることに集中し、他人と比較というより昨日までの自分と比較するとよく聞く。水泳選手にとっては泳ぎの能力は重要だが、他人と比較しているわけではないようだ。(もちろん金メダルは他人との競争によって与えられるが)
そうすると、自分が重要だと思っていることも、他人と比較しなくて済む方法があるということで、それは過去の自分と比較することである。昨日できなかったことが今日はできた、ということはレベルアップである。もちろん自分より上はまだまだいるが、そんなことはどうでもよくて、自分が進歩できたかどうかだ。
それにもう一つ、自分が重要だと思っていることは、本当に重要なのだろうか。
本当に重要なことは何かをよく考えてみる
例えば、年収、学歴、社会的地位はあなたにとって本当に重要なことだろうか。重要だと思い込まされているだけかもしれないのではないか。世間一般で良いとされているこれらの評価が正しく、それを比較することは正当であると思い込むと、多くの他人との競争に巻き込まれ、比較し、劣等感が生まれる。上には上が必ずいるからだ。
人生にとって本当に重要なことは何だろうか。幸せに楽しく毎日過ごすことではないだろうか。幸せとか楽しいは当然人によって全く違う。自分が幸せを感じられればそれで自己完結だ。世間が勝手に持ち込む物差しで競争する必要はまったくない。そうすれば、色んな一面をもつ自分を素直に受け入れることができるようになるだろう。
さて、あなたはどう思うでしょうか。