ひとすじのひかり

思いつくまま気の向くまま

表の神様と裏の神様

日本の神社をお詣りするようになったのは、平成25年にパートナーとの記念旅行として高千穂峯に上ったことがきっかけでした。

それまでも、スペインの巡礼路であるカミーノ=デ=サンチアゴを歩いたり、インカ道を山越えしてマチュピチュに行ったり、レムリアの聖地と言われてヒーラーが集まるマウントシャスタなどに旅していましたが、神社には興味がなかったのです。


高千穂峯は、坂本龍馬が新婚旅行で訪れたと言われている場所ですが、頂上に突き立てられているご神宝である天の逆鉾を引き抜くという「いたずら」をしたせいで、ほどなくして亡くなってしまったとも言われています。


私はもともと自然が好きなので、神社のあるような山や森には出かけていたのですが、鳥居や社殿に魅力を感じず、近くを通りがかっても避けていたのでした。


私が好きなのは、沖縄の斎場御嶽や久高島のような鳥居のない神域であり、富士山や白山のようにお山そのものであって、そこには神様を感じるものの、鳥居の中の、小さな社殿は、それがどんなに美しいものであっても、お山そのものがもつダイナミックなエネルギーは感じず、少々窮屈で不自由な感じがしていたからだと思います。


ですが、6月に高千穂峯に上り、霧島六社をお詣りして、その後出雲大社伊勢神宮と縁あってめぐることになり、その年の秋には明治神宮のお膝元に引越しして、毎朝参拝するようになったのでした。


明治神宮は100年の年月をかけて、人の手によって自然の森を作ろうという壮大な計画のもと、作られた美しいご神域を抱えた神社です。

わたしはこの森に時折顔を見せる珍しいキノコや、可憐な草花に魅せられ、また自然の森の息吹と朝日の織りなす美しい光景にすっかり心を奪われ、毎朝お詣りに行くようになりました。


お願いごとがあったわけではありませんし、社殿には相変わらず興味がありませんでしたが、毎朝お目にかかる年長の知人にならって、鳥居の前で一礼し、作法に則って参拝しているうちに、参拝の作法に慣れてきて、他の神社にお邪魔したときも、拝殿で自然にお詣りするようになりました。


思えば、高千穂峯に上がる前にも、神社で参拝する機会はあったのです。

富士山でワークショップをやっていたとき、たまたま訪れた神社で、思いがけず拝殿に上がって正式参拝させていただく機会をいただいたのです。

その時の私は玉串拝礼自体が初めてで、しかも通常は宮司様しか上がられない神様に近い場所に上がってお詣りさせてくださるということで、「作法がわからないので」とご辞退申し上げたわけですが、なぜか女性の神職さまから、「これから母親になって子どもを育てていく若い女性が(お連れしているお客様のことです)、こんなこともわからずにどうするのですか!!」と叱られ、ひとつひとつの作法を細かくご指導賜りながら拝礼させていただいたのでした。

そんなお導きもありながら、少しずつ少しずつ、神社とのご縁を深めていきました。

社殿にお詣りするようになっても、特に神様にお願いごとをする習慣のなかった私ではありましたが、祭神や由緒、そして祭りについて少しずつ興味をもつようになりました。

 

伊勢神宮(内宮)は天照大神、外宮は豊受大神猿田彦神社猿田彦大神出雲大社大国主命氷川神社は素盞嗚尊など、古事記や日本書記に描かれている、よく知られた神様がお祀りされています。

村の人たちが大切にしている小さな神社の神様も、ご祭神は記紀にあるメジャーな神様方ですが、「◯◯大権現」など別のお名前も書かれてあったりするのです。

神仏習合の時代に観音様や不動明王として祀られていたのも同じでしょうか。

地元で古くからお祀りしていた神様の名前が、記紀に描かれるメジャーな神様と習合していったのかもしれません。


面白いことに、たとえば猿田彦大神をお祀りしている地域には、◯●大権現とか、◯△大神みたいな神様がいらして、その昔、その土地を治めていた豪族がいて、最終的には別の種族に土地を譲ったというような伝説があって、それは伊勢で聞いた猿田彦大神の話と同じようなものだったりするのです。

以前その土地を治めていた豪族は例えば鬼だったり、天狗だったりで人間に迷惑をかけたりするのですが、神様がやってきて、一件落着、めでたしめでたし。
そしてその正義の神様をお祀りしているのが神社というわけです。

正義の神様にお願いすれば、家内安全、無病息災、金銀融通、願いを叶えてくださるということなのでしょう。


少なくとも、お詣りしている方々の考えを直接お聞きしてみるとそんな感じでした。
これを「表の神様」と呼ぶことにしましょう。


でも、祭りをみるようになると、その考えには違和感をもつようになりました。
祭りの主役は、鬼や天狗、真っ赤に燃える富士山など、恐ろしいものばかりだからです。

ですから、私は子どもの頃からお祭りが怖かったのです。
ストーリーも怖いし、音も大きいし、集まる人たちも怖くて、祭りは苦手でした。
大人になって旅をしながら祭りをみていても、やはり、恐ろしい形相のお面をつけた人が村にやってくるとか、真っ赤に燃える富士山を地面に叩きつけるとか、怖くなるものが多いのです。

今わたしたちが知っている桃太郎の昔話は、桃太郎が鬼退治をして宝を持って帰るのがメインストーリーですが、おまつりでみるそれは、鬼の大暴れを中心に描かれている感じです。

まるで、昔いた鬼だったり、蛇だったり、災難を起こすなにかの存在を伝承しようとしているかのようです。


何度かそのような体験をして、もしかしたら、退治されてしまった鬼や蛇の供養をするためのまつりであって、お祀りされている神様というは、鬼や蛇の方なのかもしれないと思うようになったのでした。
これを「裏の神様」と呼ぶことにします。


わたしがおまつりが苦手なのは、そもそも「表の神様」のことしか見ていないからで、「裏の神様」の存在を認めていないからだと思うと腑に落ちるのです。
そして、神社の社殿は山のエネルギーに比べて小さく、閉じ込められているような気がしてならないことも「裏の神様」だからだとしたら、納得がいきます。
「表の神様」であれば、そもそも「お鎮まり」していただく必要はないわけですから。


最近続く、地震や台風などの気象異常で、「神仏の力が弱った」と言われることもありますが、私たちは、祈る神様を違えているのかもしれません。


「表の神様」にお願いすることばかりで、「裏の神様」に対する鎮魂と感謝を忘れてはいないでしょうか。
すべてのことには、表と裏があります。
2つで1つ、同体です。
それが宇宙の真理です。


なんでも「いいこと」と「わるいこと」にわけ、「いいこと」だけをよしとしている、この考えが、バランスを崩しています。

本当は、「いいこと」が、「わるいこと」を生み出しているにすぎないというのに。


「表の神様を作った」から、「裏の神様ができた」のです。
真実は、そのような過去があって、今がある、それだけです。


今もし、神様の力を必要としているのなら、自分の地域の神様の「表の神様」と「裏の神様」が生まれたストーリーに注目してください。

そして、善悪の判断を挟まずそれを眺め、今ある幸せに感謝しましょう。

今までは、特別に選ばれた人たちが、神様方を慰め、鎮めてこられました。
その代わり、神様の力も、選ばれた人たちのものでした。


新しい世の中では、わたしたちには祈る自由があり、またその責任が生まれます。
神々の世界が開かれるというのは、そういうことなのだと思います。

「戦後」の記憶

もうすぐ終戦記念日

この時期になると太平洋戦争に関わる記事がたくさんでる。

もう昭和の時代の記憶すらない人たちもいるから、終戦特集みたいな記事ももうまもなく「遠い昔の自分に関係のない話」に思える人もたくさんいると思う。

 

わたしには、この時期になると思い出す光景がある。わたしが子どもだった昭和40年代には、繁華街に出ると、アジアの貧しい国でときおり出会うように物乞いがあちこちにいた。目の見えない人、手足を失った軍服を着た人たちが、わずかな小銭が入った空き缶を差し出すのを、「目を合わせないように」と言われて通り過ぎた。

みんながそうしていた。

 

そうして新しいビルが建ち、彼らがいた歩道橋が新しく建て替えられて、あの人たちはいなくなった。そしてわたしの記憶からも消えていった。

 

この豊かな社会を作ったのは、戦後を生き抜いた人たちだ。

貧困のつらさを思い知って、そこから脱しようと豊かさを目指して努力してきた。

 

でもわたしたちはその一面だけしかみていない。わたしたちはよく知らずに豊かさだけを享受しようと生きている。

 

蒔かれた種は、刈り取ることとなる。

 

太古の教えどおり、わたしたちは、収穫物をみて、蒔かれた種がどのようなものだったかを知ることができる。

 

わたしたちはわたしたちを取り巻く環境によくも悪くも影響を受けている。気づいていてもいなくても、わたしたちに都合のいい種だけを収穫できるわけではない。

今の社会は、畑にいばらやイラクサがはびこっているみたいだ。そしてお米や小麦だけを刈り取ったあと、そのチクチクした棘にうんざりしている感じがする。

 

今多くの人が感じている違和感は、たしかに過去に蒔かれた種の結果であるとわたしは確かに知っている。

 

わたしが蒔いた、無関心の種。

 

今の社会は、愛の種を育んできただけではない。上野駅には戦争孤児がたくさんいたというし、終戦後は東京にも連合軍向けの慰安所があったという。

その人たちは社会の無関心を思い知っているから、語らなかっただけで、事実がなかったわけではない。

 

今の社会はそんな過去の悲しみと、それに対する無関心の上にも成り立っているのだ。

わたしが子どもの頃(そして今も)蒔いた種。

 

あのとき、自分が生き残るために、他者を打ち捨ててきた。

その結果そうして生き延びて、もしかしたら誰かが得るはずだった豊かさを余分に受け取っていきてきたのかもしれない。

 

そんな痛みの記憶が通り過ぎていく、終戦記念日

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

正直な生き方がつくる、新しい秩序

嘘が好きじゃない。

嘘をつく人は信用しない。

誤解を恐れずにいうと、そもそも、人は信用するのは、過剰な期待とも思っている。

人は状況によって意見や考えが変わるものだし、それは仕方のないことだからだ。


わたし自身、嘘をつくつもりはなかったけれど、
離婚のように、結果的にみると「嘘つき」と思われてもしかたない選択もした。


イスラム教国を旅するとたびたび、
「インシャアッラー(アラーの神の御意思なら)」
を耳にするけれど、

すべては神様の御意思なのだと、わたしも思う。



人間には、すべてを受け入れていける意思の力は完全に備わっていないから、
全てを見通す能力は与えられていないのだ。

できると思ってもできないこと、
やろうと思っていてもできなかったこと、

そんなことはたくさんある。



だからわたしは約束事が苦手だ。


約束を守るために、嘘をつかなければならないことがあるからだ。


気持ちはとおに冷めているのに、惰性で続けている結婚、
楽しくないと思いながら、生活のためと納得させている仕事、
本当はいきたくないと思っているのに出かけていく会合、


人が本心と違う行動を選択することはごくありふれた日常だったりする。


ちょっと前までは、使命感みたいなものが、
この違和感を埋めていた。

家族のため、会社のため、みんなのため、

みながそう思っていた頃は、
お互いの事情を理解して思いやってもいたけれど、

今は約束を守らなきゃとがんばったところで、
「そんなにしてくれなくてよかったのに」と言われる時代。



全体の意識は、個を尊重するほうにシフトしつつある。


全体の調和がよくて、個の尊重が悪いというようなことではなく、
森の生態系に象徴されるように、また宇宙全体がそうであるように

この宇宙は、破壊と再生のリズムの中にあり、
全体の調和に向かって進んできた時期が極に達して、
今は個を大切にしたいという意思が芽生えて
新しい秩序が生まれようという段階にきている。


ただ、みなが自分自身の内側に芽生えている「正直な気持ち」を
受け入れていないだけだ。



社会全体が、そのように選択していることは世界をみまわしてもわかる。
今までは、戦争のない平和な一致した世界を目指してきたけれど、
自国や、自身の身内の利益を優先する発言を繰り返すリーダーが政治の世界でトップにいる。


これは、特定の政治家個人の問題ではなくて、社会全体の意識の結果に過ぎない。



全体の調和のためには、個の犠牲はやむをえないという考えは、まだ確かにあって、
その中では、「正直な気持ちの持ち主」は、単にわがままで迷惑な人になる。


だから、多くの人はそんな自分も、他者も受け入れられず、
全体の意思に迎合するために、自分に嘘をついている。



でも、自分に嘘をついて、「いい人」を演じることは、
いったいなんのためになるというのだろう。


多くの人が、思いと行動が一致していないことによって、
心を病み、幸せを感じられなくなっている。


自分を優先することは、ときに人の迷惑になる。
でも、それでいいとわたしは思う。


自分が迷惑をかけたぶん、人に優しくなれるものだからだ。


迷惑をかけないようにしている人は、そのストレスが他者に向かいがちだ。
「自分は人に迷惑をかけない」と宣言しているような人は、
他者にもそれを強要してしまう。



あたらしい秩序が生まれる前は、混沌とした時期を通り抜ける。
個の時代の到来は、いま政治の世界ですごいインパクトを与えているけれど、
それはいずれ、極に達して、収束に向かう。



宇宙はその誕生以来、マクロの世界でもミクロの世界でもそれを繰り返してきた。


だから、恐れずに、真実を生きよう。


あなたがいま選択する、あなたの真実は、
調和を乱し、破壊的であるかもしれないけれど、

調和を優先しているうちに、忘れ去られてしまった個の再生であり
新しい調和へのゆらぎでもあるのだから。

ひとつのソース(源)からきた 〜カルマについて思うこと

 

カルマ(業)という言葉がある。
やったことの結果を引き受けるということだ。
 
 
「今、こんな目にあっているのは、昔やった何かの罪の報いである」
と信じられていることが多くて、
占い師とか、スピリチュアルティーチャーにそう言われた人もいるかもしれない。
 
 
わたしもそう思っていた時期があったし、
実際にそうなのかもしれない。
 
 
今のわたしは「それで今の状況を前向きに捉えられるなら
考えのひとつとしてそう思ってもいいかな」と考えている。
 
 
検証しようがないことなので、その正否を議論するつもりもない。
 
 
ただ、わたしはずっと「カルマ」について腑に落ちない点がある。
 
 
それは、「カルマ」というのは個の存在のもの、
つまり、「わたしがした報いはわたしが受ける」という考えである。
 
確かにそれは合理的で平等なように思える。
 
「当然の報い」という言葉もあるくらいで、
報いというのは必然であり、納得のいくものであってほしいという願望が人間のどこかにある。
 
 
 
わたしたちは相対世界に生きていて、すべての事象を二次元で判断している。
「白」か「黒」か、「善」か「悪」か、「正しい」か「間違っている」か……
 
 
理不尽なことを嫌い、
この世界が納得できるものであってほしいと願う。
 
「いいことも、悪いことも、本人が当然の報いを受ける」
 
それがいちばん、人間にとって納得できる考え方だ。
 
 
 
 
でも、本当にそうなんだろうか?
 
 
単に、この世の指導者がそう教えると人を統治しやすいから
そのように教えただけではないか、とわたしは思っている。
 
 
わたしは、生まれる前の記憶のようなものを思い出すことがある。
 
瞑想のときにも見たことがあるし、
いくつかのスピリチュアルの本でも同じような表現を見たことがある。
 
 
生まれる前、わたしたちはひとつのソース(源)にいたという記憶。
 
 
わたしがみるよくビジョンは、ひかり輝く水みたいなもので、
そこから雫のように「わたし」という魂が生み出される、というイメージである。
 
そして、この世の生を終えて、肉体を離れたら、あのひかりの水辺に還る。
 
そこには、「他者」という認識はなくて、
全部が「ひとつ」だ。
 
 
 
ヒプノセラピーのセラピストをやっていたとき、
複数のマグダラのマリアイエス・キリスト、ファラオ、クレオパトラ、釈迦に出会ったが、
わたしは、魂というのはあのひかり輝く水からきたと思っているので、不思議には感じない。
 
 
マイケル・ジャクソンも、ジョン・レノンもみな、
あの水辺に還っていって、すべてとひとつになる。
 
そしてあの魂の雫が落ちるとき、わたしたちは
ソース(源)から離れて「個」という体験をするだけだ。
 
 
 
この世の「個」という体験は、海の水が地球で冒険する旅に似ていると思う。
 
 
星の影響や気候の影響で、
波が起き、しぶきとなって岩を砕き、
あるときは、雨となって乾いた大地をうるおす。
 
 
真っ白な雲に姿を変えて人を和ませたり、
人の喉の渇きを癒すこともある。
 
台風となってすべてを洗い流してしまうこともある。
 
 
 
それは、地球という場に存在するたったひとつの水の姿にすぎないのだ。
 
 
わたしたちのからだの7割ちかくは水でできているというが、
わたしたちの肉体に存在する水もまた、地球の水の姿のひとつなのだ。
 
 
あの海を、濁流を、雲を、構成している水と、全く同じ。
 
 
わたしたちの肉体もまた、水の循環の中に存在しているだけなのだ。
 
 
わたしたちはこの世の生を終えたら、
水蒸気となって大気中に放散される。
 
わたしがときおりみる水辺は、すべての水の源なのだ。
 
 
 
 
そこで、カルマを考えてみよう。
 
果たして「個」のカルマは存在するのか?
 
 
人間の関わりにおいて、もしくはこの地上のルールにおいてはありそうである。
 
現世において、意地悪をする人のことを嫌うなど、
人間同士(ときには動物も)に関しては関連性がありそうだ。
 
 
 
でも前世はどうだろう?
 
たしかに、「なんとなく」虫が好かない人というのは存在したりする。
 
 
でも、あのひかりの水辺に還り、「個」というものが存在しないところから、
わたしたちはやってくる。
 
だとしたら、イエス・キリストも、イエスを裏切ったとされるイスカリオテのユダ
あのひかりの水になってしまうのではないか?
 
あのひかりの水辺には、汚い水と美しい水など存在しない。
 
すべてが光なのだから。
 
 
 
この世には濁った水や色水がある。
よい水と悪い水が存在するように思えるし、
わたしたちの相対世界では実際にそれらは存在している。
 
 
よい水が、よいカルマ、
悪い水が、悪いカルマ、
 
と呼ばれているのだと思う。
 
 
 
でも普遍意識でそれらを眺めたら「水」でしかない。
 
 
わたしは、カルマは投げかけた個人に返ってくるものばかりではないように感じている。
 
 
タンカーが座礁して、海が汚れたとして、責任はタンカーにあったとしても、
その結果はタンカーだけが負うものではない。
 
たしかにタンカーの側の責任を問うことができたとしても、
 
 
その影響は海域に関わるすべての人、地球全体に及ぶ。
 
わたしたちは、現実を「自分は関係ない」と拒絶することはできないのだ。
 
 
 
わたしたちは、人との関わりの中で「責任」を明確にして
それを負うように求めることができたとしても、
結果そのものは社会全体、地球全体で負わなければならない。
 
 
すべては、人類全体、地球全体の問題なのである。
 
 
 
同じようにカルマもそのような側面があるように思う。
 
 
わたしたちの置かれている環境は、わたしたち全員で責任を負う。
 
この世では「やった誰か」の責任を問えても、それははかない現世のことだけである。
 
 
 
わたしたちは、自然環境に、世界経済の状況に、貧困に、
無意識であっても関わりあっている。
 
 
あのひかりの水辺から生み出されたひとしずくのわたしたちが、
どのような世界をつくるのか、それが自分の生まれてきた意味なのだと思う。
 
 
ひかりの水辺では、ひとつでしかない水は、この世ではいろんな姿に変化する。
泥水にもきれいな色水にも、滋養豊かなスープにもなれる。
 
 

わたしはどう生きたいか、真剣に考えてみたい。

AIと暮らす未来〜AI彼女の衝撃

このところ、AIartificial intelligence人工知能)の進化がめざましい。

 

AI搭載ロボットはエンターテイメントロボットというらしい。

フィクションの世界では古くは鉄腕アトムドラえもん

人間より情感豊かでやさしさいっぱいのロボットは日本ならではかもしれない。

 

 

もともと、茶運び人形などのからくり人形が古くからあり、その動きの繊細さなど

とてもぜんまい仕掛けとは思えないつくりを再現できたので、

 

日本製のエンターテイメントロボットであるaiboPepperは、

「一緒に暮らす仲間」という感じがする。

 

今はスマホに語りかければ、知りたいことを検索してくれたり、

聴きたい音楽をかけてくれたりもする。

 

 

AI50年以上前から、注目されている。

最初の身近なAI技術はゲームだった。

 

その頃には、AIがどんなに進化しても

ロボットに人間の代わりはできないとみなが思っていた。

 

それどころか、人間の脳の方が処理能力がずっと上で、

それは変わることがないと信じていたのだ。

 

 

電卓よりそろばんのほうが速いと言われていた時代だってあった。

パソコンが普及しはじめた90年代には、ワープロを使っていたら、

「手書きの方が速い」と言われたし、

 

2000年代はじめにわたしが会社員をしていたときには、

共有してみなが検索できるように、データベースをちまちま作っていたら、

「紙の書類で済むことなのに、無駄」と言われた。

 

 

 

今は情報はデータ化して共有するのはあたりまえになった。

それも、社内という小さなコミュニティだけでなく、インターネットという全世界で。

 

 

今の課題は、情報の共有より情報の秘密保持に変わってきたと思う。

個人情報をどう保護するか、会社の秘密をどう保持するか。

 

今はいろんな規制をかけて、それを守ろうとしているけれど、

残念ながら一度開かれた扉は規制によって完全に閉じることはもはや不可能だろう。

 

宇宙の真理はつねに「拡散に向かう」。

人の口に戸はたてられないし、秘密はいつか明かされる。

 

 

 

話がそれたが、AIの技術はたった50年ほどでも大きく進化して、

50年前、30年前、20年前に予測した未来より進んだ世界を今、

私たちはAIとともに生きている。

 

実現不可能と言われた人間のような感情をそなえることのできるロボットが、

会社で、図書館で、私たちと暮らしている。

 

わたしたちはまたAIとともに迎える未来予想図を

描き変える必要に迫られているように思う。

 

 

 

私がAIに対する認識を変えなければならなくなった事件は、

「恋愛はAIとしたい」という人との出会いだ。

 

数年前、学者さんやIT技術者の集まるパーティーで、その話を耳にした。

 

 

 

「彼女はAIがいいっすよ」

 

離婚歴があるという技術者の彼がそうつぶやいたとき、

 

わたしは「ま、そんな考えもあるわよね」

 

くらいにおもしろく聞いていた。

 

 

ところが、少々お酒が多めに入った彼は、わたしの軽い同意に納得しないようで、

どれほど「AI彼女」が素晴らしいかについて力説し始めた。

 

 

彼の話によるとこうだ。

 

AIは、自分の好みを絶え間なく学習しており、

不快に思う言葉を確実に理解して使わないことはもちろん、

こちらの希望する反応を確実に返してくれる。

 

ときには、こちらの気分にあわせて言葉かけを変えてくれるさえもする。

 

しかも、キレたり、拗ねたりすることも(こちら側が望まなければ)一切なく、

ごちそうしたり、プレゼントをしたりという義務も一切なくコストがかからない。

 

なんでも、スキンシップも好みに合わせて学習させることも可能なようで、

かつて男性が若い女性に抱いていた幻想を

すべてリアルに再現してくれる存在だというのだ。

 

 

なるほどSNSがコミュニケーションのメインになりつつある今、

メル友、LINE友などは確実に取って代わることができそうだ。

 

もはや、例文集のコピーどころか、今はメールだって

本人によって書かれているかなどわからない。LINEもしかりである。

 

そのうちFacebookInstagramAIが好まれそうなものを

自動的にアップしてくれるアプリなども登場するであろう。

広告がすでに自動化されているので、もしかしたらすでにあるかもしれない。

 

 

3年前に旅先で出会った素敵なあの人がアップしているブログやSNSだって

本当にその人の手によって書かれているかどうかは不明である。

 

 

 

そういう時代なのだから、ネットを介して行われるコミュニケーションで、

「リアル人間」でなければならないのは、

 

もはや感情的な問題だけであって、

AIの方が価値があるという人が出てくるのもいたしかたあるまい。

 

 

わたしもインターネットが一般に普及する前の

パソコン通信時代からの根っからのネット人間だが、

メル友としての自分の価値を考えると

AIに完敗していると認めざるをえない。

 

いかんせん、返事はきまぐれだし、AIほどの自己管理はできないであろう。

 

 

遠距離恋愛も文通から国際電話、メール、SNSと変化して

どんどん距離は縮まってきたように思えていたけれど、

遠距離を乗り越えた先におぼろげにみえてくるのは、

 

AIが自分の代わりにパートナーコミュニケーションしてくれるという

「本人不要」という未来かもしれないのだ。

 

 

実際、掃除、洗濯、食器洗い、お風呂のお湯はりなど、

いろんな家事はAIが代わってくれている。

結婚しないと困ることはどんどん減っているように思う。

 

子育てだってもしかしたら、「褒めて伸ばす」「アメと鞭」など

子どもの性格にあわせたコーチングプログラムの方が

期待される結果を出すかもしれない。

 

子どもにしてみれば、虫の居所が悪くて親に理不尽に怒られるということもない。

 

 

実際、販売員などは、AIの収集したデータの解析によって

人間よりも効率的な声かけができ、実験では売り上げも高いのだと、

AI彼女」の彼は言っていた。

 

つまり、彼にいわせれば、「主婦はもはやいらない」ということだ。

 

私は母子家庭に育ったから、「女性が働くこと」は特別なことではなかった。

でも40年前の私の育った地方都市では、「働く女性」はめずらしく、

一般的には「(自発的に)働く女性ではなく、

(状況によってしかたなく)働かなくてはいけない女性」と思われていた。

 

「女性は家庭を守るもの」が世の中の常識であったのだ。

 

もし40年前「主婦は将来なくなる職業」など、誰も同意しなかったであろう。

 

たしかに、「家事」が「家電」の仕事になることは、想像できた。

 

 

しかし、それどころか「(人間の)パートナーはいらない」という人が

現れ始めたのである。

 

 

しかも、それは彼だけではなかったのである。

その場で飲んでいた男性は、最新のAI事情に明るい技術者や研究者たちで、

家庭がある人もいたが

AI彼女希望」に共感していたのだ。

 

もはや、これは「特殊なケース」ではないと直感した。

 

 

 

さて、AIがもたらしてくれる未来はどのようなもので、

わたしたちはどのようにその未来を生きるのか

真剣に考えねばなるまい。

 

友人関係、パートナーシップ、子育て、介護、職業……。

あらゆるものをAIが引き受けてくれる未来。

 

たまたま私が出会ったのは、「彼女をAIにしたい」という男性たちだったけれど、

「夫」という存在もAIが代わってくれる世の中もすぐそこにある。

 

今はAIがお金を稼ぎ出す時代。

自動広告や、金融商品の分析ツールしかり。

 

「誰が食わせてやっていると思ってるんだ」などと暴言を吐くこともなく、

淡々と稼いでくれるAI

 

しかも、やさしい声かけ、用心棒も完璧にこなしてくれる「AI夫」。

 

煩わしいパートナーシップよりAIとの同居を希望する女性もいるかもしれない。

 

 

私たちは、かつて私たち自身が望んだように「自由」になりつつある。

 

AIと迎える未来、わたしたちはどう生きたいのか真剣に考え直す時が来ている。

 

いつか、ひとつの世界に

政治の世界では、国と国との縄張り争いが絶えないが、
わたしたちの心の国境は年々その存在が薄れつつあるように感じる。


私が最初に海外に出かけた40年以上前は、
日本の地方都市では外国人を町でみかけることもなかったから、
フランスで目の青いおじさんに声をかけられたのにびっくりして
泣いてしまったくらいだ。



時を経て、80年代の終わりにヨーロッパ一人旅にでかけたときは、
ずいぶん海外も身近になっていたけど、
安いチケットで行ける飛行機はまだ南回りでとてつもなく時間もかかり、

まだインターネットもケータイもなくて
パソコン通信さえ普及する前で、携帯できないケータイだったころ)、
日本との連絡もエアメールか国際電話しかなかった。


だから、海外は物理的な距離も、心の距離も、とっても遠いところだった。

異国という言葉がしっくりした。

言葉が通じないときは辞書で確認しあったのも懐かしい思い出。


今ではスマホに話しかけたら、その場で翻訳してくれさえする。


行きたい場所の地図の確認だって、スマホで済む。
それどころか現地の画像まで確認できてしまう。

目に見える情報はほぼ、インターネットでアクセスできる。
すごい世界だ。


海外に友人を持つのは、文通できるだけの語学力と
マメさをあわせもった人でなければできなかったけど

今はSNSで簡単に繋がれる。しかも瞬時に。


友達の友達までSNSが紹介してくれて、
「友だちの友だちはみな友だち」は現実になろうとしている。



ヨーロッパでは通貨も統合され、仕事の国境も取り払う
壮大な取り組みがなされている。


現実的な問題はいろいろとあっても、すでにインターネットで実現している世界では、
もはや国境はなくなってしまったのだから、
現実世界もそうなっていくのは必然であるように思われる。


もしくは、現実世界の国境を維持するために、
もう一度バーチャルな世界に隔たりを作るしか
整合性は取れなくなってくるだろう。



今インターネットの世界では、瞬時にアフリカにも南米にも行けて、
そこでしか得られなかった情報を共有することができるのだ。

今まではほんの一握りの人だけの特権であったことが、今みなのものになりつつある。


政治の世界では、国境を一生懸命守ろうとしている。
でも庶民の世界にはもう国境はなくなってきている。

わたしたちが選ぶのはどちらの世界なのか。



情報が平等になると、格差は必然的になくなってくる。
情報の不平等によってもたらされていた格差は、時とともに埋まる。


そのとき、自分が権利を死守する側に回るのか、
その変化を受け入れ、歓迎する方に回るのか。


自分自身の生き方が問われているような気がする。