薄羽カゲロウ日記(師走四日)

h-imagine19722011-12-06

西日本旅客鉄道京都線サントリー山崎蒸溜所のある欝蒼たる疎林を抜けるとそこは京都駅の摩天楼の広いアーチが遥か上の天井に拡がっていた。地下鉄四条駅を降り、長州藩士と新選組の斬り合いがあった池田屋史蹟を訪ねるとそこはパチンコ屋だった。おおよそ京都人というものは平安千年の伝統を保持することに重きをなし昨日と変わらぬ今日を望み、華美で権勢をひけらかす者、出すぎる者を嫌い、陰で皆集まってはその姿を嘲笑する。

 巨大な摩天楼のような京都駅が出来たのは、一九九七年(平成九年)の頃である。この京都駅の改築コンペにはベルナール・チェミやジェームス・スターリング、安藤忠雄など錚々たる建築家が参加したが、最終的には北山や東山の風景を切り取り、日本庭園の借景の手法を意識し、京都の路地の感覚をイメージとして取り入れた原広司東大教授の設計が取り入れられた。

 原教授案の最大の特色は、氏の集落論が存分に生かされた中央コンコースを核とした段丘状に左右に延びてゆく地形的な内部空間のコンセプトと、天井まで透き通ってゆくような内観パースである。

 西日本旅客鉄道京都伊勢丹の上部にある白亜の大階段は、まるで「京都以南の文化は入つてはいかん」と言わんばかりの放射線状の扇を南に向かって開いている。見方によっては大阪石山本願寺真宗、奈良東大寺華厳の衆に対する厄除け、もしくは自己顕示欲の強い華やかな人々たちから身を守るための防壁、物見櫓のようなものにも見える。何故、京都の人はかくばかりに安心安寧な日常を尊び、排他性が強いのか。

 私が初めて京都の寺院を訪つれたのは年の頃十になるかならぬかの頃。

 小雨降る中、霊園の黒く粗末な鉄の門扉にかけられた針金を僧がほどくと、そこは清水寺癩病患者慰霊墓の特別霊園である。雨で朽ち果てたる墓札ならびに墓標が立ち並ぶ風景を目の当たりにし、疎外孤独のうちに、無念のうちに亡くなられたであろう死者の不遇に哀悼の意を表し瞑目しながら、長い群衆の列に並んで清水寺の境内に通じる細い小道を上って行った。


 また、記憶がとぶが、秋の心悸冷えわたる空気のもと、京都駅八条口の停車場で父の帰りを待ちながら、小雨に煙る六階建の長方形の箱形の、上部が黒く煤けたビルの立ち並ぶなか、煙草の煙で澱んだ空気を吸いながら、停車場の木の長椅子にこしかけた大勢の老人が大勢高く掲げられたテレビをお神酒のようにかしこみながら何事か話す光景を、父を待ちながら茫然と鑑ていた。



舞楽素描

地下鉄四条駅に降り立ったのは日曜日の午後一時半だった。祇園四条通りを抜け知恩院の長い石段を登り写経塔と一心寺の間にあるコンクリートの坂道を下ると、春の午後の燦然たるあたたかい陽の光とともにフゥワーンという天から差し込むような笙の響きが聞こえた。


生垣を越えて八坂神社の本殿に出ると、舞台に錦鯉のような姿をした四人の舞人が二列に並んで平舞と呼ばれる舞楽を舞っていた。上半身の白衣の上に赤い内衣、頭から金銀の刺繍紋のついた上衣を被り、顔を蘭陵王と呼ばれる緑の面で覆った四人組は一通り舞い終わると前列の舞人は後列の舞人にその場を譲り、一通り舞いが終わると次なる舞人たちに舞台を譲る。その様子を赤い座布団の上に腰かけた眼鏡をかけた天台座主を中心としたさまざまな関係者が境内の上から所在なげに見物している。舞人は「地」を表現するという篳篥の心地よいゆらぎ、また「天と地のあいだを泳ぐ龍」を表現しているという龍笛にあわせ規則的に同じ動作を繰り返しながら五分くらい舞っては次の舞人に席を譲る。気が付くと腕時計の針は三時半を指していた。

薄羽カゲロウ日記 (神無月三十一日)

h-imagine19722010-10-31

「わが南京虫闘争」とでもいいましようか、原因がはつきりとしない発疹やアレルギーと思われる病気の要因が、ようやく南京虫によるものではないか、とつきとめた。

医学的知識が皆無にも関わらず、何者かの声に導かれるように対処方法ならびにその病名とおぼしきもの、殺菌方法を知り得て、この病気が治癒しましたので、その痒みとの闘争の様子をお伝えしたいと思います。


 始まりは8月初旬から、何とも言えないノミやシラミにかぶられるような痒みから始まつた。15日には内股が赤く腫れ、発疹が出てきて、眼も霞み始めたので、たまらず何処かの市中で買い入れた古本の昭和4年発行の『荷風全集』や『日本名作全集』の2冊を部屋のなかから出し、家の書庫に入れ雑菌駆除を始めました。その後、風呂の入浴方法からあらため、烏の行水を止め、下半身と背中の汚れを念入りにおとすと大量に垢が溜まっており、排水溝が白い垢で詰まるくらいだつた。また、寝間着と普段着を2、3日分溜めていたものを洗濯場に出しました。節水のため1週間間隔で風呂に入っていたことを思い出す。そして、机を動かしてみると自室のシャッターが酷く汚れていた(他人への迷惑を知る)。これだけの要因でアレルギー体質でもないのに発疹ができ熱はないものの汗が大量に出てしまつた。


早速、思い当たる古書店に電話をいれると「書庫で陰干ししていなさい」とのご返事。茫然とあらためて「物にはこころがある」という言葉を思い出した次第である。私は時折重い本を読むと寝込んでしまうのですが、今回は凄かった。遂に埃と私の体臭があいまつて街で買い入れた大切な古本が遂に怒り出してしまつたのだ。


 今回の要因は猛暑と私の無精、本がたまたま昭和ヒトケタと言う要因が重なつたと考えられます。と街の古本屋には難解な専門書がならんでいるが、その中には私と同じ無精者で志半ばで亡くなった方もいる。そのリクス分割引市販価格より安いのだから陰干しを怠つたのは、自己責任というところだろう。


 そのことだけで二週間元気が出たり出なかつたり悩まされてしまった。とどのつまり「本の整理」を忘れいてさらには「部屋全体の掃除」を忘れてしまつていた。


 猛暑と発疹との二週間にわたる格闘の末ようやくこれを撃退。病中、患部が痒く何もせずボーツとしていると、こりやあいかんとばかりに家事の手伝いにゆく。すると私の中途半端な働きぶりに両者きまづくなり、手伝いをやめて本を読む。集中できない。といった繰り返しが続いた。一時は眼が白濁しこれは花柳病かもしれぬと覚悟したが、覚悟しようにもこちらには思い当たる節がない。


 十日後、淡い紅色の発疹ができ、二十年ぶりに医学書を開き、発疹チフスかトラコーマかもしねぬと思う。トラコーマは伝染性結膜炎、慢性化すると混濁視力障害か慢性涙嚢炎を引き起こすという。上記のような狂騒劇を繰り返し、最終的に、一昨日、大きな10センチくらいの南京虫が発見され、後は普段来ている服が2日目に入つていることを思い出し洗濯に出し、2ヶ月半におよぶ闘争の末、動かずにはいられない疹みがようやく止まりました。

薄羽カゲロウ日記(葉月二十二日)

  午前三時三十分起床。昔の東京での出来事を時系列的に追つてみる。

 ニ〇〇〇年(平成十二年)四月頃、新宿西口で浮浪者が強制排除されるのをテレビで鑑た。
新宿中央公園に住む人々を軽蔑してはならない「森の哲人さん」と呼びましよう、と友人に教えられ、私たちの遠からぬ未来に思いをはせ、夕方とも夜ともつかない時間に闇とも木の陰とも判じかねる鬱蒼と茂る森と銀の鉄格子を見て悪寒が走ったのをよく覚えている。蛙が天から降ってくるという「マグノリア」という世紀末的な映画を観て、新大久保で魔女のような北欧の街娼をみた。


 ニ〇〇〇年(平成十二年)六月頃、休日に東京へ出掛けると多数の若い工事労働者が東京の外れの温泉場に雑魚寝している光景に出くわした。250円を払いコインロツカーの鍵をもらい貴重品を番台に預けて、温泉に浸かり、その後は自由にスクリーンに映し出されている映画を鑑賞しながら毛布を被り、大きな広場のカーペツトの上に寝転がつているのを見た。大勢の若者が自分と同じような境遇にあることを少しこころづよく思つたが、財布を番台に渡さなかつた私は万が一のことを考え、マツサージ室の方へ行きマツサージ席のベルトを締めて夜を明かすことにした。マツサージ室のスチール越しに腰をもんでいる女性の整体師の白い服を見て何ともいえない安堵感をおぼえた。夜が明けると、退館アナウンスが流れみなどこかへ散つていつた。


 二〇〇一年(平成十三年)十月、ある面接の帰りに友人と会う。
さんざん論破されて何も話せず一次会で退散したが、この後なんともいえない焦燥感を感じてカードで割引のきくホテルに泊まろうとしたがそんなホテルはなく、しぶしぶタクシー代を四千円払つて一万円で泊まれるホテルに落ち着く。フトこんな値段のホテルに泊まれるのはもう金輪際ありえないだろうと思つた。


 再び新宿西口駅地下道の浮浪者の全面強制排除。夕方に新宿中央公園をのぞくとクリステイアンらしき女性が聖書を片手に炊き出しをしているのを見て安心した。説教もそぞろに巨大な釜の周囲に男たちが碗を抱えて黒山の人だかり。その後、一度だけ七千円の東京のあるホテルに泊まることが出来た。


 あの頃と今を比較してみると、いつかは強風に流されるであろう都会での自分と、根つこが地面に食い込み動きがとれない現在とどちらが良いかは私にとっては自明のことである。

 

薄羽カゲロウ日記(葉月五日)

h-imagine19722010-08-05

 現代における小説の意義のひとつとして、生活のなかでさまざまな奇妙な現象が起こり始めた時、その現状をつまびやかにして皆に問い掛けてみる手段という役割があらたに加わつたようにも思います。


私も京都七条で生まれて初めて気絶というものを経験してから、諦めが悪い人間にはこうした警鐘ともいえる出来事が起こるのではないか、と思い始めました。そうして三年、読書と小説めいたものを書き、コンクリートの壁と壁とに隔てられて孤独な日常をおくり続ける人間と、現代人が忘れてしまった汗を流す労働のよろこび、貧困の萌芽が出始めた当時の空気。そして円山川の氾濫で失われた仲間の生命と紙一重だった自分の思いとご家族への鎮魂のつもりで、昨年関係者の了承も得ずにそのまま素描してしまいました。


 丹波氷上での生活は、郊外の住宅地で育つた私の生活観とあいいれないものが多く、逆に反対の思考として学ぶものが多かつたのです。したがって「一応、仲間ではあるが仲間にしてはいけない」というどこかヨソヨソしく孤独な生活を再構成して、他者との対話とお互いの態度の濃淡と風景描写、そして現場での資材搬送の記憶を寺田寅彦先生が芝刈りを始めて循環がよくなつたときのような心の躍動感をまねて表現したかつたのですが、もはやこういつた事象を問い掛ける時季は過ぎたと感じ断念しました。


 何処かの先生が著書のなかでおっしゃっていたのですが「神経症の人間が多くなつたのは人間が大地を支配するよろこびを失ってからである」という言葉を読んでハッとしたことがあります。


 今西錦司先生の『自然学の展開』(講談社学術文庫)を再読していたら、以下のような言葉が出てきました。


「それで自意識を消したらどないなるか、ということです。たとえば禅のようなことをやって皆さんがねらっているのは、過剰になった自意識を減らしてみよう、ということにあるんだろうと思うんですが、古来の人はですね。


主客未分 主客合一 心身脱落


と言うた。昔から言われている「主客未分」の状態、あるいは「主客合一」の状態、これと「心身脱落」とがまったく同じものか、もう一つはっきりしませんけど、そういう状態にまず自分を置いたらどうか、と。」


 十三年ぶりに実家に戻ったのですが此処での役割は「大人しい息子であること」。この状況では驢馬や子供に成り得ても獅子になれない。私がいくら読書好きだといっても限度があります。こういつた役割の臨界点に達したようで、私は再び職探しを始める。こういつた無意味な循環が続いています。私にとってよい循環とは、夜の八時くらいまで無心で労働しニ時間くらいこれも無心に読書をして寝ることなのです。これは自分の裁量で日常を充実させるべく自己設計すべき時季がきたのだろうか? どうどうめぐりの思考が続いた後、こういつた結論に落着きました。

薄羽カゲロウ日記(睦月二十一日)

 「人間だつたらよかつたのにね」


 農村に住まう農家の年老いた夫婦らしき旦那が、一人息子を都会の会社にやるための代わりの働き手として大きなホルスタインの牛を会社からもらい、牛に対してこう呟く。平成の初期に大賞をとつたコマーシャルですが、ここには反語として「なんで息子はわたすたち家族と一緒に暮らさなんで、あがいな都会に残ろうとするのかね」という両親のつぶやきがあつたと思います。


 私が田舎の工場に奉職していちばん衝撃を受けたのは、本社から自動車でニ時間くらいのところにあつた□□町という工場に在庫整理で係長と一緒に行つた時のことです。付近は草原と田畑が散在するくらいで、なにもありません。その時、


 「ここで市役所の空きができるとな、すぐみんな大学止めて公務員試験を受けにくんねん。あつと言う間に定員が埋まるわ」


 と、言われました。おそらく生まれ育つたこの田畑しかない交通の便が悪い土地に一生公務員として身を捧げ、結婚などの人生の選択のときにも高校時代一緒だつた誰々さんがそろそろ嫁入りなどという、という両親と地域の予定調和の人生を歩まされのだと思います。私はむかしから町とも田舎ともいえない郊外の住宅地に住んで、社会人になつたら広告編集者の天野祐吉氏が言うところのカタギとフリーランスの中間の「ハンフリー族」(=つまりはサラリーマンでありながら趣味を大切にするような)になりたいと思いながら、ヘンリー・D・ソローという人の『森の生活』(ただしこの本難解なので七年間積みつぱなしである)はのような生活を持てれば、と秘かに思案していました。



 当時の私は年齢は30近く。おそらくサラリーマンの皆さんは私のようなとしになる前に(牛の寿命が尽きるか尽きないころに)、都市型の自由気侭な人間関係と生活習慣(=浮草人生)をすてるか、組織と地域が一体の予定調和的な大人の選択をされていたことでしよう。



 こういつた選択を先に先にのばすうちに、30の後半になつてスッテンテンになつてしまいました。この「田舎とも都会ともつかぬ場所に住まう変わり者」と「ほんとうに仲間さなるか、わかるまで適当にねかせておよがせとくべい」という組織の慣習。この狭間でわたしは10年以上、私はおよがされて適当にあしらわれています。



薄羽カゲロウ日記(睦月二十日)

h-imagine19722010-01-20

 平日に普段の服装で出歩いても違和感がなくなつてきました。


 8年前ですが、会社から休暇をもらつて岡山を訪れ、商店街を歩いていると、私と同年代の人は当然のように仕事で背広姿で歩いている。普段の服装で歩いているのは若い学生風の男か主婦か六十過ぎたご老人ばかり。案外、アーケード街が広く立派なので、午前中は人波から逃れるように映画館で時間をつぶしました。


 その後、ビジネスホテルで久しぶりに読書でも、と思つたのですが、30近くなつてなんとも色気のない旅行だなあと思い立ち、夜の街に出ました。


 すると、その日は衆議院選の前日で、市内は自民党逢沢一郎候補と民主党菅源太郎候補の二世対決の真つ最中で、街宣車が何度も市内をまわつては候補者の名前を連呼している。田原総一郎氏曰く「選挙をやると気分が高揚してセクスがしたくて堪らなくなる」らしいのですが、その通り街はお祭りのような気分がただよい、どさくさに紛れて、ピンクサロン業者の街宣車までがサンタクロースの格好をして冷たい目をしながら電話番号とピンクサロンの店舗の名前を連呼して何度も市内を循環している。歩いていると、何度も何度も候補者の応援の街宣車ピンクサロン街宣車がその名前を連呼するので「それじやあ」その店に行つてみようかと、街路樹の間の地図を頼りに行つてみる。


 すると案に相違して寂しい細い道の暗い路地でこれまた人生に悩んでいるような学生のような人が赤いチケツトを配つている。暗闇のなか席に座ると、年増の人生経験豊富な女性が愚痴を聞いてくれると思いきや、中学を出たばかりだという眼鼻立ちも整つていないような女の子が赤い長襦袢のようなものを着て出てくる。「エツ」という驚愕の視線を普段着のお兄ちやんに投げかけるのですが、その人によると「その子あんまり指名ないんです」。しかたがないので、住んでいるところや家庭環境を聞いたりしてなんだか家庭訪問のようになつて、こちらが人生相談に乗る方になつてしまう。女の子は後楽園という庭園の近くのアパートに住んでいるという、「家お金ないし。これが一番てつとりばやいと思つたんです」とのこと。こちらが自分の人生について語り出すといつの間にか時間が過ぎていて、お兄さんが「30分終了です」と声を掛けてくれる。「まあ、選挙中だし仕方ないか」、とホテルに帰りました。


 U先生の『美と宗教の発見』(集英社)が届く。これまでU先生の著作は10冊以上読んできましたが、こんどばかりはとても一筋縄で読めるような代物ではありません。Y先生によるとU先生は42歳まで哲学や国文学の学究として雌伏し、よく学問の間に大阪の寄席をよく観覧なさつていたとのこと。「よく寄席を鑑に来る学者くずれの男がいる」と評判をよび、それが縁で新聞社にコラムを頼まれたとか。



 「よくそんなことができるお金があるなあ」と非常に羨ましくなり、U先生の生い立ちを探ると、U先生のお父さんは東北大学工学部機械科の助手をしていたが、家計をやりくりするため水商売の世界に入る。しばらくは店舗を三件ほど経営していたが、その後、自動車産業を興そうとしていたトヨタに当時は海のものとも山ものともわからなかつた自動車の基礎技術の開発者として引き抜かれたといいますから、随分変わつたお父さんだと思いました。(『神殺しの日本』(朝日新聞社


 さまざまなものに関心を持ち、人生が三度まわつた時点でようやく文学や哲学に親しめるようになつた私。また、仕事をするようになつてもこの姿勢だけは維持しておこうと思つています。

薄羽カゲロウ日記(睦月十九日)

  午前3:00起床。午前9:30松井山手行の普通列車に乗り、三ノ宮駅に(往復800円也)。今日は月に一度の本の買い出しに出掛けました。最近、伊藤仁斎朱子学における「義」とは、「為すべき所を為し、為すべからざる所を為さぬ」という意味であるということを知りました。日本経済は現在開店休業状態といつた観があるので、この無為徒食の状態がしばらく続いてもいいんじやないか、とのんびりと考えています。


  列車に乗りながらまた回想に耽る。
  学生時代、通勤時間に大阪行の快速列車に乗つたところ忘れられない光景を眼のあたりにしました。背広姿のサラリーマンやOLで一杯の車両のなかのことですが、ある50がらみのサラリーマンが人垣をかきわけて列車の扉ちかくの椅子のてすりにもたれかかつて辞書らしきものを丹念に読んでいる紳士に声を掛ける。「おう。やつぱり君か。30年ぶりだね。□□に勤めたつていうけれど。まだ志を失わずにこんな物読んでいるのか」。紳士は小六法を懐にしまいながら「いや、ほんの手慰み程度だよ」と恥ずかしそうにと応える。もう一方の紳士30年ぶりの再開が感に堪えぬようでしたが、名刺をだして再会を祝することもできず、結局声を掛けられた紳士が途中下車することで、その再会にピリオドが打たれました。


  その情景をみて、私と先輩の会話。「先輩。45分すしずめ状態で同窓生の30年ぶりの再開もあんなにわずかな時間、そんなものですかね」。「俺、本当にサラリーマンてすごいなと思つてるんだ。あんな満員電車で45分立つていられることだけでもすごいぞ」。

 
  三ノ宮駅で下車するとフラワー通りを右に曲がりアーケード街の古本屋□□□□書店に。『不夜城』(馳星周)、『反哲学史』(木田元)、『名探偵松本清張』(斎藤道一)、『幻視者宣言』(埴谷雄高)、『丹波史を探る』(細見末雄)の5冊を購入(3,810円也)。次に□□□□□書店で、『紫苑物語』(石川淳)、『狂人日記』(色川武大)、『暁の寺』(三島由紀夫)、『林住記』(五木寛之)、『日本型うつ病社会の構造』(加藤諦三)の5冊を購入(4,410円也)。


  アーケード街を神戸まで歩くと8年前の昔と違つて、背広姿のサラリーマンが激減して歩きやすくなりました。経済の最前線にいるベンチヤー企業の社長と、佐高信氏と金子勝氏の共著によると、ここ8年間の所謂「企業だけが恩恵を受けている景気回復」は、小泉竹中路線の「ニューライト路線」とよばれる市場原理主義のもとサプライサイド・エコノミーを(=需要者の希望購入価格で買えるように供給者はコストを下げ無駄をなくし、消費者のさらなる需要を引き出す政策)実施したことによるという。
 

  その結果、日本の一部の企業は国際的な競争力を増し外国人投資家が株式を購入してもペイできるくらいの利回りを確保でき、懸念であつた2000年に日本に時価主義会計が導入されると表面に出てこざるを得ない銀行やゼネコンの不良債権を、アメリカのITバブルを模した株価上昇機運を市場があおって一面ではインフレ状況をつくり、日銀も量的金融緩和政策で金融のインフレ状況に対応できるよう処理をし、引締めでアジアから安く入つてくる物資による国内のデフレに対応したという背景があるらしい。


  また、ベンチヤー企業の社長によると「世代間の所得格差」が顕著で、60歳以上の世代が保有する金融資産は30歳未満の人々の9.6倍、40代の人々の平均貯蓄は200万円未満で60代の人々の平均貯蓄の2,000万円に遠く及ばないという。さらに、サブプライム・ローンで逃げた外国人投資家は純粋に投資利回りで投資するので、これからはBRICsのような国に向かうだろうと先行き不安を説いておられます。
 

 私もI先生に言われた通り「その兵糧では10年しかもたんな」といつた状況です。また働かねばなりません。