はちまドボク

何かからはみ出した、もうひとつの風景

鉄道史の断片

群馬県と長野県の境にある碓氷峠は、古来より東日本と中日本の交通の要衝であり、難所だった。鉄道の整備においても、早期から日本の東西を結びつけて殖産進行を図るための国家プロジェクトとして、東海道線と並んで検討されてきたが、この地形に難儀していた。

西側は比較的平坦なのだが、東側は急峻に落ち込む片勾配という峠。このため、両側からトンネルを掘って急勾配を避けるという解決策は採用できず、通常の倍近い勾配にならざるを得ない。この問題をようやく1893(明治26)年に「アプト式」という特殊な方式で乗り越えた。ギザギザの付いた「ラックレール」と蒸気機関車に据え付けた歯車をかみ合わせて、急勾配をゆっくり登るのだ。

しれでも、もちろん橋梁とトンネルは必須の構造物だ。中でも、レンガ造の4連アーチ橋である「碓氷第三橋梁」は偉観を誇っている。1892(明治25)年に完成し、翌々年の補強工事によってアーチリブの厚さが増し、橋脚も一回り太くなったんだそうな。もともとのスレンダーな姿も見たかったなあと思いつつ、重厚になったからこそ今でも健在なのだろう。

この路線は1893(明治26)年から1963(昭和38)年まで運行され、北側につくられた複線となる新線で強力な専用補助機関車による粘着運転が開始された。国鉄の分割民営化を経て、長野新幹線(現北陸新幹線)の開業に伴い、新線も1997(平成9)年に廃止された。旧線は「アプトの道」という遊歩道として整備され、新線の区間は立ち入り禁止となりそのまま放置されたが、近年では残された線路の上を歩く「廃線ウォーク」の場として活用されるようになった。

重要な近代化遺産が複合的に残っている地域では、その歴史を語るストーリーも重厚になるよね。3月に現地で関係者にお話しを伺う機会を得て、そのことをあらためて実感したな。

壁に現れた痕跡

最近気になっている鉄道高架下の歩道を囲むコンクリート擁壁。ここにはさまざまな痕跡が積層して現れており、訪れるたびに新たな魅力が発見できる。

擁壁の天端に降った雨が描く縦ライン、壁面への落書きに上書きした塗料の重なり、生乾きのペンキが重力によってタレた筋、舗装の隙間から生えた力強い雑草、それが風に揺れて壁面の汚れを拭いて生まれた円弧。

ひとつひとつの現象を鑑賞しても楽しいのだが、それらの関係性に着目しながら総体を眺めると、人工環境の中で生じる豊かな自然現象を堪能できる。ただ、これらの痕跡をじっくり味わう姿は少々不審に思われるようで、通行人にじろじろ見られることもある。

被災地メモ

先日射水市を訪れた晩は、富山に来たというのに訳あって広島風お好み焼きを食べた。その店のカウンターで隣にいた地元の方と楽しくお話しした際に、すぐ近くに地震による液状化の被害が出たエリアがあるということを伺ったので、翌日訪れることにした。

そこに行ってみると、砂が噴出した痕跡、浮き上がったマンホール、クラックを補修した舗装、ひび割れたコンクリートの基礎、斜めに傾いた電柱、応急危険度判定の赤い貼り紙などが散見された。被災地の現実を目の当たりにした。

路上でおじさんがこちらの様子を伺っていたので、おそるおそる話しかけてみた。最初は警戒されていたが、徐々に打ち解けて、いろんなお話をしてくださった。輪島や氷見などに比べればたいしたことはないと言いつつも、生活環境が大きく変わってしまったこと、近所の仲間の多くはこの場所を離れてしまっていること、今後の見通しがなかなか見えないことなど、図らずもリアルな被災状況を知ることができた。

住環境はもちろんだが、なりわいの形に大きなダメージが生じることで、人口が流出してしまい、街の風景が大きく変わる。今回の旅行でも、あらためてその事実を実感した。できれば目を背けていたいという気分もあるが、風景の変化のスピードやスケールが大きい時こそ、さまざまな事象をしっかり観察しなければならないよね。