開けきれない箱

メンサな暇人が様々な物事に関しての意見・考察を書きます。

自己肯定感が低い人はいない

 "自己肯定感"というキーワードはよく聞く。胡散臭い自己啓発本群では、これを扱ってない方が珍しい。

 『選択の化学』に好きな挿絵がある。電車に座る老若男女が、それぞれ「この中では自分が一番賢い」と思っている絵だ。

 人は生まれながらにして高い自己肯定感を持っている。だが、世の中にはいわゆる"自己肯定感が低い人"と自称する、他称される人がいる。違いはなんだろうか。

 

 成長するにつれて、自分のことを客観視できるようになると、自分が生まれ持っている自己肯定感との差が分かるようになる。その時、人は2パターンに分かれる。

 パターン1。

 今はダメかもしれないけれど、これから出来るようになる。何故なら自分は出来る人間だから。

 パターン2。

 薄々気付いていたけれど、やっぱり自分は出来ない人間なんだ。

 どちらも、高い自己肯定感を前提としている。もし、前提となる自己肯定感が限りなく低い人がいたとしたら、言葉を話せるだけで、物を食べるだけで、働いているだけで、自分に満足できるだろう。

 付け加えておくと、パターン1とパターン2を行き来する場合もある。

 

 つまり、人は誰もが「自分は出来る」という高いハードルを持っていて、現実と理想のギャップに対し発生するのが"自己肯定感"という言葉だ。

 そこに高い低いはなく、対応の差があるだけである。

 パターン1の場合は物事に積極的になるが、自分が傷つく可能性も高い。

 反対に、パターン2の場合は消極的になるが、失敗は少ないだろう。

 

 自己保身や自己満足という観点において、または、そもそも選択可能かどうか、という点は分からないが、わざわざ"自己肯定感を高めよう"と呼びかける必要があるのか?と思う。

 高いと見える人は高いし、低いと見える人も高いのだ。

 もしかしたら、前提が低い人ほど高く見えるかもしれない。

身体と心と性的指向

 身体は生まれつき備わった性別を指し、心は本人が自覚する性別を指し、性的指向は好きになる性別を指す、とすると、例外を無視して単純化すれば、一個人におけるパターンは8通りとなり、恋愛関係の最小数である二人の場合において、組み合わせは64通りとなる。

※数学苦手だから間違ってるかも

 

 現代では、64通りを大まかにストレート、レズ、ゲイの3種類に分類しているが、多くの場合、身体と心と性的指向の内、身体のみに焦点を当てた分類だと思われる。

 

 身体(男)・心(女)・性的指向(男)をmwmと本文では表記する。

 例えばmwm×mmwはガイカップルと思われるし、wmm×mwwはストレートと思われるだろう。

※心の性別による外見への影響は個人差が激しいため、身体の性別が外見へそのまま反映された場合を想定している。

 

 こうして見ると、客観的な視点での分類は意味をなさないだろうし、分類すること自体ナンセンスな気がしてくる。

 性のマイノリティに対する理解を求める声(正直、発言者が8パターンの内どれを主張しているかわからないが)は定期的にSNSで見かけるが、例えば一般が理解を示した結果として8通りのラベリングが新語によって完了したとして、彼ら彼女らは満足するのだろうか。

 

 同性愛者が迫害された過去があるヨーロッパと比べ、日本においてはなおさら声を上げる意味が分からない今日である。

 数人の理解者で十分な関係を、不特定多数の相手に対して理解や共感を求める理由がよく分かりません。誰か教えてください。

アンドレジット『贋金つくり』と三島由紀夫『金閣寺』の対称性

 タイトルにある二作を読んで気づいたこと、なぜジットが『贋金つくり』を唯一ロマンと認めたか、という事について気づいたことをまとめる。

 二作の対称性とは、前者が三人称複視点でかかれ、後者が一人称単視点で書かれている事だ。

注:三人称複視点-一人の人物の動向を三人称でひたすら追っていくのではなく、複数人の動向を場面を切り替えながら描いていく。

 :一人称単視点-一人の人物による、一人称の描写のみ。

 

 『金閣寺』の特徴は、寺院や自然に関する厳密で煌びやかな描写だと思うが、主人公がどうしてこんなにも物の名称を知っているのか、という疑問が残る。

 新潮文庫の解説では、その違和感を読者に感じさせないことが、この小説の素晴らしい点であると書いてあった。しかし、私は読んでいる途中、ずっとその違和感があった。

 

 よほどの物知りか、小説家かしか行えない情景描写、この点を排除したのが『贋金つくり』だと思う。

 ジットは自身の作品を「レシ(物語)」「ソチ(茶番)」「ロマン(小説)」と分類した。

 

注:レシ-一人称語り手による単線的な筋の作品

    :ソチ-批判的・諧謔的な作品

    :ロマン-小説に属さないすべての要素を排除 した作品

↑ネットより

 

 小説に属さない要素の一つに、『金閣寺』を読んだときに感じた違和感があると思う。なぜなら、『贋金つくり』というのは、二つのメタ的手法が取られている。

 一つ目は、第二部の終わりから書かれる作者の存在。

 二つ目は、作中作である(「紋中紋」や「小説の小説」とも呼ばれる)。登場人物の一人、エドゥワールは小説家であり、彼が書いている小説のタイトルも「贋金つくり」である。作中では、彼の手記という形で登場する。

 

 つまり、『贋金つくり』という小説における全ての描写(作中作も含む)は、小説家という人物が書いた物であり、ならば、詩的な表現や物事についての豊富な知識が作品に出てくることの不思議は消え、『金閣寺』を読んだ時に感じる違和感を感じなくなる。ということを感じたので、まとめました。どうも。

 

デカルト『方法序説』情報の"旅人"と"海賊"

数ヶ月前に読んだデカルト方法序説を思い出しながら、〈価値観〉という言葉について書いていく。

 

結論から言うと〈寛容な旅人〉という精神が理想的だと考える。

 

「他の世紀の人びとと交わるのは、旅をするのと同じだからだ。」

「けれでも旅にあまり多く時間を費やすと、しまいには自分の国で異邦人になってしまう。」

方法序説より引用

 

価値観は10代で培った偏見という科学者がいるが、大人と見做されるようになってからの知識のほとんどは、受動的と能動的という差はあるが、自分で選んでいる。

 

異邦人にならない旅人であるためには、自分の価値観を能動的に作る必要がある。

例えそれが、他人の考えであったとしても、自分が選んでいればそれでいいのだ。

TwitterなどのSNSを通して得られる情報や、ニュースアプリでレコメンドされた情報は受動的である。

逆に、自ら知りたいと思い手に取った書籍から得られる情報や検索サイトで得られた情報は能動的である。

 

自分の中に柱となる価値観がないと、他者の考えに流され、気付かぬうちに異邦人になってしまう。

例え柱がなくとも、意識的に情報を捉えることが出来れば、つまり、最初は批判的に眺め、他の情報と照らし合わせ、その上で自分の中に取り込むことができれば、少なくとも異邦人になることはない。

旅人に対し言うなれば"海賊"である。

 

ここで注意すべきなのは、他者の意見を否定すればいいという誤解をしないことである。

 

我々は他者の価値観を完全に理解することが出来ない。

生まれ、家庭環境、友好関係、など、知り得ないバックグラウンドがあるからである。

 

海賊は品定めをし金品を奪うが、無闇矢鱈に人は殺さない。自分の仲間にした方が得だからである。

つまり、価値観を人と捉えると、旅人であれ海賊であれ、寛容な心を持って自分の中に住まわせることが出来れば、より多くの見識を持つ人になれるのではないだろうか。

ここでも、多くの価値観を自分の中に住まわせた時、自分が家主であり続けることに注意しよう。

 

最初に戻るが、大量の情報の中で異邦人にならず迷わないためには〈寛容な旅人〉という精神が理想的だと私は考えている。

純文学とはなにか。

純文学というのは形而上学くらい分からないものだ。

Wikipediaによると

大衆小説に対して「娯楽性」よりも「芸術性」に重きを置いている小説を総称する、日本文学における用語。

と書いてある。

コマーシャルアートとファインアートのように捉えることができそうだが、文学の芸術性というのがよく分からない。

一般に理解されないものが高級なのだろうか?

また、娯楽性が高い=売れる、芸術性が高い=売れない、とも言い切れない。

太宰治の『斜陽』が反例の一つとなるだろう。

美しい文章というのは文法的に正しいとも捉えることができるし、ラノベが校正されていない訳ではない。

 

話が変わるように思えるが、押井守監督は物語を

"世界観"→"ストーリー"→"キャラクター"

という順に作るらしい。

また、ハリウッドで成功する作品は逆から作られるとも言っている。

ここで言う"作品"とは映像作品である。

 

この型を小説において考えてみよう。

小説は映像とは違う。何が違うのか。

文字でしか表現できないことである。

世界観,ストーリー,キャラクター、全て文字を使った演出で表さなくてはならない。

 

ここで"純文学とはなにか?"という疑問に戻ってくる。

映像の中に文字を入れることが可能なため、つまり情報量で見た時

文字(小説)→文字+挿絵(ラノベ)→文字+絵(漫画)→文字+絵+音(映像作品)

と考えると、映像作品が小説を含んでいる(映像作品⊃小説)と見えるが、実際にはそうならない。

絶妙なラインのように思える↓

https://youtu.be/p0TOUpl1ADU

https://youtu.be/LXs2z3Q1w2Y

映像作品では使えず、小説だけでしか使えない表現(演出)があるのではないか、その表現を多めに使ったのが純文学のような気がした、それだけである。

 

それでは叙述トリックや言葉遊び、文章のテンポはどうなるだろうか?一見小説特有のように思えるが違うと私は考える。

叙述トリック→カメラワーク

言葉遊び→セリフとテロップ

文章のテンポ→カット

のように多くの場合、変換が可能である。

 

私が考えるに、最も違い分かりやすいのは描写である。描写には心理描写と人物描写、風景描写とあるが、差が出るのは"心理"と"風景"だろう。人物と比べ抽象的である。

 

以上、深夜の思いつきでした。

 

意見論 会話風・略式

日常のある一コマ。

 

「最近、どんな本を読んだの?」

太宰治芥川龍之介、あとはヘミングウェイかな。どれも短編だけどね。面白かったよ」

「昔の本ってあんま読まないから分かんないけど、面白いの?」

「面白いよ。今でも残っているってことは、それなりに厳選されているってことだから。最近出版されてた本のうち、50年後もちゃんと売られているのって、ほとんどないと思うし」

「でも、昔の本ってなんか面白いと思えないんだよね。だから、君みたいに普通に読んで面白いと思えるのってすごいと思うよ」

「そうかな。面白いとされているものを面白いと感じることが出来るのは、僕が多数派ということを示していると思うんだ。それは別に特異なことではないし、得意になることでもない。時代によって、”面白い”とされているものは違うから、一概にいえないと思うけどね」

「でも、そういうふうに考える事ができるのは、やっぱり凄いことなんじゃないのか?」

「この意見は、この前読んだ本のまるパクリだよ」

「そうなの?」

「いや、違うけど。そこにあんまり差はないってこと。今だって、僕がまるパクリと言わなきゃ、君は僕の意見で、僕が自分で考えたことだと思ったでしょ? つまり、何かに対して意見を言う時に、その人が考えたかどうかは重要じゃないんだよ」

「そうかなー?」

「そーゆーもんだよ」

デジタル先行のロードマップ

東浩紀さんの「弱いつながり」を読んで考えたことを書こうと思う。

書かれていたことを僕なりに要約すると"現地へ行ってみないとわからないことがある"だ。

 

知らない土地について知る際、方法はデジタルとアナログという視点で大まかに二分することができる。

 

デジタル面の技術の発達により、その二つの境界線はどんどん曖昧になってきた。

つまり、デジタルがアナログに近づいてきているのである。

 

具体例でいくとGoogleMapやVRである。

現地に行かなくても、多くの情報をネットを通じて知ることができる。

もしかしたら、ある場所へ行く前の人の方が、その場所で暮らしている人よりお店に詳しいかもしれない。

実際に行かずとも、街並みや天気、交通など様々な情報がネットに公開されている。

 

多くの人の場合、ある土地について知る順番はデジタル→アナログではないだろうか。

ここからが本題である。

 

技術が発達する前、ロードマップはアナログのみで完結していた。

電車に乗るために使うのは時刻表と現金である。

デジタル先行のロードマップになり、なにが変わったのか?

僕は二つ減ってしまったものがあると考える。

 

一つ目は、"遊び"である。

デジタルが先行しているため、アナログのみと比べると"予定通り"というのが格段に増えた。

使用する交通手段、出会う友人、行くお店、泊まる宿、

これらを事前に知り、決めることが可能である。

 

本来行くはずがなかったお店、街や人、

つまり、予定外の物事というのが減ったのである。これが先に言った"遊び"である。

しかし、この"遊び"にこそ"面白い"があるのではないだろうか?

 

二つ目は"オリジナル性"である。

"遊び“とも考え方が似ているが、ネットに書かれている情報の多くはうまく行く方法である。

誰も失敗する方法なんて知りたくないのだから当然だ。

 

例えば、外国での旅を記事としている人たちの多くは、下調べや荷物の準備、それまでの経験などにより、私たちより綺麗に旅をするだろう。

 

しかし、彼ら彼女らが起こさないようなミスを私たちは起こす。

また、失敗したらほとんどの場合死ぬことを失敗したときの対処法を書ける人は僅かである。

 

つまり、失敗したときの正しい情報が素早く手に入る場合はそこまで多くないということだ。

私たちに必要なのは、アナログでトラブルに対処する能力ではないだろうか?

 

ミスをすることで"オリジナル性"が生まれる。それは綺麗な旅とは違うが、よりいい思い出になるかもしれない。

 

っとまあ、デジタル先行のロードマップによって変わってしまったことを書いてみた。

 

ではでは