ロバート・エガース監督「ウィッチ」

17世紀ニューイングランドを舞台に、魔女をモチーフにした幻想ホラーである。
当時のキリスト教的な背景に詳しくないのでよく分からないが、信仰のあり方の違いで村を追わ、一家だけで暮らすことになった家族が、次第に狂気に取り憑かれていく。
家族は、父、母、娘、息子、男女の双子、そして末っ子の嬰児の7人である。猟犬が一頭、馬が一頭、羊が黒いのが一頭、白いのが数頭、他に鶏がいる。作物がよく出来なかったのか、猟が上手くいかなかったのか、一家の食料状況はかなり厳しく、このままでは冬が越せない。そこで獲物を盗ろうと罠を仕掛け、森へ入っていくのだが、この森の中で恐怖は起こる。
森はいかにも深そうで薄暗く、蝋燭で照らされる家の中も仄暗く、実にぞっとする感じでよろしい。
長女は胸が膨らみだし、月経も始まった時期のようだ。性愛的な関心が出始めているらしい弟は、そんな彼女の胸につい眼をやってしまう(考えてみると、私たちが肉親に性愛的な関心を抱きにくいのは、周囲の社会にたくさんの異性がいるからであって、社会から隔絶されて年頃の異性が姉しかいない環境では、これは割と自然な反応ではないだろうか)。双子たちは二人できゃーきゃー喚くように歌って騒ぐ。男女の双子だが、いつも一緒に遊んでいて、どこか意地悪な感じ。母が双子たちには甘く自分に厳しいのが少女の不満だ。ある意味ではこの双子の言動が一家の命運を一番左右したのかも知れない。
魔女は本当にいるのか、魔女の姿は幻影なのか、疑心暗鬼が疑心暗鬼を呼ぶ集団的な狂気なのか。まぁ何が本当のことかなど、一体誰に言えるだろう。誰かが「真実」を告白したとして、一体どうしてそれが信じられるだろうか。
「真実」を言えと告白を迫っておいて、語られた「真実」が自分の意に沿うものではなかった場合、それは真実の告白としては採用してもらえない。告白という社会的な言語行為の厄介さを思った。
聞きなれない英語のような感じだと思っていたら、終演時のクレジットで、セリフは全て当時の言葉によると出た。なるほど。裁判記録や民話等にインスパイアされたフィクションとのこと。


『ウィッチ』予告編

宮部みゆき『ステップファーザー・ステップ』

双子の男の子(どうにもカワイイ!)が出てくる愉快な泥棒小説。いちおうミステリーだか謎はほんとにライトなもので、ユーモアと淡いペーソスで読ませる。実は宮部みゆきって初めて読んだんだけど、凄いな上手いもんですね。

語り手は泥棒で、浸入の準備として、標的の家の隣家の屋根に登っていたところ、風雨の中、落雷に遭って転落。その隣家の家の双子の少年たちに助けられる。実はこの双子、両親がそれぞれ浮気をして出て行ってしまった、遺棄児童だったのだ。二人での生活を続けるには、お金も要るし、親も要る、だから父親になって、と頼まれた泥棒は、怪我で動けぬ状況等々もあって、「お父さん」と呼ばれるのとになってしまう。

この双子たちは、人格が完全には分割されていないようのところもあって、いかにも双子らしい双子だ。ひとつの文を話すのに、交互に口を開いたりする。一つの人格のインターフェイスが二つあるような感じ。この喋り方がまたカワイイのである。

両親ともが不倫をして出て行ってしまっている、崩壊した家庭である。しかし年齢以上にしっかりしていて(大人びているということではない)、家事能力もある双子は、しっかり家を守る。パンダコパンダのミミちゃんみたいに。泥棒もだんだん「お父さん」が板についてきて、双子が愛おしくなってくる。だが、自分はホンモノの父親ではなく、これが疑似家族に過ぎないという自覚はあり、いつかホンモノの父親が帰ってきて、この関係にも終わりが来てしまうだろうと考えると、寂しくなるのだった。でも、どんな家庭がホンモノで、どんな家庭がニセモノだなんて、一体だれに言えるだろうか。

 

ステップファザー・ステップ (講談社文庫)

ステップファザー・ステップ (講談社文庫)

 

 

ウィリアム・メルヴィン・ケリー『あいつら』

一種の双子もの小説ということになるかと思う。ただ双子の要素は少なめで、人種差別を引き起こすアイデンティティーやリアリティーの崩壊不安が主題になっているように思う。ディックなどを想起する人もいるかも。かなり読みどころの多く、面白い。

ちょっと性的にダラシない白人中産階級の夫婦、ミッチェルとタム。ニューヨークに住む。タムは妊娠するのだが、子供が生まれると双子であった。一方は白い肌、もう一方は黒い肌。ミッチェルとタムの家系には黒人の血は混ざっていない。とすると、多胎妊娠ではないかというのが医師の所見である。多胎妊娠とは、ごく近い時期に複数の卵子に複数の精子が結びつき妊娠する事象である。つまり、妻タムは、ミッチェルと性交したのと同じ時期に、だれか黒人とも性交したことだ。人種間の姦通、ミッチェルにしてみれば不名誉ということになる。

肌の黒い子供を我が子として公然と育てるわけにはいかない。それは妻の黒人との姦通を人に示すことになる。せめて白人とヤッてくれていれば自分も気づかずに終わっただろうに、と思いながら、黒い肌の嬰児の父親は誰かと問うミッチェルに、タムは、かつて家政婦として雇っていたオパールの知人、クーリィだと言う。ミッチェルは、肌の黒い赤子を引き渡すべく、クーリィを探すため、オパールの甥のケルヴィンの手引きで、ハーレムへ入り込んでいく。

タイトルの「あいつら」は原語ではdemで、黒人の言うthem、黒人の目からみた白人たちの姿を風刺的に描いたものということになるのだろうかとも思ったが、demというのは他者のことだろう。小説の根底には人種差別の問題があるが、この作品はプロテストの文学であるというよりは、そうした人種差別のある社会を構成している白人たちの疎外、不安、欲望といった精神的問題を描き出している。

例えば、ミッチェルが家政婦のオパールを解雇するくだりがある。ミッチェルがオパールを解雇したのは、オパールがミッチェルの家から盗みを働いたからである。そうミッチェルは主張する。しかし実際にはミッチェルは、オパールが盗みを働く姿を見てもいないし、ミッチェルのカバンの中から盗まれた品を見つけたわけでもないし、家の中から何かが失くなっている訳でもない。何も失くなっていないが、「あいつら」は黒人だから何かを盗んでいるはずだ、だから俺は解雇する、という理屈である。この認識は完全に病的だが、人種差別を成立させるのはこうした認識のあり方だろう。この手の理屈は黒人に限らずで、「あいつら」は中国人だから我々の気づかぬうちに日本の土地を買い占めて日本を征服しようとしているとか、あるいはユダヤ人の陰謀とか、似たような構造であると思う。そういえば男というのは、不安のあるジェンダーなのかも知れない。我が子が実子であるのか、男には結局分からぬのだし。

白人たちの社会を下から突き上げる不安感や空虚さがあるようだ。

まず、戦争における暴力に浸された白人の姿がある。作品冒頭、極東の戦線(ヴェトナムだろう)から戻った海兵隊員の知人に招かれた家で、ミッチェルとタムの夫妻が発見するのは妻と子の遺体である。その海兵隊員が手を下したのだ。妻の遺体にはおそらく屍姦された痕跡があった。

虚構と現実の交錯には、何が現実で何が非現実かわからない、リアリティーの混濁した社会の姿が見てとれる。脚を怪我して動けなくなり家にしばらく引きこもったミッチェルは、TVで午後のソープオペラを見るようになる。ミッチェルは、そのヒロインのナンシーに惹かれる。ナンシーは夫のグレッグと上手くいっていない。ある日ミッチェルはタクシーに乗っていると、ナンシーが実際に町を歩いているのを目にする。ナンシーのホテルの前のバーで待ち伏せしていたミッチェルは、バーの前でナンシーがグレッグに殴られのを助け、一緒に病院へ行き、彼女と親しくなって肉体関係を結ぶようにもなるのである。

ミッチェルの身に起きたことは、黒人の男たちが奴隷時代に強いられてきた境遇だ、とクーリィは主張する。奴隷時代の黒人男の妻が妊娠する。愛する女房が自分の子を産むことを喜ぶが、妻が出産してみると、その子の父親は自分でなく、白人の主人であった。妻を責めることもできない、なぜなら彼女も奴隷なのだから。数世代を経て、今度は白人であるミッチェルの身に同じことが起きたとして、なぜそれを責められなくてはならないかというのがクーリィの主張である。ミッチェルは、黒人奴隷女を犯したのは数世代前のやつの話で、僕じゃないと思う。個人としてのミッチェルの言い分はわかるが、白人と黒人の区分のある社会構造のなかで生きる白人として完全に無垢とは言い切れまい。

双子が出てくるものの、本作の双子は嬰児でもあり、双子らしい働きはしない。別に双子ではなく、肌の黒い子供だけでも話の筋には影響がないように思われる。ただ、白黒の二児が生まれることで、白人と黒人という二つの社会があることが象徴的に表現されている。

あいつら (1971年) (現代の世界文学)

あいつら (1971年) (現代の世界文学)

川端康成『古都』

『古都』は奇妙な小説であると感じた。

ヒロインの千重子は出生に謎がある。京の呉服屋の一人娘として育てられたが、父母は彼女を拾った、可愛かったので攫ってきた、母は実母ではないがこの家で生まれたのだ、等々、定かならぬことを言う。いずれにしても、父母は実の両親ではないらしい。生みの両親は不明である。

そんな己の出生が気にかかる二十歳の頃、千重子は友人と出かけた高尾の方面で、自分に瓜二つの村娘と出会う。北山杉の産地で知られる辺りだ。親しく付き合うようになるにつれ、どうやらこの娘こそ、自分の実の双子の姉妹ではあるまいか、と思われてくるのだった。

醍醐寺五重塔落慶式を見に行こうか、というセリフがある。1950年の台風で被災した五重塔の修復が終わったのは1960年らしいので、その時期が作品の舞台か。金閣が焼かれたのは1950年、葵祭斎王代という一般女性が選ばれての女性の行列が加わるのが1956年からで、そういった時期の京都である。京都の祭りや年中行事が作中では描かれており、主人公は京都の町自体といった趣もある。

世の中が移ろいつつあることを示す記述もあり、そんな趨勢で家業の呉服問屋も傾きつつあるようだ。若い千重子は、こんな商売止めてしまってもいいのではないか、と言ってしまったりする。

結局、ヒロイン千重子の出生について、確かなことは分からない。彼女が拾い子であるとは両親の言だが、拾われた由来についても言うたびに異なるので、何か事情があるのは確かそうだが、拾い子であるとも決めがたい気もする。

この小説は双子の話ということになっている。

千重子は出会った瓜二つの村娘、苗子を生き別れの双子の姉妹だと合点しているが、これも実際のことはわからない。たしかに同年輩の瓜二つの人間などそうそういるはずもなく、話を聞けばたしかに互いの運命には符号する点があるようだ。生き別れの双子だと解釈するのも奇妙ではない。しかし、たとえば、出生に疑義のある少女が、自分と瓜二つの娘と出会い、彼女を生き別れの双子だと思い込んだという解釈もできそうな気がする。事情を抱えている時、それを物語として消化できる筋立てを人は識らず求めたりもするものだから。

更に飛躍して言えば、双子の片割れとの出会い自体も含め、この物語自体が、出生に疑いのある少女の描いた白昼夢のような結構であるようにも思えてくる。

そもそもロマンスというのは、物語の中に登場する誰かのみた夢だと解釈できる話の仕組みになっている。「シンデレラ」や「白雪姫」は母に虐められた少女の夢、「一寸法師」は小さい男の子の夢、等々といった具合に。ロマンスの中には、その物語を欲望している者がいる。また、もう一人の自分と出会う、ないし別れるというのはイニシエーションの過程としてもありそうで、千重子の青年期の終わりの情景の物語という感じもする。

古都 (新潮文庫)

古都 (新潮文庫)

リャマサーレス『黄色い雨』

フリオ・リャマサーレスの『黄色い雨』が河出から文庫で出た。10年ほど前にヴィレッジブックスから出た単行本からは、短編が2つ増えている。表題作は、詩情豊かな叙述が美しく、訳書の単行本刊行時から評判だったように記憶する。国際的にもこの作品の評判はたいへん高いと聞く。

スペインのピレネーの山中、過疎が極端に進んだ限界集落が話の舞台である。崩壊の半歩手前。話といっても話らしい話はない。他人に馴染めない偏屈な老人が、妻に愛想尽かされ先立たれ、息子に見捨てられ、限界集落に猟銃をもって立て籠もり、朽ち果てるように死んでいく、ロクでもない話である。

村人たちは次々に家を捨て離村してゆくが、自分は一匹の雌犬とともに集落に立てこもるように残る。恐れるように他者から距離をとり、銃をもって村への侵入を拒絶し、自給自足的に生きていく。老人の退嬰的な姿は、ラプラタ川河口の島に砦を築き籠ったロビンソン・クルーソーを思わせる。漂流して島に着かずとも、元いた場所でも他者が離れて消えれば、そこは孤島である。

特徴的なモチーフとして、ロープの扱いがある。妻は自死するのであるが、彼女がそれに使った一本のロープを、老人は怯えるように遠ざける。彼が投げやったロープは、雪に埋もれ見えなくなるが、雪解けとともに、彼のところへ戻ってくるように姿を現す。老人はとうとう、妻の命を奪ったもの、妻が最後に身に付けていたものであるこのロープを、ベルトのように常に腰に巻くようになる。死や生や、あるいは妻の喩のようなこのロープは一体何なのだろうか。

はっきりした順序もなければ、先の希望もなく、家がほかのすべての家を道連れにしながら少しずつ倒壊してゆくだろう。苔と孤独の重みに耐えきれずにゆっくりと、ひどくゆっくりと崩れてゆく家もある。かと思えば、狙った獲物をのがさない冷酷の猟師の銃弾に撃たれた獣のように、一気にどっと倒れる家もあるだろう。しかし遅かれ早かれ、時間の長短はあっても、すべての家は大地のものであったものを大地に返すだろう。アイニェーリェ村の最初の住人が大地から奪い取ったもの、それを大地が返却するように求めているが、結局それを返すことになるだろう。

こうした自然によるレコンキスタは、今日に至るまで日本の近代でも起こってきた。先日、四国の仁淀川中流域のある町史を読んだ。中世の開拓者の記述があった。木を倒し岩をどけ、土地を開き水を引いて、農業生産の基盤をこしらえた英雄の記録が残る。人間たちは、谷伝いに山の隅々へ勢力の前線を押し進めていった。この前線が自然によって押し戻されている。人間たちは町へ押し込まれてゆき、田畑は森へ還っていく。

付録の短編二作は、鉱山業の衰退にともない廃線に決まった鉄道で、失職したのにしつこく勝手に踏切番の仕事を続け、汽車が通るはずもないのに道を封鎖する男の話と、住む村をモデルに小説を書いたものの、モデルにされた人々から糾弾されることを恐れて、作品を公にできない詩人が、強迫観念のあまり凶行に及ぶ話。特に前者は悲哀のユーモアが漂うが、人物が元気なので暗くはない。

この作品による読書会に参加したとき、出席者のある女性が、「付録の2短編も含め、近代化から取り残された人々を描いている」と発言し、なるほどと思った。私たちの社会では、時として、不作為は罪と見なされる。世の中が変化しているのだから、それに対応していかなくてはならない、対応できない・しないのは怠慢であると見なされる。しかし本来的に不作為は罪ではない。だが社会はこれを罪としなくてはならない。こうした対処不能な二律に向かうとき、ユーモアやイロニーが必要とされ、芸術が生まれるのかもしれない。

偏屈老人の孤独な生を正当化するわけではない。美化するわけでもない。それでもこの作品の叙述は美しく魅力的だ。きれいでないものを美しく、面白くないものを刺激的に変貌させるのが、芸術の力ではある。ただ、現代の都市に暮らす読者にとっても、そうした生活から離れているのになぜか、土、水、雪といった自然の中の生活描写は、もともと魅力的なものとして届きやすい質のものである。まして、崩壊の美学という味付けまである。逆に、コンクリートジャングルに暮らす、大組織の事務労働者の平凡で退屈で明日以降も続く生を、美しく刺激的に描くこと、ホワイトカラーのための詩学の困難さを思い、苦笑いしたりして。

黄色い雨 (河出文庫)

黄色い雨 (河出文庫)

 

 

J.M.クッツェー『マイケル・K』

10年ぶりに『マイケル・K』を再読した。心底感動した。

年老いて病気になった母親を、ケープタウンから、彼女の故郷である内陸の農場へ連れていくため、荷車に乗せて押してゆく。奇妙な子連れ狼のようなロードムービー的シーン。

母親は家政婦として長く苦役に従事してきたが、老いた病身で用払いされている。息子のマイケルのほうは、口唇裂という容貌に加え、知能にも多少問題があるようで、労働に従事するほかに社会との交流は薄い。30歳を過ぎているが、「大人」という感じでもない。(作中言及はないが)アパルトヘイト末期の動揺する社会で、(やはり作中に肌の色の記述はないが)有色人種であり、底辺に取り残された母子である。

居住地から出る為には当局の許可書が必要だが、許可書はなかなか発行されず、プロセスは遅延していく。Kという人物名もさることながら、官僚的組織のこうした描写はカフカ的なものだ。

紆余曲折あり、マイケルは農場での単独生活を開始する。他者から見つからないように、洞穴に身を忍ばせ、カボチャやメロンの種子を植える。ロビンソン・クルーソーのような退嬰的自給自足の生活を開始する。

孤島でないマイケルの生は、他者からの暴力的介入に侵され、安閑としない。熱病になり食欲は減退、極限まで衰弱するが、他者から施されても、自分の食物でないものは受けつけない。農場から引き剥がされ、キャンプへ収容されても都度脱走。自由、独立、大地との結びつきを求める。

クッツェーのその後の長いキャリアを今振り返ると、初期の作品と言えそうだ。原著刊行は1983年。最初の作品刊行『ダスクランド』の1974年からは9年後になる。なお二度目のブッカー賞を受けた『恥辱』が1999年。

さばさばと砂のように乾いた印象のある近年の作品とは、文の印象が違う。湿り気、といってもべたべたと情念的なわけではないのだが、山肌にしみ出した湧き水のような清冽な印象がある。

マイケル・Kには、『響きと怒り』のベンジーほどではないが、知的障害と言えるような面がある。だが彼は、思い、考える人である。彼はしばしば、内的な思考や独白のなかで、自らのことを省みる。自分はどうしたいのか、どう生きるのか、何を食べるのか、時間とはどのようなものか。

浮かび上がってくる彼の思念は、言語的にくっきり明確に分析されたものではない。だが作家の繊細な筆先が、彼の思念を拾い上げ、読者に届ける。私たちはその思念に触れて、自由の意志が動いているのを感じる。人間の生の根源的な部分に、触れているように思う。

マイケル・K (岩波文庫)

マイケル・K (岩波文庫)

 

 

アデイーチェ『アメリカーナ』

アメリカーナ

アメリカーナ

  ナイジェリア出身で、米国で高等教育を受け、現在はナイジェリアとアメリカを行き来して活動している、チママンダ・ンゴズィ・アデイーチェの長編。  

◯あらすじ

恋人のオビンゼを祖国へ残しアメリカへ渡ったナイジェリア人(イボ人)女性イフェメル。憧れのアメリカで様々に期待を裏切られ、生活にも苦労し、「黒人」という人種階級に組み入れられつつも、何人かの恋人と交際し、ブロガーとしても成功する。が、どうも心は不安定で、結局、ナイジェリアこそが、そしてオビンゼこそが、自分が根を埋めることができる場所だと帰国を決意する。たがオビンゼには妻子がいるらしいのだ。  

◯アメリカーナ

「アメリカーナ」とは、日本語にするなら、アメリカもん、とでも言ったものか。東京もんとか。憧憬、羨望、あるいは軽蔑。ニュアンスのある言葉だと思う。  

◯帰る場所

イフェメルにとって、憧憬の国アメリカは根を埋める国ではなかった。が、帰ったナイジェリアはどうか。アメリカーナになって帰ったイフェメルは、ナイジェリアで今度はリエントリーショックに苛まれることになる。

結局、イフェメルの故郷はオビンゼという人にしかなかったのかと知れない。妻子あるかつての(そして一生の)恋人との復縁を、支持できるかどうかは読者それぞれだと思うが(作者は誰もが支持できるようには書いていない)、宙ぶらりんで落ち着くところをもつことができない孤独な個人たちが、心の故郷を求めたのだと受け入れるしかないし、受け入れられないにせよ、この人しかいない!と思う相手との恋愛ではこうしたことも起こり得るかも知れないし、彼女らが引き裂かれることになった原因は同情し得るものではあるが…  

◯アメリカ

憧憬のアメリカと現実のアメリカ。実際に来てみると、思っていたような場所じゃなかった。アメリカにオンボロのクルマが走ってるなんて、アメリカに立ち小便する人がいるなんて、先にアメリカへ来てたおばさんが忙しくてささくれ立ってしまっているなんて!  

◯UK

ビザが取りにくいのはアメリカと同じです。イフェメルの永遠のボーイフレンド、オビンゼ君が移民を試みる国。なお彼、ブローカーが連れてきた、ビザ用に偽装結婚する相手の女の子にほんとにキュンとしたりして。  

◯ナイジェリア人

ナイジェリア人に風呂場のリフォームを頼んではいけない。仕上げがちゃんとしているガーナ人に依頼すること。  

◯イボ人

イボ人はイボ人同士の時でも英語で話しかけてくるのはなぜだ。  

◯黒人女性の髪

この小説、髪が重要なモチーフになっている。黒人女性の地毛がどんな感じかなんて、知ってた?  

◯結婚

結婚した後で、この人だ!と思った相手と出会って(再会して)しまったら、どうすべきか。小説としては、諦める、仄めかす、描かない、逃避行。「心地よい沈黙を共有」できる相手と結婚したいものです。  

◯ブログ

ヒロインのイフェメルは成功したブロガーなので、作中にもブログ記事が出てくるのだが、これが全然面白くないのだ。作中作の難しさ。人気ロックバンドが主人公なのにその楽曲が全然イケてないとか、ヒロインが恋するイケメン人気デザイナーの作った家具が野暮ったいとか、あるあるー!   

スノビズム

アメリカで「黒人」として生きている時、彼女が関心をもつ社会生活の側面…、恋愛やセックス、髪型や話し方、ファッションや人の言動は、アイデンティティの政治と結びつくものになる。が、ナイジェリアへ帰り、アメリカーナになったイフェメルのそれへのこだわりは、彼女を単にスノッブに見せてしまうようにも思えた。  

オバマ

恋人ブレインとの冷めた関係をホットにしてくれた共有の関心事。トランプでホットになった恋人たちはいないだろうなぁ。  

◯ナイジェリアの映画

冒頭の美容院でも女性スタッフがナイジェリアの映画はいいと褒めるシーンがある。ナイジェリアは映画産業が盛んでノリウッドと呼ぶそうだ。ハッピーエンドになる作品ばかりなのは、アフリカは生きるのが大変だかららしい。映画のチケットは高いので、DVDを買って家でみるのが一般的。ナイジェリアで映画の料金が高いのは、映画館内は暗いので犯罪が発生しやすいため、裕福な者のみに観客をしぼる為だとか。  

◯ウジュおばさん

イフェメルが慕っているウジュおばさん。アメリカでは苦労して試験にパスして医者になりましたが、ナイジェリアでは政治権力者の情人で子供も出来ましたが、権力者が突然死してから彼女の運命がガタガタと変わります。この辺の唐突さ、『精霊たちの家』みたいな作品を好む人は気に入りそう。