グインサーガ復興論

栗本薫さんの遺志に基づいてグインサーガの完結を願うひと

今岡清著「世界でいちばん不幸で、いちばん幸福な少女」

あまりにも赤裸々な私信ともいうべき随筆

世界でいちばん不幸で、いちばん幸福な少女
世界でいちばん不幸で、いちばん幸福な少女
  • 作者:今岡 清
  • 発売日: 2019/04/18
  • メディア: 単行本
 

  本著は公私ともにパートナーであった今岡清氏が「奥さん」、つまり中島梓さん、作家上のペンネームとしては栗本薫さんのプライベートを振り返る随筆である。多少覚悟していたが、思っていた以上にびっくりするほど赤裸々に描かれていて、ファンだからという理由だけで勧めるのは正直、難しい。

 私は幸い、天狼パティオに参加していて(一時期離脱していたが)、一応、中島梓さんとは晩年まで、当然、今岡さんとも多少の交流があったので、(畏れ多いが)顔見知りの直接の知り合いと共通の故人を懐かしむ気持ちで辛うじて読むことができた。

 余計なお世話と言われればそれまでだが、そういう心構えでも持たないとショックを受けてしまうファンがいるかもしれない、と思う。それぐらい、プライベートに深く踏み込んでいる。私でさえ、この本を手にしてページを開くまでにかなりの時間を要したし、ところどころギョッとした。

 生前から常々感じていたが、二人は本当にソウルメイトだったのだな、と改めて思うし、そういう相手とめぐりあって人生を全うすることができたことは、なんだかんだいって幸せなことで、何よりも恵まれていると思う。とはいえ、ときに共依存のような関係性もみえる点があり、独身の私にとっては想像もつかない世界ではある。

 いずれにせよ、歴史に名を残すような偉大な芸術家と結婚することの片鱗が伺えるので、確率的には極めて低いものの、似たような境遇の人にとっては何らかのヒントが隠されているのかもしれない。

 今もなお、二人の関係性は微笑ましく思われるが、実際のご家族にとっては、本当に大変な日々があったのだろうと思う。もちろん、どんな家族にも問題はついてまわるわけで、他人からは決して窺い知れないものだが。

自然発生的なセラピー

 数ある話のなかでもっとも印象的だったのは、寝る前の儀式等、今岡さんがセラピストのような役割を果たしていたことだ。中島梓さんがもともと心理学や精神分析に強い関心を抱かれていたのはその著作「コミュニケーション不全症候群」や「名探偵は精神分析がお好き」等で明らかだが、お二人の間にサイコセラピーのようなものが(おそらく自然と)成立していたことは非常に驚きだった。そうした関係性がなければ、おそらくもっと短命で悲劇的な人生になったのではないか、とすら思う。

 これらは、たとえばインナーチャイルドという単語にすら馴染みのないような、心理療法やセラピーが何たるかをよく知らない方々にはショッキングかもしれないが、私自身、不眠症鬱病の治療やカウンセリングを受けた経験があり、心理学やセラピーを学んだ経験もあるので、なるほど、と思う点が多々あった。

 お二人が心療内科に罹ったり、セラピーを受けていたかどうかはわからないが、もし自然発生的にそのような関係性が育まれていたのだとしたら、これを「愛の為せるわざ」と言ってしまうのはあまりにも陳腐で安直すぎる。おそらく、お二人の最終的な人生の目的、あるいは目指すゴールが常に同じ方向を向いていたからこそ、創造的な関係性を築き上げることで危機的状況を脱し、その後も関係が発展、成長していったのではないだろうか。

 ちまたでは結婚してすぐに離婚するカップルが増えているが、今岡清さんと中島梓さんの関係性を知ってしまうと、そういうカップルはお互いに「相手が自分を幸せにする義務がある」とでも思い込んでいる幼稚な、与え合うより奪い合う関係に過ぎないのではないか、とも考えさせられる。

精神的な深い傷をもつ人と伴侶になること

   話はまったく逸れるが、本書を読んでいる同時期、偶然、私は講談社のコミックデイズというWebマンガアプリに連載中の萩本創八(原作)・森田蓮次(画)「アスペル・カノジョ」というマンガに出会った。

 たまたま何気なく見つけて、正直「メンヘラものか…」と躊躇しながらも、ものは試しと読んでみたところ、人気グループ「SEKAI NO OWARI」メンバーも大絶賛している、知る人ぞ知る傑作だった。

 「アスペル・カノジョ」をざっくりいうと、発達障害(と実際の障害者手帳)をもち、自傷癖のある高校中退18歳、家出少女の斉藤さんが突如、ずっとファンであったところの同人マンガ家・横井の自宅をブログの写真から突き止めて訪れた挙げ句、そのまま居着いてしまうという現実にあったら相当ヤバい荒唐無稽な話なのだが、これが実におもしろい。

 二人はいきなり同居することになるが、ただちに肉体関係に及んだり恋人になるわけではなく、共同生活を過ごすうち、徐々にセラピーが入り交じった関係性を築き上げていく。

 お互いに少しずつ成長あるいは前進したり、ときには後退しながら、欠かせないパートナーへ変化していくさまは、なぜか読む者の心を掴んで離さない。人を選ぶかもしれないが、物語として面白いだけでなく、スリリングで目が離せないという意味でも強く惹きつけられる、前代未聞の不思議な作品だ。ある意味では衝撃作といって良い。

 今岡さんは梓さんとの結婚を「赤ん坊を拾い上げた」と表現しているが、「アスペル・カノジョ」の主人公である横井もまさに斉藤さんをなんとなく目の前に捨てられた赤ん坊のように放っておけず拾ってしまい、徐々にどんどん心を開いていって、かけがえのないパートナーになっていく点はちょっぴりだが、似ている気がする。

 もし、これを読んでピンときた方には、併せて一読をお勧めしたい。

もしも中島梓氏がアドラー心理学と出会っていたら

嫌われる勇気

嫌われる勇気

 
幸せになる勇気――自己啓発の源流「アドラー」の教えII

幸せになる勇気――自己啓発の源流「アドラー」の教えII

 

 2020年の今、誠に無責任な発想ではあるが、もしお二人の関係性のなかにアドラー心理学の思想が介入していたら、どうなっていたのだろうか。

 仮にご本人が存命で、2013年に発売されて異例のベストセラーとなった岸見一郎・古賀史健「嫌われる勇気」ならびに「幸せになる勇気」を読まれたら、どのような感想を持たれたのか、ふと思ってしまう。

 私は専門家ではないが、理解している範囲で述べると、アドラー心理学フロイト精神分析理論に対して真っ向からトラウマを否定する。「目的論」と呼ばれる考え方に基づき、トラウマも含め、さまざまな精神的疾病、症状には本人の表面意識からも隠された利益がある、という厳しい見方をする。

 栗本薫あるいは中島梓という人物にとって、自身の体験はトラウマや見聞きした物語をも含めて巨大な創造力の源泉だったのではと思う。喜びだけでなく、悲しみや憎しみ、苦悩といったどす黒い感情もすべてが表現の母胎であり、おそらく架空の物語を創造し続ける衝動の震源地だったのだろう。

 アドラー心理学のようなアプローチで治療あるいはカウンセリングを受けたら、もしかしたら、ご本人は生きるのがもっと楽になり、もう少し長く生きることもできたのかもしれない、その一方で旺盛な表現欲求、奥行きのある世界観は失われたのかもしれない。あるいは、良い意味での影響を及ぼして、作風や物語の展開に変化を与えただろうか。創作にとって重要なエネルギー、いってみればガソリンを手放すように感じて、アドラー心理学には強い抵抗や反発を抱かれることも充分にあり得る。

 一方で、自他ともに認める博覧強記、読書家で知られた中島梓さんのこと、精神科医ヴィクトール・E・フランクルの「夜と霧」を知らないわけがないだろう。ナチスドイツの迫害を運良く逃れたユダヤ精神科医回顧録は、戦後、世界中の人々に大きな影響を及ぼしたが、ここで描かれた多くは体系化こそされていないものの、実はフロイトよりもアドラーの系譜に連なる思想、認知、考え方であった。

 どれだけ考えても答えの出ない話だが、ふと考えてしまう。せめてあともう少しだけ長生きしてほしかったという、決して叶うことのない私個人の願望があてもなく彷徨っているだけなのかもしれないが。

里中高志「栗本薫と中島梓 世界最長の物語を書いた人」

 

栗本薫と中島梓 世界最長の物語を書いた人
 

精力的な取材に裏付けられた完成度の高い評伝

 読み終えてまず、安堵感が先に立った。アンチ含めて誰も傷つけることなく、丹念に事実を追いかけ、多くの関係者へのインタビューを組み合わせて本人像を浮かび上がらせるのは、本当に時間と手間のかかる作業だったはずだ。次いで、その労を労いたい気持ちが湧き起こった。

 実際、里中氏は早川書房を通して2016年秋に取材を開始し、出版されるまでに2年以上を要している。丁寧な取材と極めて客観的かつ誠実な記述につとめた筆者には率直に尊敬の念しかない。

 また、大学こそ違えど、私も一応は里中氏と同じく東洋史を専攻した者の端くれとして、歴史学者としての意地やプライドを節々に感じた。里中氏はおそらく、卒業論文でさえ非常に読み応えのあるものを執筆されたのではないかと思えるほど、非常に完成度の高い一冊だった。

 そして、里中氏は早稲田大学第一文学部卒ということで、中島梓さんの直接の後輩にあたる。ご生前、ご本人は身近に感じられる奇遇なご縁を非常に大切にしておられたので、僭越ではあるが、このようなシンクロニシティと著作の完成度の高さに天国で深く喜ばれているのではないか、とすら思う。

 本作の最大の功績としては、中島梓さんの生前、ご両親それぞれの祖父母からご両親の人生をも丁寧に辿り、生まれ育った家族関係、家庭環境、晩年までの人間関係やそのパターンを《客観的に》明らかにしたことだろう。

 中島梓という人物はもともと、自らのエッセイや評論、あるいは作品やあとがきなどで積極的に自ら、そしてときには家族関係をも自己開示していたが、それらはあくまでも主観的なもの、悪くいえば思い込みに基づくものだった。

 特に、実母との関係や確執は比較的コアなファンの間では有名な話だったと思うが、基本的には一方的に述べられているもので、御母様の立場からすれば決してフェアとは言い難い。

 今回の評伝ではそれらを里中氏がインタビューや資料で丁寧にひもとき、丹念に事実や見解を精査・整理されていて非常に説得力があるため、新たな見解や理解を得られる点が非常に多い。

 そういう意味では、栗本薫あるいは中島梓作品を再読するうえでこの書籍を一読する価値ありと断言できる。

浮かび上がる作品群への影響 

 例えば、「グインサーガ」に登場するパロの聖王家と日本の天皇家との類似性である。日本人独自の精神が反映されていることは当たり前として、母方の祖父が戦前の宮内省に勤めていてのちに香港のホテルに勤務した経緯が非常に興味深い。当時の日本人としてはかなり珍しく、戦前の宮家や華族といった上流階級の存在を比較的、身近に感じていたのではと考えられる。

 パロに限れば、雅やかな宮廷、舞踏会、レイピアでの決闘など、もろもろフランスのような王朝を装いつつ、同族婚を繰り返す「青い血」などのモチーフはむしろ天皇家のそれに近い。パロ以外のゴーラ三公国やケイロニアは実際のヨーロッパ各王朝や日本の武家を模した政略結婚が主体の王家なのに、パロだけがなぜ、閉鎖的な王室、あるいは魔道や古代機械など他国よりずっと謎めいた特別な国として描かれているのか。

 ほかにも愛娘を全肯定する実業家の父、実質的に乳母のような存在であったお手伝いさん(なかでも戦争孤児の方)、幼くして寝たきりになってしまった弟御、昭和28年と戦後間もない生まれにも関わらず裕福な暮らし、長唄・小唄・清元・津軽三味線を名取まで究めたり、御母様の影響で幼い頃から歌舞伎などの伝統芸能に親しんできたこと、マンガをも含めた膨大な読書量など、作品の随所にさまざまな影響を及ぼしたことが窺える。著作やあとがき、エッセイなどを丹念に読んできたファンなら知っていることも、さらに深く掘り下げられている。

 また、御母様が二・二六事件のことをひどく身近に述べられていたり、ご本人も早稲田在学中に学生紛争に直面するなど、我々よりもはるかに「戦争」や「暴力」を身近なものとして感じていたことも重要に思われる。本書では特に触れられていないが、三島由紀夫の事件も何らかの影響を否定できない。

 本書ならびに栗本薫中島梓さんの生まれ育った時代背景を踏まえて作品を再読することで新たな発見が得られたり、あるいは誤解を解消できたり、もっといえば「グインサーガ」や「新・魔界水滸伝」といった未完の物語に何らかの手がかり、光明を見いだせるのではないだろうか。

 そんなふうに私は思い、ほとんど封印していたグインサーガの再読を試みようと思うようになった。

没後10年を記念されてもファンは困る

2019年。あれから10年 

 2019年は栗本薫中島梓さんの没後10年だったせいか、以下の2冊が刊行され、一部のマスコミ等でも話題になった。

 前者は多くの書評で好意的に取り上げられた結果、2020年、第73回日本推理作家協会賞の評論・研究部門で候補作にも選ばれた(受賞は惜しくも逃す)。

 後者は曲がりなりにも実際にご本人の長年の公私にわたる伴侶によるエッセイなので、いずれ読むことは決めていた。

 出版社としてはグインサーガの続篇を継続している以上、何かにかこつけてキャンペーンめいた施策をうつことは理解できるし、ご遺族としては何らかの区切りをつけたい気持ちもわかる。

 とはいえ、没後10年は特に祝うものでもなんでもないので、私はなかなか手を出せずにいた。

近しいほど故人を悼むには時間がかかる

 亡くなった人物を悼むには、個人差があると思う。関係性が近ければ近いほど、ショックは大きい。私は26歳のときに父を57歳で亡くしたが、そのショックが癒えるまでにはさまざまな努力を尽くしても10年近く掛かった。

 1987年にグインサーガとめぐり逢って20年以上が経過していた。また、いずれ詳細を書くが、私は中島梓さん、そして今岡清さんとも知己を得ていた。個人的な関係を育むことができたのは長年のファンとして内心、非常に名誉なことだったが、逝去された後はかえって心の整理を難しくしたかもしれない。

 以後、ずっとモヤモヤを抱えながらとうとう2020年になり、新型コロナ騒動で自粛生活を強いられ、ようやく真剣に購入を検討したが、知りたくないことを知るのではないか、という強い怖れがあった。美しい想い出だけを大事にしておくべきかと正直迷った。

未だにつかない心の整理、避けていた再読

 よくよく考えてみると、私は2013年6月、個人的に横浜へ御墓参りに行ったのだが、そんな自分がいまだに心の整理ができておらず、作品の多く、特にグインサーガ全巻の再読をずっと避けていた事実に思い至ったのは、我ながら実に意外だった。

 私は、思っていた以上に喪失感で深く、深く、心を痛めていたのだ。だが、それは私自身の心が傷ついたからではない。むしろ、自分の一部が引き裂かれて遠くへ逝ってしまったようなそんな痛みだ。

 この気づきがあり、私はこれら二作品と向き合うことを決心した。

グインサーガは死んだのか?

 

グイン・サーガ130 見知らぬ明日

グイン・サーガ130 見知らぬ明日

 

 2009年5月26日火曜日、栗本薫中島梓)さんのご逝去をもって、ご本人の手による新作、その他著作の続篇が絶たれてしまった。あれからもう11年が経つ。

個人の執筆による世界最長の物語(未完)

 1979年以来、30年もの長きにわたり累計3300万部発行された「グインサーガ」は本篇130巻、外伝22巻の計152巻、累計153冊(外伝17巻は上下2冊)で未完となった。公式のハンドブックや関連書、ファンブックは合計10冊が刊行されている。詳細はWikipediaに任せたい。

 100巻完結をめざしながらとうとう100巻では終わらず、作者でさえ完結は200巻か300巻になろうかとあとがきに記されていた進行具合は、おそらく構想全体の半分〜三分の一程度だったと思われる。

 後述するが、いずれ世界線が交錯する予定の「新・魔界水滸伝」が早々に4巻で中断してしまった分、さらに完結が遠のいていた可能性も否めない。

 そんな前代未聞の大長編でありながら、記念すべき100巻は全国各地の書店でベストセラー入りするなど、21世紀になって本格的な不況に陥った出版界のなかでは安定した売上と部数を誇る、希有なシリーズだった。 

巻を重ねるごとに増えたアンチ?

 ネット上では巻を重ねるごとにアンチが増えたと言われているが、実際には全国の主要な書店では新刊が発売されると必ず文庫の新刊コーナーに平積みされ、一定の売上を誇っていた。むしろ、逝去後に刊行開始された「グインサーガワールド」シリーズや本篇131巻以降、外伝23巻以降の続篇プロジェクトがそもそも書店で平積みされているのを私は一度も目にしたことがなく、往年のファンとしてはそれも悲しい。

 公称3300万部を発行冊数153で割れば、概ね各巻の平均部数を約19万部と推察できるが、私が関係者から直々に伺った記憶では1990年代に本篇1巻あたり公称25万部だった。巻が進むにつれ脱落者が増え、結果的に部数も減ったとはいえ、少なくとも数十万人のファンが彼女の死、そしてグインサーガの未完を嘆き、悼み、悲しんだことは間違いないだろう。 

ひとは二度死ぬ

 ひとは二度死ぬ、と言われる。一度目は物理的な肉体の死、そして二度目はありとあらゆる人から記憶が失われることで訪れる永劫の死。

  極めて個人的な死生観に基づく見解ではあるが、私は栗本薫そして中島梓という人物はまだ単に物理的現象としての生命活動、人生を終えたに過ぎないと思っている。

 残された多くの著作や表現は多くの人々の心に刻まれ、また新たな読者を開拓することもあるだろう。ギネスが認定しようがしまいが個人で世界最長の物語を描いた事実は失われることがない。日本の出版史、文芸誌でいえば紫式部に匹敵する女性長編作家として後世に語り継がれ、むしろ永遠に生きるのではと、私は思う。

 それに、いずれこの偉大さが世界で大きく話題になり、称えられる日々が来るかもしれないし、そのことを心から願っている。

グインサーガの復興を心から願って

 自然の摂理で花の一生を思えば、土に撒かれた種が芽吹き、成長し、大輪の花を咲かせたあと枯れ落ち、そしてまた土に還り、新たな生命が誕生するはずだ。

 栗本薫さん、そしてグインサーガは一度、死んだ。その後、続篇プロジェクトが開始されたが、少なくとも私には成功しているようには思えないし、どうやら先行きも怪しく思われる。

 このままでは再び、グインサーガが死んでしまうのではないか。

 そんな危機感から、私はグインサーガ復興論を記すことにした。