カキフライと人見知り
ぼくは、カキフライが好きだ。
「嗚呼、カキフライが好きだ!」と詠嘆法を用いて表現してもなんら大仰ではないほど好きだ。
学生時代、ぼくは学食で何日間連続してカキフライ定食を食べ続けられるかという謎の挑戦を試みていた。「お前、またカキフライ食うてんのか」とニキビ面の同級生に余計なつっこみを入れさせないために、いつもひとりぼっちでやる必要があった。教室の片隅で探偵小説ばかりを読み、友達も恋人もいなかったが、カキフライとは特別な関係で結ばれていた。牡蠣のシーズンが過ぎ、学食のメニューから消えたことで記録は四七日目で途絶えた。
ぼくはカキフライへの思いを誰にも打ち明けなかった。カキフライは、大切な心の友であり一途に愛する人であった。
人は、一等好きなことを表明しない。なぜなら好きという感情は主観である。それは盲目的で、冷静になれない気持ちである。好きという感情の真ん中で、ぼくたちは好きなものを正しく語ることはできない。それを言葉にするとき、好きな状態から一歩引いて、客観的にその輪郭を捉えるという作業が必要になる。しかし好きであればあるほど、その熱狂のなかにいつまでも留まっていたい。表現するという行為には、身体の一部を引っぺがされるような痛みが伴う。そうまでして伝えることに何の意味がある? 極度の人見知りでもあったぼくは、無防備に自分の心の柔らかい部分を他人に晒すことができなかった。それにずけずけと付け入ってこられるのも我慢がならなかった。そうやって、ぼくはカキフライへの思いをずっとあたため続けてきた。仔猫にミルクを与えるように。
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時は流れ、僕は二〇歳になっていた。コンビニのバイトが終わり、ロッカーで私服に着替えていると、新人のT君に「きょう、メシ食いに行きましょうよ!」と声をかけられた。僕は「いいね、何食べたい?」と聞いた。彼は何の衒いもなく言った。キラキラした目をしていた。
「カキフライ!」
僕は、「おう」と言った。不意に、その場では語り尽くせぬ様々な思いが去来した。
「センパイ、好きすか? カキフライ」
「おう」
「俺、めっちゃ好きなんですよね、カキフライ」
「おう」
「あー食いたくなってきた。カキフライ、食いてえー!」
「おう、おう」
「俺ね、気づいたんですよ、自分がどれだけカキフライが好きかを。語っていいスか? 今語っちゃっていいスか?」
「おう」
「俺、こんなにカキフライが好きなんだから、俺、きっとカキが好きなんだと思ったんですよ。それでこの間ほかのカキ料理を食べてみたんですよ。生ガキとか焼きとかグラタンとか」
「おう」
「ピンとこない」
「おう?」
「なんかちがうんスよねー!」
「おう」
「それで、ついに気づいたんスよ。俺、『牡蠣が好きなんじゃなくて、カキフライが好きなんだ!』って」
「おぉぉう〜」
防戦一方であった。為す術もなかった。コーナーに追い詰められ、袋叩きにされている感がハンパなかった(カキフライの形をしたグローブで)ああ、なぜあの時おれは、自分もカキフライが好きだと言わなかったのか。なぜ、そうはっきりと主張することで、カウンターの一撃でも食らわせなかったのか。なぜ「俺、チキン南蛮もけっこう好きだけどね」とか、心にもないことを言ってお茶を濁したのか。チキン南蛮はむしろ嫌いではなかったか。今だからわかるが、そこには、やはり本気で好きであるがゆえの、含羞があったに違いないと思うのである。そしてここにはもうひとつの悲しい法則を見ることもできる。
「シャイな人は、常に先手を打たれる」という、どうしようもない事実だ。
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時は流れ、わたしは四三歳になっていた。住宅購入者インタビュー取材を終え、今日はなかなかよい話が聞き出せたぞと悦に入っていた。初めてお会いするお客さんだったが、会話が弾み、クライアントが訴求したいポイントを居住者の声で引き出すことができた。上々の原稿になりそうだ。
「本日はお休みのところ、お邪魔しちゃってすみません」と頭を下げた。「いえ、いえ。緊張して上手く話せたか分からないですけど、今日はすごく楽しかったです!」ショートカットの若い奥さんはそう言って笑った。
もうそこそこの大人であるわたしは、初対面の人とも社会的な対応のなかで徐々に心をならしていけば次第に打ち解けて会話ができるようになっていた。それに、いい年をしたおっさんが、人見知りをしていることがバレたら恥ずかしいという気持ちもあった。思春期には思ってもみなかった感情である。究極の人見知りは、人見知りを完全に隠匿することで人見知りを克服するのだ!
ダイニングテーブルに冷たい麦茶を出してくれた奥さんに「でもカメラには緊張しませんでした?」と話しかける。
「ちょっと緊張しましたけどねー」
「でしょう? 一眼レフは大きいですから。あの存在感のあるレンズを向けられたらやっぱり誰でも緊張しますよね」
「でも、今日は──おかげさまで、気楽に話せたのが良かったのか、余計なことまでペラペラしゃべっちゃって(笑)」
「いえいえ、こちらこそ、むしろ助かりました(笑)」
「実は、全然そう見えないって友達には言われるんですけど──」と奥さんは耳にかかった髪を軽くかき上げ、微笑みながらぼくを見て言った。
「実はアタシ、日本一の人見知りなんですよ!」
「おう」