闇ブログ

人間は醜い

他人の評価に依存する人達

ここ数年意識の高い人達に対する違和感を感じていた事と、日本のものが海外で評価されているという事を紹介する所謂自画自賛番組に辟易としていたのだけども、最近まったく関係無さそうなこれらの事がある一つの気づきによって繋がった。

これらの事に僕が感じる違和感の根源は、物事の価値判断が他人の評価に依存していると言う事である。そしてそれは成し遂げた事を評価するための、自分自身の信念に基づいた価値基準が無いから起こるのだ。

 

意識高い系の人達の過剰な自己演出は、他人の尊敬を集めたいという自己顕示欲が背景となっているし、日本の自画自賛番組は、日本がどう凄いのか説明するのではなく、外国人からの賞賛の声を集め、海外で評価されているという事に視聴者が満足感を得る構成となっている。

 

この事はこれらの事だけでなく、自分の周りの人間から受ける様々な違和感を説明してくれる。

 

この自分を評価するための信念に基づいた価値基準が無い人は他人に媚びを売るか、権威を妄信して生きて行く事になる。

 

そうなると、自画自賛するという事は悪い事のように捉えられがちであるが、実は信念を持った人にしか出来ない事だと言うのが解る。

頭の悪い女

私は頭の悪い女が嫌いであるが、頭の悪い女のどう言う所に辟易としているかと言う事を考えて幾つかぱっと思い浮かんだので挙げてみようと思う。

 

 

共感という名の馴れ合い

女が話の内容よりもお互いに共感し感情を共有する事を大事にすると言う事はよく言われているが実際に、知性を退化させるような程度の低い内容のない話に中身のない相槌で、お互いに共感し馴れ合っている所はよく見かける。

 

2ちゃんねる等のインターネットの掲示板でも、その特徴は顕著で、誰かが同情を引くような事を書き込み、それに対して何の心配すらしていないのに、心のこもっていない「大変だったね、大丈夫?」という心配しているという態度を示す一文から始まる電気の無駄遣いとしか言いようのない様な中身の無い返信がいくつも書き込まれる。

 

 

自分語り

共感とか馴れ合いとか、そう言った物は気持ち悪いけども、まだ可愛いものである。本当の女の邪悪さを表しているのは自分語りをしたがるという習性ではないだろうかと思う。これは頭の悪い女というものが、根本的に人を思いやるという機能を持ち合わせていないということがよく現れている習性である。

 

具体的にどう言う事かというと、前述のようにまず1人の頭の悪い女が同情を引くような事や悩み事を言う、または書き込む。

そして、例によって「大丈夫?」から始まる返事をするわけだが、その次に「私もそういう経験あるけど」と続き、その話題と共通点など殆ど無い自分の不幸自慢を始めるのだ。

そして、最初に発言した人を蚊帳の外に追いやり、自分を話題の中心に持って行くのである。彼女らに、最初に発言した人の悩みや愚痴に真剣に付き合う気は無く、相手の悩みは自分の話をする機会という程度の認識しかしていない。

 

頭の悪い女のこういう性格の悪さに辟易としてる。 

 

自分の意見を聞かな人をワンマンだと批判をする人

 自分の意見が聞き入れられない時、あいつは人の意見を聞かない頭の固い人間だ、とか言い訳ばかりしてアドバイスから逃げているという批判をする人がいるが、そういう事をいう人は漏れなく低能だと思う。

 

自分がそう言う事で批判をされる事もあるし、2ちゃんねるや、なんとか知恵袋などのインターネット上のやり取りにおいても、明らかに的外れなアドバイスにたいして、それを否定すると「デモデモダッテちゃん」とかいって、自分の意見が聞き入れられない事を非難する人が多い。

 

彼らがどうしてそう言う批判をするかというと単純に、なぜ自分の意見が切り捨てられるかという事を理解していないからである。

どうしても相手に意見を聞かせたいなら、相手がそれを否定した理由を理解し、それに対して、自分の意見がその原因をカバーしているという事を示せば良いだけの事である。

しかし、彼らは相手の立場が自分と違うという簡単な事実すら理解できず、自分の意見の程度の低さを客観的に見ることが出来ないために、相手が理不尽に自分を否定したように感じるのである。

つまりバカなのである。

 

そう言ったバカの助言というのは、多くの場合100人居れば、100人が一番初めに思いつくような程度の低い内容である事が多いが、助言を受ける側はそんな事は100年前に考えた上でそれが有効でないと気づき、その一つ上の段階で悩んでいるのである。

彼らからしてみれば、悩んでいる所に、既に答えの出ている程度の低い話に時間を使わせないでくれということだ。

 

これらのバカは自分が低能であると言う事に気づいていないばかりか、頭が良いとすら思っていて、それにプライドを持ってすらいる。

そして、意見を聞き入れてもらう事によってその次元の低いプライドを満たしたいだけなのである。

 

しかし、社会とはぬるい所で、角が立たぬよう本質に影響を与えない範囲で相手の意見を聞き入れ、程度の低いプライドを満たしてやらなければならないようだ。

 

そしてのせず、相手の自己満足に付き合わない人間はワンマンだと言われるらしい。

 

バカにはうんざりさせられる。

道徳的な人の傲慢さ

親に感謝しよう、皆で仲良くしよう、真面目に働き社会貢献しよう、協調性を持とう、謙虚になろう、活動的になろう・・・

 

こういった、誰が聞いても一見正しそうな道徳観を持っている人がどうも好きになれない。

 

このような綺麗事ばかり言う根が明るい人達に共通している特徴は、物事を深く観察して考えないと言う事、自分と他人の区別がついていない事であるように思える。一般化するのは危険だが少なくとも私の周りを見渡すとこれらの特徴が見られる。

 

彼らの掲げる一見正しそうなモラルは、実は彼らが自分の考えでたどり着いた道徳観ではなく、集団の中で善人を演じているうちに植え付けられた根拠の無い偏見なのである。

 

彼らはその植え付けられた偏見に疑問を持たない。他人から植え付けられたものだとすら気づいていない。そして、自分と他人の区別がつかないので、他人も同じ道徳観を持っていると思い込み、それが普遍の正義だと勝手に信じているのだ。

 

そして、彼らは、その道徳観から外れた人に、非常識というレッテルを貼り、人格批判をし、排除する。それは他者を認めない事によって生じる差別やいじめと同じ構造だ。

そして最も腹立たしいことは、自身のその醜悪な攻撃性には無自覚で、悪を糾弾することを正義だと本気で信じているのだ。

 

そもそも、誰かに深刻な損害を与えない限り、親に感謝をしなくても、働かなくても、協調性が無くても、それは本人の生き方の選択であり、他人がそれを非難する根拠はないはずである。

 

 

物を考えない彼らは無自覚に善意によって他者を差別し、傷つけるのだ。

そして、そう言う人間に限って他人からの批判に対して「そこまで人を傷つける様な酷い事言う必要ないだろ」と言う。

 

他人は傷つけても構わないが自分は傷つきたくない最も醜悪な種類の人間だ。