畑仕事とブリコラージュ


西蔵王高原で週末農業を始めて5年になる。
野菜栽培手法は年々進化していると自讃している。
採れる野菜の質・量ともに確実に前年を更新している。

例えばだ、この晩秋のメインの農作業は「玉ねぎ」800個の苗の植え付け、
黒マルチングシートの穴に10センチほどの深さに土を掘り、その底に拾い集めておいた栗のイガを埋めるのだ。
コレは毎年泣かされているモグラやネズミから玉ねぎの根を守る苦肉の策だ。
そして肥料を入れ苗を入れ土を埋めモミガラで寒さから苗を保護する。

この栗のイガの使い方、物が持つ本来の用途とは別に「寄集め新しい機能を作ること」をレヴィ・ストロース先生は「野生の思考」の中で<ブリコラージュ)(仏語)と命名した。
さらにブリコラージュする人を<ブリコルール>と呼んだのである。

てな訳でさしずめ俺とカミさんは「西蔵王高原のブリコルール・ジジババ」である。

3度目の読書「若き日の詩人たちの肖像」(堀田善衛)

20歳の頃初読した堀田の自伝的小説、単行本は学生寮で友人に貸して以来戻ってこない。
奴は学習院の仏文の教授を勤めているのだが。
集英社文庫本でその後読んでいる。
自伝的小説というか私小説のパロディとも言える想像力を刺激させる書きかた。
長さはいつも感じない、こうなるぞと思うとそうであったり、違ったり久しぶりに残りのページが減っていくのが惜しい小説だ。

暖冬なのかなぁ?

hananohideji2009-12-06

例年であれば雪におおわれている西蔵王高原、標高700メートルはある。
今日は時おり晴れ間があり青空から陽射しが暖かい。
残しておいた「青菜」の収穫に10時過ぎ自宅を出発、20分ほどでわが「ララミー農場」に着く。
周囲の林は紅葉も終わり木々の葉っぱはすっかり落葉、白い木々の林に変っている。

見上げると胡桃の木に「ツルウメモドキ」が絡みつき赤い実が青空に映える。
雲が西から東に滑るように流れていく。

「青菜」を土から上げ根っこを包丁で切り落とし車に積む、1時間ほどで収穫は終わる。
首筋が汗ばむ、身体中ポカポカ、隣の畑で白菜を収穫中のU先輩が「暖かいよネェ!」。

昼前には山を降りてくる、途中山形市内に虹がかかっていた。

週末農業の愉しみ

西蔵王高原と自宅近くにそれぞれ200坪、100坪の農地を借りて野菜作りを始めて5年になる。
4月から12月初旬までの9ヶ月間の週末はほとんど農作業に費やされる。
盛り場徘徊派の俺を知っている知人達は「まぁ直ぐ音を上げるだろう」と思っていたらしい。

採りたて野菜を東京の友人達に送ると皆喜んでくれるのだが、驚いてもいる。
「お前が畑で・・・? 香水の匂いもしない畑で?」

メディアの世界でも目まぐるしく経営環境は変化し、技術は進化し、思わぬところからライバルが現れるこのところ。

畑で土をいじり種を蒔き、雑草を採り、水をやり、一服しながら空を見上げ季節の変らぬ移ろいに感謝する。
変らない四季の変化サイクルの中で生かされている自分たち。

先日101歳で亡くなったレヴィストロースは「地球は人類が出現する前からあり、人類が消滅してからもある」と書いていたが、農業ではなく「農的くらし」を始めてこの言葉を実感できるようになった。
17歳の夏川田順造訳「悲しき熱帯」を読んだが、果たして意味も分からず読んでいたわけが今頃に分かるとは。

今シーズンも農作業は「青菜」の収穫を残すだけとなった。

ブログのタイトルがいけないのか?

トラックバックの種類がほとんどエロ系、何でだろうと配偶者に尋ねたら、「タイトルが誤解されてんじゃないの」と言う。

「男の愉しみ」というタイトルは好きな作家へミングウェイに因んでつけたのだが。
彼はその生涯を自らの手で締めくくってしまったけれど、男の愉しみを語るとき真っ先に思う出してしまう巨人である。
読書と狩猟と旅と恋愛と酒と友と家族。

この、男にとっての愉しみのすべてを全うし、時代とともにあるいは時代そのものとして生きた男から、学び取りたいことは多い。

ダイキリブラディ・マリーなどのカクテルを俺は彼の小説で初めて飲んだようにも思うのである。
男の愉しみとは、欲望とは少し違うところにあるのではと近頃思う。

世界が自分に与えてくれる分け前の限度を知り、人生を愛することを心がけ、経験を積むことで、いろいろなものが見えてくる。

人生を感覚的に遊び暮らしている人物にめぐり合うと、こちらまで嬉しくなってしまう。
遊び暮らすといっても、時にその人は仕事を悦楽的にこなし、家族に満足を与え、友人に分かちあうものを持っているという意味においてだけれども。

タイトルどうするべ?