やりたいことだけをやる

しばらく書かないでいると、中国語ブログを持っていることすら忘れてしまいましたが、中国語はもちろんコツコツ続けています。


ああ、これを書こう。書かなくちゃ。
と前に思ったきりだったことを思い出してみると、


・今年度(4月から)の一年計画
・無い時間を創り出す方法
・中国の中国語教材が安いお店
・発音と作文に拘る
・今年中に新HSKの5級か6級か両方を受けてみる
・なりきり中国語
・荷塘月色の暗記はあきらめない
・心有余而力不足


ここらへんを書くかもしれないし、各タイトルを書いただけで少し満足してしまったような。

三か月で中国語がペラペラに


いかにも怪しげなタイトルですが、実際にかなり前からブログを斜め読みしていたBENNYさんが、中国語も3か月でマスターしていく模様を記録されています。

http://www.fluentin3months.com/


多言語マニアの方には、このBENNYさんは、有名な方なのかもしれませんが、中国語の習得ぶりについてもとてもリアルで、偽りない記録のように思えます。
このブログの2.5か月目の前の2か月の動画が、今のわたしの立ち位置のような気がしないのでもないのですが、2.5か月の会話を見ると、発音や文法や語彙力という問題はおいておいて、中国語をすでに自分の言語として取り込んで使っている雰囲気が、すでにわたしは負けている気がします。



4月になったこともあり、これからはもう少し頻繁に中国語についての記録をこちらに記していこう。
と十数回目くらいではありますが、猫の餌受けに対して誓いました。
まずは、4月になったこともあり、年度計画を作ったのでした。

由紀さおりに中国語を学ぶ

わたしは以前から由紀さおりふぁんを続けたいたのですが、あ、ついでに平山みきのことも好きで、眺め方によっては、今のお二人の容姿が重なって見えることもあるのですが、それはまた別の話です。
で、ご存じのように、由紀さおりは、昨年あたりから欧米で注目されるようになり、ようやく世界が由紀さおりにおいついたね。とそれまで由紀さおり宣伝委員長の声に聴く耳をもたなかった人々の間でも、「なんか外国で由紀さおりがすごいらしい」という、「なにか感」が漂うところまでにはなりました。
そんな、「すごいらしいね」の人たちからNHKのドキュメンタリ番組で、昨年のコンサートの模様や多くの専門家たちの由紀さおり分析が放送されるという情報をもらい、白菜鍋を食べつつガン見をしました。
世の中には、いろいろな専門家がいるもので、音声分析の専門の方が彼女の母音の波長について説明をしたり、音声心理学の方が、心理的要素について解説をしていました。
また、同じステージにあがる姉の安田祥子さんが、妹である由紀さおりの、日本語の傑出した表現力についての説明を聞かされて、また彼女のJAZZホールでの歌を聴くと、たしかに一語一語が特別な響きを持っているような気がします。
アメリカ人のプロデューサは、「今までも多くの日本人がアメリカで成功しようと、アメリカを見て、アメリカ人に受け要られようとした音楽を作ってきたけど、どれも成功しなかった。本当にアメリカ人を振り向かせるには、アメリカ人に合わせる必要などなく、アメリカ人の知らない日本語の美しさがあればよかったのだ。」
というような説明では、そうそう。そうだったんだよね。と膝を何度も打ちながら、今までは、中国の人にはこんな文章が受けるのでは?とか、中国語的物語ってこういう感じだよねえ。というささやかでたぶん見当違いの媚を売っていたところを反省しつつ、またもや作文を書いてみてもらいました。


中国風構造から日本人本来の。。というか、今の日本にも無くなってしまったかもしれないけど、わたしにとっての純日本的世界というと安易に浮かぶのが小津安二郎的家庭。
というより、もはや山田太一かしらん。「咖啡」としか言わないような人たちだけの話を書いてみました。
また例によって、中国語テキストのある課に出てきた単語や語法ばかりを使って書いたところも同じです。
“带上了天长地久的光环”という一説はまさしくテキストに出てきたビタミンを摂取することの効用についての表現だったのですが、“天长地久”だけを使うのではなくて、その周り毎引用させてもらう(パクるとも言う)のもポイントです。
ただ、自分としては毎回、結構無理に語法や成語をあてはめて使っているのですが、書いている本人が思いもしない「ぴったり感」をもたらすこともあるようです。


由紀さおりの番組で、本人が「『小さい秋みつけた』の歌では、小さい秋をみつけたで終わってはいけないのよ」と言った言葉もとても印象的でした。小さい秋を見つけただけでなくて、では、彼女はどう表現をしているのかも説明をしていた気がするのですが、そこは白菜鍋の底に沈んだエノキを取るのに夢中で聞き逃してしまいました。


何か言語表現の本質について説明されているような、あるいはそこで番組が終わっていたような気もします。


≪天长地久的咖啡≫


我在汉语课本里读过好几篇的微型小说。
看上去课本里的中国小说有教训的特色。
我所读的那些小说,别说学习汉语的外国人,即使中国人来说那样的故事也是令人感到厌烦
因此我发觉,只要自己用中文语法写微型小说,就可以省得觉得窝憋。
对我来说,与其读道紱的恋爱小说,宁可自己写无内容的三角恋爱小说。
显然我写的内容偏偏是无意义。再说你难免觉得没趣。

他们三个人(两个人和它)现在谁也不认识谁于是后果最终谁也不认识谁。
不过只要你愿意他们就认识的。
然而现在要写的是别的故事。


(故事)是这样的:
有一家店的正门上悬挂着一个巨大的招牌,上面写着《咖啡》。
既没有店名,又没有吸引人的词句
只是白板鄢字写着《咖啡》二字。
又加上招牌稍微向上倾斜,简直像是面向天空亮出的一封挑战书。
为何特意安了那样的招牌,我不太明白。
对来来往往的路人来说,招牌的位置太高,而且连字也太大了。
我发现那个招牌的原因,也不过是那时偶然从车窗无意识地仰视了一下天空后罢了真可算既幸运又偶然发现的结果罢了
那次我们在远行后的归途中,已累得筋疲力尽。
掌握方向盘的朋友每隔20秒打一次哈欠,他的女朋友则在旁边睡得香甜。
烟灰缸里装满了烟头。从汽车内的立体声装置的喇叭里传出不知是谁的、有关2月和5月气温差的歌。
我读道:“咖啡。”
“咖啡?”朋友问。
“有写着咖啡的招牌”。
“那样的东西,到处都有”
“但是那张招牌有约6张榻榻米那么大小的招牌上,上面只写着咖啡两个字,还朝向冲着天空呢。”我抗议了。
“那是为了避开轰炸机。”他打了个哈欠后说,“像红十字的记号那样的东西啦。谁也不会轰炸咖啡店。不是吗(→你说呢)?”
“那倒是。” 我说。
在北方国道尽头的一个小的古城里,有一家挂着很大招牌的咖啡店,今天人们依旧在那里喝着咖啡。
在那里,有着咖啡般的和平,还有温暖美味的咖啡。


“咖啡。”
在天空中,年轻的轰炸手念着招牌上的文字。
“咖啡?” 驾驶员说。
“可以看见写着‘咖啡’的招牌”
要是在满是积雪的二月的下午的话,那或许能够带上天长地久的光环。

今週のブログお題:中国語が上達したなあ!と感じたとき

尊敬する小Qさんが提案して、今日本中の中国語学習ブログが書いているという、こちらのお題にわたしも乗ってみます。



・ちょっと前
中国語で何を聞かれても、わからなくてアタリマエ〜と堂々としていられる。
・それから今
中国語で何を聞かれても、満足に答えられないことに、どぎまぎしてしまう。


まあ、どっちもダメなことには変わりがないのですが、以前は人と人の関係を超越している感じです。
今はようやく人と人の正常な関係に近づいたというレベルでしょうか。


もうひとつ、今日リアルに感じたのは、去年までは、右の瞼がびくびくすると、あれ、このびくびくってば、中国でどういう意味だったのかしらん。
と人差し指を顎にあてて可愛く考えていたのですが、今は「また右の瞼が震えているか、けっ、おいらの人生酷いことばかりだ」と思えることでしょうか。
かと言ってすらすら「左眼跳财,右眼跳灾」と言えるわけではありませぬ。


また、以前なんちゃって中国語自由会話をやっていて思ったのは、例文を作れと言われると、やはり身近な自分に関係のある話を例文で作るのですね。
たとえば「高校生の頃は学校を出た途端に必ず女性達に囲まれた」とか、「家の猫は自分で蛇口をひねって出す水以外は決して置いてある水は飲みません」とかとか、複文の例文を必死に结结巴巴と話すと、この中国語が正しいかどうかよりも、この例文の内容について突っ込まれるのですね。
で、話はどんどんそれていき、それはどんな猫なのか?とか、言われると、待ってましたと、猫動画を送ったり、適当な猫エピソードを話したりしているうちに、もうわたしの性格から「何も考えないで作った中国語例文の話を進めるしかない」みたいな状態になります。
いろいろな老師とそんな自由会話をやっていると、もう以前の自分のキャラがわからなくなりますが、そもそもが適当で自分を持っていない人なので、まあ適当に作り話に作り話を進ませていきます。


と、こういう自分の性格と言うか行動を中国語で表現しているかもしれないテキストに最近いくつか、出会いました。
そのひとつは、自分の誕生日ケーキを同部屋の友人に食べられてしまい、その友人は友人で「わたしの誕生日にきっとわたしのことを好きな男がおいていったに違いない」とか真剣に誤解しているのですね。
そこで、彼女はそれは自分のケーキだと言わずに、あなたにケーキを置いていった男を見たよと、彼女の美しい誤解に話を合わせてやるという話でした。
また、もうひとつのテキストでは、初めてのデートでコーヒーに塩を注文してしまった男が、「実はわたしの故郷の海の味が恋しくて、わたしはいつも塩を入れている」という話が彼女が気にいって、最初は相手にされないというくらいの差を感じていた二人が、結婚をするのです。
で、それから二人幸せにくらした数十年後に彼は遺言状で、本当はコーヒーに塩を入れたのは、緊張して間違えてしまったから。嘘を言ってしまったが、それを嘘だと言うと彼女から嫌われると思って嘘だと言えなかった。許してほしい。と書いて、彼女を感動して泣かすわけ話でした。
信的内容令大吃一惊,她多想流着泪告诉她;“她是世界上最幸福的人,因为有人为了她,能够用一辈子去实践一个谎言。”


これを「将错就错」というらしいですが、そうこれこれよ。しょうもない嘘を言って、きれいな話にしてしまうという力技。。。
そんな生き方こそ、マイライフアズアライとして、この「将错就错」をわたしに座右の銘としていつも、社員証と一緒に首にぶら下げておくことにします。


今は中国の中級テキストを独学で使っているのですが、何度も書いている「博雅汉语中级冲刺篇」が半端なく難しいです。そこに書かれている文章は辞書をひいて単語の意味がわかっても、一文が長いと、文章の構造が掴めなくなってしまいます。さらに内容がアルカリ性と酸性がどうとか、動物は殺されるときに毒素を発するので動物を食べることは体に悪いのだとか(物凄い噛み砕いた説明)日本語でも読み難いような文章が出てきます。一方で、そんな文の構造を心配しているより、未だにこの簡単な漢字の四声に自信が無いと、四声を確認するために辞書をひきます。せっかく辞書をひくので、できるだけ例文を読んだり、また例文のわからない単語を調べたりと、PCの辞書を検索する時間が、相変わらず長いです。
使っている辞書は、おなじみのChineseWriterに入っている辞書ですが、この統合ソフト?がバージョンアップするようです


しかし、今使っているバージョンと大きな違いがあまり感じられず。。中中辞典が入ってその辞典の例文検索ができるという機能が、購入すべき物なのかちょっとわからないので、しばらくは今のChineseWriter9を使いつづけます。


また社内で、中国に半年行っていたという方の中国語を聞かせてもらいました。「あんた、すごい訛っているよ」とは言えませんでしたが、見事に「shi」を「すぅ」と発音するのですが、わたしの耳には、完璧な中国人としか思えない話し方をされていました。
やはり上海で勉強をしていたらしいのですが、個々の音は標準語とはかけ離れていても、決してマシンガンのように早く話す訳でもないのですが、「俺は中国人と同じ言葉を使っているぜ」という強烈なオーラを感じました。
もしかしたら、南方訛のせいで、わたしの耳にはより本格的臭さを感じてしまったのかもしれません。ああ、こんな風にわたし中国語を自分のもにしたいわあと思って、いろいろ聞いたのですが、想像を絶するガリベン式というか、もろ加藤嘉一さん方式でした。


今も心の中心は発音レッスンです。
未だに朱自清の「匆匆」を続けているのですが、「匆匆」は日本で二番目くらいに音読しているのでは?(一番は同学のもといさんでしょうか)というくらい繰り返しているのですが、「时候」「没有」の音が違うと何度も言われては、一週間練習の成果を見せてやろうとレッスンに臨むのですが、事も無げに同じ間違いを指摘されます。未だに「我」も油断をすると間違っていると言われます。しかし、次第に間違いを指摘されて、修正できる回数が少なくなったのが僅かな救いでしょうか。
あと、老師がたまに、そこは「きれい」と言っていただけるのですが、わたしの今年一番の野望は老師に「そこもあそこも、みんなきれいよ」と言われることなのですが、(これは、やはりあまりに高いハードルなので、「あなたの没有は日本人の羊のメェイよ」と言われなくするあたりで、どうにか。。。

もっとも何か根本的に老師の発音との違いを感じます。それが何なのかは、スペースがないのでまた次回に。

お試し中国語オンラインレッスン

阿香さんのブログ「阿香の廣東話日記」をすっかり真似して、わたしも、結構な数のオンラインレッスンを受けてみました。
阿香さんの記事には、四つの教室についてのレッスンをとても細やかに報告されていますので、本当に入会を考えされている方はぜひこちらの記事を参考にされてはいかがでしょうか。
また、褒めてばっかりですが、阿香さんのサイトでは、よく中国語テキストや一般的な外国語習得に関する本を紹介してくれて嬉しいです。


オンラインレッスンについては、わたしは、全く個人的な趣味でいくつものレッスンを受けてみました。
すでに、去年はオンラインレッスンをかなり受けていたので、わかっていたのですが、老師の殆どが女子大生のアルバイトであることと、専門の外国人への中国語教育を受けていないということを、ある意味、中国語を教わることの利点と感じて、そこをより長所と感じられるような老師とレッスン内容を探すような気持ちで受けました。
基本的な印象は、阿香さんが書かれていることと同じなのですが、体験レッスンで選ぶのは、そこで体験したオンライン学校を選ぶのではなく、より自分に合った老師と、自分に適した授業を作れるかにかかっているかと思います。
とはいえ、それは決して簡単なことではないのですが、実は老師の問題ではなく、自分自身のレッスンの工夫とレッスン外の準備などの刻苦ではないでしょうか。


具体的に書くと
・定額制のところが多いので、できるだけ毎日のレッスンを取る。レッスンをたくさんすればするほど得!レッスンを一日でもしないと損感覚にする。
・テキストを使ったレッスンだと進行が楽になるので、敢えて自由会話をお願いする。なぜかテキストを使ったレッスンの方が高くて、自由会話が安いというところが多いです。また、なぜか入門テキストが安くて中級テキストを使うと高いというのが解せません。
・自由会話として、油断をすると、ゆるい日本語まじりのテレビや芸能人ネタで終わってしまいますので、自分でテーマを決めて、自分で準備をします。そんな綿密に準備すればするほど話題はあらぬ報告にそれてしまいますが、それたりそれなかったりもしつつ、ある程度レッスンとしての満足度を得られる、真剣でいてそれでいて硬くない、そんなあなた好みの老師を選べられれば最高ですね。


で、わたしにとっての理想的なオンライン自由会話レッスン
・緊迫感のあるレッスンをすることだと思います。
敢えて意見の異なる話題について、これは「レッスンである」という相互認識のもとに、できるだけ本音でいいあえる。時には本音を越えた相手を挑発するような会話をする。とはいえ、「これはレッスンである」という認識が強すぎると、何を言っても「ごっこ」の枠を出ないのですが、それでも人間そんなに器用ではないので、どこかで素の自分を出さざるを得なくなります。
次第にエスカレートして、災害に会ってエレベータに二日間閉じ込められた男女とか、宇宙人に侵略されて地球最後の日に長城で太陽を眺める男女という設定も過去にやってみたことがあるのですが、ここまで緊迫感がある場面を設定してしまうと、もはや何をしているのかわからなくなるので、さじ加減も大切です。


また、今回のオンラインお試しレッスンでは、ある老師が普段の基本的な行動を流暢な日本語で言われてから、「ハイ、中国語で言ってみて!」と言われると、実に身の回りの基本的な物の中国語を知らないし、また基本的な動作の動詞も出てきませんでした。
また、初対面だと(この人が何を言うのか想像できないから)やはり聞き取れない用語も多かったです。チャット画面で打ってもらうと「ああ、ああ」と画面を指さしてしまう言葉ばかりだったような気もしたのですが、お試しレッスンのあとに、メールで「もっと日常の語彙量を増やしましょう」というメッセージまでいただいてしまいました。
お試しレッスンで、そんな自分の無知に箔をつけさせられてしまったので、やはり目に映るすべての物や自分の毎日の行動くらい中国語に出来なくてどうするの?と思い、例の朝から夜シリーズが早くもブックオフに出ていたので、またもや買ってしまいました。


起きてから寝るまで中国語表現700



今回のお試しレッスンで中国の老師たちに聞いたことに、「日本語の学習方法」もありました。みんな優秀な現役大学生だったのですが、意外なことにのんびりとした方法で、期待したような音読数十回とか小説丸暗記というような方はいませんでした。
殆どの方が、そもそも日本の芸能が好きなので、歌やテレビで楽しみながらやった方がつづけられるンダよというのと、日本の友達と沢山話すこと。とにかく単語を覚えて、文法的なことは、あとから学んで、知識を繋げた方がよいとか、中国語教育歴数十年という方にも、中国語の小説を読むなら、文法の分析よりもまず中国人の友達を作ってたくさん話した方がいいのだとも言われました。


と、今回もあまりにも参考にならないことをうだうだ書きましたが、わたし自身もある時期に集中した自由会話をやってみたのは、効果があったような気がします。
ただ、テキストを使って一人で学習をするより数倍楽しいけど、自ら自分に負荷をかけられるという時間にも精神的にも余裕がある時でないと難しいです。
また、4月になっておちついたら、連休の前後あたりから毎日オンライン自由会話を再開したいものです。


今回もスペースがあるので、中国語作文を載せます。
これも、ネイティブの老師に見てもらったのですが、この作文についてだけで2時間くらいの会話になってしまいました。
とはいえ、文法の説明とか作文の音読というよりも、この作文に関する感想やまたもや何故か中国人論や日本人論や、そのネイティブの方が小学生の子供がいるので、日本の国語の授業についての会話でした。
作文自体にもかなり赤を入れてもらったのですが、そもそも一人で進めている博雅汉语の作文の練習問題が、「他人の意見をあげて、それに例を挙げて反論をする方法で文章を書け」という課題だったので、ところどころ論文調の文章とくだけた文体が混在しているという最もな指摘を受けました。
あと、かなり意識して補語を使っているつもりなのですが、もっともっと補語を使うというか、補語を覚えないといけないと言われました。
たしかに、中国語の補語は自分で発明してはいけなくて、まず補語を覚えた通りに何度も自分の言葉で使ってみるしか定着しようがない気がします。


猫钟
有个模特儿住在我家。
日本有很受欢迎的杂志——《anan》。
有时候很受女性读者欢迎的福山雅治被选入了封面了。
现在住在我家的模特儿也被登载在那月号杂志的正中。
这是那时候的照片。


 



由于有缘,他来我家已经两年了。
现在他完全失去了昔日的风貌。
这简直不是人类所说的老头子吗?



不少人认为猫随心所欲地生活,猫不能过规律的生活。
我不同意这种观点。
虽然我的猫也每天过着懒懒散散的生活。
的确不可能知道,他什么时候做什么,这样的生活规定。
然而整天观察他生活的话,就可以发觉他有他的一定的生活规律。
猫之所以过着无规律的节奏,是因为猫钟和我们戴着的手表有点儿不一样。
猫午睡一会儿就起来喝水,然后移动到别的地方就又开始午睡,然后又吃一点儿就午睡•••。
如果他看到我,为了跟我玩儿就急冲冲地跑了过来。
但是他不知不觉地玩儿腻了,于是就跑走了。
我爱读的杂志是《猫的心情(ねこのきもち)》。这本杂志在某月出了猫钟的专集。
据那篇新闻说猫在体内有猫钟。
猫每天晒太阳。
他根据那时感觉的太阳来判断季节的转变,选择适合于他的掉毛时期等等。
从那以后每次我看到他晒太阳,我就想到太阳能电池的电板。


有人认为狗可以跟人会话,猫却不能跟人会话。
这样的想法也是完全错误的。
我父亲喜欢养狗,养的狗的确是会理解父亲的话。
父亲与他养的狗简直就像父子。
我离开父母家的时候,父亲强烈劝我养一条聪明的狗。
不过我怎么也不想养狗?
父亲老了,住进养老院,又建议我应该养狗,给了我一大笔钱。
我勉强收下了钱,到宠物商店有没有聪明的狗。
然而我偶然发现的猫对我特别亲近,于是我把他领了回来。
我对父亲说,在宠物商店里没有聪明的狗,然后我把钱还给父亲。
我因父亲扫兴得要命而告诉他说我领回了一只猫来。
父亲说,猫都不聪明,不能说话。
我撒谎说:“这只猫会跟我说话”
父亲听了这句话,就面带笑容。
因此我每次去医院看望父亲,我告诉他我和猫的会话。
我确信原来父亲不相信我的话,但是我至少不担心跟父亲说话了。
几年以后,父亲先去世了,然后父亲养的狗死了,然后跟我说话的猫也死了。
通过撒谎而联系起来的他们相继去世了,我把他们和有关他们的撒谎言一块儿埋在地下。
几年后,开头我说的猫到我家来了。
我总是不明白,谁、什么时候、以什么样的顺序死的。。。
肯定是我体内的钟不准了。
最近我经常每个周末想起过去的事来,我躺着午睡,猫就过来挨着我。
我醒过来时,猫睡着得简直像我一样的睡觉姿势。
这可真是我和猫钟的针完全重叠的瞬间。

先生、変調がわかりません

最近、大学生と大学を卒業したばかりの方たちの勉強会のようなところへ行ってきました。
そこでひとつ確実にわかったことは、わたしは人並み外れて記憶力が悪いことでしょうか。
ネイティブの方が簡単な言葉を話してくれるので、その話している時は聞き取れていると思って聞き流しているのですが、一文が長いと、すでに最初の方に話されていたことを忘れているし、ところどころ聞き取れない単語があると、そこから後ろの言葉が頭に入ってくれません。
一対一の短い会話なら出来ると思っていたのですが、はじめて会う方だと、人柄がつかめないと、いつものわたしの高度な勘で発動している「推測適当中国語作戦」が通用しません。
また、初対面の中に入っての会話は、わからないところを日本語を入れて平気で話してしまうという「なんちゃって適当会話戦法」も恥ずかしくてできません。
そもそも語句の知識ではなくて、その場である文章を教わって、みんなでその同じ文章を言うことになっても、わたしだけつっかえたり、途中で抜けたりという酷いさまでした。
考えるに、普通の人の倍か、3倍くらいの時間をかけて、中国語学習歴2年になった気がします。


そんなわたしが、今更わかった(かもしれない)いくつかのことたちを今回は偉そうに紹介しましょう。


・3声の変調について
中国語を知った殆ど最初の日から最大の疑問は、どうして3声が続くと前の3声だけ2声に変調するのか。3声は、ピンインの上にはあの「V」の字の声調を書くのに今はたいていのテキストが
「実際の3声は半3声なのでずっと低い音。1声の逆」
みたいな説明になっています。そこをなんでなんで?と思い続けて2年が経ちました。
また、よくレッスンで連続した3声を出しては「そこの3声は変調して2声にして」と指摘を受ける度に、何で変調などというややこしい規則があるのだろうと思っていました。
テキストなどには、連続して低い音を出すのが難しいので、2声にするのが自然であるとか書かれていますが、「ええ?3声3声出せるよ!全然ふつうに出すよ。自然って何よ!」と大自然に向かって毒づいたりもしていました。
先週老師に、「今更ですが・・・」と脸涨得通红で訊ねたところ、「だって3声3声を続けて出せないでしょ」と言われてしまいました。「えええ〜」と、わたしが日本語もわたしより上手い気がする老師にじゃあ3声3声の見本をみせようと、見事な3声3声(当社比)を披露したところ、「ああ、ゆっくり言うと、そんな感じなのね」みたいな反応でした。
要は中国人らしい3声3声をすると、自然に2声になる。誰も変調なんてことを意識していないと言われてしまいました。
その時は、やはり「自然に変調する」というのが自然に出来ないわたしの中国語はまだまだなのね。
と思ったのですが、意外としつこいわたしは、会社の近くの中華料理屋の若い女将に、中国語の変調のことを聞いたところ、「変調なんてないよ。3声はいつも3声にきまってるだろ。半3声なんてねえよ」と丁寧に言われました。おお、中国人でも変調をしない人がいるのだな。と嬉しくなって、いくつかの文章を発音してもらうと、「いやそれって、完璧に変調しているっテ」と思うものの、「なあ、3声はいつも3声だろ」と言われてしまいました。この人には同じ質問を何度もしない方がよいと本能で察し、やはり3声が変調するのは意識せずに「そうなっている」が正しいのかあとなんとなく考えました。
しかし結構しつこいわたしは、そこでまた、たまあにskypeで話す中国の方に、変調の事を聞いてみました。
普通の中国人は変調ということを意識していない。普通の中国人はあなたが話す中国語より10倍は早く話すので、早く低い音を続けるのが苦しくて楽しようとすると、3声の後ろ半分の上がる音だけで代用して、また半3声も違う別の音に早く行くので後ろ半分を略しているので下がったままで次の音に行くのだ。
という説明をしてもらって、「嗯」と中国語風に頷いて、そこでは納得してしまったのですが。
が、やはりとてもしつこいわたしは、「早く発音するから自然と前や後ろ半分になる」というのが考えれば考えるほど全くわからなない。。。とこれも、それがわからない分、わたしの中国語水準がかなり低いだけなのかもしれません。


最初に「いくつかのことを」と書いたものの、スペースが無いので、また次回に。
他にもいろいろ、気づいたことがあったのですが、中国の新聞をもらったりもしたのですが、読めない・・


まあ、そういった細末なことはとりあえず無かったことにして、またまたネットで見た中国語のテキストをポチットしてしまいました。


速読速聴・中国語 2初級編

速読速聴・中国語 2初級編


ひとつは、まさしく英語の速読速聴シリーズを出したZ会なのだから、

聴読中国語 (東進ブックス)

聴読中国語 (東進ブックス)


よりも、もっと速読速聴のはず?と思ったのですが、「速読速聴・中国語2」の方はかなり微妙な内容でした。ただボリュームの少なさと本文レイアウトの今イチさにそう感じてしまったのかもしれません。


さらに、ポチったのがこれです。


起きてから寝るまで中国語フレーズ口慣らし練習帳

起きてから寝るまで中国語フレーズ口慣らし練習帳


中国語教材コレクタなので「起きてから寝るまで」シリーズは数冊持っているのですが、どれも挫折しています!というか殆どいつかやるかも?ということで開けてすらいないのですが、今度新しく出たのは、表紙が美しげだということだけで、無駄使いになるやもという不安もありつつ、中を開いて驚きました。
唯一5,6ページ(二日)だけ真剣にやった、これと中身が同じでした。


起きてから寝るまで 中国語表現ドリル

起きてから寝るまで 中国語表現ドリル


本を見てもAMAZONを見ても、そんなことは書いてありません・・・。いや、間違い。よく見ると一番下に、「※本書は2006年に刊行された『起きてから寝るまで中国語表現ドリル』の内容を改訂したものです。」と書いてありました。
えええ、タイトルが変われば気づかないよ。という苦情は何処も受付けてくれそうもありません。悔しい。しかしこういう同じ本を二冊買うと言うことは何度もあります。
小説でも、前に買って読まないでいるのを買ってしまうのなら、まだいい方で、買っただけでなく読んだことすら忘れて読み始めてから、前に読んだことが気づくこともあります。いつのまに、アマゾンでは、「あんたはこれを前に買ったことがあるでしょ」と教えてくれるのは、きっと、わたしのような記憶力に難がある人がアマゾンに我儘な文句を言ったのかもしれませんね。
そんなアラームが、毎回のように出る度にそのどこのどなたか知らない方の我儘ぶりにわたしは胸中充满了感谢之情です。

いつかは待っているだけではいつまでもやってこない

年末年始は、あまり中国語に時間を割けませんでした。また3月くらいまでは中国語にはさらに限られた時間だけを使うしかないのですが、それでもというか、それでこそ、意識して中国語習得のための工夫をしなければ・・・と真摯に考えています。
もう、しばらくはタイトルを変えて「やっぱ中国語は勉強しなきゃだめだワン」みたいな心持ちです。


仮に10年後の中国語習熟度を想定すると、読んだり聴き取る能力については、やはり「まだまだ」感が残るでしょうし、それは永遠に届かないところに向かう行為でもあるように感じますが、それはそれで少しでも精度を高めていこうと思うのです。でも発音については、10年といわず、何とか5年くらいで、もう少し地道感を高めたいものです。


そう思うのは、ただでさえ、膨大にある(ような気がする)中国語語彙が日々増加し続けているところを見るにつけ、こちらは次第に穴が大きくなっていく自分の脳味噌でそれに対応させるには、やはり永遠に追いつけないアキレウスのような感覚にもなります。
何もかも覚えるそばから漏れていくような、わたしの劣化が激しい脳味噌に新しい語彙を定着させるには、さらに漏れていく量以上の中国語を上から注いでいくしかないのかもしれません。
ただ。。と思うのです。ただ、発音については、有限なハズなのだから、この有限の組み合わせくらいは、数年重ねていきさえすれば、いつかなんとかなるのだと思っていました。
さらに昨年から、丁寧に老師に発音を見ていただいているので、このレッスンをなんとか継続していけられれば、なんとかなるのではと思ったのですが。。
やはり、発音についても、そう簡単なものではありませんでした。
よく四声の難しさについては、単音の四声であれば、多くの人ができるのに、それが二音の組み合わせになったり、文章の中の四声を正確に表現することの難しさは説明されています。
それと同じように、発音についても、いや発音こそ組み合わせの難しさを感じます。
当然単音自体の問題もあるのですが、ある音は単音であったり、他の音と一緒に出すときは問題がなくても、ある音の繋がりや、また声調の要素が入って、とても発音し辛い音があります。となると、それこそ有限な発音についても、限りなく無限に近い結びつきとなって・・・・
いやいや、それにつけても、発音の問題は限定し易いので、いつか限りなく満点に近い発音が出来るのでは。。と思っているのですが、ど、どうですかあ?


発音をとても丁寧に見ていただくと、間違い箇所をできるだけその場で修正して、また次のレッスンでは、違う箇所や、同じ間違いがあったとしても、それを繰り返して行けば、次第に修正箇所が少なくなるはず!という単純に考えていたのですが、そういう単純な問題でもないのかもしれません。
もう数か月「匆匆」を読んでいるのですが、未だに「时候」の特にhouについて、指摘されます。多くは「ou」の口の動かし方についてですが、やはり「时候」としての諸々の整わせ方を指摘されます。
「我」についても、出来るようになったと思うのですが、今でも油断をすると、そこの「我」は、「e」が感じられないと言われてしまいます。
ある時は、およそ一時間「头涔涔而泪潸潸」を続けていたのですが、やっと出来るようになったと思ったら、やはり忘れたころに、いろいろな問題を指摘されます。これも「an」と「ang」の問題もあるのですが、それだけの箇所ではないため、以前は朗読がこの箇所に来るたびに、いったん立ち止まって深呼吸をしてから、踏み台に向かうような心境でした。
「r」の発音も何度か修正されましたが、何故か「一日」になると、特に「ri」の音が上手く出せなくなりました。
直近では、「旋转」の発音も何度も修正されました。この単語も四声と、xuanとzhuanの「an」の違いや、「n」できれいに止まっていなかったりですが、一番は、zhがローマ字の「j」のように聞こえるという衝撃的な指摘でした。今まで自分のzhのそり舌音については問題がないと思っていたのですが、それは、ローマ字のJと言われると、「そ、そうなのかも?」と、老師がするわたしの真似をしたそり舌と正しいそり舌の区別も出来ない体たらくでした。さらに洗手の発音では、それぞれのxとshの子音が、影響されて正しく出来なかったり。たりたりで、まだまだ上手な発音のかなり手前の、正しい発音という壁すら遠く感じてしまいます。
ただ、結局は中国語発音に対しても、不器用な自分の口の動きや脳味噌へ、大大量の正しい音読練習をしていくしかないのだと、袖を捲って思っている次第です。


と、実は明日の発音レッスンのために、自らレッスンのハードルをあげてみのたですが。。どうでしたでしょうか老師 <(`^´)> 。