アラン「芸術論20講」

正直に言うと、オススメはしづらい。

平明でありながら、とてもわかりづらい文章。

アリストテレスとかに耐えられた人はいけるのではないか。

長谷川宏の解説はとてもわかりやすいので、そこだけ立ち読みでもいけそう。

とはいえ、勉強になる点は多い。

芸術の本質を精神による構成ではなく、制作過程の身体性にみるところは芸術に関わる人間にはとても刺さると思う。

アチェべ「崩壊する絆」

学部生時代に読んだ。

すべての人にオススメできる優れた作品。

普遍宗教としてのキリスト教が民族信仰をいかにして破壊していくのかが、描かれている。

一番のポイントは、最初に着手するのがその民族のなかで虐げられている人々からだということ。

加えて、民族信仰のあり方のウソ(迷信性)を理性でもって暴いていくさまはとても恐ろしくもある。

ゴブリンスレイヤー

1話は劣化版喰霊零みたいで、最悪。

敵の造形もゴブリンしかないため、みてて面白くない。

エログロの衝撃を評価する向きがあるらしいが、普通に考えて、新版ベルセルクで見たばっかでは?敵もゴブリンだし。

ただ、2話以降は一気にみてしまうぐらい面白い。特に、ゴブリンの存在の位置づけが絶妙。

ゴブリンが社会的共通認識において弱きものとされていることで起きてしまった登場人物たちの悲劇の物語がベース。

男性にとっては、油断の象徴。女性にとっては、公的にできないような私的なトラウマ。

異世界系あるいはMMO的ゲーム次元においての強さとは、そのルール=社会的共通認識に則ったものである。用意されたゲームの中で上を目指すこと。そこでの評価基準は、成功-失敗の軸しかない。

しかし、ゴブリンスレイヤーは、そうしたゲーム自体を無視し、ひたすらゴブリンを殺し続けることで、失敗してしまうかもという恐怖としてその世界に取り憑く亡霊たちを祓い続けるのである。

一方、ゴブリンに執着してしまうことで病的になっていくゴブリンスレイヤー自身も、仲間たちとの交流を通じ、そのトラウマを克服していくのであろう。

共通のものがないということで連帯していく主人公のパーティーを見ているだけで楽しい作品である。

というか、逆スターウォーズみたいになっていて、主人公たち以外ほぼ人間なんだよなぁ。

 

ゴブリンスレイヤーは、ゴブリンに生成することで、徹底的なゴブリンの殺害を可能にする。その営みは、ゴブリンへと生成した自身の破壊によって達成されるはずである。

 

未来のミライがめちゃめちゃ面白くなかった

・NHKでやっていた芸能人の祖先の美化されたエピソードをみせて、お涙ちょうだいするやつをアニメでやった感じ。ただし、アニメは三次元的身体を持たない記号的身体なので、一般化されやすいため、より不快。

・お前は親から生まれてきた存在であり、つまりは血縁と共同体の歴史とを引き受けるべき存在だ、というところまではまあよく見かけるやつかな、と思っていたが、ゆえにこの現在を誇りに思え、みたいな流れはさすがに辛かった。どんなに(こんなに)クソな世界でも批判することは許さない、というか「これでよくね」みたいなのが単純に受け容れられなかった。

 もし仮に、「好きくない!」といって甘え?ているくうちゃんをリベラルとみなし、それが他者を同じ歴史共同体に属しているという理由で取り入れ、この現状に満足するという保守的なあり方を成熟の物語として描いたのだとしたら、本当にキビシイ。

細田守作品としてはもちろんぶっちぎりで面白くないし、見る価値もないとフツウに思います。

映像のアイディアも全てどこかで見たことがあるやつだったので、そっちの楽しさもゼロ。

・唯一、救いを見いだせるとしたら、「なぜあれほど歪な構造の家にしたのか」という所だと思う。完全に観客の方を向いた舞台装置のような設計で、しかもバリアフリー要素なども皆無。不要な段差だらけで、子供を育てるには全くの不向き。ここに何かこの作品全体をひっくり返してしまうような、すべての虚構性を強調するようなものがある。

というしかない気がする…

ととの。総括

 カミサマ=ヒロインのイデアというのは、面白い。ヒロイン側の存在理由をなるべく多くのイベントCGを回収すること(できるだけ多くの男性キャラと性交すること)というものにし、その規範とそこから逸脱した感情との葛藤をうまく描いている。アオイのバグとしてプレイヤーとの恋愛感情を描くことで、エロゲプレイヤーのヒロインに対する暴力が明らかにされている。しかし、これは一周目からわかっていたことであり、むしろそこに物語上の正当な理由を与えて、「やさしいぼく」を癒す「レイプファンタジー」ではないか、という批判はありうる。

 ただ、ととの。の場合、システム上の工夫でその状態を上手く避けている。具体的にあげると、攻略ヒロイン以外のセーブデータが消える、美雪がアップデートした世界によるプレイヤー側へのコスト負荷、クリア後アンインストールしなければ自分が選択していない方のヒロインのエンディングを見ることができない、などである。これらは、カミサマというデータベースが作ったヒロインという複製可能な存在を「攻略」におえる既読スキップ、選択肢セーブといった反復を想定とした機能でもって消費するプレイヤーに、先に紹介したシステムで、アウラを与えることに成功している。

 ゲームのプレイヤーを巻き込むメタ・フィクションとしての物語は、オタク的なものの閉じたループ性の批判に向くこと多いが、ととの。は、プレイヤーが「アオイを忘却しない」という独特の倫理を説くことで、ひとつの物語としてうまくまとめられている。これは、今後のプレイヤーが行う他作品のヒロインへの暴力の肯定となる。ヒロインの存在論的問題として性交が必要とされてしまえば、もはやプレイヤーはその欲望を満たすだけで、究極的に「やさしいぼく」でありうる。しかし、ととの。の場合の「アオイを忘れない」とは、「美雪への暴力を忘れるな」ということでもある。正直に言って、プレイヤーがその後他の作品をプレイするときに自身の選択肢に責任を持つことは極めて稀だとは思う。ただ、ととの。という作品においては、複製可能な平面存在が機械的な消費体験をするエロゲ―という形式の中で、上手く一回性のアウラを体現できていた。

 また、この作品はエロの部分でもかなり優秀である。それは、アオイがメタ存在として性技についておもむろに語りだすシーンや、美雪が画面外のプレイヤーとの性交をその語りでもってシュミレートしながら、自慰行為に耽るところにある。スラヴォイ・ジジェクの「倒錯的映画ガイド」で紹介されていた「ペルソナ」という映画の解説を思い出せばよい。

ととの。雑感 一周目

・向日アオイ→プレイヤーの性的欲望を満たすための存在だという自覚。ゲームヒロインがメタ的に自身の役割を把握するとともに、プレイヤーの記憶に残る=セーブデータを多く残す(個別ルートに入る)ことを望む。アオイは、√分岐、√解放条件をメタ認知し、プレイヤーと同等の位置で語る。

・アオイが感情を取り戻すと、物語内存在(ノリ)として生きるようになる。しかし、ゲーム構造を語るメタ存在(シラケ)になると、感情を失う。これは、物語に没入し、その内容に感動的に接する(ノる)とともに、√分岐を考え、効率よくCGを回収しようとする(シラケる)プレイヤーのあり方そのものを写している。

・また、「助けてあげたい!」と思わせるような設定をアオイに与えることにより、序盤の物語のプレイヤーの感動が用意されるわけで、他の作品を含め、多くの美少女キャラクターが背負わされているものでもある。こうしたテンプレ美少女が自分の性的魅力を語り、それを目的に自分というモノは、作られたと言明することで、物語によって「無害なぼく」と一致していたプレイヤーが抱える暴力性を暴くことにも成功している。これは、宇野常寛がいう「レイプファンタジー」の構造であるともいえる。

・システム面でも、一周目クリア後にギャラリーを覗いても、未開放CGの枠などがそもそも用意されないことによって、一周目のヒロイン以外に目を向けること――それはプレイヤーが前提としていることでもある条件でもある――を相対化できるようなものになっている。絶対としているものを相対化するのは、倫理の条件でもある。ここでプレイヤー側の倫理が問われているのである。