イタリアの主体的な活動が再来するのは、「西ローマ帝国が滅亡」して以降である -田中創『ローマ史再考』を読む-

 田中創『ローマ史再考 なぜ「首都」コンスタンティノープルが生まれたのか』を読んだ。

 内容は紹介文の通り、

期待の俊英が、ローマが2000年続いたのは東側に機能的な首都・コンスタンティノープルを作ったからだとし、勅令や教会史に現れる「儀礼を中心とした諸都市の連合体」としてのローマ帝国像を生き生きと描き出す。コンスタンティヌス帝やユスティニアヌス帝ら「専制君主」とされる皇帝たちは、本当は何に心を砕いていたのか? 最新研究を踏まえた驚きの古代史!

というもの。
 副題にもあるように、「コンスタンティノープルはいかにして、『首都』に成りあがったのか」というのが、本書の主題である。*1
 退屈してしまいそうな話だが、しかし、これが実に読ませる。

 以下、特に面白かったところだけ。

キリスト教と太陽神

 当時のキリストはしばしば太陽神的な図像で表現され (83頁)

 コンスタンティヌス帝は「改宗」以前、太陽神崇拝に傾倒していた。

 また、この時代のキリストは、バチカン地下から発掘された4世紀のモザイクでもわかるように、太陽神的な姿で描写された。*2
 当時のキリスト教は随分と「異教」的な要素も含んでいたのである。

プルケリアと聖母マリア「信仰」

 どうして。私は神を生んだのではなかったのか (144頁)

 プルケリア*3キリスト教崇敬には(*彼女だけではないが)、現代人から見るといささか特異なところがあった。
 そのことが、コンスタンティノープル司教ネストリウスと軋轢を起こすこととなる。
 聖体拝領の儀式のときに、女性が教会の内陣に立ち入ることができるか否かをめぐって、彼女とネストリウスとで口論となった。
 プルケリアは自分を聖母なマリアに重ね合わせていた。*4
 その際に、上記のように、ネストリウスに言い放ったという。
 もちろんこれは、逸話にすぎない。
 だが、史実性はともかくも、アウグスタが聖母と近しい存在として認識される土壌が社会にあったのは確かである。

西ローマ帝国が滅亡」してから活発化

 それどこか興味深いことに、オドアケルの統治期になるとローマの元老院議員たちの活発な活動が確認される。 (165頁)

 オドアケルの統治下、そしてのちの東ゴート王国のもとでは、ローマの元老院議員たちが積極的にコンスルに就任し、王たちを補佐している。
 『哲学の慰め』を書いたボエティウスらイタリア貴族も王の宮廷で活躍している。*5
 イタリアの主体的な活動が再来するのは、「西ローマ帝国が滅亡」して以降である。

ギリシア神話の「柔軟性」

 いわゆるギリシア神話が、一つの筋書きしかない固定された物語ではなく、語りの必要に応じて柔軟に改作される余地のある素材であった (178頁)

 エフェソスの人々*6は自分たちがアルテミス女神を崇拝していることの正統性を示すために、神話を我流に解釈した。
 通例ならデロス島とされる女神の出生地を、自分たちの町の近郊に移しているのである。
 こうしたことは当時、決して珍しいことではなかった。

 

(未完)

*1:本稿ではこの主題部分については扱わないが。

*2:竹部隆昌は、

キリスト教が太陽神崇拝の図像表現を採用したのは,キリスト教公認当時のローマ帝国で太陽盛んであったことによる。ローマ帝国において一神教の国教第一号となったのはアウレルシア起源のやはり太陽神であるミトラ一神教崇拝であった。

と述べている(「西欧中世文化におけるビザンツ図像の伝播と受容」https://ci.nii.ac.jp/naid/120005474923 )。

*3:ローマ皇帝ルキアヌスの妃にして、皇帝アルカディウスの娘でもある。

*4:中西恭子はプルケリアを次のように評している(https://twitter.com/mmktn/status/1235539996691427328 )。

プルケリアさまは5世紀にしてビザンツ宮廷女性最強キャラ。神学論争にもお強くて、弟の嫁さんエウドキアとさまざまに図ってマリア崇敬を広めたり、最晩年に将軍マルキアヌスと結婚して夫を皇位につけ、自身皇妃となっても純潔を貫くなどあっぱれポイントが数々、周りの男たちが全員霞む素晴らしさ

*5:カッシオドルスもその一人である。海津淳は次のように述べている(「人文主義と教育 : 西ローマ帝国終焉とヨーロッパへの自由学芸継承」https://ci.nii.ac.jp/naid/110009634588 )。

その名が示す通りボエティウス同様ローマ貴族の出身であった。父はオドアケルと東ゴート王テオドリックに仕え、カッシオドルス自身もテオドリック王とその後継者たちのもとで財務官、執政官など要職を務めた。/しかし彼において一層注目されるべきは、引退後故郷にウィウァリウム(Vivarium、養魚池の意)修道院を創設し、図書の収集、学問研究と教育に尽力した点にある。彼は精力的にローマなどに足を運んで社会的混乱の中で散逸の危機にあった貴重な書籍を収集し、ウィウァリウムに保管する。そしてここで彼は聖書研究・神学教育を第一義的目的としながらも、古典古代の自由学芸を上述の学問・教育に必要不可欠な領域と位置付け、これを継承し研究と教育を行ったのである。

*6:庄子大亮は、次のように述べている(「古代ギリシアにおける女神の象徴性 : アテナ,アルテミス,デメテルを例に」https://ci.nii.ac.jp/naid/40019160479 )。

アルテミスはまた,「生むことをせぬアルテミス女神が,生むことを司られた」(プラトン『テアイテトス』149B)といわれるように,出産の女神でもあった。こうした点に関連して,アルテミス崇拝が有名だったのが,小アジア沿岸のエフェソスである。豊穣多産の女神として知られるエフェソスのアルテミスは,乳房をあらわすともいわれる物体が数多く胸部に付いている独特な姿をしている。おそらく多くの生命を育むことを象徴した姿であろう。

ただし、庄子は、「エフェソスのアルテミスこそがアルテミスの原型=大母神と断ずることはできない」と注意を促している。

朝廷の官人としての陰陽師ではなく、民衆に接する民間の陰陽師の実態がよくわかる一冊。 -沖浦和光『陰陽師の原像』を読む-

 沖浦和光陰陽師の原像』を読んだ(再読)。

陰陽師の原像―民衆文化の辺界を歩く

陰陽師の原像―民衆文化の辺界を歩く

  • 作者:沖浦 和光
  • 発売日: 2004/10/15
  • メディア: 単行本
 

 内容は紹介文のとおり、

陰陽師とは何か? 歴史にうずもれた足跡を辿り、その実像を明らかにする。

というもの。
 やや古い本になるだろうが、読んでいて面白い。
 朝廷の官人ではなく、民衆に接する民間の陰陽師の実態がよくわかる。*1 

 以下、特に面白かったところだけ。

呪詛はやらなかった官人陰陽師

 そもそも律令の「賊盗律」では、呪詛そのものが禁じられていた (引用者中略) したがって朝廷で重用されている官人陰陽師が、成文法によって犯罪とされている呪詛を進んで行うことはありえない。 (49頁)

 平安の陰陽師は実態はこのような感じである。*2

「万歳」と陰陽師

 大坂万歳も、その源流をたどれば尾張万歳に行き着く。(略)その多くが土御門家の支配下陰陽師系 (71頁)

「東国に於て院内と称する一種の陰陽師」も、万歳に進出したと指摘する。三河万歳や尾張万歳もみなその系統であって、「土御門家より免許状を受け居る低級の陰陽師で、常は卜筮祈祷を以て業とし……」と述べている。 (105頁)

 後者は柳田国男の研究(「柳田国男「毛坊主考」」)の言葉である。
 「万歳」と陰陽師の関係は深い。*3

陰陽師と被差別民

 各地の (引用者中略) 「弾左衛門由緒書」などの河原巻物では、「舞々」「猿楽」「陰陽師」「猿引」「鉢叩」「傀儡子」「獅子舞」などの遊芸民や遊行者は、ほとんどすべてが「弾左衛門支配」下とされていた (162頁)

 陰陽師と被差別とは、近しい関係にあったのである。*4

陰陽師と能・狂言

 『大乗院寺社雑事記』で声聞道として挙げられていたのは、「陰陽師、金口、暦星宮、久世舞、盆・彼岸経、毘沙門経等芸能」であった。そして、声聞師たちの自専できる「七道者」として、「猿楽、アルキ白拍子、アルキ御子、金タタキ、鉢タタキ、アルキ横行、猿飼」の七つの職種が挙げられていた。 (195頁)

 声聞を媒介に、民間陰陽師と猿楽が結び付いていた。*5
 陰陽師は、猿楽を媒介にして、能や狂言ともつながっている。

 

(未完)

*1:平瀬直樹は次のように述べている(「日本中世の聖地に生きる人々:僧、ヒジリ、陰陽師、神人を訪ねて」https://ci.nii.ac.jp/naid/120000806450 )。

身分の高いお坊さんは民衆に対するものをカバーできないわけです。そのためにいろいろ下級の宗教者が活躍するのですが、半ば芸能者の性格を持つ者も多いのです。たとえば琵琶法師がそうであり、琵琶を弾くことによってカミや亡霊を鎮めます。猿楽師も元はそういうもので、翁の舞を舞うことによって、神様と一体化して村人の平和を祈ったりします。また、陰陽師については、朝廷の官人としての陰陽師はごく少数であり、正式な陰陽師のお世話になれる階層が限られます。民衆にとって一般的な陰陽師というものは、お坊さんが陰陽師をやっている法師陰陽師⑦のように、ヒジリに近い性格の宗教者でした。民衆が求めたまじないというのは要するに医療行為であり、山伏や陰陽師のまじないは非科学的とばかり言えず、薬草の知識や健康術をともなうものでした。

*2:中島和歌子は、呪詛が「上代から行われており、律令には処罰の規定も見られる」として、「賊盗律」の厭魅条を例として挙げ、

基本的に官人の陰陽師は関与せず、. 多くは法師陰陽師など民間の陰陽師が担った

と述べている(「陰陽道式神の成立と変遷再論 : 文学作品の呪詛にもふれつつ」https://ci.nii.ac.jp/naid/120006368539 )。

*3:木場明志は次のように書いている(「地方陰陽師の性格と活動」https://ci.nii.ac.jp/naid/130004023214 )。

物部村の例では、病人に対しては祈濤し悪疫鎮送儀礼をし簡単な咒言・咒符を与える程度だが、山口県美称市伊佐町の徳定地区の「陰陽」と称された人々は実際の施薬をやり、それが発展して産業化して売薬業を行っていた。修験行場をもつ背後の桜山に往古栄えた南原寺に所属した陰陽師の末であろうが、『元来万歳二而御座候』(邑沢文書)とあり、万歳も陰陽師系統であるをみても陰陽道中の典薬がここでは産業化したとみられる。

先の註でも述べたが、こうした薬も陰陽師は扱う場合があったのである。

*4:弾左衛門の祖先が、頼朝より頂戴したという御判物」には、「猿楽」や「壁ぬり」や「弦師」、「鋳物師」などに並んで、「陰陽師」の名前が出てくる(荒井貢次郎「江戸時代における賤民支配の一考察―身分法上の穢多の地位―」https://ci.nii.ac.jp/naid/120005751277 )。史実性はともかくも、そのように主張がなされていたのである。

*5:吉田栄治郎は、「声聞師は自ら陰陽師以下の『芸能』と 猿楽以下の七種の職 ( 七道 ) に携わったのである」と述べている(「中近世大和の被賤視民の歴史的諸相--横行の場合」https://ci.nii.ac.jp/naid/120005857699 )。声聞師とは、「中世において種々の呪術的な職掌や芸能に携わった陰陽師(おんみようじ)系の芸能者」を指す(「世界大百科事典 第2版」の解説より。https://kotobank.jp/word/%E5%A3%B0%E8%81%9E%E5%B8%AB-533499 )。

「急に逃げるように自分の家に帰ったんです。今までにどんなに中国の人達をひどい目に遭わせてきたかを自覚しているからですよ」 -劉文兵『証言 日中映画人交流』を読む-

 劉文兵『証言 日中映画人交流』を読んだ(再読)。

証言 日中映画人交流 (集英社新書)

証言 日中映画人交流 (集英社新書)

  • 作者:劉文兵
  • 発売日: 2011/04/15
  • メディア: 新書
 

 内容は、紹介文の通り、

高倉健佐藤純彌栗原小巻山田洋次ら邦画界トップクラスの俳優、映画監督たちの中国との交流を気鋭の中国人映画研究者がインタビュー。高倉健内田吐夢監督の思い出、父や幼少期の話、佐藤監督の人民解放軍との共同作業の逸話、栗原小巻の日中文化交流活動、山田監督の敗戦後の満州での生活のエピソードなど、初めて語られる貴重な証言が満載。また、戦時中中国戦線へ従軍した経験を持つ名匠木下惠介監督の知られざる功績にも光をあてる。

というもの。
 個人的には特に山田洋次の話が印象に残った。
 以下、特に面白かったところだけ。*1

器用に生きている

 僕は充分、器用に生きてるつもりだけど。 (71頁)

 生命保険会社のCMで「不器用ですから」とコピーを当てられた高倉健だが、本人はこうインタビューで述べている。*2

長谷川テル

 長谷川テルさんは真の愛国者だということを、いつか歴史が証明するでしょう。 (137頁)

 長谷川の役を演じた経験をもつ栗原小巻は、こう述べている。
 長谷川テルは、平和の大切さを戦火の中国で訴え続けた人物である。*3

パスポートはいらなかった

 完全に日本の延長だと思っていましたし。だって、パスポートもビザも無いんですから。日本人は自由に出たり入ったりしていたんです。 (162頁)

 山田洋次の言葉である。*4

大陸的感覚

 親戚同士でいちいちお辞儀なんかして人間関係も窮屈で。早く満州に帰りたいと思っていた。 (162頁)

 一時的に日本に帰国した山田少年だったが、日本は狭いし、列車も家も小さいし、食べ物は魚ばかりだった。
 彼は満州の気質を身につけていたのである。
 大陸的感覚とでもいうべきか。*5

 満州と言うのは、 (引用者略) 植民地の植民側だから、わりに自由に暮らしていたからね。考え方もフリーなんだよね。それから生活も、それこそ中国人の犠牲の上においてわりに贅沢に暮らしていたから、ちょっと上手くいかないの、日本の田舎に暮らすとね。 (174頁)

 山田は山口に引揚げて苦労した体験を語っている。
 引き揚げ者として差別され、貧しいということで差別される。*6
 そのことが嫌で、上京を志した。

満州とうた

 中国の子供達に日本の歌を歌わせて、下手だって嘲笑することを。こんなひどい話はないな。 (165頁)

 満州において、中国(漢族)の子供たちは、「アジアは一つ」というような日本の歌を日本語で歌わせられる。*7
 いったい、五族協和とは何だったのか。

青天白日旗が立った

 僕達は急に逃げるように自分の家に帰ったんです。怖くなってきた。なぜかというと、今までにどんなに中国の人達をひどい目に遭わせてきたかを自覚しているからですよ。 (166頁)

 8・15の昼、中国人のすべての家に、国民党の青天白日旗が立った。*8
 彼らは日本の敗戦を予想していたのである。

 それを見た山田少年の反応が上記のものである。

引き揚げまで

 結局、食べるものがなくなると、働きに行こうというエネルギーもなくなって、家族は一日寝てるのね。「ああ、あの家はみんな昨日からずっと寝ているよ」と言うと、「もう間もなく死ぬな」と、そういう感じだった。 (169頁)

 満州の生活において、売るものはなくなり、仕事もなくなった人は多かった。
 しかし、誰も自分たちのことで精いっぱいで助けることができない。
 山田少年の一家も、もうダメだというころ、幸い日本へ引き揚げることができた。
 当時、大連だけで20万人くらいの日本人がいたという。*9

「教養における故郷」

 僕が実際見たなつかしさじゃなくて、僕の教養における故郷なんだな。 (182頁)

 日本でよくイメージされる「日本の原風景」と、彼自身が直に体験した「原風景」とは違う。
 しかし、それでもそうした「日本の原風景」を懐かしく思ってしまうという。
 山田監督自身は、それが、本や大人の話や映画の影響、イメージに基づく懐かしさだと、自覚している。*10

 

(未完)

*1:韓燕麗「劉文兵著『日中映画交流史』(東京大学出版会、2016年6月)」は次のように書いている(https://ci.nii.ac.jp/naid/130006077373 )。

応雄氏による『証言 日中映画人交流』(劉文兵著、2011 年)の書評でも指摘されたことだが、評者も同様の疑問を感じる。つまり、1978 年から1991 年にかけての中国における日本映画ブームの発生は、「受容側のあまりにも文化的な欠乏と飢えがあってのこと」だったため、「格別に取り扱われる理由はそれほど自明でなくなりそうだ」という指摘である。

本書のメインとなるテーゼに対する身もふたもない指摘だが、それでも読みごたえがないというのではない。一応弁護しておく。

*2:このキャッチコピーは、日本生命のCMで使われたもので、さらに遡ると、主演映画・『居酒屋兆治』の役柄がもとになっているのだが、この映画の監督・降旗康男も、本書に登場している。
 なお、その当該のCMは、某動画サイトにて視聴することができる。

*3:長谷川テルについては、たとえば、中村浩平「平和の鳩 ヴェルダ マーヨ--反戦に生涯を捧げたエスペランチスト長谷川テル」(https://ci.nii.ac.jp/naid/110004689838 )などに詳しい。

*4:アジア歴史資料センター「戦時中にもパスポートってあったの?」(https://www.jacar.go.jp/english/glossary_en/tochikiko-henten/qa/qa05.html )は、

アジア圏とくに日本の植民地や占領地ではパスポートが不要な場合が多く、例えば中国については、1918年1月25日に吉澤謙吉臨時代理公使と陸徴祥外交総長との間で両国国民のパスポートの免除が正式に確認されています。/さらに、日本の影響下にあった「満洲国」や同盟関係にあったタイでもパスポートは不要でした。

と書いている。

*5:赤塚不二夫は、

日本の中ではみんながギスギスして生きていくっていうのがある。ところが、満州育ちっていうのは、なんか適当で、アバウトで、「どうでもいいや」「なるようになるさ」って生きちゃった、みたいなのがある。

と述べている(赤塚「「メーファーズ」――これでいいのだ!!」中国引揚げ漫画家の会編『ボクの満州 漫画家たちの敗戦体験』亜紀書房、1995。44頁)。

*6:松田ヒロ子は、辻輝之の次の言葉を引用している(「引揚者を帰還移民として捉えるということ」https://ci.nii.ac.jp/naid/120005604111 )。

「引揚者」というラベルは一方的に押しつけられたものではない。歴史体験と記憶の選定、その意味づけに加えて、帰国後に居住、就業、社会保障など制度化された排除と差別が共鳴し合いながら、「人種」としての境界を再生産し続けたのは事実である。

*7:なお、満洲国の言語政策について、安田敏明は次のように述べている(「戦前・戦中期日本の言語政策-「満州国」における多言語政策の内実-」http://www.ritsumei.ac.jp/acd/re/k-rsc/lcs/kiyou/9-2.htm )。

五族協和の王道楽土は言語の面で実践されたのか否か。これはされなかったというのが答えです。具体的にどうだったのか。結論を申し上げますと,相互の語学学習ではなく,非日系,日本民族ではない人たちには日本語のみの学習を奨励したということになります。非日系に日本語のみの学習を奨励する。これは特に教育とか官吏と登用制度に顕著に現れてくるところです。一方で,「満洲国」は中枢の運営は日本人官僚が行っていたのですが,制度的にこれを後付ける体制が1937年以降,明確になってきます。実際の圧倒的な多数言語は中国語だったわけですが,中国語の下で日本語は圧倒的な劣位にあったわけです。逆に日本語を優位な形に制度化することを「満洲国」は国家制度として行うようになってくるのです。

*8:この事実は、当時満洲に暮らしていた多くの日本人が証言されている。論文においても、例えば、南龍瑞は次のように書いている(「「満洲国」における満映の宣撫教化工作」https://ci.nii.ac.jp/naid/120006226030 )。

しかし,興行成績の向上が,中国人に対する宣撫教化の効果をあげることと直結したとはいいがたい。1945年8月 15日の終戦日に,いつの間にか新京など大都市の街中に青天白日旗がはためいたのは,満洲国当局の宣撫教化工作の失敗を象徴する出来事であった。

*9: 当時の大連(関東州)には、225,954人の日本人がいたようである。以上、佐藤量「戦後中国における日本人の引揚げと遣送」(https://ci.nii.ac.jp/naid/110009660825 )の156頁を参照した。

*10:幼少期を、満洲で過ごした山田少年にとって、話にきいた、緑豊かで稲穂が波打つ日本の風景は憧れの地だったようだ(『山田洋次の原風景 時代とともに』紀伊国屋書店、2006年。2頁)。山田本人の談によると、満州大陸では、日本を長屋やご隠居さんなどの落語のイメージで想像していたようである(同9頁)。

陸奥の日清戦争に関する外交政策は、「陸奥神話」が形成される以前は芳しいものではなかった ―大谷正『日清戦争』を読む―

 大谷正『日清戦争』を読んだ(再読)。

日清戦争 (中公新書)

日清戦争 (中公新書)

  • 作者:大谷 正
  • 発売日: 2014/06/24
  • メディア: 新書
 

 内容は紹介文の通り、

朝鮮の支配権をめぐり開戦に至った日清戦争平壌の戦いをはじめ各戦闘を詳述しながら、前近代戦の様相を見せたこの戦いの全貌を描く

というもの。
 日清戦争というのは、あとの日露戦争やアジア太平洋戦争と比べて、その実相があまり知られていないかもしれないが、知るべきことは多い。

 以下、特に面白かったところだけ。

井上馨と甲申政変

 井上は竹添公使が暴走して朝鮮の内政に干渉したことを隠蔽して、日本側が政変の被害者であったことを朝鮮に認めさせ、謝罪と賠償を要求した。 (13、14頁)

 甲申政変において、井上馨はこうした振る舞いを行ったのである。*1

長崎とロシアの蜜月の時期

 ロシアとの関係が深まるとともにロシア系住民の数が増え、一九〇〇年頃の調査では長崎在住の外国人のなかで、ロシア系住民(多数のユダヤ人を含んでいた)は中国人に次ぐ数を誇っている。 (20頁)

 19世紀末、長崎はロシア船の寄港地であり補給地でもあった。
 長崎を経由して、食料品や日用品や石炭がウラジオストクなどに供給される。
 また、長崎からは多数のからゆきさんが向かった。
 冬の四か月間は、長崎の稲佐沖がロシア太平洋小艦隊の停泊地となり、稲佐は水兵のための遊郭が存在し、ロシア将校の日本人妻が居住する「ロシア村」の様相を呈した。*2 *3

後に引けなくなった日本側

 伊藤内閣は、派兵した軍隊を「空しく帰国」 (引用者略) させるわけにはいかず、何らかの成果を得て、局面を打開する必要があった。 (49頁)

 陸奥宗光日清戦争開戦支持派であり、川上操六参謀次長もまた同様であった。
 新聞も同様の立場をとっていた。
 既に漢城は平穏な状態で、農民軍は和約を結んで撤退した状態だった。
 にもかかわらず、日本は、既に兵士を送っていた手前、後に引けなくなったのである。

  陸奥日清戦争に関する外交政策は、「陸奥神話」が形成される以前は芳しいものではなかった。 (248、9頁)

 陸奥宗光は、イギリスとロシアの制止を振り切って強引に戦争を行った。
 過剰な領土要求を講和条約案に書き込み、予想された三国干渉への対応も拙劣だった。*4
 同時代の川崎三郎は、日清戦争は外交で失敗した戦争であって、陸奥はその責任があるとしている。*5 *6

削除された事件

 中塚明は福島県立図書館佐藤文庫に所蔵されていた『日清戦史草案』を検討することで、草案段階で詳細に描かれていた日本公使館と混成旅団が事前に計画して実行した王宮占領事件が、公刊戦史では書き換えられ、ここでも「歴史の偽造」が行われたことを解明している。 (61頁)

 中塚明『歴史の偽造をただす』より。*7
 すでに当時の有名なジャーナリスト川崎三郎『日清戦史』(全七巻)の第一巻で、その計画的な事件の事実が描かれており、当時の事件の実相を知る国民も少なくなかったという。

清側の敗戦原因

 平壌の戦闘では清軍の優秀な武器が効果的に使用されると日本軍は苦境に陥った。 (87頁)

 日清戦争は日本軍の兵器が優秀、というわけでもなかった。

 日本海軍に対して劣勢であったことが、清海軍の敗因であった。(241、242頁)

 日本は新鋭艦が多く、清側は旧式艦が多かった。などの事情がある。
 また、中国側は、4つの海軍部隊があり、統一して作戦する仕組みではなかった。
 そのため李鴻章が仕える船は制限されたのである。*8

川上操六の殺戮指示

 川上が命じたのは、東学農民とそれを支援する朝鮮農民に対するジェノサイド的な殺戮であった。その結果、朝鮮で反日意識が一層高まり、結果的に日本の朝鮮問題に対する失敗に帰結する。 (251頁)

 また、川上操六は、遼東半島割譲に固執していたという。*9

できるだけ多くの東学農民を殺す方針

 南大隊長は作戦後の「東学党征討略記」という講話録のなかで、井上馨公使と仁川兵站監伊藤中佐の命令を受け、できるだけ多くの東学農民を殺す方針をとったと述べている。 (110頁)

 第二次農民戦争の話である。*10

旅順事件

 そのなかには正当な戦闘による死者だけでなく、捕虜にすべき兵士に対する無差別な殺害や、捕虜殺害と民間人殺害(婦女子、子ども、老人を含む)が含まれていたことは確かな事実である。 (132頁) 

 日清戦争期の旅順攻撃の際、殺害人数は1万人以下、4500人を超えるという。
 「これらの従軍日記から見ると、 (引用者略) 上級指揮官が旅順攻撃の際には、清軍兵士のみならず民間人も殺害するよう指示していた可能性が高い」(134頁)。*11

三宅雪嶺「嘗胆臥薪」の真意

 「嘗胆臥薪」という言葉を使った三宅にはロシアへの敵愾心を単純に煽る意図はなかったが「嘗胆臥薪」は意味が同じまま、「臥薪嘗胆」として流布し、当初の意味を離れて、対露敵愾心と軍備拡大を煽る流行語に転じていく (222頁)

 三宅雪嶺は「嘗胆臥薪」を掲載したが、これは、国際情勢を読み誤って遼東半島割譲を求めた伊藤内閣の外交的誤りと責任を追及したものであった。
 三宅自身には、そうした使嗾するような意図はなかったのである。*12

味方だった人間さえも

 事件の詳細と日本政府の真実を隠そうとする不誠実な対応は、当時朝鮮を訪問していた『ニューヨーク・ヘラルド』紙の大物記者ジョン・アルバート・コッカリル(かつて『ニューヨーク・ワールド』紙の著名編集者。日清戦争期の『ヘラルド』紙は日本政府と関連を持って、旅順虐殺事件の弁護を行った親日新聞)の記事によって世界に伝えられ、厳しく批判される。 (235頁)

 朝鮮王妃殺害事件のことである。
 この事件は、味方も敵に変える程のものであった。*13
 事件の詳細については、金文子『朝鮮王妃殺害と日本人』等を参照。

軍備拡張路線へ

 賠償金の八割が軍備拡張に費やされた。 (254頁)

 過度の軍備拡張は、産業育成を不充分にさせた(石井寛治『日本の産業革命』)。*14
 民党は、アジアへの軍事侵略路線に同調し、増税や公債募集に賛成、行政府にいよいよ荷担していくこととなる。

根拠のない言説が氾濫する現代

 日本では日清戦争について、いまだに「日清戦争は朝鮮独立を助けた正義の戦争」、「日本軍は国際法を順守した」、「乃木希典は一日で旅順を攻め落とした」など根拠のない言説が存在する。 (259頁)

 一番目は、陸奥の『蹇蹇録』を見ればわかる。
 (実際、英国などからの和解案を拒否しているのである。)*15
 他は検討するまでもない。*16

 

(未完)

*1:なお月脚達彦は、金玉均が、竹添の甲申政変関与を暴露して日本政府を困らせるために、『甲申日録』を書いたと述べている(『福沢諭吉と朝鮮問題: 「朝鮮改造論」の展開と蹉跌』東京大学出版会、2014年。119頁)。

*2:宮崎千穂の述べるとおり、「明治 31 年の旅順租借以降、ロシア軍艦の長崎港碇泊日数の短縮により「ロシア村」は寂れつつあった」(「外国軍隊と港湾都市--明治30年代前半における雲仙のロシア艦隊サナトリウム建設計画を中心に」https://ci.nii.ac.jp/naid/120001498454 )。

*3:中條直樹・宮崎千穂は次のように書いている(「ロシア人士官と稲佐のラシャメンとの"結婚"生活について」https://ci.nii.ac.jp/naid/110001876663 )。

稲佐がロシア人だけに開かれていることがさらに、ロシア人にとっては特別な意味を持った。外国人が稲佐へ入ろうとすると、「何だって外国人がロシアの稲佐をぶらついているんだ。」とロシア人によって喧嘩腰に追い払われる“危険”もあったようである

*4:著者・大谷は次のように述べている(大谷正「「日清戦争」研究を語る : 大谷正『日清戦争 : 近代日本初の対外戦争の実像』(中公新書2014年) によせて」https://ci.nii.ac.jp/naid/120006793998 )。

彼が何であんなに日清開戦に執着するのかという点ですが、大石によると、一言でいえば、陸奥は条約改正に失敗したから、それで後は戦争に訴えるしかなかったということなんです。 (引用者中略) 日清戦争は開戦する必要がないのに戦争が始まってしまった不思議な戦争です。

著者は割と陸奥という人物に対しては同情的であるが、詳細は「『日清戦争』研究を語る」を当られたい。

*5:陸奥神話がどのように形成されたかについては、上掲「『日清戦争』研究を語る」で著者・大谷らによって語られている。

*6:土山實男は陸奥外交について次のように評している(「最終講義 リアリズム国際政治と日本」https://ci.nii.ac.jp/naid/120006771171 )。

10 日にソウルに戻った駐朝公使の大鳥圭介は事態が沈静化に向かっているのを見て,後続部隊の派遣を見合わせるよう,またすでに朝鮮に送った軍隊を韓国に上陸させないよう外務省に公電しますが,陸奥は派遣した兵はもう日本に返せないと返電し,15 日に,朝鮮の内政を日清共同で改革するという清が受け入れるはずのない提案を清にします。 (引用者中略) なぜこんなことが気になるかと申しますと,陸奥外交にはやはり無理があるからです。 (引用者中略) 昨年,陸奥宗光論を出した若手外交史家の佐々木雄一氏は,陸奥は伊藤と違って清国や李鴻章への信頼がなく,だから伊藤よりも強硬だったと書いています。佐々木氏によると,陸奥は先を見通して手を打ったわけではないにもかかわらず,コストに見合うだけの対価を得ようとする強い意志を持っており,また窮地に追い込まれても打開策をつくる手腕があったので,結果的に日清間で妥協が難しくなった。

*7:日清戦史草案の「朝鮮王宮占領事件」の個所については、以下のホームページでおよそを知ることができる(http://kumando.no.coocan.jp/mj/nsn25111.htm )。

*8:ジョン・L・ローリンソンは次のように書いている(細見和弘訳「日清戦争と中国近代海軍」https://ci.nii.ac.jp/naid/120006452210 )。

紙の上ですら,ナショナル艦隊は存在しなかった。間違いなく,艦隊を指揮するか,あるいは艦船を操縦する人々の心の中には,何一つ存在しなかった。忠誠心は,各省か個人に向けられたものであった。水師は,これまで統一されたことはなかった。おそらく航行速度の遅さが,そうした伝統的な軍隊における責任の分配に寄与した。航行速度の遅さは,近代的な艦隊にとって問題ではなかった。にもかかわらず,近代的な艦隊は,各省により組織されるか,あるいは―これはさほど有効でなかったが―李鴻章か,あるいは張之洞のような人物の個人的影響力の様式に従って組織された。

*9:井上勝生は次のようにインタビューに答えている(「旧日本軍による隠されたジェノサイドの真実 ~北海道大学名誉教授・井上勝生氏インタビュー(その2)」http://george743.blog39.fc2.com/blog-entry-1885.html?all )。

特に、日清戦争自身がのるかそるかの面もありましたから。川上操六(※30)が、兵站線の兵站総監で、責任者でした。彼が最初に出した命令というのは、蜂起した東学農民軍は、これから、『悉く(ことごとく)殺戮せよ』というものでした

*10:井上勝生は次のように書いている(「東学農民戦争,抗日蜂起と殲滅作戦の史実を探究して : 韓国中央山岳地帯を中心に」https://ci.nii.ac.jp/naid/120006466654 *註番号を削除して引用を行った。 )。

翌 28 日, 慶尚道の洛東兵站司令部が,捕らえていた東学農民軍 2 人について,2 人は指導者とも思われないのだが,洛東部で斬殺して然るべきか,という確認の問い合わせをしたのに対して,南部兵站監部は,「東学党斬殺の事,貴官の意見通り実行すへし」と答えていた。このように仁川兵站監部の方針は,東学農民軍に対して「厳酷の処置は固より可なり」であり,大本営のこの「ことごとく殺戮命令」は,その後も取り消されることはなかった。

*11:司淳は次のように書いている(「日清戦争従軍兵士の自他認識」https://ci.nii.ac.jp/naid/40020998848 )。

旅順虐殺事件とは,11月 21日の占領後から 25日頃まで,市内および旅順・金州間で行われた敗残兵掃討の過程で,本来捕虜にすべき交戦意思のない兵士や捕虜,女性や子ども,老人を含む多くの民間人を殺害した事件です。「遠征日誌」にも,11月 23日の条に「我隊ニ於テモ敗兵五六ヲ銃殺ス」との記述がみられるほか,25日の条に「此日旅順ノ市街及附近ヲ見ルニ,敵兵ノ死体極メテ多ク,毎戸必ズ三四以上アリ。道路海岸至ル所屍ヲ以テ埋ム。其状純筆ノ能ク及フ所ニアラズ」と記されています。

*12:朴羊信は次のように述べている(「陸羯南の政治認識と対外論(2)公益と経済的膨張」https://ci.nii.ac.jp/naid/120000963893 )。

わずか十日間でロシアに対する報復の世論が「嘗胆臥薪」のスローガンの下で形成されて、政府の失策を糊塗するのに役立っているが、それは自分の本意ではないとして、三宅は連載を中止したのである。もっとも、三宅が香いた「嘗胆臥薪」の趣旨は、対露復讐にあったのではなく、「現代の東洋は西洋に関連」するため、東洋に事を構えるためには西洋の状勢を把握して、それに対処できるように注意をしなければならないという点にあった。

*13:この点については、著者の『近代日本の対外宣伝』が参照されるであろう。ところで、著者のこの研究以降、朝鮮王妃殺害事件の報道に対する研究は進んでいるんだろうか。

*14:ウェブサイト・「カイゼン視点から見る日清戦争」(http://sinojapanesewar1894.com/920jmilitaryexpansion.html )は、石井寛治『日本の産業革命』を参照して、

海軍2.1億円、陸軍0.8億円、合計で3億円近い軍拡案が提案されたわけです。

と述べている。また、「3億円近かった軍拡費と比べれば、産業発展予算は半分以下のレベルにすぎなかった、と言えます」とも述べている。

*15:本山美彦は次のように書いている(「韓国併合と内鮮一体化論」https://ci.nii.ac.jp/naid/110007628968)。

英国が調停案を提示したが,7月11日,伊藤内閣は,清との国交断絶を表明した。日清開戦の危機が一気に高まった。7月16日,日英通商航海条約が調印され,英国が日本の側に立つことになった(ただし,この条約が公表されたのは,1894年8月27日)。

依拠しているのは、藤村道生『日清戦争』や中塚明『司馬遼太郎歴史観』などであろう。

*16:本書を読めばおよそ明らかであろう。

聞き手の頭が朦朧として来て、席を立つ気力もなくなってきた頃を見計らって、怒涛の音の洪水を起こす。もはや洗脳である。 -岡田暁生『CD&DVD51で語る西洋音楽史』を読む-

 岡田暁生『CD&DVD51で語る西洋音楽史』を読んだ。

CD&DVD51で語る西洋音楽史 (ハンドブック・シリーズ)

CD&DVD51で語る西洋音楽史 (ハンドブック・シリーズ)

  • 作者:岡田 暁生
  • 発売日: 2008/08/30
  • メディア: 単行本
 

 内容は紹介文の通り、

グレゴリオ聖歌からハリウッド映画音楽まで?? 作品や史実のみならず、斬新な切り口で作曲家、指揮者、 演奏家をも語る。 新たな視点からの西洋音楽史入門!

というもの。
 既に言及されるとおり、同著者『西洋音楽史』(新書)の姉妹篇といったところである。*1

 以下、特に面白かったところだけ。

グレゴリオ聖歌のもたらす「浄化」

 歌っていいのは男性だけ。伴奏楽器もハーモニーも、心地よいメロディ温かいサウンドも、情感を伝えてくれる旋律の起伏もない、単旋律の音楽。鳴り物や手拍子やしわがれた声といったノイズで溢れた「土着の」音楽に熱狂していた異教徒たちを、静けさに満ちたキリスト教神の国へと帰依させる。そんな使命を、聖歌は担っていたのだ。 (16頁)

 聖歌におけるこの抽象性を、著者は中世美術の聖者たちの無表情にたとえている。*2
 これが良くも悪くも、西洋音楽の出発点であった。

19世紀のムードミュージック

 十九世紀といえば、シューマンブラームスワーグナーブルックナーといった「大作曲家」の名前がすぐに思い出されるが、実はロマン派の時代に作られた音楽の大多数は、この種のBGMだった (113頁)

 19世紀の「お嬢様」にとってピアノが弾けることは必須の素養だった。
 で、彼女たちの定番は、リチャード・クレイダーマンのようなムードある曲だった。
 ロマンチックな題名を持ち、通俗的で甘い「似非高級ブランド音楽」である。*3
 優雅さが肝心であって、饒舌と難解と熱弁はご法度。
 そういう点で、ベートーヴェンの音楽とは対極にあった。
 今でも欧州の音楽専門の古本屋に行くと、これらのサロン音楽の楽譜が山積みにされて、二束三文で売りに出されている。
 リストやショパンの曲も、この伝統・慣習を基礎にしているのである。

ワーグナーの集団催眠術

 聴き手の頭が朦朧としてきて、席を立つ気力もなくなってきた頃をみはからって、怒涛の音の洪水が押し寄せてくるのである。それは宗教儀礼におけるイニシエーションのように、聴き手の意識下に強烈な作用を及ぼさずにはおかない。 (128頁)

 ワーグナーの楽劇*4には、ライトモチーフがたくさん出てくる。
 しかし、いつまでも音は統合されず、また、哲学談義のような晦渋な会話が続く。
 ワーグナー楽劇は、夕方午後4時頃に始まり、終わるのは、10時30分か11時頃である。
 10時過ぎごろから、ワーグナーは動く。
 聞き手の頭が朦朧として来て、席を立つ気力もなくなってきた頃を見計らって、怒涛の音の洪水を起こす。
 もはや洗脳である。

 

(未完)

*1:新書の方を取り上げてもよかったのだが、CDやDVDの紹介がよいので、こっちにした。

*2:大須賀沙織はこう書いている(「ガリア聖歌 : フランスで生まれた聖歌の源流を求めて」https://ci.nii.ac.jp/naid/120005775086 )。

グレゴリオ聖歌がフランスの土地に根付く以前、メロヴィング朝時代(481-751)のフランク王国ではガリア聖歌と呼ばれる地方聖歌が歌われていた。カロリング朝ピピン3世(在位751-768)とその子シャルルマーニュ(在位768-814)によるガリア聖歌の廃止とグレゴリオ聖歌への統一により、ガリア聖歌の大部分は失われたとされるが、その一部はグレゴリオ聖歌に取り込まれる形で今日まで継承されてきた。

グレゴリオ聖歌には、かつて古代(共和政)ローマにとっての蛮族の名を冠した聖歌も、まじっているのである。

*3:そうした「BGM」の一種が、バダジェフスカ乙女の祈り」であろう。ただ、石本裕子は次のように書いている(「テクラ・バダジェフスカ(陽の当たらなかった女性作曲家たち・9)」https://wan.or.jp/article/show/6746 )。

18世紀末、ポーランドではピアノが人気のある楽器でした。良家の子女の結婚前のたしなみとして普及していきました。バダジェフスカも裕福な家庭の出身、ピアノを楽しんでいたのでしょう。「乙女の祈り」は1851年に作曲しました。ポーランド日刊紙に楽譜の広告の記録があります。バダジェフスカ自身が、自宅や音楽ショップで熱心に手売りもしていました。翌年には重版がなされ、その翌年には早くも第8版を重ね100万部が売れました。

甘い音楽も地道な営業努力でベストセラーとなったのである。

*4:ところで、「2013年 ヴェルディワーグナー 生誕200年記念座談会」には、次のような会話がなされている(http://www.ikaganamonoka.com/opera/vw/03.html )。

片山  だいたいワグナーの幕間は男性トイレのほうが混雑するんですよ。イタリアオペラだとやや女性、バレーだと圧倒的に女性のトイレが混む。/T女史 「ブルックナーライン」と呼ばれてるらしいですよ。もしくはワーグナーライン、マーラーライン。そういうコンサートは男性比率が高いので、男性トイレに行列ができるんです。 (引用者中略) I女史  確かにニューヨークでもワーグナーは男性の方が多いし、しかもみんなカップルで来てる

やはりこうした傾向は各国でも共通なのだろうか。

なぜ日本の賃金体系はこんなにも複雑なのか、日本型の雇用や査定制度はどのようにしてできたのか(*中級者以上向け) -金子良事『日本の賃金を歴史から考える』を読む-

 金子良事『日本の賃金を歴史から考える』を読んだ(再読)。

日本の賃金を歴史から考える

日本の賃金を歴史から考える

  • 作者:金子良事
  • 発売日: 2013/11/01
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
 

 内容は紹介文の通り、

なぜわたしたちの賃金体系はこんなにも複雑なのか。日本型の雇用や査定制度はどのようにしてできたのか。そもそも賃金とはなにか、どうあるべきか。賃金についての考え方の変遷をその時代的背景とともに明らかにし賃金の重要性を問い直す。

 今からだとやや古い本になるが、しかし、今読んでもためになる本である。

 ただ、他の書評*1でも言及されているように、初心者には見通しがあまりよくはなく、しかし専門家にとってはもっと註を入れてほしい、という読者を選ぶ本でもあるように思う。

 以下、特に面白かったところだけ。

口入れ屋もつらいよ

 保証人には、労働者が逃げだしたら、捕まえて引き戻すか代わりの人を提供するかによって労働力を保証する義務があった。 (18頁)

 日本の一部企業に残っている身元保証人制度の原型である。*2
 これが明治に入ると、徐々に判例が積み重ねられて、雇用関係は現代では常識的と考えられているような、純粋な雇われるものと雇うものとの関係になっていったわけである。

科学的管理法のメリット

 むしろ、時間・動作研究の強みは、従来からおこなわれていた作業を可視化させることで、入職レベルでの訓練を容易にする点 (63頁)

 科学的管理法の功績を挙げるとすればこれであるという。*3
 ただし、実際の業務だと、内容が進歩してしまう(脱ルーティン化)ので、科学的管理法の真価(ルーティン作業の可視化)を生かせなかったという。

 そうした性質ゆえに、三年以内に大多数が辞める(そして女性が多い)紡績業において、入職レベルでの訓練を容易にする科学的管理法は、効果を発揮した。

 ただし実のところ、「紡績業でさえ、もっとも高度な技能は解析することができなかった」(120頁)。

戦前の日本の賃金は安くなかった?

 一九六〇年代以降の海外の研究では日本の賃金がイギリスと比べて、必ずしも相対的に安くなかった (71頁)

 著者は、1968年の山崎広明「日本綿業構造論序説」*4に依って、そのように述べている。
 近年の繊維産業史研究に携わる者にとって、戦前の日本の賃金は英国と比べても安くはなかったというのは、常識だという。*5
 低賃金というイメージは、山田盛太郎や『女工哀史』とかの影響だという。

電算型賃金と査定

 戦時期の工員月給制度の提唱にしても、戦後の労働運動において生活賃金を主張したことで大きな影響力をもった電産型賃金にしても、純粋に生活ベースの賃金ではなく、査定がついていた。 (101頁)

 電産型の場合、賃金の約七割は生活保障給だったはずである。*6 *7 *8

職務給の由来

 本体はコスト管理であって、その意味で標準原価の設定こそが画期というべき (107、108頁)

 職務給の話である。
 ところが、職務給を語る時、問題がモチベーションや労務管理の処遇などの問題に落とし込まれてしまった。
 職務給はむしろ、上記引用部のような、賃金切り下げを目的としていたのである。*9

メンバーシップの二類型

 日本と欧米を理念型化した場合、両者の違いは企業へのメンバーシップか、トレードへのメンバーシップかということなのである。 (121頁)

 なお、日本の大企業のメンバーシップが作られたのは、早くて、明治30年代から大正初期以降である。
 一方、ヨーロッパのトレード(職業・職種)は、産業革命以前の伝統を継承している。*10

トレードユニオンの歴史

 実際にはその連続性を示す決定的な証拠はない。 (122頁)

 ギルドとトレードユニオン*11の連続性についての話である。

 トレード・ユニオンの起源は、実際は18世紀末の産業革命ごろだという。
 19世紀の100年間をかけて、トレード・ユニオンはその意味を大きく変えていったのが実情である。*12
 元々、トレードユニオンは、労組的機能を有すると同時に、同業組合(仕事のプロジェクトを融通し合う)としての性格も持っていたのであり、時代を経て、前者の役割を重点的に担っていくのである。
 ただ、トレードユニオンは、同業組合的でもあった時代からすでに、仲間の共済機能だけでなく、賃上げや労働条件交渉(ストやピケを伴う場合も)を行っていた。
 また、熟練工の訓練プロセスを含め、熟練工の労働供給を掌握してもいた。

徒弟制度とその空洞化

 実際に、徒弟制度の空洞化というのは一九世紀どころかそれ以前から指摘されており、完全な労働供給の独占はおこなわれていなかった。 (124頁)

 徒弟制度の空洞化は昔から問題になっていた。*13
 そこで、不熟練労働者や女性など新しい労働者に対する処遇が問題となるが、この時、労組はそうした労働者を組織化して、労働者全体の労働条件を向上させる道を選んだ。
 今現在の話ではなく、19世紀末から20世紀初頭のイギリスでの出来事である。

生産性と労働強化

 一つ目の考え方は、増えた分の富が労働者に還元されるならば、それは良いことだと考える。じつはテイラーの科学的管理法の発想も同じである。これにたいして二つ目の考え方は、たとえ国民所得が増えそれが自分たちに還元されるとしても、それはかならず労働強化をもとなうものであり、それならば現状維持がよいと考える。これが技術革新にたいして反対する理由である。 (158頁)

 生産性向上運動に対して、右派の同盟や全労会議系は賛成、左派の総評は反対の立場をとった。
 生産性の向上とは、企業レベルでは効率よく利益を出すことであり、国家レベルでは効率よく国民所得を増やすことだった。
 19世紀以来の欧米のトレードユニオン的労働組合は、伝統的に後者の立場をとっており、左派が右派の強調的労使関係を批判してきた根拠もここにある。*14

生産性基準原理

 生産性基準原理はデフレ経済のもとでは影を失い、経営側に残されたロジックは企業レベルの支払い能力になっている。ただし、そうなっていくと、生産性がナショナル・レベルのテーマであったことが忘れ去られ、支払い能力、すなわち企業レベルでの問題にされてしまい、二〇〇〇年代以降の生産性の議論が付加価値性生産性になったことを考えると、本来目的とされた物価安定の意味がわからなくなってしまう。 (169頁)

 結果、合成の誤謬のようなことが起こり、デフレは脱却できないという仕組みなわけである。*15
 そもそも、ベースアップが行われたのは、ハイパーインフレがあったという歴史的背景があった。
 名目賃金を上げないと、実質賃金が低下するからである。
 インフレはすべての人に等しく影響するので、賃金表全体の数値を書き換える必要がある。
 インフレが労働運動を生んだ側面はあるのだと著者はいう。

ボランティアと報酬

 こうした輩こそボランティア精神ではなくエゴのかたまりである。しばしば自分の弱さを直視できないがゆえに、報酬を受け取らないという形式にこだわる。 (192頁)

 他者が報酬を受け取ることを批判し、報酬を受け取る者に対して罪悪感を与える者たち。
 そうした連中に対する批判である。*16
 高額の報酬を要求して、それを全額寄付すればよいではないか、という。*17

 

(未完)

*1:例えば仁田道夫によるものhttps://ci.nii.ac.jp/naid/110010050851 や、後述する赤堀正成によるもの。 

*2:中島寧綱『職業安定行政史』には次のように書かれている(http://shokugyo-kyokai.or.jp/shiryou/gyouseishi/01-1.html )。

番組人宿での申し合わせに、例えばこんなものがあった。/奉公人の身元をよく調べて、出所不明の者は紹介しないこと 利得に迷って、不正な紹介をしないこと 奉公人が逃亡したときは、人宿に代わりの者を差し出させ、同業者間でよく連絡をとり早急に尋ね出すこと (引用者中略) 奉公人には、奉公先の心得を守らせ、風儀をよくさせること

*3:中村茂弘「F.W.テーラーの科学的管理法に学ぶ」(https://qcd.jp/pdf/Kaizen-Base/TR-IE-09-Y20-4-19.pdf )には次のようにある。

実証実験に当たり、テーラー氏は当時の鉄鋼業で盛んに行われていたズク作業を選びました。その理由は、「ズク作業は、つらいが単純な作業であり、科学的管理法の成果が誰にでも明確にとらえることが出来る」と考えたためです。 (引用者略) 個人に分けると、優秀な者と遅い工員に分かれる。そこで、教師がつき、遅い者には、作業方法を指導する方式を進めた。

こうした言葉を読むと、著者の言わんとするところはよく理解できる。

*4:https://ci.nii.ac.jp/naid/40000833241 

*5:じっさい、後世の研究、たとえば、牛島利明・阿部武司「賃金」(西川俊作ほか編著『日本経済の200年』(日本評論社、1996年))は、山崎の意見に賛同している(当該著245、246頁)。

*6:工員月給制の実態について、著者は別の論文で、次の一文を引用している(「戦時賃金統制における賃金制度」https://ci.nii.ac.jp/naid/120005255232 )。

「昇給にはたとへ同一年令とはいへ本人の勤怠,技能等により等差がつくのは産業正義からみても当然である」(渡部旭「賃金制より視たる月給制」,1940年,41頁)。

工員月給制度の提唱者とされる人物の言葉である。

*7:笹島芳雄は「電産型賃金」について次のように書いている(「生活給--生活給の源流と発展」https://ci.nii.ac.jp/naid/40018796729 )。

「電産型賃金体系」では,年齢で決まる本人給が44%,勤続年数で決まる勤続給が 4%に加えて,家族数で決まる家族給は 19%を占めている。当時の男性従業員の場合には,家族数は年齢と密接に関係していたから,賃金の 67%が年齢および家族状況で決まるという生活費を重視した生活保障型の賃金であった。

一方、能力給は約25%あり、査定自体はついているのである。

*8:遠藤公嗣は電算型の「能力給」の問題に言及している(『これからの賃金』旬報社、2014年。97頁)。具体的には、労組が能力給の査定基準を経営側に委ねてしまっていた点である。

*9:百科事典マイペディアによる「職務給」解説には、

技術革新の進行に伴い能率給が労務管理機能を果たせなくなったこと,労働組合がその生活給的側面を強調して維持しようとする年功序列型賃金による賃金上昇を抑え,労働力不足に対処するための賃金原資を確保する必要があること等を理由に,第2次大戦後米国から導入。

とある(https://kotobank.jp/word/%E8%81%B7%E5%8B%99%E7%B5%A6-80268 )。

*10:日本銀行調査統計局「北欧にみる成長補完型セーフティネット」(https://www.boj.or.jp/research/brp/ron_2010/ron1007a.htm/ )は、

スウェーデンフィンランドでは、失業保険制度が国家ではなく労働組合によって運営されている。北欧諸国の労働組合は産業別に組織されているため、失業しても労働組合のメンバーシップはなくならず、社会との繋がりを保ちやすい(社会から排除されにくい)と考えられる。

と述べている。

*11:職能別組合と訳されるであろう。後述するように、かなり歴史的変遷のある言葉なので、注意する必要があるのだが。

*12:『〝学習通信〟060501』は次のような文を転載している(http://kyoto-gakusyuu.jp/tusin06/060501.htm 出典は、「浜林正夫『パブと労働組合新日本出版社 p22-27 」である)。

一八三〇年代にイングランド北部の炭鉱主たちが組織をつくったことがあるが、このときに北部最大の炭鉱主で労働組合弾圧の急先鋒であったロンドンデリ侯がこの組織に加わったのを、ある労働者階級の新聞が「ロンドンデリ侯がトレード・ユニオンのメンバーになった」と冷やかしたことがあった。これなどはトレード・ユニオンが労働組合と業者団体との両方を意味することにひっかけたジョークであろう。 (引用者中略) 問題はトレード・クラブやトレード・ユニオンがどのようにして労働組合になっていったのかということである。仕立て職人の場合、先に述べたようにこのトレード・クラブはジャーニーマンテーラーのクラブであるから親方のギルドとは性格を異にする。むしろギルドの内部の組織であるヨーマン・ギルドのようなものであろう。しかし、もはやギルド内部で親方になることを求めているのではなく、あきらかに労働組合的な要求と運動を展開している。このことは、このクラブの活動のために損害をうけているとして雇用主側が一七二〇年に議会へ提出した請願書から知ることができる。

*13:オーグルヴィとエプスタインの論争において、オーグルヴィは、

徒弟制度と職人制度は技術の世代間継承に必須の条件とはいえない。ヴュルテンベルクのウステッド工業の事例では,徒弟に職業訓練を提供しない親方が処分されていなかったり,欠陥のある親方作品を制作した職人が親方資格を得ていたり,ギルドで公式の職業訓練を受けたことのない寡婦が合法的に営業していた。また,ギルドにおいて職業訓練を受けることを否定されている未婚の女性やユダヤ人などは,何らかの方法でスキルを修得していた。

と述べており、徒弟制度の有効性を疑っている(唐澤達之「ヨーロッパ・ギルド史研究の一動向--オーグルヴィとエプスタインの論争を中心に」https://ci.nii.ac.jp/naid/110009435978 )。

*14:島西智輝「高度経済成長期における日本生産性本部の活動」には、

ここでの労働強化とは,単に仕事量や負荷が高まることではない。総評は,「職場が明朗化され,われわれの職場における自由,組合活動と闘争の自由が確保されること」を求めており,その上に生産性向上が成り立つと主張した。協力から反対までに共通する反応は,強弱の違いはあるが,「協力の代償」をめぐる不信感の表明である。この不信感は,職場の実感に支えられているがゆえに協力派にも共通していると言えよう

とある(https://ci.nii.ac.jp/naid/40019394053 )。

*15:馬小麗は、次のように書いている(「中国の最低賃金制度の状況と発展の新たな動向」https://www.jil.go.jp/foreign/report/2015/2015_0220.html )。

日経連は 1970 年からインフレ回避のために名目賃金上昇率を実質付加価値生産性の伸び率の範囲内とすることで、賃上げ分の価格転嫁によるインフレを起こさない「生産性基準原理」を提唱し、企業に徹底を求めてきた。これに対して労働側は、「実質賃金上昇率を実質付加価値生産性の伸び率に合わせる」(物価上昇分を賃上げに反映する)という「逆生産性基準原理」を主張し、反論してきた。なお、旧日経連の担当者の証言によると 1985 年のプラザ合意以降、急激に進んだ円高によって、為替減価で生産性をいくらあげても利益に結びつかなくなり、生産性基準原理による賃金決定が機能しなくなったことから、各企業の「支払い能力論」を新たな原理として打ち出したとしている(連合総研・調査報告書「日本の賃金―歴史と展望」2012 年)

*16:このボランティア論について、赤堀正成は本書書評において、

これは著者のボランティア経験があって初めて書かれた言葉だろう。このように「あえて価値観に踏み込ん」だ,強い情動を伴う主張は本書の中では例外的な部分である。

と述べている(「書評と紹介 金子良事著『日本の賃金を歴史から考える』」https://ci.nii.ac.jp/naid/120005550188 )。

*17:卑近な例だと、いつぞやの新型コロナウィルス対策の特別定額給付金の時のことを思い出す。政治家も受け取らないのではなくて、貰って寄付をすればよかったわけである。

フルトヴェングラーに対してヒトラーが語った、反ユダヤ主義をやめなかった「言い分」 -奥波一秀『フルトヴェングラー』を読む-

 奥波一秀『フルトヴェングラー』を読んだ。

フルトヴェングラー (筑摩選書)

フルトヴェングラー (筑摩選書)

 

 内容は、紹介文のとおり、

本書は、ヴァイマル期からナチ期、そして戦後における音楽家の振る舞いと内面を同時代人たちとの関係を通して再検討した渾身の作品である。政治に対する倫理のありようを見定め、さらには、その音楽思想がいまなお投げかけてくるものを考察する。

というもの。
 十年は前の本だが、読みごたえがある。

 以下、特に面白かったところだけ。

退廃と芸術とゲッベルス

 「ろくでなし」だからこそ、うまく指揮できるのだ。「まじめ」なドイツ国民が必ずしもよい芸術を生み出せるわけではない、退廃・デガダンと結びついてこそ輝く芸術もある、とゲッベルスは考えているわけである。 (36頁)

 後年退廃芸術を排斥するゲッベルス、そんな彼の1923年ごろの話である。*1 *2

ナチスとゴシック

 ゲッベルスは以前、「民(族)が血の共同体を純粋に維持すればするほど、それが形成する芸術はますます偉大となる(ゴシック建築)」と記していた。が、クシュネルによれば、ゴシック建築はそもそもフランスで発明されたものである。 (引用者中略) しかし、ドイツに受け入れられ発展をとげ、ゲッベルスのいうように偉大な芸術となった (123頁)

 なかなか皮肉である。*3

ゲッベルスフルトヴェングラーと調性

 無調音楽はドイツ的ではないとのゲッベルスの言明の対偶は、フルトヴェングラーの好んだ主張、つまりドイツ音楽は調性によるとの言明そのものである。 (124頁)

 ドイツ音楽と調性の根源的関連を説く点において、ゲッベルスフルトヴェングラーは近かったといえなくもない。*4

 フルトヴェングラーの主張は、音楽的には、ナチの論理を拒めないようなつくりをしていたのである。*5 

ヒトラーの「言い分」

 われわれは七人の党員だった時代に、党が反ユダヤ的であるべきかどうかをはっきりきめたのだ。当時、三対四の票決で反ユダヤ主義にきまった。当時の全員が反対していればよかっただろうが (244頁)

 1933年、ヒトラーと二度目の対面を果たしたフルトヴェングラーは、反ユダヤ主義の行き過ぎを窘めようとしたという。*6
 それに対するヒトラーの言明が上記の言葉である。*7 
 もう党は動き出したから自分にも止められない、というのが、この時のヒトラーの言い分(言い訳)であったようだ。

 その言い分が事実に基づいているかはともかく。

フリッツ・リーガー

 亡命したユダヤアーレントは元ナチ党の音楽に深い感銘を受け、元ナチの指揮者は(略)イスラエル選手犠牲者の追悼式の指揮台にすら立つ。 (336頁)

 アーレントは、ヨーロッパ旅行中、夫に向け、手紙を書いている。
 内容は、ミュンヘン・フィルを聴いた感想で、「メサイア」が素晴らしかった、と。
 だが、その指揮者フリッツ・リーガーはかつてナチ党員だった。*8

トーマス・マンの転向

 作家トーマス・マンは「理想主義的な狂人ともいうべき野蛮人ども」のこの凶行に衝撃をうけ、共和国支持を公にする決心をした (49頁)

 1922年、外相ラーテナウが右翼により暗殺された。
 結果、トーマス・マンは転向することとなった。*9
 この年、政治家暗殺の謀議を厳しく取り締まるべく、共和国保護法が成立した。

 

(未完)

*1:ゲッベルスの1923年11月10日付の日記が参照されている。

*2:ゲッベルスユダヤ系のフリッツ・ラング(映画監督)を懐柔しようとしたことはよく知られている。ラングがアメリカへ亡命したことも含めて。 以下、Gessner Frank (山下秋子・冨田美香訳)の「バーベルスベルク:神話と真実1912-2006」(https://ci.nii.ac.jp/naid/110006387805 )から引用を行う。

ナチスへの政権移譲と、ドイツ映画の保護者としてのヨーゼフ・ゲッベルスの宣伝省就任により、UFA幹部内のユダヤ人に対する圧力が強まりました。1933年春には国内の変動により、会社は無抵抗にユダヤ人職員を解雇します。エーリヒ・ポマーも解雇され、5月にはパリに亡命しました。 (引用者中略) フリッツ・ラングビリー・ワイルダーペーター・ローレなどはこの年にすでに亡命しましたが、遅れて亡命したものや、オットー・ヴァルブルク、クルト・ゲロンをはじめ多くの関係者がナチスによって殺害されました。

*3:例えば、ローゼンベルクは、「一般的で抽象的なギリシアの形態に対置されるのが, 神秘的で内的なゲルマンの魂であり, そうしたドイツ的な本質を表現する偉大な芸術様式として賞賛されるのが,ゴシックである」と主張している(田野大輔「古典的近代の復権-ナチズムの文化政策について- 」https://ci.nii.ac.jp/naid/120005534196 )。

*4:クルシュネルの意見に対して、そう思われても仕方ない、という風な書き方を、著者はしている。

*5:そういえば、シェーンベルクヒンデミットもともに、米国へと亡命しているが、無調は基本好きでなかった後者は、なんとかして、ナチスと妥協をも考えていた。 以下、中村仁「ヒンデミット《画家マティス》におけるドラマと音楽形式」(https://ci.nii.ac.jp/naid/40020766673 )

ヒンデミットは1936年初頭には改めてヒトラーへの忠誠誓約に署名することもしており、最後までオペラのドイツでの初演の可能性を探っていたと言える。よってオペラの作曲経過をめぐっては台本作成と交響曲《画家マティス》の作曲が、ナチスによってヒンデミットが取り込まれていく過程で行われていたのに対して、交響曲初演後に本格化したオペラの作曲とその改訂作業は、ヒンデミットナチスによって攻撃され、それに対して名誉回復を試みていた時期にあたる。ナチスがオペラの初演を許可しなかったのは、決してオペラの内容に問題があったからではなく、ヒンデミット1920年代の先鋭的な作風、ブレヒトとの共同作業、挑発的なオペラなど過去の芸術活動が問題であり、《画家マティス》自体はそのドラマ、音楽ともにナチスにとっては受け入れられる余地は存在していたと思われる。

 ヒンデミットが基本無調を好まなかった点については、例えば『Kentaro SUZUKI's website』の記事http://kentarosuzuki.com/?p=1550 を参照。

*6:クルト・リース『フルトヴェングラー』(みすず書房、1966年)の103頁が参照されている。

*7:ただ、ヒトラーがナチ党の委員会で七番目の委員になったか否かというのは、証拠不十分である。以下、村瀬興雄『アドルフ・ヒトラー』(中央公論新社、1977年)の177頁参照。なお、村瀬は、当該書でティレル『太鼓叩きから指導者へ』を参照している。Albrecht Tyrell  の”Vom Trommler zum Führer”である。

*8:なお、リーガーは来日したことがある。以下、ブログ・『気楽じい~の蓼科偶感』より引用する。

初来日は1972年、当初バーツラフ・ノイマンが一緒に来日する予定だったが出国許可が下りなかったために急遽<ナチ党員でもあった>フリッツ・リーガーとともにやってくる。大阪での演奏は公演の最終日で同じフェスティバルホールで2月16日に行なわれた。

*9:マンに共和国支持を訴えかけさせたのは、ラーテナウ暗殺だけではないと、友田和秀は述べている(「トーマス・マン 1922年--<転向>をめぐって」https://ci.nii.ac.jp/naid/40004837358 )。 

1922年4月の公開書簡でマンがホイットマンにたいする態度を変化させているとするならば,その理由はひとつしか考えられない。「フマニテート」理念の獲得である。『告白と教育』においてマンがそれをおこなっていたからこそ、かれは新たに読んだライジガー訳のホイットマンに触発されて,「フマニテート」理念をくデモクラシーンと結合させることができた,いいかえるなら<デモクラシー>概念をドイツ的なものに向けて転換させることができたのである。ホイットマンが「副次的」であるとするなら,それは,『告白と教育』が<共和国>支持にたいして持つ意味の大きさにくらべてのことなのである。

フマニテート概念の実相については、友田論文を参照願う。