くるみ製本@キンコーズ【2021年春現在】
報告書、卒業論文、修士論文、博士論文などを製本にする人もいると思う。
先日、自分で印刷した原稿をキンコーズに持ち込み、くるみ製本をしてもらったので、そのときにかかった時間や値段を備忘録として記しておく。
・時間:5冊の製本に2時間弱
(この日は少し混んでいたようで、最初に「今からだと3時間はみといてもらいたい」とスタッフの方に言われた。)
・くるみ製本(無線綴じ)1冊320円(税別)
・フル単色カラーコピーA3:1冊90円(税別)
・レザックA3ノビ:1冊88円(税別)
・持込加工手数料:2,000円(税別)
持込加工手数料は消費税込で2,200円である。
確かにHPを確認すると、「持込加工手数料(お客様が用紙および原稿をお持ち込みされスタッフが加工を行うもの)」の横に「2,200円/1オーダー」と記載がある。しかし、キンコーズに持っていく前は全然気づいていなかった。「1冊352円〜なんだー」「安いなー」としか思っていなかった。原稿を渡してオーダーしているときに、スタッフに説明され、初めて気づいた…。
もちろん「2,000円が手数料としてかかることなんて分かってますよ」的な顔をしていたつもりだが、内心ちょっと、いや結構びびったような気がする。
自分の備忘録として残すが、他の人のためにもなれば幸いである。
以上、解散!
〈あとがき〉が妙にカッコイイ学術書4冊【2019.3.31追記】
学術書の〈あとがき〉は個人史である*1。ここに来るまで書き手は学術的ルール一般に則り、禁欲的に一冊の書物を記述してきた。しかし、〈あとがき〉にルールは存在しない。誰も〈あとがき〉の書き方は指導されない。慣習的に似通った内容にはなるが、それでも、著者個人の性格が垣間見える。ここでは、私が妙にカッコイイと思った〈あとがき〉を挙げてゆく。
1.
『刑務所処遇の社会学』
平井秀幸
冗長な本とともに差し出される冗長なあとがきほど、興ざめなものはないと思う。
調査・執筆をめぐる裏話や、ひそかに抱いている筆者の思いも、ここに記す必要もないだろう。それらは本文にこそ記されるべきだと思うし、本書においては必要な限り実際にそうしてきたつもりだ。
これを読んだとき、素直にカッコ良すぎるでしょ、と感じた。とくに一文目の「冗長な本とともに差し出される冗長なあとがきほど、興ざめなものはないと思う」は強烈であった。不遜にも、誰をdisっているのか勘ぐりたくなる文章であったが。
ただ、上の引用箇所だけでも「思う」を2回使用してるところをみると、この人の良さを感じる。学術的にも誠実で、おそらく実際も誠実で良い人なんだろうなと想像する。
それはそうと、この本は400頁弱ながら、凝縮さと洗練さを兼ね備えた内容であった。問い、研究の意義、分析枠組み・方法、内容、どれをとっても学術的水準が高かった。あと、読んでいてただただ知的興奮を味わえた。いつかこの本の感想も書きたいと思うが、〈あとがき〉のように、無駄のない、学術書として〈美しい〉本であった。
2.
『近代・戦争・国家』
最後に、本書は繰返しの箇所が多いと感じる方のために、少々弁じる。理由は二つ。一つは意識的なもので、不遜極まりないが、研究者が必ずしも本が読めるとは限らないということを、博士論文を本にしたときに感じたからである。どうしてこういう理解になるのか、書いた本人が理解に苦しむものまである。受け取り方は自由だとしても、まずは本をそのままに読むということがいかに難しいことなのかを悟った(学生の授業の理解の偏頗さというのもその例だが)。というより、数式や技法の習得に時間がとられて、本を読むということの訓練や習慣が足りないのかもしれない。そのとき抜群の読解を提示されて本人すら驚き、逆啓発された研究者はいまでは同僚である。繰返しは一種の意識的なダ・カーポ形式の採用であり、本書全体がソナタ形式なのだとお考えいただきたい*2
こちらは打って変わって、「冗長な文章とともに冗長なあとがき」である*3
「研究者が必ずしも本が読めるとは限らない」。ここで、そんなこと言っちゃう?マジで!と思わず言ってしまう文章である。ただ私はこういう人も好きなので、内容も含めてとても興味深く読んだ。〈あとがき〉もさることながら、〈注釈〉も教養のオンパレードである。引用の最後のほうを読んでわかるとおり、クラシックの知識もガンガン開陳してくる。
昔、勝手にイメージしていた「大学教授」を体現しているような人である。決して友だちにはなりたくないが*4、このような書き手が学問の世界に存在することに安堵する。
3.
『成熟と近代』
デイヴィット・オーウェン
ここで私は、この本の執筆中、私の研究とよき生活状態を支えてくれた人すべての名前を挙げることはできない。そこで、これから実際にお名前を挙げる方々によって、ここでは言及できないすべての人々にたいする私の感謝の気持ちに代えさせていただきたいと思う。
これは厳密な意味で〈あとがき〉ではなく、〈謝辞〉ではあるが、取り上げることにした。理由はわかると思うが、二つ目の文章の前後関係が矛盾しているように思えて、一瞬理解できなかった。読んでいてフリーズしたのだ。結局これって、言い換えれば「ごめん、忘れたヤツもいるけど、許してね!」を丁寧に表現したにすぎないだろう*5。
のっけからこのような文章を書けるだけあって、内容も近代批判者としてのニーチェ・ウェーバー・フーコーを繋げて論じていて、勉強になるところが多かった。
4.
『力学の誕生: オイラーと「力」概念の革新』
有賀暢迪
校正作業を一通り終えてみて、「ようやく義務を果たした」と感じるとともに、「結局これだけしかできなかった」という思いが胸のうちを行き来している。
十八世紀の力学と出会ってから今日までの十五年間に、研究者であれ親族であれ、本書が出版されたならきっと喜んでくれたであろう何人もの人たちがこの世を去った。それでも私は、前に進まなくてはならないーー期待してくれる人たちがいる限り。おそらく、私自身はこれ以上、十八世紀の力学に関して新しい研究をすることはないだろう。願わくは、後に来る人たちが本書を一つの手掛かりとして、この重要かつ魅力的なテーマと取り組み、そして楽しんでくれたらと思う。義務は果たした。結局これだけしかできなかった。それでも、後悔はしていない。
あとがきの最初の段落と最後の段落を上記では引用した。美しいあとがきである*6。ここまで言い切れることが何よりも尊い。この方は「ようやく義務は果たした」と語り、「結局これだけしかできなかった」とも述べる。おそらく専門家がこの本を評すれば、高い評価になるだろう。そんな人が「結局これだけしかできなかった」という語るとき、その言葉にはどれくらいの重みがあるのだろうか。私はそれを理解できる位置にはいない。ただただそれが残念である。
しかし、最後の一文である「それでも、後悔はしていない。」は使い古された言葉であり、カッコつけた表現ではあるが、本当にそう思ったから、そのように書いたのだろう。この言葉を書き切れるということ自体、生き様として美しく感じる*7
世界/社会に触れるノンフィクション vol.1
「建国大学」。この名を知っている人はどれくらいいるのだろうか。三浦英之『五色の虹ーー満州建国大学 卒業生たちの戦後』によると、そこは「日中戦争当時、日本が満州国に設立した最高学府」であり、「日本政府がその傀儡国家における将来の国家運営を担わせようと、日本全土や満州全域から選抜した、いわば戦前戦中の『スーパーエリート』」たちがいく大学であった。だが、私たちのほとんどはその存在さえも知らない*1。
彼らが戦前・戦中・戦後生きた世界は一言でいえば「壮絶」なのかもしれないが、経験を伝えるときの言葉の儚さ、無力さも同時に味わえる内容になっている本が、上の『五色の虹』である。
序文には建国大学一期生、村上の言葉がある。
友よ。九一歳になった今でも、私は君のことを誇りに思う。君のような心意気を、自己犠牲の精神を、今この国の若者はどれだけ持ち合わせているだろう。
君と誓った、「いい国をつくろう」。
その行く末をもう少し見定めてから、私は君のもとへ逝こう。
一歩間違えればだだの極右にしか見えない文章ではあるが、おそらくそれは違うだろう。なぜなら彼らには「言論の自由」を理解できる頭脳、そして実践できる環境があったのだから。
社会学を学び、ノンフィクションを読む意義は、私たちを規定する「何か」を理解することだと思う。善/悪の次元ではなく、ただただ構造を把握すること。それを人間の経験・システムから導き出し、よりよい理解を目指すことだと思う。
ただその「何か」はときとして「時代」で片付けらるものかもしれない。以下は三浦が建国大学二期生、藤村にインタビューしている内容である。
私は取材の最後にあえて聞きにくい質問を藤村に尋ねた。
「藤村さんの人生は幸せだったのでしょうか」
藤村は一瞬笑ったように見えた。
「自分でもよくわかりません」と彼は私を見つめて緩やかに言った。「人生は一度きりしかありませんから。誰にもその比較ができません。若い頃は目の前に沢山の道が開けていて、全部が自分の可能性のように思えてしまう。すべてが自分の未来だと勘違いしてしまうんですね。でも本当はそうじゃない。そのうちのほんの一つしか選べない。自分が生きてきた人生がすなわち私の人生だとすれば、私は私の人生に悔いというものはありません」
「もしもあのとき、満州に渡っていなかったら、と考えることはありますか」
「それは……、あるかもしれません」と藤村はゆっくりとした口調で言った。「でもそれはあの大きな時代のうねりのなかでは、あまり考えることを必要としない問いかけだと思います。空から爆弾が降ってくるような時代に、人の運命がどうなるかなんて、木の葉がどこかに落ちるかを予想するくらい難しかったんです。今、社会に存在している確実性というものが、当時にはまったく存在していなかった。人の人生なんて所詮、時代という大きな運河に浮かんだ小さな手こぎの舟にすぎない。小さな力で必死に櫓を漕ぎだしてみたところで、自ら進める距離はほんのわずかで、結局、川の流れに沿って我々は流されていくしかないのです。誰も自らの未来を予測することなんてできない。不確実性という言葉した私たちの時代にはなかったのです。(三浦 2015: 83-4)
「でも本当はそうじゃない。そのうちのほんの一つしか選べない」。この意味・内実を10代の頃の私なら理解できなかっただろうなと思いながら読んだ。そして「ほんの一つしか選べない」事実は私が観ている社会と他者が観ている社会に誤差があることを示している。本を読むことで、または他者に耳を傾けることで少しは緩和されるかもしれないが、この誤差はコミュケーションの前提にもっておいたほうがよいものなのかもしれない。
そして、後半にある「人の人生なんて所詮、時代という大きな運河に浮かんだ小さな手こぎの舟にすぎない」という文言は、今の私にとって考えさせらるものであった。この文章を読んで、「だからこそ」と思うか「それでもなお」と言葉をつむぐかによって方向性はだいぶ変わるのだろう*2。個ではどうすることもできない時代のうねりがあり、現代の私たちも形は違えど、そのうねりの中で生きている。藤村の言葉でいえば確実性がある世界で生きている。その確実性を憂いたところで意味はなく、その次の次元に私たちは生きている。つまり確実性の社会をいかに生きるのかと。その恩恵を十二分に活かすためにいかに生きるのかと。
あと、「『知る』ことはやがて『勇気』へとつながり、『勇気』は必ず『力』へと変わる」(三浦 2015:172)も記憶に残る言葉だった。研究する立場の人間として、勇気付けられる言葉であった。
建国大学やその学生の実態は歴史の流れによって、その一旦しか今後もわからないだろう。それを知るには絶対的な情報の少なさに加え、学生たちの高齢化が著しいからだ。しかしそれでもなお、文字にすることで記録になり、それは記憶されていく。その大切さを痛感する本だった。そして、幾度となく目頭が熱くなる本だった。
『五色の虹』
三浦英之
濃密な学びが得られる社会学の本 vol. 1
仁平典宏『「ボランティア」の誕生と終焉』は生み出された瞬間に〈古典〉となった本である*1。用語の選定も含めてゴリゴリの学術的文献であり、その選定には著者の選好も垣間見える。たしかにそれは学術的系譜に連なりつつも、どこか新しさを感じさせるものがあった。つまりそれは新しい世代の誕生である。
誰にでも薦められる本ではない。鈍器のように重く枕の代わりになるので*2、その意味では一家に一冊的なオススメはできるが、内容は人を選ぶかもしれない。
しかしながら私は、この本を通じて知的興奮を味わっていた。この知的興奮こそが学問の醍醐味であると思う。「ボランティア的なもの」の変容過程を明治期から現代(2000年代)までという長期スパンで眺め、それを〈贈与のパラドックス〉という鍵概念で分析することによって、その歴史的過程を提示する。表面的なものでではなく、本物の〈社会学〉を味わいたい人にはオススメできる*3。あとボランティアは「偽善」じゃないのというシニカルな視点を有している人も楽しく読めるだろう*4。
本書の面白さは読めばすぐにわかるが、あえて一つだけ引用する形で、その一端を紹介したい*5。ストリートチルドレンの話で、そのボランティアをする本人の前で他者が「自己満足じゃないの」という応答がなされる場面である。
ところが、現実によくあるタイプは、「君たち、ボランティア活動をやっても仕方ないよ。やはり、制度が問題。世の中を変えないといかん」とか言うわけ。そんな時は「なるほど。あなたの言うことはごもっともだ」と、一応は僕も言うわけ。そして聞くんよ。「そしたら、あんたは、その制度を変えるために、具体的に何をしてはるんですか」と。そしたら、何もしていない。しかも、そういう人が何をしてるかというと、喫茶店でコーヒー飲んでるんですわ。(笑い)
……僕は、どちらの形態でも良いと思うねん。ともかく本気になって、どちらをやったら良い。徹底してね。本当に本気でやったら、どちらであっても綺麗事ではすまなくなる(仁平 2011: 432)。
上記の対談を引用後、仁平は以下のように解釈/議論をする。
彼はいつまでもコーヒーを飲んでいるだけかもしれない。だが、少なくとも彼は「ボランティアを否定する」という言語行為を行った。媒介項を否定した瞬間、彼は、ストリートチルドレンと、ある形で向き合うことになる。それでは代わりに何をするか? それとも何もしなくてもよいのか? もししなくてもよいならその根拠は何か?ーーこのような問いが、彼の選択/行為の結果として開かれる。……自らの行為でボランティアを否定することを通して、他者への応答責任が転移したのだ(仁平 2011: 432-3)。
先に引用した対談は一瞬よくある会話にしか過ぎないが、ここに検討が入ると上記のような分析に変化する。これが「分析」であり「研究」というものなのだろう。このような分析が至るところにあるのだから、驚嘆するし、悔しいという言葉さえ吐かせてもらえない。議論の「根拠」はどこにあるのかを常に考えているから、このような分析がサクッとできてしまうのだろう*6。
仁平における一つ目のピークはこの本の出版をもって終わった*7。次はどのようなピークを迎えるのだろうか。期待しかない。
『「ボランティア」の誕生と終焉』
仁平典宏
*1:「私調べ」だけどね。
*2:パッと自分の本棚を見まわすかぎり、仁平の本に対抗できる書籍は、W・キムリッカ『現代政治理論』やA・ギデンズ『社会学』、立岩真也『ALS 不動の身体と息する機械』など、名だたる方々である。
*3:知的体力(?)みたいなものがあるとしたら、それがないと辛いかもしれない。言い換えれば、社会学的基礎知識がないと読みこなせない。とくに序章は禁欲的に書いたのか、前提知識がないと理解しきれないと思うので、ちょっとぐらい理解できなくても読み飛ばしていい。しかしながら、その序章こそが仁平の葛藤が垣間見える興味深いところでもある。
*4:もっと言えば、その偽善じゃないのという視点に対して、どのような回避を慈善活動家たちがしていたのか当時の社会的コンテクストも加味しながら述べているし、民主化要件としての①国家に対する社会の自律と②国家による社会権の保障を両立させる回路をめぐる議論も勉強になる。
*5:これから引用する部分は本書で私が一番興味深かったところではない。
*6:サクッとかどうかは知らないけど。
*7:これはディスってるのではなく、一つの区切りとしての意味だよ。
中動態とは何かをめぐる旅
國分功一郎『中動態の世界』は「中動態とは何か」をめぐる思考プロセスにこそ本質があり、そこが抜群に面白い*1。これが『中動態の世界』を読んだ感想のすべてである。
一読しただけなので議論のすべてを咀嚼したとはとてもじゃないが言い切れない。しかし、國分の文才はそれを凌駕する興奮を読者に促す。
もちろん、私は哲学の教養も言語学の教養も乏しいので、國分の議論の正当性や精確性といった専門的視点から、この本を論ずることはできない。だが〈中動態〉をめぐる議論に身を委ねることで、私の思考/頭が刺激を受けていることは読みながらも感じていた。
私たちは二項対立の無意味さをどこかで感じていながらも、その思考方法に囚われていることを知っている。「する」と「される」だけで世界を説明することなど、とてもじゃないができない、と。しかし現存し使用される言語は、その認識枠組みにおいてどうあがいても両者に回収されてしまう。
ある事象における「あやふやなこと」「グレーゾーン」「グラデーション」などを考えるときの補助線として、またはそのような議論の土台として、この本を読む意義は大きい。エナジードリンクを飲まなくてもいいような落ち着いたときに、もしくは簡単に割り切れないことをどのように考えていけばよいのかと思ったときに手に取ってほしい。そのような時に読むと得ることはたくさんあり、自分の思考が拡散していく様を体験できるだろう。
『中動態の世界』
國分功一郎
*1:イントロと結論部だけを読むという愚かなことをしないように。それをしてしまうとこの本の面白さは半減してしまう
本を書くこと、学者になること
細谷雄一さんの記事が出ていた。
青春とは、希望と不安が結びつくことで生まれてくる。そのどちらが欠けていても、美しい青春とはならない。
上の文章からはじまるエッセイは僕の心にグッとくるものがあった。その他にも、美しい文章が散りばめられていた。
私の場合は、学者になって、本を書きたかったのではない。本を書きたかったから、学者になったのである。
私にとっての希望とは、本を書くことであった。本を書くことができたら、どれだけ素晴らしいだろう。装幀そうていのデザインから、本のサイズから、タイトルから、全てが愛いとおしい。それは自らの世界であり、宇宙である。本を書くことは、自らの宇宙を創成することである。だから、それは単著でなければならない。
「本を書きたかったから、学者になったのである」も「だから、それは単著でなければならない」も、素晴らしい。
綺麗すぎる言葉でもあるけれど、「真面目」に語ることも重要だと思う。どんな形であれ、〈美しいもの〉でしか人に感動や喜びは与えられないのだから。
詳しくは以下を(いつまで見れるかはわかりません)
ラポールとは何か
調査対象者との「信頼関係(ラポール)」が重要である。
社会には「表面的な付き合い」や「タテマエ」が存在するが、社会学の調査系の本にも「うわべ」にしか思えない表現はいくつも存在する。そのうちの一つが「ラポール」という言葉である。調査者と調査対象者にはラポールが重要であるとよく言われる(教科書で)。なんとなく理解できるが、この言葉の上っ面な感じが私は好きじゃなかった。だが、そう思っている人は私だけではなかったようだ。『質的社会調査の方法』で社会学者の岸は以下のように語っている。
前節で出てきた、調査者と語り手とのあいだの信頼関係という問題について、もう少し考えてみましょう。この両者のあいだの信頼関係は、これまでの質的調査の教科書では、「ラポール」という言葉で表現されていました。そして、調査者は、調査対象者から「正しい」データを得るためにも、また、調査を「円滑に」すすめるためにも、ラポールの形成が不可欠であると指摘されてきました。しかし私はいくぶん、そんなことは考えたこともありませんし、そもそも、いくら信頼関係があっても、いや信頼関係があればなおさら、どうしても言えないことがでてくるだろうし、だいたい「正しいデータ」や「円滑な進行」のために上っ面だけ仲良くしておきなさいと言われているようで、この手の議論には嫌悪感しかありません。ですからこの章では、ラポールという言葉は使っていませんし、それに関する議論もしません(岸・石岡・丸山 2016: 164)
ある意味、感動を覚える。このような姿勢のほうが誠実だと思う。岸が彼なりにこれまで積み上げてきた方法論、そして経験があるからこそ、ここまで言い切れるのだろう。
この本には色々な箇所に細かいTIPSが散りばめられている。一つひとつ言及はしないが、質的調査とは何か、と思う学部生や院生が読んで損はない。断言できる。
「生活史を知るとは、つまるところ、その人の人生を知ること」につながるんだなあと、しみじみ感じてしまった。岸のこれまでの本、そのまんまである。久々に『断片的なものの社会学』を読み返したくなった。
『質的社会調査の方法』
岸政彦・石岡丈昇・丸山里見