hayatouriの日記

はやとうり の独り言

モネと広重と北斎と その8

昨日の続きです。

 

展示された広重の作品の一部を紹介をしていきたいと思います。

 

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五十三次の代表作です。


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まずは、旅の始まり日本橋


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↑少し拡大して撮影してみました。

魚屋さんでしょうかね。

 

 

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↑拡大してみると、岩肌がまるでスタンドグラスのように表現されていますね。

 

斬新です!

 

 

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天狗の面を担ぐ、金比羅山への参拝者のようですが、この頃から全国的な信仰を集めていたのですね。

 

 

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↑解説にも書かれていますが、左側に富士山が見える特殊な風景です。

 

 

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上を拡大したものです。

漁船でしょうか?


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↑拡大したものです。

 

「冬枯れの図」とあるように、焚き火に背中を向けたり、手をかざしたりして暖をとっていますね。

 

それにしても薄着です!

 

つづく

 

モネと北斎と広重と その8

昨日の続きです。

 

そして、北斎と広重はライバルとして火花を散らすことになります。

 

広重の「東海道五拾三次」に対して北斎は「諸国瀧廻り」や「諸国名橋奇覧」などを発表します。

 

しかし広重の優位が揺らぐことはありませんでした。

 

ふたりはさらに花鳥画でも競合するようになり、北斎はテクニックを駆使し、広重は抒情的かつ感傷的な画風を追求します。

 

結局、江戸庶民の支持を集めたのは広重でした。

 

 

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北斎「桜花に鷹図」

 

 

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広重「月に雁」

 

その結果、北斎はみずから開拓した風景画に執着することなく肉筆画へシフトします。

 

90歳になっても画業に対する熱意は薄れることがなく、没する間際まで絵筆をとり続けました。

 

対する広重はよりいっそう写生を重視し、風景の中に自分の思いを込めた風景画を数多く残します。

 

そんな広重も、富士山をテーマにした「不二三十六景」を描いたのは北斎の没後のことなのです。

 

「冨嶽三十六景」と「東都名所」が同年に発表されるという運命の出会いがなければ、その後のふたりの画業はまた違ったものになっていたのかもしれません。

 

広重が亡くなる3ヶ月前、日本とアメリカの間で修好通商条約が締結されました。

 

これによって日本国内は幕末の動乱期に突入しますが、日本の産業・文化が広く西欧に紹介される時代が到来することになります。

 

浮世絵もまた海を渡り、西欧の人々に称賛をもって迎えられました。

 

極東の小さな島国で、こんなハイクオリティなフルカラーの印刷物を庶民が気軽に買って楽しんでいる! 

 

日本のものづくりの技術と文化水準の高さに、世界が驚嘆したのです。

 

特に浮世絵から大きな影響を受けたのが、新しい絵画表現を模索していた芸術家たちです。

 

印象派の画家、クロード・モネや、ポスト印象派の画家、ヴァン・ゴッホが、熱心な浮世絵ファンであったことは有名です。

 

このブログの冒頭にも紹介しましたが、今回大阪でモネの展示会があり、そこから歩いて5分の場所で北斎と広重の展示会がある! 

 

この当時、一体誰がそんなことが起こるなどと想像できたでしょうか。

 

 

そして浮世絵の中でもとりわけ西欧の人々を魅了したのが、そのバリエーションに富んだ青の色彩でした。

 

抜けるような蒼天に、懐深い海の青……そう、浮世絵の風景の随所に用いられた青色です。

 

職人の技によって、和紙の繊維の中に絵具の粒子をきめ込む浮世絵版画は、絵具に定着剤や接着剤を混ぜないため、素材そのものの純度の高い発色を可能とします。

 

西洋の人々は、日本の浮世絵版画に見られる美しい青に、風景画の名手・広重の名を冠し、「ヒロシゲブルー」と呼んで愛好しました。

 

実は、広重が活躍した時代、浮世絵版画には海外からの輸入顔料も使用されており、西洋の人々が「ヒロシゲブルー」と呼んだその青色には、逆輸入したプルシャンブルーの絵具も使用されていたのですが……。

 

それだけ広重作品の青の色遣いが、新鮮で魅力的なものだったということでしょう。

 

広重が西方浄土への永遠の旅に出たのち、その作品もまた思いも寄らない大旅行をして、東西文化交流の架け橋となったのです。

 

いよいよこのブログもクライマックスとなります。

 

次回は広重作品の紹介を行いたいと思います。

 

つづく

 

モネと北斎と広重と  その7

連休後半戦でございますが、皆様いかがお過ごしでしょうか?

 

私も2日から4日にかけて少し遠出をしまして、この三日間で約1000キロほど車に乗ってきました。

 

特にこれといった渋滞にも出会わず、非常に快適なドライブでした。

 

行ったところが思いのほかよかったのでまたブログでいろいろご紹介したいと思います。

 

さて、北斎と広重の出会いのために葛飾北斎の歴史を少しさかのぼっていましたね。

 

北斎が50代半ばに読本挿絵を一段落させたころには弟子や私淑者が全国に大勢いました。

 

彼らの絵手本として作成した版画「北斎漫画」で北斎の名は不動のものとなります。

 

「漫画」といっても、今のコミックではありません。

 

目に映る生活用品や植物、動物などありとあらゆるものを描写して1冊の本にまとめたものです。

 

もちろん、働く人の姿や、人相、着物、様々なものも含まれています。

 

絵描きのためのお手本百科と言ったほうがいいと思います。

 

そのようにして腕を磨いた北斎が70歳を過ぎて挑戦したのが、「冨嶽三十六景」シリーズでした。

 

さまざまな富士の姿を描いた36枚の連作は、浮世絵の世界に風景画という新たなジャンルを確立し、北斎はついに浮世絵の頂点に上りつめたのです。

 

 

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しかし、北斎が浮世絵師としてトップに君臨したのも束の間。「冨嶽三十六景」が大ヒットした2年後の天保4(1833)年、北斎を凌駕(りょうが)するような絵師が現れます。

 

それが、五街道のひとつである東海道の宿場を題材にした連作「東海道五拾三次」で空前の大ヒットを記録した歌川広重でした。

 

このブログでも紹介しましたように広重は寛政9(1797)年、幕府御家人の火消同心、安藤家に生まれています。

 

13歳で両親を亡くした広重は家計を助けるため、浮世絵師を志して歌川豊広に弟子入りします。

 

16歳で広重の画号を授かります。

 

歌川派は美人画や役者絵を得意としていたのですが、広重はそれにとらわれることなく、円山応挙の影響を受けて写生を重視し、独自に腕を磨いていきます。

 

そんな広重が満を持して描いたのが風景画「東都名所」でした。

 

しかし、自信作にもかかわらず評判は今ひとつだったのです。

 

その理由は、同じ年に北斎の「冨嶽三十六景」が発表されていたから。

 

72歳の老人が描いた富士山は、当時35歳の広重から見ても斬新かつ革新的で、大きな衝撃を受けたといいます。

 

広重は出端をくじかれたものの、かえって意欲をかきたてられ、一立斎(いちりゅうさい)と号を改めて新たな風景画・名所絵の境地を模索します。

 

そうして2年後、有名版元「保永堂」に依頼を受けて世に送り出したのが「東海道五拾三次」シリーズだったのです。

 

東海道の53の宿場を取材し写生して描き上げた広重の風景画が大当たりをとった背景には、富士山信仰やおかげ参りなどの旅行ブームもありました。

 

つづく

 

 

 

 

モネと北斎と広重と その6

とうとう5月になってしまいました。

 

ゴールデンウィークに突入している皆様も多いのではないでしょうか?

 

このブログを明日から3日ほどお休みをさせていただくことになります。

 

さて、昨日の続きに戻ります。

 

今度は広重について調べていましたね。

 

広重は10代前半で父母を相次いで亡くしました。

 

20代半ばで家督を親族に譲り、浮世絵師になります。

 

生涯に手がけた膨大な数の作品から、彼が日夜絵筆をふるい続けていたことは明らかですが、彼ほどの人気絵師であっても筆一本で生きていくのは決して容易ではなく、亡くなる直前まで借金の返済に追われていた苦労人でした。


同じ歌川派である豊国が、追悼の意を込めて描いた広重の肖像(死絵)です。

 

この絵は広重編冒頭に紹介しましたね。

 

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歌川豊国(三代)「広重肖像」東京国立博物館蔵(引用元:東京国立博物館 


そんな広重は数え年62歳の秋に病気で亡くなります。

 

辞世の句は「東路へ 筆を残して 旅の空 西の御国の 名所(などころ)を見む」

 

日本のあらゆる土地の風景を描いてきた人生、どこへ行っても筆を走らせ、常に作品のことを考えていたのではないでしょうか。

 

ようやく筆を置いて、さて西方浄土を見物に行こうか。

 

そこには、世のしがらみから解放され、穏やかな心で死を迎える広重の姿がうかがえます。

 

昔の著名人たちは、死の直前にこのような素晴らしい辞世の句を残す人が多かったみたいですね。

 

ここから北斎と広重の出会いについて調べてみたいと思います。

 

まずは一度、北斎の歴史を簡単に振り返ります。

 

 

北斎の経歴をひもとくと、早くも6歳にして絵筆をとり、19歳で浮世絵師・勝川春章(かつかわしゅんしょう)の弟子となり、絵師としての活動をスタートしています。

 

やがて挿絵などで頭角を現しますが、師匠の没後に勝川派から破門され、北斎は独自の画境を目ざすようになっていきます。

 

北斎は早くも6歳にして絵筆をとり、19歳で浮世絵師・勝川春章(かつかわしゅんしょう)の弟子となり、絵師としての活動をスタートします。

 

やがて挿絵などで頭角を現しますが、師匠の没後に勝川派から破門され、北斎は独自の画境を目ざすようになっていきます。

 

破門の理由は師匠が亡くなったからだとか、北斎が他の流派の画法を学んだとか諸説あります。

 

やまと絵や琳派を学んだ北斎は、宗理(そうり)の号で狂歌絵本の挿絵を手がけ、肉筆で描いた美人画は評判となります。

 

ところが当時は歌麿写楽の絶頂期です。

 

美人画で名を成すにはいたらず、日々の暮らしにも困るようになっていきます。

 

北斎が40代になったころ、寛政の改革によって読本(よみほん)が流行します。

 

北斎はその挿絵を一手に引き受け、創意工夫を凝らした絵が評判となります。

 

 

つづく

 

 

モネと北斎と広重と その5

昨日の続きです。

 

次は広重について調べてみたいと思います。

 

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↑ 歌川広重安藤広重)像です。

 

19世紀後半に海を渡った浮世絵は、世界中の人々から高い評価を受けることになります。

 

中でも、西洋の文化に大きな影響を及ぼし、今なお高い人気を誇っている浮世絵師の一人が広重だと言われています。

 

情緒にあふれた四季折々の日本の風景を描いた彼は、どんな人物だったのでしょうか。

 

歌川広重(うたがわひろしげ・1797-1858)は、江戸時代後期に活躍した浮世絵師です。 

 

街道が整備され、人や物の往来が盛んになる中で起こった旅行ブームに乗じ、東京と京都を結ぶ東海道の全ての宿駅を描いた55図の浮世絵シリーズ「東海道五十三次」(保永堂版)が、空前の大ヒットします。

 

以後、全国津々浦々の風景を風情豊かに描き出し、名所絵の広重として好評を博しました。

 

広重の風景画の特徴の一つが、季節や天候による巧みな演出でしょう。

 

例として代表作の「東海道五十三次」を見てみましょう。

 

東海道の起点である「日本橋」は、一日の始まりである朝の時間帯を描いています。

 

晴れやかな東雲の空、魚河岸の賑わい、大名行列の旅立ち……観る者に語りかけてくるような情景が、画面の中に広がっています。


新しい浮世絵シリーズの刊行スタートを飾るに相応しい一図といえます。

また「蒲原」では、夜の銀世界を描きました。

 

温暖な太平洋側の蒲原に、なぜこのような積雪を描いたのかはわかっていませんが、真っ白な雪から、同地の浜に広がっていた塩田や、同名の新潟の豪雪地帯を思い浮かべる人もいたかも知れません。

 

このように、広重は各地の風景に様々なシチュエーションを掛け合わせることで、物語性のある画面をつくりだします。

 

なお、北斎とはライバルのように語られますが単純にそうではありません。

 

少し前のブログでも紹介しましたが広重は、浮世絵界の長老である北斎の作品から多くを学び吸収しています。

 

その上で自身がより得意とする抒情的な表現を追究し、風景画というジャンルを共に盛り上げていったと言うことができるでしょう。

 

広重はもともと武家の出身です。

 

八代洲河岸(現在の東京丸の内)の定火消同心、安藤源右衛門の子として生まれました。

 

定火消とは幕府直轄の消防組織(ふだんは町の治安維持にあたる)で、同心はそこに所属する下級武士のことです。

 

(そのため「安藤広重」と書かれている文献もありますね。)絵師となった後に京橋に移住しますが、江戸の中心である江戸城日本橋の徒歩圏内で暮らし続けた、生粋の江戸っ子でした。

 

つづく

モネと北斎と広重と その4

続きです。

 

下書きを書いてなぜかアップしたつもりになっていましたが、忘れてましたね💦

 

さて、そろそろ北斎の絵版画の写真です。

 

これも、モネの時と同じように大勢のギャラリーがいまし

たので、真正面から写真に撮る事はほぼできませんでした。

 

そして、この絵画展は全部が写真撮影可能でしたが、とても全部を撮影することができませんでしたので、あらかじめお断りしておきます。

 

これまでも触れられてきましたが、北斎といえば「富士山」です。

 

また絵版画の構図も、当時西洋から持ち込まれた遠近法などを用いています。

 

ではご紹介します。

 

 

 

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この一部分をを拡大すると・・・

 

 


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ように描かれており、当時の生活が垣間見えます。

 

 

 


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↑これはあまりにも有名な絵版画ですね。

 

また、機会があればご紹介したいと思うのですが、美術的構図的に人間が最も好む「黄金比」と呼ばれる比率があります。

 

この絵をそれで分析してみると、こうなります。

 

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隣にレオナルドダヴィンチのモナリザも比較していますが、北斎もこの「黄金比」を用いて作画していたとは驚きです。

 

 

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↑波の部分の拡大図です!

 

 

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この構図なんて普通の人には想像もできないですよね。

 

次の絵は安藤広重のものですが、明らかに北斎を意識しているのは間違いありませんね。

 

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その事は本人も宣言しています。

 

 

 

 

 

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さて、北斎についてはこの位にしておきたいと思います。

 

続いて広重をご紹介したいと思いますが、世間は連休に突入してしまいました!!この間のアップはかなり不定期になると思いますのでよろしくお願いいたします。

 

 

 

つづく

 

 

 

モネと北斎と広重と その3

昨日の続きです。

 

北斎が新たなチャレンジを始めたのが70歳!

 

当時の平均寿命は60前でしょうから、大変な老人がチャレンジを始めたということになります。

 

北斎は90歳の長寿を全うし、生涯現役を貫きました。

 

多くの弟子を抱え、人気絵師の名をほしいままにしました。

 

ところが本人は最期に「あと5年、いや、あと10年生き長らえることができれば、まともな絵描きになれたのに……」

 

悔やんだそうです。

 

そんな彼の雅号(絵師として活動するときの名前)のひとつが「画狂人(または画狂老人)」です。

 

あらゆるものを描き、画ひと筋にひたすら邁進し続けた人生でした。

 

ところが努力家という美談の一方で、北斎にはかなりの奇人変人であったエピソードがあります。

 

現在、私たちは彼のことを「葛飾北斎」と呼んでいますが、「葛飾北斎」という名前を名乗っていたのは70年の画家人生の一時期です。

 

駆け出しの頃は「春朗」、続いて「宗理」を名乗り、やがて「北斎」「時太郎」「画狂人」……といったように30回も名前を変えています。

 

北極星(北辰)や北斗七星を想起させる「北斎辰政」や「葛飾戴斗」など、かなりかっこつけた名前もあり、雅号にこだわりがあったのかなかったのかは謎です。

 

ちなみに、本名は鉄蔵といいます。


また雅号以上にコロコロ変えたのが住所でした。

 

北斎は片付けがまったくできず、散らかすだけ散らかすと、住居を移転したそうです。

 

人生で90回も転居したと伝えられています。

 

料理もまったくせず、買ってきた食事はそのまま器にうつさず、食べたらそのへんにポイすてだそうです。

 

一度、広重が北斎に教えを乞うために自宅を訪れたことがあるそうですが、その高慢な態度と、あまりに汚い家の中を見て、そそくさと帰ってしまったようです。

 

 

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これは展示されていた北斎の家のモデルです。

 

中で布団をかぶって、絵を描いているのが北斎

 

近くに座っているのが娘の 葛飾応為です。

 

この娘は北斎(父)をとっても好きだったようですね。

 

そして、妻は・・・

 

逃げていってしまいました💦

 

実は葛飾応為は絵の才能がずば抜けて高く女流絵師として活躍しています。

 

北斎は大変寒がりで、客が来た時も布団から出ようとはしなかったようです。

 

絵もこのように布団の中でよく描いたそうです。

 

とにかく喧嘩早い、お金にルーズ、ゴミ屋敷など近所にいたら、ずいぶん迷惑なお方のようです。

 

つまり一般的な衣食住にはほぼ興味がなかったことがうかがえます。

 

きっと絵を描くこと以外には、人にも物にも、とことん無頓着だったのでしょう。

 

ただ甘党だったようで、北斎宅への手土産はお菓子が喜ばれたようですよ。

 

つづく