昨日の続きです。
そして、北斎と広重はライバルとして火花を散らすことになります。
広重の「東海道五拾三次」に対して北斎は「諸国瀧廻り」や「諸国名橋奇覧」などを発表します。
しかし広重の優位が揺らぐことはありませんでした。
ふたりはさらに花鳥画でも競合するようになり、北斎はテクニックを駆使し、広重は抒情的かつ感傷的な画風を追求します。
結局、江戸庶民の支持を集めたのは広重でした。
北斎「桜花に鷹図」
広重「月に雁」
その結果、北斎はみずから開拓した風景画に執着することなく肉筆画へシフトします。
90歳になっても画業に対する熱意は薄れることがなく、没する間際まで絵筆をとり続けました。
対する広重はよりいっそう写生を重視し、風景の中に自分の思いを込めた風景画を数多く残します。
そんな広重も、富士山をテーマにした「不二三十六景」を描いたのは北斎の没後のことなのです。
「冨嶽三十六景」と「東都名所」が同年に発表されるという運命の出会いがなければ、その後のふたりの画業はまた違ったものになっていたのかもしれません。
広重が亡くなる3ヶ月前、日本とアメリカの間で修好通商条約が締結されました。
これによって日本国内は幕末の動乱期に突入しますが、日本の産業・文化が広く西欧に紹介される時代が到来することになります。
浮世絵もまた海を渡り、西欧の人々に称賛をもって迎えられました。
極東の小さな島国で、こんなハイクオリティなフルカラーの印刷物を庶民が気軽に買って楽しんでいる!
日本のものづくりの技術と文化水準の高さに、世界が驚嘆したのです。
特に浮世絵から大きな影響を受けたのが、新しい絵画表現を模索していた芸術家たちです。
印象派の画家、クロード・モネや、ポスト印象派の画家、ヴァン・ゴッホが、熱心な浮世絵ファンであったことは有名です。
このブログの冒頭にも紹介しましたが、今回大阪でモネの展示会があり、そこから歩いて5分の場所で北斎と広重の展示会がある!
この当時、一体誰がそんなことが起こるなどと想像できたでしょうか。
そして浮世絵の中でもとりわけ西欧の人々を魅了したのが、そのバリエーションに富んだ青の色彩でした。
抜けるような蒼天に、懐深い海の青……そう、浮世絵の風景の随所に用いられた青色です。
職人の技によって、和紙の繊維の中に絵具の粒子をきめ込む浮世絵版画は、絵具に定着剤や接着剤を混ぜないため、素材そのものの純度の高い発色を可能とします。
西洋の人々は、日本の浮世絵版画に見られる美しい青に、風景画の名手・広重の名を冠し、「ヒロシゲブルー」と呼んで愛好しました。
実は、広重が活躍した時代、浮世絵版画には海外からの輸入顔料も使用されており、西洋の人々が「ヒロシゲブルー」と呼んだその青色には、逆輸入したプルシャンブルーの絵具も使用されていたのですが……。
それだけ広重作品の青の色遣いが、新鮮で魅力的なものだったということでしょう。
広重が西方浄土への永遠の旅に出たのち、その作品もまた思いも寄らない大旅行をして、東西文化交流の架け橋となったのです。
いよいよこのブログもクライマックスとなります。
次回は広重作品の紹介を行いたいと思います。
つづく