癌闘病経過報告エピソード2

  1ケ月以上もご無沙汰をしてしまった。久々のブログ再開である。10月の末から肺がんの治療の為約2週間の予定で入院したのだが、10日程で早々に我が家へ帰ってきてしまった。入院中の病院側の対応が信じられないものであったからである。小生が入院して3日後に隣の空ベットに患者が入ってきた。その御仁のイビキがこれまた想像を絶するイビキであった。冗談ではなくB29の大編隊の爆音に囲まれて横で寝ている状態で、落下防止の鉄製の柵をガチャガチャ揺すってイビキが小休止している間にトロトロと何分間かまどろむと、眠りの彼方から例の恐怖の大爆音が徐々に近ずき強制的に目覚めさせられるのであった。夜が明けた時はヘトヘトで疲労困憊の有様であった。この御仁は7,8時間も途切れることなく暴力的でエネルギッシュなイビキをかく体力があるのに本当に入院を必要とするほどの病人だろうかと疑いつつも1日目はなんとか耐えた。しかし、2日目になるとさすがに我慢もこれまでであった。2時間ほど絨緞爆撃の爆音に耐えた後、当直の看護師を呼びこのままでは何のための入院かわからなくなるので善処して欲しい旨を申し伝えた。念の為に、朝一番に検温に来た日直の看護師にも同様の旨を伝え、部屋の移動がどうしても都合つかない場合は職業用の耳栓がホームセンターで入手できるので早く結論を伝えて欲しいと言い添えた。この病院とは国立大学の附属病院である。熊本県民の健康と生命を預かる、他の病院に範を示す立場の県の中核たるべき病院である。小生のこのままでは治療の前に体を壊してしまうので善処してほしいという懇願にも近い2度の要望をまさか放置されるとは夢にも思わなかった。気付いた時は既に夕暮れ時が迫っていた。ナースセンターに行って話を聞くもラチがあかないので然るべき立場の人の説明を求めると、入院時に入院の趣旨や治療方法等のレクチャーしてくれた医師が出てきて話し始めた。入院の趣旨については、「今回は抗がん剤の注入になるので場合によっては患者の容体が急変する場面があるので、その時迅速に対応するために目の届く当院へ入院していただきました」と説明した医師である。小生の2度にわたる懇願に対しての解答が1日中なかったことへの謝罪は一切なく、部屋が確保できない事情をクドクドと説明した後、まさに驚くべき発言が飛び出したのであった。「それほど今の病室にご不満なら、今晩は八代の自宅へ帰られて明日また当院へ出てこられませんか?それともどこかのホテルを探されて宿泊されたらどうですか?当院でも特別室であればすぐに用意できます。料金は6,000円ですが急な話なので2日分の請求になるかもしれません」等々。患者の容体急変に備えての入院です、と説明したその舌の根も乾かぬうちの4,5日後の職務放棄ともとられる発言である。寒風の吹き始めた夕闇の中、路面電車と電車を乗り継いで八代まで3,4時間かけて自宅に帰り、明日は早朝から病院へとんぼ返りしろとのたまう。体力の消耗の著しさは言うまでもなく、ホテル宿泊に至っては入院患者に対して医師が正気で言う言葉とはとても思えない。特別室に関してはまさしくぼったくりバーのやり口そのものである。その発言を聞いた瞬間から小生の頭の中でやかんのお湯がチンチンチンと沸騰し始め危険なレベルに達しようとしていたが、「貴様、若造が」と叫びだす前にかろうじて自らを抑え込んだ。命を左右する新しい治療法がはじまる矢先にあまり大きなトラブルを起こしたくないという気持ちもあったのだが、ナースセンターの前でチンチクリンのパジャマを着て大声で叫んでいる自分のみっともなさを許せない見栄っ張りのもう一人の自分がいた。しかしながら、思うに今回の件はイビキぐらいの苦情は無視してよい」との病院全体の不文律みたいなものが有り、入院患者なんて所詮病院側が或いは医師が命のたずなをしっかり握り込んでいるのだから、少々出鱈目なことを病院側が或いは医師がやったとしても弱い立場の子羊みたいな患者が抵抗など、ましてや批難や反撃等できるわけがないとタカをくくっているフシがある。この度ブログの公開が1ケ月以上かかったのは、これからの小生の癌治療の経過の中にこの大病院の望ましくない介入が入ることを恐れる自分らしくない自分がいたからであるが、小生も「昭和の頑固爺」を自認する者として、又言葉で自己表現を目指す者として、自らに不利益が及ぶかもしれないとして書きたい事を引っ込める訳にはいかない。表現者としての矜持にかけても。このブログの読者も入院を迫られる年齢の諸氏も多いと思うが、どんなに立派で大きな組織でも、腐った1コのリンゴの為に不愉快な思いをしないで済むようどうか賢明な選択をされんことを!

久々の肺がん闘病記の途中経過報告

久々に肺がん闘病の報告を一節。今年の春ぐらいから内臓器官の一部、例えば副腎とかリンパ節とかの検査数値が少しずつ懸念される方へとブレ始めた。よくも約3年間副作用もなく奇跡的に生き延びてきたという思いもひとしおであるが、最初の1年目の冬は来年の満開の桜は見ることが出来るだろうか等と殊勝な思いで八代城の石垣の頂上に林立する桜並木をよく散策したものである。1か月ごとの健診の度に少しずつがん細胞の勢いが増しており、特効薬の効き目が薄れてきたとのこと。元々完治を目的とした薬ではなく、がん細胞を減らしながらその活動を抑制する薬だというレクチャーを受けていた。とはいえ、3年以上毎日飲み続け小生にとっては奇をもたらした薬を他の薬に変えるのは非常に不安なものである。新しい薬の副作用への対応もあり現在病院に入院してパソコンを持ち込みこのブログを書いたり将棋ゲムで遊んだりして長い1日をやり過ごしている所であるが、副作用が出るとしたら3.4日後らしくて、それが出ない限り基本的には体熱を測ったり、血糖値を測ったり数種類の薬を間違えずに飲んだり、血圧を測ったりの平穏なスケジュールをベッドの上で粛々と消化していく毎日である。病状への不安や治療方法が変わることへの不安を別にして、入院して小生自身のことで2つの驚きの発見があった。1つ目は例えば将棋ゲーム等やっている時下手な手を指した時など突然大声で“バカタレ”とか”アホ”とか自分自身への罵声が出てしまうことである。一見感情を剥き出して大声を出すタイプには見えないらしく、最初の1,2回の罵には部屋の空気が凍りつくような反応を見せていた4人部屋の住人達も、4回5回とも続くと年の割には元気すぎるヤバそうな爺各が入ってきたという評価がどうやら定着してしまったうだ。時折部屋の中ですれ違う時など伏し目がちに挨拶されたりして面映ゆい思いをしている入院生活である。今年3月いっぱいで仕事も辞め、気ままな生活を殆ど自宅の中で過ごしたせいもあり独り言が増えたのであろうが習慣とは恐ろしいものである。2つ目は体力の衰えである。3年前同じ11階の部屋から下まで歩いて下りて、又11回まで歩行で戻るることを朝夕こなしてもさほど堪えなかったのが、今回念のため試してみたら下った後4階まで登ったところで完璧にヘバッテしまった。何クソとも思ったが無理をした結果結局タンカーで自分のベッドまで運ばれるシーンを想像すると昔の冒険少年もさすがに躊躇してしまった。肺ガンという病気のせいなのか、はたまた老いが小生の気力を削いでいくのかは判然とはしないが気力は別にして体力は確実に落ちているのを実感させられた昨今である。強い副作用が出るようだと再度治療の試行錯誤がなされるのだろうが、それが出ないことを願って今回の闘病記の報告を終わりたいと思う。

有斐学舎編エピソード5

  前回、興が走り過ぎてお酒の件に行き着けなかったが、今回はお酒そのものではないが小生にとってはお酒にまつわるお恥ずかしい事件に遭遇したことがあったのでそれをここに記しておきたいと思う。ある晩例によって有斐学舎ご用達のお店”ひさご”で全員舎生で5,6人いたろうか、機嫌よく1杯やっていると、無粋な目付きの悪い2人組が顔を覗かせ有斐学舎の悪口を言い募って我々を挑発し始めた。気丈なママが”揉め事を起こしたいんだったら帰てくれ”と言い渡しても鞘に入った日本刀を目の前にかざしたりして我々を脅した。女性の身でありながら怖かったろうに、それでもママは悪たれどもに1歩も引かず最後まで強気の対応を見せ結局2人組を追い追い払ってしまったのであったが、我々5,6人の男共はどうしていたか。まさに1歩も動けなかった。ウナギの寝床のような狭苦しい店の中只々凍りついているだけだった。いや動けないどころかママの背中に庇ってもらう形になってしまったのだった。1年生の頃から諸先輩たちの武勇伝を飽きるほど聞かされていたし、人世で一番の生意気盛りの時期でこの世に怖いものなど何もないとタカをくくっていた。苦過ぎる酒であった。見事に鼻を完膚なきまでにへし折られたのである。癌闘病という環境の中で”死”を身近に感じながら日々を送っていると、一瞬ではあったが大袈裟に言えば死と隣り合わせたあの晩のことを時折想い出す。そして、そういう場面に出くわしたら間髪をいれず”表に出ろ”言って席を立つ知人が10本の指で足りないくらいに即座に思い浮かび、その知人達が皆社会の中で揺るぎない地歩と評価を受けているのを見ると、あの晩の自分自身の対応の無様さが際立つのである。元来、小生はもっと若い時分よりまだ見ぬ世界・価値観・文化等を探し求めて根無し草のように生きてきた様に思う。それはそれで色々魅了される経験・発見もしてきたが、真珠貝が”核”を入れないとその価値を発出来ないように小生も人生の楽しさに興じるあまり、一人前の大人になる為の太い覚悟や信念を体の芯に入れる作業を失念したままこの年まで来たような気がするし、その本質的なものが露呈したのがあの晩の事件だったのだろう。故にまだまだ人間としての伸び代が少しはあると思うのだが、如何せん人世の残り時間が少ない。皮肉なものである。                                                     さて、6回にわたってお送りしてきた”有斐学舎編”も今回で一旦お休みし別のテーマに移りたいと思うが、目白台の有斐学舎の最後の生き残りとして当時の様子を少し描写しておきたいと思う。小生の下からの学年の入舎は既に年々減少傾向にあっが、移転情報が追い打ちをかけたのか益々住人の数が減り、1人抜け2人抜けしていく内に寮の荒廃が加速度的に進んだ。廊下を歩くと開けっ放しになった住人のいなくなった部屋には本や雑誌が乱雑に置き捨てられ、畳は白く粉を吹きめくれあがり、思わず目を背けたくなる体であった。2人部屋が毎年満室で、あれ程学生と生活感に満ち溢れていた学舎がその役目を終えようとする今、あっという間にこの様に物悲しく変貌し朽ち果てようとしている。高校時代、古文で習った”諸行無常”の言葉を、そして宇宙万物形あるもの必ず滅するの理を教科書の知識ではなく、実感として胸に落ちた大学5年生の春の感慨であった。

有斐学舎編エピソード4

 さらに、”有斐学舎”での生活で特筆すべき思い出を問われたらギャンブルと酒であろうか。ギャンブルと言っても寮内で行う小博打のことである。麻雀だけは音がうるさいのでたしか”ミコ”という店名だったと思うが、有斐坂を下りきったすぐ先の、気のいいオバチャンが主の子店で正味3年間良く打ったものである。其の他は寮内の部屋である日突然ご開帳となることが多かった。アルバイト帰りで懐の温かい人間がいたり、アルコールが程よく入ったりの条件が重なったりするとどこからともなく”ご開帳”の声がかかり、好き者たちが三々五々小走りで参集したものである。丼とサイコロを使った”チンチロリン”、トランプや花札でやる“オイチョカブ”等色々やったが、やり始めると白熱することが多くウォーとかギャーとか歓声が上がることも多く、周りの生真面目な学生たちには相当なヒンシュクをかっていたに違いない。親元を離れた場所でやる禁断の娯楽が単純に面白かったということもあるが、何につけ寮生同士競い合った。例えば、1ケ月の生活費をいかに安くあげるかとか、銭湯に行く回数の少なさとか、”合ハイ”で知り合った女の子達から誰が一番多く電話を貰うかとか、切実なものもあれば誠にバカバカしいことでも競い合った。そんな寮内の小博打の話で強く印象に残っている人物が2人いる。1人目は、2年生ながら”アルバイトをしたことが1度もない男”として既に伝説的な存在であったM氏である。牢名主然とした風貌で、噂ではアルバイト帰りの寮生を待ち構える蟻地獄の男として恐れられていたが、小生などもコテンパンにやられた記憶しか残っていない。時々地元のテレビのニュースなどでお見かけするが、その当時の風貌に益々磨きがかかり頼もしい限りである。2人目はM氏とは真逆の意味で伝説をつくった人物S氏である。”ブタS”としてよくからかわれていたが、その日のオイチョカブの調子はいつもに増して惨憺たる有様であった。子で張っても親で受けても彼の札だけがブタの回数が異常に多かった。彼が親をやっているらしいと聞きつけた輩がおっとり刀で駆けつけてくる始末で部屋は大盛況をきたしていた。そしてその瞬間が訪れた。彼が引いた札が又ブタになった瞬間上がった歓声と同時にS氏が自分の1万円札を真っ2つに引き裂いたのである。一瞬凍りついた空気の中”何で俺だけがいつも”という呟きを残して部屋を出て行ったのだった。その場にいた全員がその行為に心底驚いたのは当然であるが、小生は全く別の視点で感動していた。中学生の頃からニュースを丹念に見ていると、世界のそして自分の周辺の揉め事の大方は金つまり富の多寡や偏在に起因しているが故に、多くの人間たちの人世が便宜上のツールである金に振り回されている事実に気付いていて密かに心を痛めてもいた。そういう伏線もあって、その行為の世俗的な評価は別にして小生にとっては新鮮な驚きであり胸に落ちるところがあった。大卒の初任給5万円の時代の1万円である。それを獲得する為に費やした時間と汗の量を考えると常人にはそれをただの紙切れにしてしまうかもしれない行為はとてもできまい。小生にとってS氏は大袈裟に言えば金の呪縛から解放された稀有な存在に思えたし、其の後1年間同部屋で寝食を共に過ごした。ところで、Sさんは憶えているだろうか?徹夜麻雀で朝帰りした小生に”卒業したから帰熊する”とだけ告げ寮から出て行くあなたを裸足で追いかけ、有斐坂の上から、坂を下りきったあなたに向かって30mの距離を挟んで小生が送った渾身のエールを。エールの作法など露程も知らず、卒業のお祝いや3年間の思い出話をさかなに一献酌み交わすことなくあなたを寮から送り出してしまうことへの慙愧の念と、今後の社会人としての活躍を祈る気持ちを込めて“喉よ潰れてしまえ”とばかりに恥も外聞もなく泣きながら感情の迸るままに絶叫したあの日のことを。

有斐学舎編エピソード3

   さて、学生寮”有斐学舎”の当時の生活で強く記憶に残っているのは、今ではすっかり死語になってしまった”合ハイ”なるイベントであろうか。女子大生との合同ハイキングの略語であるらしいが、現在でも細々と続いているのだろうか。その頃も今もそうであるが、その場の雰囲気を盛り上げようとか、女の子たちの好きそうな話題を振ったりとかのサービス精神に著しく欠けていた小生はモテルはずもなく、毎回斜に構えてふて腐れていたイメージが強い。さらに分析すると、今の自分をさらけ出してめぼしい女の子にアタックして”ごめんなさい”と言われた時のショックを恐れていた。同じ舎生達に、袖にされる自分を目撃されるのも絶対嫌であったし、何より異性に拒絶されることは自己の存在を全否定されるようで怖かった。だから心が傷つくのが怖くて斜に構えてしまう。何という自己矛盾であったことか。異性の友達が欲しくてイベントに参加しているのに、目的を達成するための努力を惜しむ。十代と二十代のはざまでまだ何一つ完成されたものなど自分の内になく、これから良くも悪くも経験という素材を身の内に積み重ねて行くべき年頃なのにその努力を怠る。何とその機会と時間を無駄に使ってしまったのだろうか。その思いは学生生活と社会人生活と合わせて計7年間も東京で過ごしたにもかかわらず、当時首都東京に集っていた当代のその道の才気あふれる匠たち、例えば画家・小説家・音楽家・建築家・評論家等々と面会して話を聞こうとする努力をしなかった自分自身への残念な思いへと繋がっていく。多分その試みを実行していたとしても99%は門前払いを喰らって落ち込んでいたことだろう。つまり”ごめんなさい”と言われるわけである。しかし、その経験も門前払いを食わない為の手段や方策に知恵を絞ることで少しは成功率を上れたはずである。現人神と面会するわけでもあるまい。彼等と直に会って会話を交わせていたらもっと違った人生の展開があったかと思うと口惜しい。                           もう一つ強烈に記憶に残っているのが”有斐祭”と呼ばれていたいわゆる学舎の1年に1度のお祭り騒ぎである。前々回の投稿で述べた例の中庭が驚くべき変貌を遂げ、そこにステージがしつらえられ芸達者な面々の出し物が次々と披露されるのだが、何と入舎半年の小生がそのステージに登場したのであった。登壇のいきさつは既に記憶にないが、髭をつるつるに剃った後に助っ人に呼んだらしい女子大生たちに顔に入念にメイクを施され仕上げに唇に紅を引かれると覚悟が決まった。ステージに上がるために廊下を歩いているとウブそうな同級生たち数人に上目使いに挨拶をされたが誰にも小生だと気付かれなかったのは痛快であったし、女性たちの化粧する目的や昂揚感や変身願望について少し理解できた気がした。ともあれステージ上でスポットライトを浴びて当時大流行した山本リンダの”もうどうにも止まらない”を即興で踊りながら熱演したのであるが、その頃小生が黒人に魅了されていた時期と重なるのでその影響もあったのかも知れない。そして、その熱演の出来についての言及は50年近く経過した今でも小生の耳に届いていない。

有斐学舎編エピソード2

  前回、学生生活の中の記憶に残るアルバイトについての記述を展開したのであるが、一年中それにかかりきりの生活ではなかった。大学のゼミの仲間達とは映画やボーリング 麻雀、ドライブでもよくつるんで遊んだりしたし、文学の同人誌活動でも文章の出来を競い合った。そして約130名の若者たちが共同生活をする”有斐学舎”での生活があった。しかし一番夢中になって1,2年の頃通い続けたのは、4,5年後爆発的に流行り始めたディスコの前身の”クラブ”だった。さすが東京のど真ん中渋谷・新宿の繁華街だった。店名は確か渋谷が”パルスビート”・歌舞伎町が”馬酔木”であったか、立錐の余地もないほどの薄暗い店内は最新のミラーボールの光が眼を射るがごとく点滅し、腹の底にずしりと響く重低音が人間の太古の記憶を呼び起こさんかのように鼓膜と脳細胞をギリギリと揺さぶった。日本人とおぼしき若者達もそこそこの味を出して踊ってはいたが、横須賀辺りから流れて来るらしいアメリカの黒人兵士連中のステップと、しなやかで強靭な体から繰り出されるそのリズムを適格に掴んだジャングルの野獣のような動きには小生心底魅了されてしまった。まさにカルチャーショックであった。九州の田舎町のポット出の小生には華やか過ぎる場所ではあったが、世界にはまだ見たことのない場所や名もなき人々の中にも独創性に溢れた驚愕の個性をもった人間が無数に存在するであろうことをに直観させた。彼等の踊りの個性に何とか迫りたいと強く願ったが、無駄な努力であった。人類発祥の地と呼ばれる赤道直下の過酷な環境で何十万年も生き延びてきた彼等の生命力、奴隷狩りというジェノサイドに近い迫害をくぐり抜けた忍耐力、人種差別と貧困にあえぎながらも陽気に日々を送る生活力等々、没個性的な調和を社会的規範あるいは美徳としてきた日本の農耕社会と、彼らの獲物の獲得数イコール個性として評価される狩猟採集社会とでは異質すぎた。だからこそ生粋の日本人の小生は彼等の強烈な個性に夢中になってしまったのだろう。ともあれ、当時の小生が”黒人になりたい”と真剣に考えていたのは恥かしながら事実であるが、悲しいことに最近では1㎝の段差にもつまずきよろける始末で軽やかなステップどころ話ではない。しかし、あれから半世紀も経過した今でも心の奥底には当時の興奮がおき火のように燃え残っているのを感じることがある。たまに今日のような小ぬか雨が庭の木の葉を艶やかに濡らしながら静かに降り続く日があると、あの頃の情景が小生の内心のスクリーンに何の脈絡もなく浮かび上がって来たりする。そんな時はジェームス・ブラウンの”セックスマシーン”や、つのだひろの”メリージェーン”を聞きながら往時のあれこれを思い起こしながらタイムスリップを楽しんだりする、まだまだ少しだけ青さを留める昭和のがんこ爺々の今日この頃である。

かくの如く、諸先輩たちの親身な”オモテナシ”に感謝しつつ小生の東京での生活はまずまず順調な滑り出しを見せた。明治・大正の雰囲気を色濃く残す建物も多少の古臭さは感じたがそれほど不便さは感じなかったが、大学での同人誌の友人たち7,8人を案内したときなど女の子たちはキャーキャー騒いだし男性陣も目を丸くしていたので、部外者から見れば今にも天井が落ちてくるのではと恐怖に怯えていたのかもしれない。高校3年の時富士山に登頂したことがあり、その時知り合った若者に大学構内で偶然再会した時も、案内をせがまれて真っ赤なアルファロメオで寮まで送ってくれたが、廊下に足を踏み入れた瞬間から絶句していたのでそれ以降音沙汰がなくなってしまったのも推して知るべしか。とはいえ、小生の肌には寮自体も生活の流れも合っていた。。特に学生生活に重要なポイントとなるアルバイトに関しては種類別に仕切り役の先輩達や時にはOB達がいて、好き嫌いさえ言わなかったら選ぶのに苦労するほどであった。中華料理の岡持ちから始まり、結婚式場の配善係、団地の換気扇訪問販売、ガードマン、デパートの商品配達etc._。何故か、学生なのに家庭教師だけには縁がなかったが、一番肌が合ったのは俗にいう土方であった。体力の消耗は大きかったが、根が生真面目なので小うるさい指図もあまりされなかったし短期間でそこそこ稼げたるのは有りがたかった。強烈に記憶に残っているのは、かの成田空港が開発され始めた頃インフラ整備のために駆り出された突貫工事であった。太いワイヤーに吊り下げられたゴンドラで数十メートル程下ろされ、横穴を削岩機でドッドッドと突き崩しながら、そして高さ2メートル以上、重量5,60kの下水道の半円の分厚い下水管を2人一組で 組み立て嵌め込みながら延々と蓑虫みたいに前進していく過酷な重労働であった。大抵東北の出稼ぎ労働者の人達とタッグを組んだが”兄ちゃんたち学生はまんず力がねえべな!”とよく非力さをからかわれたが、東北弁と九州弁でよく会話が成立したものだと今にして不思議に思う。立ちしょんべんするその傍らに湧き出る湧水もお構いなしに飲んだりしたが、その重労働にあえぐ自分の姿を、当時東映の映画スターであった高倉健さんの理不尽な仕打ちに耐える姿に重ね合わせたりして自己陶酔にふけったものだった。深夜割増とか危険手当とか超過勤務とか色々手当てが付いたのだろう、額は失念したが何日か後に受け取ったその金額に大いに驚いた記憶が残っている。飯場から凱旋してくるとその時ばかりは安酒で盛り上がった。ビールがまだ贅沢品の時代である。殆ど2級酒しか飲んだ記憶がないが、たまにOBの先輩に連れて行ってもらったスナックにその少し前より出回り始めたサントリーの"角"なんかが燦然とキープしてあったりすると、口の中一杯に広がった唾液をのみ込みながら皆尊敬の眼差しでその先輩を仰ぎ見たものだった。