可哀想ランキング下位の人という人の中には、私がしんどい、を言うためには客観的に見て私が今しんどい状況にいることを証明せねばならなくてつまり私以外はしんどくないを証明せねばならぬ、という理屈で動いている人がいるらしい。
私以外のなにか、下駄を履いた男性であったり穴モテイージー女子であったり、主婦であったり上司だったり高学歴低学歴金持ち貧乏人その他いろいろ、はみんなラクしていて私だけが損している。他の人には他の人なりの苦悩があるなどと認めてしまえば自分の苦悩は認めてもらえないのだから他人は絶対イージーでないといけない。
女は穴モテだからイージー、とか言っているやつを助けようとする女はいないし、下駄履いて楽して出世している男はイージーとか言っているやつを助ける男もいない。まともな精神を持っていれば、自分を侮辱してくるようなやつとは関わりあいにならないようにする。
本人としては理論的であろうとしているだけかもしれないが、そもそもお前のお気持ちが理論的ではないので理論的ではないものを無理やり理論的にしようとして失敗している。
私が寂しい私が悲しい私がしんどいというのは絶対評価なので他人をこき下ろす必要は無い。けど一体なんでなのか、理性的で理知的なワタクシという自意識が邪魔するのか?お気持ちなんてくだらないものを尊重する必要なんてない、エビデンスが全てだと自分のことも他人のことも踏みにじってきていまさら方向転換できないのか。
実績で栄光を掴める優秀で幸運な人なら自他の気持ちを踏みにじりながら札束でぶん殴ってワンマン社長を出来るかもしれないがそうでない人はしんどそう。
弱者男性における丁寧な生活のような、味方を増やして共感してもらえるムーブというのをもしかしたら義務教育に含めるべきなのかもしれない。いままで家庭教育に丸投げしすぎていて格差がエグいことになっている。だから私やりりちゃんのようなしょうもないやつらに食い物にされる。弱者性というのは金がないとか資本が無いとかのずっと以前に感情をどう扱うかというところで、最も大事なのにそれが大事であることすらまだ認識されていないのかもしれない。