古代東海道・更級日記の道

1020年、菅原孝標女が歩いた上総(千葉)から京への古代東海道を探索しながら進みます。

雑誌「なごみ」と定家、冷泉家

当方、茶道には全く関心がなく、今後も同様であるが、ある日何気なく雑誌の陳列棚を見ていたら表紙に

特集 定家様【ていかよう】、その書と力

と大きく掲げるなごみ【2月号】という「茶のある暮らし」を提唱する雑誌があった。

思わず手に取ってみるとそれが極めて秀逸

定家の業績、生きてきた時代、交流をわかりやすくきれいにまとめてくれている。

それに定家の公統ともいえる冷泉家のことも4ページにわたって紹介している。

現当主の冷泉為人【入り婿】・貴美子夫妻には子供がなく後継者には野村渚さんが決まったとは聞いていたが彼女についても詳しく紹介している。

 

今800坪の敷地に新たなお蔵を建てつつあるが国の補助金をもらえないことになってもコンクリートを使わない厚さ40センチの土蔵にするそうだ。

理由はコンクリートが100年を超える長期保存にどれほどのものか不明。鉄筋は50年で朽ちる。コンクリートは密閉性が高く機械換気設備にランニングコストがかかる。現御文庫は400年の実績があると。

 

更科日記が今日に伝わるのは定家が残してくれた写本1冊のおかげ。

その写本は宮内庁書陵部に保管されているが(最近国宝に指定された)その書庫は空調を使わず天気に対応した換気のON/OFFに依っていると聞いている。

空調保管庫が戦争などで電源喪失となったら保存は危うくなる。

 

冷泉家は今なお公家としての矜持を持っている。

なお野村渚さんは先代当主のお孫さん=貴美子さんの姪っ子とわかった。

京マチ子そっくりの妖艶なお姫様だ。

淡交社はさすがにいい本を出す。なごみ【2月号】は買っておくべき本と思う。

人の見る目は公平で大きな書店で売り切れで取次店にあったものを取り寄せてもらった。

更級日記東京の道⓰ 中原街道・洗足坂上から田園調布本町、多摩川へ ― 完 —

洗足坂上中原街道に入り、左折してこのまま道なりに進めば多摩川・丸子橋に至り、「更級日記―東京の道」は終了する。

 

 しかし,どこか歴史性、風情に欠け、また、丸子橋が丸子の渡し位置より北にずれるのが気になる。

 

中原街道は田園調布警察署前交差点Aで環八通りに交錯するが地図を見るとその脇に細めの多摩川につながる道があることに気づく。この道を歩いてみることにした。

 

 

 

 一方通行!(途中まで)を入って直ぐ左手Bに大田区の嶺町特別出張所があるが「嶺」という文字、海抜20mの表示が気になる。



 

 

やや下りの道はあの田園調布2~3丁目の豪華さを競うような邸宅街とは異なって落ち着く(田園調布本町)。

 

 

 

 

 

さくら坂上信号の先、桜坂通りCで小さな案内板を見つけた。区内で旧中原街道の様子を残しているのはここだけと記す(大田区文化財)。これでよかったのだ。

 

「嶺」を下って川の渡しに向かう道という位置づけになる。なお福山雅治のヒット曲「桜坂」はここを舞台にしているとか。

 

東光院(真言宗智山派)北側では4基の古墳(西岡49号~52号)が発見されている。

 

 

多摩川沼部駅の踏切を渡り京浜河川事務所・出張所脇から土手を越える。

 

 

 

 

と正面に丸子の渡し跡。

 

1934年、丸子橋ができるまで利用されていたと知る。

 

 

 

ふち迄歩き、水面を見てホッとする。



右(上流方向)に丸子橋を見る。さほど離れてはいない。

橋の先に田園調布古墳群の緑の丘が見えている。

 

 < 更級日記東京の道 完 >

更級日記東京の道⑮ 大井町駅から洗足へ(その2)

中六桜広場にある道標から300mばかり進んで荏原駅入り口交差点の5差路に出たがわかりにくい。

いつのころか道路拡幅工事があったのであろう。一方通行ではなくなる。

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上の写真だと左の上に延びる道となる。手前右手は和田眼科。

 

進むと広い道もここまで。また狭い一方通行の道に入る。

少し先、右手にお風呂屋さん「中延記念湯」。旗の台には近い所にもう一つ「新生湯」もある。今どき珍しい。なんでだろう。

このまま進めば、環七に斜めにぶつかる。(長原駅入り口信号)

環七に出たところで来た道を振り返る。


そして環七の向こうにはつながるようにまっすぐな長原商店街の道が見え、その先で中原街道にぶつかる。

 

ところで、区境は環七の手前まで。環七を越えないで環七手前でこの道に沿うように北上しても中原街道にぶつかるのでちょっと気になる。

が、この比較地図だとよいように思われる。

 

 

 

 

長原商店街をまっすぐ進む。

 

中原街道に出た。洗足坂上だ。

道の反対側は大森6中(大田区南千束)、その裏は洗足池公園である。ゴール、丸子の渡しも近い。

 

中原街道に出る前の来た道を振り返る。



 

 

 

 

 

気になる関連報道

 数年前になるが、四国遍路をした女性が終わった後でも四国という文字を目にすると

我がことのように気にかかると言っていた。

 

更級日記にかかる道についても全く同様に思う。

最近の記事から。

 

1 下総の国の国府に関する2023・11.1付読売記事

 

和洋女子大、千葉商科大、市川市国府台野球場あたりに下総国国衙があったことははっきりしている。(子供の時からよく行った場所)

今回は野球場2か所を発掘している。

市川考古博物館長は「国庁は野球場より南にあったと推定される。千葉商大と協力して調査し、遺構を見つけたい」と話している。

隣接する郵政省の官舎や女子大では道路遺構も発見されている。千葉商大の協力を願う。

 

2 山王ホテルが来年休業するとの報道があった。

 

建物はかなり古いのでリニューアルは無理ではないか。たった一度であるが見ておいてよかった。

 いつまでもあると思うな親と建物!

 

3 東御苑内 三の丸尚蔵館 開館

 出口の大手門付近で目にしたときはまだ工事中だったが、めでたく開館とか。

国宝が8点もあるとは。

 

朝日の11.3記事

 

4定家と更科日記

 昔、朝日が載せた記者による方丈記に関する記事は悪意に満ちた最低レベルのものだったが今回はよく理解しているいい内容だ。

更科日記の研究書、解説書はほとんどが定家の書をベースにしている。それが今年、国宝になったと聞いて至極納得。

 

更級日記 東京の道 ⑭  大井町駅から洗足へ 

JR大井町駅西南域(大井1丁目)から中原街道へ向かうとしてどの道で?

多摩川丸子橋へ向かうのだから斜め左下(西南)に向かうのが合理的。

現状の地図上からはカメラ工場にちなむ光学通りが候補になるが新設の道かと思えるような名称でちょっと?だ。

だが、明治初期の迅速測図を見ると駅そばからほとんど現状と変わりない道として存している。

 

さらに後述する諸点は十分な補強になると思われ、この道を選択することにした。

右に光学通り入り口が見えている。

逆方向(駅側)から見ると左に入り口

街歩きの良さ。予期せぬ光景

 

 

ここら辺はかってのニコンの工場街か。大井はソニーニコンというトップ企業が

あった町ということになる。

両脇は下り坂であり、尾根道であることがわかる。

 

光学通りを進み、横須賀線西大井駅南側の踏切。高架はあの東海道新幹線

 

すぐ先にあるのが公園と伊藤博文公墓

 

明治以降は皇族も含めて円墳が多いような気がする。

地図で道が行政境になっているのがわかる。ここはまだ同一区内だが。

 

脇を見て尾根道であることを実感。

 

二股に分かれるが右道に立つ建物は明優学院高でここら辺から道路北側は品川区(西大井→中延→旗の台)、南側は大田区(馬込)となる。古い時代、道が行政管轄の境界となり両側で村名や大字名等が異なることが少なくない。

 

    大通りに出た。国道1号(第二京浜)だ。

1号を横切る。官道の特徴、直線の道が環七・長原駅入り口交差点前まで続く。
ここは右(北)は品川区中延6丁目、左(南)は大田区北馬込2丁目となる。中延6丁目で品川道に関する立派な道標を目にした。

 

 

 

武蔵国国府であった府中と中世からの港湾都市として栄えた品川を結ぶ道」と記している。古代から中世、近世に至るまで活用されていた道であることを示すものと考える。


この地図も分かりやすい。江戸時代の状況になるだろう。

 尾根道らしさについては何度も述べているが、諸所でぶつかる四つ角で進行左(大田区側)を見ると相当の急坂で歩く人の姿がすぐに見えなくなることもある。

千年前は相当な山道だったのだろう。

なお、道幅6m位の一方通行部分が多いが現代の公衆道路で1車線・一方通行路を作ることはまずない。古い歴史があり、壊し難い街並みであることの証左であることも多い。官道と言っても平安期になり国衙から遠いところで道幅6mは珍しくない。

 

 (この項続く)

                             

 

 

 

更級日記東京の道⓭ 高輪から大井町駅へ(その3) 居木橋から大井町駅へ

 御殿山の坂を下った居木橋界隈から先、延喜式東海道の大井駅と比定されるJR大井町駅付近へのルートが問題だ。

 道路技術者で古代道研究家の武部健一氏は著書で(進路は逆になるが)、「多摩川を渡り、中原街道の中延付近で東に折れ、大井駅で90度左折し、直進する」とする(古代の道(吉川弘文館))。

 しかし、線路ばかりで歩く道筋が見えない。居木橋界隈はこう。

川の左岸Aを下って三獄橋で渡るしかないと考え、そうした。

への道が

しかしあとで航空写真を見ると御殿山の坂道はDへの道につながっているようにも見えてくる。

 

明治初期の迅速測図との比較を見るとこうだ。

☆のところで二股に分かれている。

が、Dの先にはっきりした道は見えない。現JR東京総合車両センター中心部分あるいはその東側の鉄道部分に旧道らしきものがあってそこにつながっていたのかもしれない。

 当時の鉄道建設時、遺跡らしきものは発見されなかったのだろうか。今になってトレンチを掘って調査など無理だろう。

 


 なお、東側の鉄道に沿うようにさらにその東側に狭い道があり、大井町駅までつながっている。

風情に富み、広町と南品川町の行政境であり、尾根道の性格も見受けられるなど気にかかる。

どういう経緯で残ったかあるいは作られた道かわからない。地元の方で情報をお持ちの方にお聞きしたいところだ。

 三獄橋で目黒川を渡って線路下から東側のこの細い道に入って歩いたので紹介しよう。

 

 

浅間台小学校は大正9年荏原郡浅間台尋常小学校として開校。ここら辺は武蔵野台地島南部の高台に連なる。

 

 

車両基地が見える。

 

 

目印のアトレが見えてきた。


ここら辺の海抜は12~15m。





 

 

 

 

 

 

 

 

更級日記・東京の道⑫ 高輪から大井町駅へ(その2) 御殿山から居木橋へ

御殿山交番前で八ツ山通を渡るが向こう側に3本の道があって、迷う。

 

 

 

進行左からAとB2本は御成門通り、道灌通りと名がついている。

 

真正面だし、「お成道」の立て看板もあるしと御成門通りAに入り、そのままミャンマー大使館前まで歩いたが、後で考えると違ったかもしれないと思うに至った。

右端の道Cだと目黒川にかかる居木橋までほぼまっすぐだし、北品川の4丁目と5丁目の境になっているし、一方通行の道だしと。

では古い地図との比較を見て見よう。

交番直前までまっすぐの道はなかった。

どう見ても右の一本Cに限られよう。

このまっすぐな道は途中吉川英治旧居邸もある今の散歩道としても好雰囲気だ。

彫刻の庭園


このまま南下すると道路右側はONビルの公開空地。
随分広い。

 

辺りについての区の説明文

尾根道は下り坂となる。

 

右手に目黒川にかかる居る木橋

海にも近いこのあたりは縄文の昔から人の絶えることのない要衝の地であっただろう。


 

 

 

 

⑪ 高輪から大井町駅へ その1 伊皿子交差点、二本榎通、柘榴坂、高輪4丁目

聖坂から続く道を進み、伊皿子交差点を過ぎて高輪に入いる。

とまもなく右手にこんもりした森を持つ邸宅が見えてきた。

 

おや、その広大な邸宅前スペースには警官が立っている。なんで? 

後でわかった。仙洞御所建設中のため、上皇夫妻が仮住まいしていた高輪皇族邸だった(歩いたのは2022年3月)。

もし、孝標らが千年の未来にタイムマシーンでやってきたら帰路途中で最高位上司とこの地で遭遇していたかも。

尾根道は「二本榎通り」の名称を持ち、周りには多くの寺院、大使館、学校、マンションが並び立つ高級住宅地となっている。

 

 

旧宮家邸跡地に立つプリンス系ホテル街の脇(グランドプリンス新高輪)まではほぼ直行し、そこで直角に左折してJR品川駅につながる柘榴坂に入いる。

 

 

すぐに品川東武ホテル小糸製作所の間で右折して南向きの一方通行の道に入った。

 

 

アイスランド大使館

ほどなく道の西側(進行右側)は品川区となり(北品川6丁目)区境の道となる。

 

 

三菱地所高輪フォーラム

 

道両側のこれぞ高級マンションという建築物にはため息が出そう。

 

 

ガーデンシティー品川御殿山と公開空地

ここら辺(高輪4丁目、北品川6丁目)は静寂さ、品格、江戸・明治時代から戦前に至る歴史性など田園調布も太刀打ちできないだろう。

 

いつのまにか下り坂。そういえばこの道も山道・尾根道だった。

出口右は御殿山交番。前に八ツ山通りが見える。

左の石垣は旧岩崎家高輪本邸突端部。現関東閣。

 

 

 

 

 

更級日記⓾ 赤羽橋交差点から済海寺・亀塚公園、三田台公園へ

 赤羽橋交差点を過ぎると進行右(西)側は東麻布から三田と換わり、すぐに見えてくるのが慶応大校舎だ。

 

 その慶大先で国道1号桜田通)はほぼ直角に右折するが(三田2丁目)、ここは見送る。

 近接する次の信号(三田3丁目)から斜め右に広くはない上り坂に入る。

聖坂という(A)。

道沿いには学校、大使館、多くの寺が見受けられるが、両側が下り坂となるわかりやすい尾根道だ。三田中学校Bは海抜21.7mもある。

ほぼピーク地にある済海寺

 済海寺隣の亀塚公園C(元沼田藩下屋敷)にある碑はここら辺が更級日記に出てくる竹芝寺伝説の故地と伝える―宮廷でかがり火の番人をしていた衛士が帝の姫君と話をしたことから姫を背負って東国に逃げ戻ることになったが、許されて暮らし、姫亡き後その家が竹芝寺になった―。

 なお、公園にある塚からは発掘しても古墳らしき証拠は見つかっていないが、この公園を出てすぐ先にある三田台公園は和53年縄文、古墳時代の住居跡と貝塚層が港区三田4-19で発掘され、これの保存と理解のため設置された遺跡公園とのこと。いずれにせよ周囲の道が古道であることに間違いなかろう。

 

少し下がった伊皿子(いさらご)交差点を越えると港区の三田から高輪に変わる。

更級日記東京の道⑨ 桜田門から芝公園

 道灌は海近くに江戸城を築いた(1457年)。

 孝標らの上洛旅はそれより430年以上前。

 なおのこと海岸線は近かっただろう。進むにはできるだけ内陸側(西側)を進まねばならない。

 桜田門(荏原郡桜田郷)から丘陵裾野を南に進む(現国道1号桜田通り)。

 桜田門正面の警視庁他→外務省→財務省文科省の各ブロックが続くが(千代田区霞が関)、それぞれの間は霞が関坂、潮見坂、三年坂と名前が付くかなりの急坂であることに気づく。

 

 

 

 

虎ノ門交差点を過ぎ、港区となり進行左側(東)には愛宕山(25.7m)の緑と起伏が見えてくる。

その先は芝公園となるが増上寺南側の芝公園4丁目には芝丸山古墳(5世紀代、全長106mの前方後円墳)や丸山貝塚(縄文中期末~後期)がある。海に近い高台らしい。