チェンライの市場から

「市場に並べられた商品からその国の生活がわかる」と言われます。当ブログを通じてチェンライに暮らす人々の生活を知って頂きたいと思います。 チェンライに来たのは2009年から、介護ロングステイは2018年8月母の死去で終わりとなり、一人で新しい生活を始めました。

微笑みのない国(2)

北京のホテル、次の間

同上、この部屋にはテレビがあった。

ホテルの窓から、朝日が上がる

望遠でアパートを撮影

これはタイのスワンナプーム空港

スワンナプーム、出国手続きを済ませてまず見る彫刻

微笑みのない国(2)

■迎えのバスを待つ

羽田発-北京着の中国國際航空便が大幅に延着し、北京-チェンマイ便への乗り継ぎに失敗した。幸い、北京で放り出されることなく無料で市内のホテルに1泊滞在し、翌日のチェンマイ行きに乗れることになった。入管、税関手続きに1時間ほどかかり、航空会社のサービスカウンターに到着したのは19時、そこでワッペンを胸に貼られた。言われた言葉は英語の「Sit」だけだったが同じワッペンを貼った人々が近くにたむろしていたので必要なことは理解した。だが送迎バスの連絡はなかなか来ない。空港内は混雑していたが客も係員も男ばかりで女性が少なく、やたらと警官が目に付く。

自分がここで超望遠83倍を取り出したら、ホテルではないところに連行される恐れがある。中国には改正反スパイ法があって理由があろうとなかろうと自国民はもちろん外人でも逮捕、拘束される。家を出る前に兄からお前は中国の悪口を書いているから北京空港で捕まるかもしれないぞ、と脅かされていた。イミグレ、税関だけでなく、監視カメラはそこら中にあった。もう当局に自分の思想信条がばれているかもしれない。大学教授やビジネスマンが拘束されても日本政府は何もしてくれない。自分が逮捕されても「写真撮ってたんでしょ、自己責任ですよ」と無職老人は放置されるに決まっている。

緊張の中、1時間半待ったところで小旗を持った男が現れ、ついてこいという。30-40人の客が空港の外を歩かされる。列が止まると男は人数を数え始めた。そして2人連れだと男女でなくても「お前たちは1室だ」という。自分は単独客なので1室占有できるようだ。

全員乗り込んで、暗い夜道をバスが走り始めたその時である。後部座席から「ヘイ、ヘイ、ストップ」と大声を出しながら外人が運転席に突進してきた。何事かと思ったらバス下部にある荷物室の扉が跳ね上がったままだった。急右折すれば中の荷物は大方道路に放り出される。日本ではまず起こらない不注意だ。ここは中国、と更に緊張感が高まる。

 

■北京の一夜

ホテルは空港隣接でなくても近隣にあるだろうと期待していたが、バスは15分経っても30分経っても走り続ける。街灯は暗く、建物の明かりもない。時折「協力して豊かな社会を作ろう」といったスローガンのイルミネーションが見える。バスは1時間近く走って、雪のマークのある建物の前に止まった。ここから歩いて行けという。建物はどうやら室内スキー場で我々の行くホテルはこのスキー場に隣接しているようだ。我々難民一同は建物横の暗い道をひたすら歩く。みな歩く速さが尋常でない。落伍したらよくないことが起こるに決まっている。足元に注意しながら列に続く。

ホテルの受付には長い行列ができていた。自分は列の前から3分の2ほどのところに並んだ。カウンターではコピー機を前にした男がいて旅券などのコピーをしている。列前方に並んだ中国人に、大きな荷物を持った仲間が次々に合流する。中国式割り込みだ。バスを降りた先頭集団が小走りだった理由はこれだったか。旅券の他に翌日便の搭乗券、そして羽田から北京までの搭乗券の提示を求められた、通常、降機したらその搭乗券は捨ててしまうのであるが、この時は偶々持っていて幸運だった。男はコピーだけでなく、帳面に何やら書きつけている。それが終わって隣にいる不愛想なおばさんからルームキーを受け取る。

おばさんは自分の旅券を1ページずつめくっていく。これを2回繰り返して自分に旅券を投げて何か言う。ああ、一時ビザのページがわからないのか。ビザのページを見せてやっとカードキーを受け取ることができた。部屋番号は8403、このホテルは8階建てだ。8階に上がったが番号通りの部屋がない。仕方がないのでフロントに聞きに降りる。8403は4階に決まってるでしょ、おばさんに怒られてやっと4階の部屋に辿り着いた時はもう22時を回っていた。

部屋はシングルベッドが二つ、そして次の間があってそこにもベッドが2つ並んでいた。それぞれの部屋にはトイレ、シャワー室、洗面台があり、歯磨き、髭剃りセットなどのアメニティも完備している。タイのホテルであれば靴を脱いで裸足になるのだが、中国では気持ち悪い。幸い、次の間に使い捨てスリッパがあった。

窓の外は真っ暗で灯りは一つも見えない。バンコクならこの時間でもちょっと外に出て軽食調達、は可能であるがここは北京だ。羽田空港のコンビニで買ったアンパンが残っていた。今夜の夜食はこれだけか。(続く)

 

微笑みのない国(1)

羽田空港

同天井

羽田空港5階展望台から

日本橋の模型がある江戸風商店街

羽田空港内、江戸の雰囲気、外人が写真を撮るところ

空港内のケーキ屋さん、ショートケーキで1個千円近くする

 

微笑みのない国(1)

■いつものようにLCC

今回の帰国ではLCCチェンマイ-羽田往復6万5千円ほどのチケットを購入した。往路はチェンマイバンコクハノイ-羽田というルート、ハノイで3時間ほどの待ち時間があった。でもちょうど昼時でカード付帯のラウンジにはいれたのでゆっくりとビールやワインと共に食事を楽しむことができた。羽田到着は午前0時を回っていたがタクシーにすぐ乗車でき、30分ほどで品川の自宅に着いた。早朝出発、深夜到着だが片道3万円ちょっとだから我慢できる。

さて、復路は羽田-北京-チェンマイ中国国際航空便である。羽田を14時に出発して北京到着は16時40分、空港で1時間ほど待って17時45分の北京発チェンマイ行きに乗りかえれば21時50分にチェンマイに到着する。北京での待ち時間が約1時間しかないことに不安があったが毎日飛んでいるのだから大丈夫だろうと思っていた。ところが、である。羽田でCA182便北京行きに乗り込んだが離陸時刻の14時を過ぎても機は空港ビル際に止まったままだ。そろそろと滑走路へ向かったが手前でまた停止した。北京行きは結局40分ほど遅れて羽田を離陸した。

北京からチェンマイ行きも同じ中国国際航空便だから北京発の搭乗券も羽田で受け取っていた。北京での搭乗手続き開始は17時15分だ。北京到着が遅れて17時20分着となっても17時45分のチェンマイ便には間に合うだろう、それに遅れを取り戻すために機長がエンジンをふかして10分くらい早く到着させてくれるかもしれない。出発時間まで20分あれば乗り継ぎ可能か。ところが機内スクリーンに表示される到着予定時刻は早くなるどころか遅れ気味だ。

LCCの場合、乗り継ぎは搭乗者の責任であって、旅行代理店、航空会社は責任を負わない、となっていた。もしかしたら、北京で航空券を買いなおすことになるのか。北京で1泊するにしてもビザもないし、中国元はどこで買えるのか。

 

■金で解決できるならと腹をくくる

そのうち、機内食が配られた。LCCは基本的に事前申し込みをしない限り食事は出ない。もしかしたら中国国際航空LCCではないのかもしれない。ベトジェットやエアアジアと違って座席背面には映画や航路を視聴できるスクリーンが付いている。北京発の搭乗券を持っているから、到着が遅れても中国国際航空が何とかしてくれるかもしれない。最悪、チェンマイ行き航空券を買いなおせば済むことだ。金の問題ならいくばくかの円は持っているし、カードも3枚ある。落ち着け、落ち着けと自分に言い聞かせる。

35分遅れて機は7時15分に北京空港に着陸した。着陸してから乗降扉が開くまでの時間の長さよ。間に合わねーじゃねーか。乗降扉が開いて空港内に入ったのは17時30分過ぎだった。乗降口を出たら「チェンマイ行きの方はお急ぎください」といったプレートを持った係員がいて案内してくれるのでは、期待していたが全くその気配はない。

乗り換え搭乗券を見せると「あっちだ、走れ」という。15分後にチェンマイ行きは離陸してしまう。ええ、ええ、走りましたよ、広い北京空港を。歩く歩道があるが中国人カップルが道を塞いでいる。日本人なら気配を察して道を譲ってくれると思うがここは中国、ぐっと我慢して歩道が途切れたところでまた走る。

 

北京一泊決定

奇妙なことだが、走りながら山貞の新々英文解釈研究の(When I reached the station, the train had already left. 駅に着いた時、列車はもう出ていた)の過去完了が頭をよぎっていた。60年も経って思い出すとは。

トランスファー・インフォーメーション・カウンターに辿り着いた。数人の先客がいて中々順番が来ない。自分が係員と話せたのは17時50分だった。彼女は電話をして「あなたの便は飛んでっちゃったわよー」。明日のチェンマイ行きは手配できる、今夜のホテルは送迎付きで無料、ビザは一時ビザが発行されるという。どうやらLCCではなかったようだ。

この日のバンコク行きに乗れれば、翌日にチェンライに戻れる。すぐチェックしてくれたがこバンコク行きは満席とのこと、翌日のバンコク行き午前便はない。よし、明日チェンマイに飛ぼう。ホテルでゴハンも無料で食べられるよー、と彼女が言う。もしかして晩ご飯も食べられるのか、と期待した。

ビザ取得や入国手続きに時間がかかり、中国国際航空のサービスカウンターに着いたのは19時だった。ホテル行きのバスが来るからそれまでこの辺で待っていな、とワッペンを胸に張られた。カウンターの近くには同じワッペンをつけた人がたむろしていた。ホテル行きのバス案内があったのは20時30分だった。晩飯は諦めざるを得ないか。(続く)

 

和食、大谷君、日本文化

 

靖国神社

拝礼を待つ人の列

靖国神社能楽堂

靖国神社神池庭園

靖国神社 八重桜が咲いていた

靖国神社 遊就館入り口

 

和食、大谷君、日本文化

■いい時期に帰国

このブログがアップアされている頃はチェンライに戻っている。桜の季節に一時帰国したからではないが、今回はいつもにも増して日本の良さを満喫できた。「故郷へ回る六部の気の弱り」というのだろうか、今回の帰国は恋しさ一入だった。というのは訪日外国人に和食を食べてもらってその感想を聞くというユーチューブ、特にMomoka Japanをよく視聴していたので帰国したらこれも食べたい、あれも食べたいと思っていたからだ。

まず帰国の主目的である歯科治療は1日だけ、それも30分で終了した。外れた義歯をパチンとはめ込んで固定する、これだけで終わり。あちこち削られたり、もしかすると義歯の作り直しで2週間の滞在期間に終わらないのではないか、と心配していた。でもお蔭で左右の歯で何でも嚙めるようになった。近所の歯科医院だが、ここの先生は兄や自分の帰国よりもチェンライの珈琲の到来を心待ちにしている。よっていつもの珈琲豆一袋を差し上げた。その効果は絶大、「珈琲もらったから治療費はいいよ」だった。

動物は老齢化で歯が駄目になると死ぬ。人間は入れ歯があるから年を取っても食物が摂れる。ただ食べられればいいというものではない、日本人として生まれたからには和食を食べなくては・・・・。Momoka Japanでは様々な和食が供される。刺身、煮魚、てんぷら、出汁巻き卵、和食のバリュエーションは広い。こんな料理、初めて、魚ってみんな味が違うんだ、同じ材料でも料理法でこんなに変わるんだね、などと外人は感心しているが、全部自分が食べてきた料理ばかりだ。日本に生まれて本当に良かったと思う。

 

■上を目指す文化

ホタルイカイワシ、ブリ、タイなどの刺身はもちろん、カブの漬物、イブリガッコ、牛筋と牛蒡の煮物など、何を食べても「あー、これはチェンライでは絶対にお目にかかれない」と感謝しながら食べた。チェンライでも日本米が売られている。でも日本で食べる日本米は年々、進化を遂げており、帰国するたびに美味しくなっている。兄の話でも毎年、新しい銘柄米が出てくるとのこと。コメも農家の方が「どうすれば美味しいお米ができるか」と日々、研究、努力を積み重ねているのだろう。京都の老舗の漬物店では毎年工夫して時代や人の嗜好の変化に合わせて、微妙に味を変えているそうだ。

サイゼリア、ガスト、バーミヤンなどファミリーレストランから同じ料理を出してもらい、それを一流レストランのシェフが5点満点で採点するという番組があった。あるファミレスのオニオンスープに全シェフが高得点を付けた。スープ提供レストランの担当者はこう言った。「お客様に今日のスープは美味しかったね、という声が少なくなると味を見直してさらにおいしいスープを作る。同じ味だと美味しいと褒めて頂けないのです」。料理も少しでもお客様に喜んでもらえるよう日夜、努力、研鑽を積んでいるわけだ。現状に甘んじないでより上を目指す、は日本人の特性ではないか。また味を厳格に判断する客のレベルもすごい。

 

大谷翔平は日本にしか生まれない

通訳の使い込みにもめげずドジャースの大谷選手が快進撃を続けている。彼は幼少のころから目的を持ち、最優先課題は何かを自覚し、理想を目指して日々精進してきた。彼の周りは彼の成長を見守り応援してきた。大谷選手は決しておごることはない。二桁勝利を挙げた時も「打ってくれなければ勝てないわけですから」とチームメートへの感謝を述べている。オレが、オレがの能力主義一辺倒の米国にこういった謙虚な選手がいるだろうか。

日本の職人、料理人、篤農家に見られる美徳を翔平はすべて体現している、翔平は日本でしか生まれない、とハーバード大学マイケル・サンデル教授は断言している。 (因みに大谷選手はサンデル教授の著書の愛読者である)

チェンライのレストランは始めのうちは美味しいのだが、いつ行っても同じ味の同じ料理、メニューも代わり映えしないから、段々客足が落ちて閉店する。日本の食堂は季節限定、新メニュー、XX入荷などと手を替え、品を変え、時には内装まで変えて顧客の獲得、繋ぎ止めに必死だ。同じことをやっていては向上はない、絶え間ない工夫、努力で上を目指す、これは日本全体に漲る特性だ。またその特性を是とする文化がある。和食が美味しく、豊富な種類があるのも、翔平クンの活躍や技術の進歩もサンデル教授が称賛してやまない日本文化の支えがあってのことであろう。

 

 

 

食べたい日本食ベスト10

 

東京ミッドタウン日比谷から見た宮城

日比谷公園、向かって右手が宮城

東京ミッドタウン日比谷の一階

 

数寄屋橋交番

数寄屋橋交番 一週間前

日比谷公園

食べたい日本食ベスト10

日頃使用しないラップトップPCの中から書きかけの原稿が出てきました。一時帰国で多忙のため加筆の上、アップさせて頂きます。

 

■来日を繰り返す

訪日観光客が年間3000万人ペースに戻っているようだ。外国人観光客の6割以上が日本を訪れる回数が2回目以上のリピーターで、その割合は年々増加傾向という。リピーターの多い国は韓国、台湾、中国、香港とのことだが、絶対数の少ない欧米からもリピーターが増えている。因みに観光庁の調査によると2023年第一四半期に日本を訪れたタイ人の8割はリピーターとなっている。リピーターは訪日を繰り返すたびに旅行支出が増加する傾向がある。来るたびに日本旅行に対する価値が高まり、その分支出も増えるということらしい。

彼らを引き付ける日本のものとは何か。風景、文化、歴史、アニメ、食べ物、ファッション、さまざまである。

外国人が和食を食べてそのおいしさに感動、といったビデオをよく見る。初めて食べた本物のお寿司に思わず落涙、てんぷらってこんなに美味しいものだったのか、と驚愕する。タイにも美味しいものはあるけれど、思わず落涙するような料理に出会ったことはない。トムヤンクンに涙が出たことがあるが感動したからではなく、無茶苦茶な辛さのせいだった。リピーターに限らず、異国に住む日本人は「帰国したらこれを食べよう」という料理がある。ラーメンでも刺身でも鰻重でもいくつも料理のイメージが浮かぶ。

感染症騒ぎで1年8カ月日本に滞在していたが、タイに戻ったら、あれが食べたい、これが食べたいという具体的な料理が頭に浮かばなかった。タイに来る日本人はざっと年間100万人、リピーターも多いと思うがどうしてもタイでこれが食べたい、だからまたタイに来ました、という人は少ないのではないか。

 

■タイ料理も悪くはないが

タイに行ったら絶対食べるべき10の料理といったネット記事はある。だが訪タイ日本人がどうしても食べたいタイ料理10といった記事はない。食べるべき、というタイ料理には、ソムタム、ガイヤーン、トムヤンクン、パッタイ、クイッティオ、カオマンガイ、プーパッポンカリー、ラープなどが上がっている。辛くない料理が大半だし、全部食べたことがある。でもこれを食べずにタイを出てはいけない、絶対お勧めというタイ料理はないように思う。パッタイは日本の焼きそばのほうが、クイッティオは日本のラーメンのほうが絶対うまい。高級店で食ってないからそんなこと言うんだ、と言われればそれまでだが、まあまあの店で食べても感動はもちろん、思わず顔がほころぶといった味ではない。死ぬ前に何でも好きなタイ飯をご馳走してあげると言われても多分、日本米のおにぎりのほうがいいです、というだろう。

おにぎりというと、訪日客が食べたい日本食ベスト10の10位におにぎりが入っている。節約をしながら日本を旅する若い外人はコンビニのおにぎりのおいしさに瞠目している。日本はコメの味が違う。おにぎりの芯にも日本の職人魂がこもっている。誰がツナマヨおにぎりを開発したのか。カレーパン、カレーラーメンに匹敵する画期的発案だと思う。

9位には焼肉が入っている。外人に和食を食べさせて感動する姿を紹介というビデオをよく見るが、神戸牛の焼肉には皆感動している。

8位は蕎麦が入っている。蕎麦の味がわかる外人は和食理解度がかなり高いと言えよう。7位には焼き鳥が入っている。ガイヤーンはタイの焼き鳥だ。同じ鶏肉でどうしてこう違うのか。タレの違いか。近年はもつ焼きや焼きトンにも人気が出ているらしい。焼き鳥とビール、日本に帰りたくなる。

6位はしゃぶしゃぶ、社会人の頃、外人接待は部長の好みでしゃぶしゃぶの店によく行った。あのころから外人は感激してくれたものだ。

 

■トップ5

和食にまつわる思い出を書き出すときりがない。5位はお好み焼き。日本で何食べた?の質問にお好み焼きを挙げる外人が多い。広島風、大阪風とあるけれど、発祥は東京のもんじゃ焼きだよとテレビクルーに説明する外人がいた。4位はカレー、インド料理ではなく和食と認識されている。自分も日本のカレールーを使ってタイで食べている。

さて3位はてんぷら、欧米で食べたことあるけれど全く別物という外人は少なくない。油も違えば野菜、魚、エビ、材料も違う。2位はラーメン、日本でラーメンが食いたい、は外人ばかりでなく自分も同じ。

さて1位はもちろん寿司だ。欧米にもアジアにも寿司店はある。でも多くの訪日客はこれまで俺たちが食ってきた寿司は何だったんだ、と愕然としている。これからも和食、それもこれがが食べたいからまた日本に来ましたという外人観光客が増えるに違いない。

プーカオ寺の慰霊碑(2)

メコン河、対岸は中国資本の高層ビル

黄金三角の金ぴか大仏

プーカオ寺

S.N.氏建立の慰霊碑2本

倶会一処とあるから浄土宗?

3本の慰霊碑の位置

プーカオ寺の慰霊碑(2)

■慰霊碑建立の経緯

チェンセーン、ゴールデン・トライ・アングルを見下ろすプーカオ寺の境内に建立された戦没者慰霊碑にどうして興味を持ったのか。それはチェンライ日本人会の一部にチェンライでも戦没者慰霊碑を建立し、しかるべき日に慰霊祭を行ってはどうかという話が持ち上がったからだ。その慰霊碑を建立する場所としてすでに慰霊碑が存在するプーカオ寺が候補に挙がっている。

チェンマイではチェンマイ戦没者慰霊祭実行委員会が毎年、チェンマイのバンガード高校、ムーサン寺の2会場で慰霊祭を行っている。バンガード、ムーサンにはビルマから敗走してきた多くの将兵が亡くなった野戦病院があった。その意味では戦死、戦病死者を慰霊するにふさわしい場所と言える。

チェンライ県にも日本将兵がいたようであるが、チェンセーン辺りで亡くなった将兵の話は聞いたことがない。でもプーカオ寺に慰霊碑があるということはゴールデン・トラアイ・アングルと戦没日本将兵との何かの縁があるのかもしれない。

 

NPO慧燈

3つの慰霊碑のうち1つはNPO慧燈が、あとの2つは世田谷区のS.N氏が個人的に建立したものと分かった。NPO慧燈は、バンガード高校の慰霊塔や鐘楼を寄付し、タイ教育機関への奨学金援助活動を長く続けている佐賀県にある非営利活動法人である。

今はネットの時代、NPO慧燈に慰霊碑建立の経緯をお聞きしてみた。

 

NPO慧燈御中

突然のメールで失礼します。チェンライに住む中西と申します。

チェンライ県ゴールデントライアングルにあるプーカオ寺の境内に添付写真の慰霊碑があります。この慰霊碑は貴団体ゆかりの碑と聞いております。差し支えなければ、建立に至った経緯などお教え願えれば幸いです。

バンガード高校には何度か慰霊祭等で訪問したことがあり、貴団体のことは存じております。

 お忙しいところ恐れ入りますが何卒よろしくお願い申し上げます。

 チェンライ 中西英樹

 

同返答メール

 

中西英樹 様

このたびは、ご連絡頂きありがとうございます。

遺骨取集、慰霊に訪れた慧燈財団関係者が、プラタート・プーカオ寺内に平成3年(1991年)に木製の追悼之位を建立しました。

その後、老朽化した木製の追悼之位から大理石の石碑に立替することとして、平成16年(2004年)11月4日に起工式を行いました。

平成21年(2009年)11月11日に完成した石碑の落慶法要を行いました。

 

年に1回(今年は6月25日予定)バーンガード学校を訪問し、追悼法要をしておりますが、チェンライには訪問できないでおります。

私共の事情をお話し、プラタート・プーカオ寺の僧にお守り頂くことをお願いしております。

今後の慰霊祭の予定は今のところ計画しておりません。

プラタート・プーカオ寺は小高い丘の上にあり、タイ・ミャンマーラオスの三国国境が接する地点を見下せます。

この地に碑を立てることで、これらの国が植民地支配から独立することを願い戦って亡くなられた日本軍の慰霊になると考え、このお寺を選定したと聞いております。

 

NPO慧燈

 M.T

              

■蟠龍寺

残り2つの慰霊碑の建立者、S.N.氏については何も情報が得られなかった。ただ碑に刻まれた「蟠龍寺芳誉嚞雄」を頼りに大阪と東京にある同名の寺にメールを送った。大阪からは東京のお寺でしょうという連絡を、東京目黒の蟠龍寺からは下記の返信を頂いた。

中西様

この度はお問い合わせを頂きありがとうございます。 

さて、お問い合わせいただきました慰霊碑についてですが、製作にあたり当山先代住職の吉田嚞雄(よしだてつゆう)が揮毫を致しました文字が使用されておりますようですが、残念ながら詳細な資料が残っておりません。当代住職夫妻の話では、先代は先の大戦時、中国黒竜江省で従軍経験があり、そのため平成に入ってからは、戦友会等からお声がけを頂くと慰霊法要のために旧戦地へ参っておりました。

しかしながら、当代住職の話ではチェンライ県での慰霊法要へ参加した記憶はなく、建立者でいらっしゃるN様との関りも、誰かに紹介されて揮毫の依頼をされたようだとの見解でした。石碑の建立年代近辺の法務日鑑を現在あたっておりますので、新たな記述等が見つかりましたらあらためてご連絡申し上げます。

 蟠龍寺 副住職 吉田龍雄

 

 偶然であるが蟠龍寺はわが家から歩いて20分の距離にあった。メールのお礼がてら訪問して住職、副住職から先代の人となりをお伺いした。それなりに有益だったが、S.N.氏との関連はわからないままだった。

どうも戦没将兵とチェンライの関連はなさそうだ。それでもプーカオ寺に慰霊碑を新たに建てるのだろうか。

 

 

いい時に帰国

 

 

 

目黒不動

かむろ坂

目黒川の夜桜

同上

青山墓地

靖国神社能楽堂

 

いい時に帰国

■タイから日本へ

チェンライから東京へ行く場合、バンコク経由となる。バンコク発東京行きは1日に何十便もある。チケット価格はバンコク―東京往復で3万5千円前後から30万円を超えるものまで様々だ。でも安価なLCC航空券には発着時間が深夜、早朝であるとか、経由地が多く、到着まで30時間も掛かるなどデメリットがある。安さに惹かれて30時間かかる中国系のLCCを利用した人がいる。感想は「死ぬ思いだった、もう絶対乗らない」だった。バンコク―東京の直行便の飛行時間は6時間半、年を取るとこの6時間半が結構きつく感じる。価格にもよるが自分としてはチェンマイ台北―東京の便が好きだ。台北故宮博物院や夜市を1,2日楽しみ、それから東京に行く。飛行時間はそれぞれ3時間ちょっとだから新幹線の東京―大阪と大差ない。

今回の一時帰国では隣県、チェンマイの空港から出発した。前泊が必要だったが、行き慣れているチェンマイのほうが気が楽だ。チェンマイからバンコクへ、そこからハノイ行きのヴェトジェットに乗り換える。ハノイ空港では3時間半の待ち時間があったが、カード付帯のラウンジ利用権があったので、ラウンジで昼からワインやビールを飲み、食事をしながらパソコンを眺めていた。そしてハノイからヴェトジェットで5時間半、羽田に到着したのは午前1時であった。深夜到着だがLCCだから仕方がない。雨の中、タクシーで品川の家に着いた。

 

■桜を満喫

到着した4日が東京の桜の満開日だったようだ。5日は区役所や医院へ、6日は近くの目黒不動、そして目黒川で夜桜を見物した。ライトアップされた桜を楽しむ家族連れやカップルの振る舞いの優雅さに雅の国に帰ってきたという感を強くした。7日は先輩の墓参りを兼ねて友人たちと青山墓地へ行った。ここも桜の名所である。先輩は一世を風靡したテレビの歌番組のプロデューサーだった。墓誌を見ると享年67となっている。もう10年以上になるのか。華やかな一生だったと思うが、今の67は早世の部類だ。

自分は60代で死ななくて本当に良かったと思う。こうして桜を愛で、テニスを楽しめるのも長生きしたおかげだ。今日が千秋楽としても我が人生、8勝7敗の勝ち越しだったと確信を持って言える。なんといっても長生きするほうが勝ちである。

8日は横浜に行き、港に咲く桜を撮った。横浜はまだ7分咲きといった風情。9日は雨の中、銀座に出かけ、散り始めた数寄屋橋の桜をカメラに収めた。

10日は神田で友人と会い、有名な福尾商店のあんみつをご馳走になった。神田から九段下で降り、桜吹雪の舞う靖国神社に参拝、天気が良かったせいもあるが参拝を待つ人の列が20mほどできていた。靖国の神池公園の池は桜の花びらで一杯だった。桜もさることながら池を覆うもみじの若葉が鮮やかで、チェンライにはこういった明るい緑はないなあと思いながら写真を撮った。靖国から九段高、富士見坂を下って飯田橋へ、法政大学前の外堀を見下ろす土手公園は桜の名所ではあるが、混雑しているのでは、と桜撮影は飯田橋で終わりにして帰宅した。

ソメイヨシノはもう終わりだがこれから艶やかな八重桜の季節になる。いい季節はまだ続く。

 

■日本語

同年配の友人たちとの会食が続いている。でも老人の3大話である健康問題、孫自慢、相続の話はほとんど出ず、ずっと笑いが絶えない楽しい宴会ばかりだ。日本語だから相手の言っていることが理解できる。これが嬉しい。自分の発言もわかってもらえる(と思う)。タイではタイ語または英語だからお互い理解しているかどうか判然としない。場合によっては携帯の翻訳機能の助けを必要とする。タイ人同士の会話など始めから理解を放棄している。ところが地下鉄の中で会社員や奥様方の会話が理解できる。思わず耳がダンボになる。

「映像クリエイティブの専門学校に行ってて、XXプロに勤めようと思ったんですが、3カ月は無給で楽器運びというので・・・・」、「それはひどいな」。オジサンもそう思う。

「目黒川のワインクルーズって一人1万円だって…」、「ウーン、それくらいするでしょうね」。舟からの桜見物なら高くないでしょう。心の中で会話に参加する。チェンライではまず不可能だ。

日本語がわかるし、料理も酒も「ああ、これはチェンライでは絶対お目にかかれない」と感動しながら口にしている。季節もいいし、このまま日本にいたくなる。チェンライから東京へ飛んでくるにも決断力を要したが、これからチェンライに戻るにも多くの誘惑を振り切り、両頬をパンパンと叩いて覚悟を決める必要がある。

 

 

 

 

 

プーカオ寺の慰霊碑

 

 

チェンセーンからメコン河を臨む

ワット・プラテート・プーカオ入り口

慰霊碑

慰霊碑2

慰霊碑3

慰霊碑からゴールデントラアングルを臨む

 

プーカオ寺の慰霊碑
■刺激のない毎日
現在、日本に一時帰国中である。毎日、手帳やカレンダーをチェックして予定を確認する。その合間にも新たな予定を書き込む。やることが多くてチェンライとは違って慌ただしい生活だ。

チェンライでは週5日のテニス、10時前に帰ってシャワー(時にはかけ流しの温泉に行く)、それからPCに向かってネットサーフィン、午後はブアさんの買い物に付き合うこともあるが、概ね、PCを眺めている。疲れれば傍らのベッドに横たわってよしなしごとを考える。非生産的な毎日である。こんな生活を夢見ていた時期もあったが、こうして怠惰な日々を送っていると、人生これでいいのか、お国に対して申し訳ないという反省が湧いてくる。でも反省したところでどうなるものではないから、まあ、これでいいのだ、と自分に言い聞かせて午睡の眠りに落ちる。

土日は体を休めるためにコートには行かない。でも家にいると「チュアイカン(お互い様、助け合い)だから」とブアさんに車の運転や、家事手伝いを頼まれる。先日はマンゴーの木の枝払いをするから、とブアさんが脚立の上に上がり、自分はその脚立を抑える役目を仰せつかった。頭上から木の葉や蟻が降ってきて嫌だなあと思っていたら突然、蜂が襲撃してきた。ワーッと大声を上げて逃げたが腕を4ヵ所刺された。葉と葉の間に巣をつくる小型の蜂だ。刺された直後の痛みはブアさんがお寺でもらってきた軟膏を塗ったら治まったが、その後数日は刺された場所が赤く腫れ、痒くて大変だった。

■黄金三角の古寺
家の手伝いがイヤだから外に遊びに行ってしまう、という子供時代の習性が抜けないのか、土日の休みを利用してチェンマイ、トードタイ、チェンセーンなどに1泊旅行によく出かけた。それぞれ野暮用がないことはないが、違ったベッドに寝て、原稿を書き、近くのタイ料理屋や屋台で現地の人と同じものを食べる。こんなことでも元気が出る。元気があるから長躯、車を走らせていつもと違う体験ができるのだ、と言えるかもしれない。

チェンセーンはメコン河に面している。タイ、ミャンマーラオスの3か国の領土が一望できる観光名所、ゴールデン・トライ・アングルがあり、観光客が引きも切らない。自分がタイに戻った頃は、例の感染症騒ぎが収まっていなかったからチェンライ県屈指の観光名所も閑古鳥であった。でもこの3月には中国人、韓国人、ファランが観光船に乗ったり、金ぴか大仏の写真を撮ったり、3カ国を見下ろせるテラスから自撮りをしたりと大賑わいだった。ここには何度も訪れているが、今回はこの黄金三角の高台にあるワット・プラタート・プーカオにある戦没者慰霊碑の確認作業のためである。

プラタートとは聖なる物質、即ち仏舎利を指す。本当に仏舎利が安置されているかどうかは別にして、寺格の高さを示していることには間違いない。プーカオ寺は759年の創建になると伝えられているが、仏塔や本堂は14世紀前後に建立されたことがわかっている。それでもタイでは古寺に属する。

■3つの慰霊碑
プーカオ寺のメコンを見下ろす境内の一角に日本語の刻まれた3本の戦没者慰霊碑がある。一つは佐賀のNPO慧燈が建立した「タイ・ビルマ方面戦病歿者追悼之位」、黒御影石の慰霊碑である。もう2つは世田谷区のS.N氏が建立した「タイビルマ方面戦歿者慰霊」と「タイ・ビルマ方面現地人戦没者慰霊碑」である。

NPO慧燈はチェンマイのバンガード高校にある慰霊碑や鐘楼を寄付しており、毎年同高校で慰霊祭を行っている特定非営利活動法人である。また20年以上にわたってタイ学生への奨学金給付も行っている。インパール作戦で敗走してきた佐賀連隊の多くの将兵がこのバンガード校にあった野戦病院で亡くなったという。その縁で佐賀県にある大手製薬会社がスポンサーとなって設立されている。慰霊碑の文字は保利耕輔元文部大臣の揮毫となっているが保利氏は佐賀県出身の代議士である。

S.N氏の建立した碑は、1本は黒御影、もう1本は白御影製である。一つの石ではなく御影石のプレート4枚を張り合わせたもので、慰霊碑の天辺は四角錐のブリキ製の蓋で覆われている。平成13年と17年の建立である。正面に「南無阿弥陀仏」、左側面には「倶会一処 蟠龍寺 芳誉嚞雄」と彫られている。倶会一処(くえいっしょ)とは死んで阿弥陀仏の極楽浄土で共に会う、生まれることを言う。浄土宗のお寺と思うがこの僧侶と碑の関係は?

どうしてプーカオ寺に戦没者慰霊碑があるのか、戦病没将兵との関係はどうなのだろうか気になる。(続く)