貫く力
漫読家の東方力丸さんが大好きです。
一つのことを貫くってすごい。
続けることの重要性を語る彼には、大いに励まされます。
東京に行ったら、必ず会いに行きます。
礼儀正しくて、素敵な方ですよ。
【井の頭公園100周年記念】漫読家 東方力丸 ドラゴンボールZ 悟空 vs フリーザ 超パワーが大激突!井の頭100祭その①
感じきること
湧き上がってきた感情を優しく抱擁することが大切だと思う。
最近、鬱が長引いていまして。セラピストに相談したら、「しっかりと感じてみてはどうですか。」と。
そういえば、忘れていたよ、感情を抱擁する大切さ。
悪いものだと思って、排除しようとすればするほど、追いかけてくる。
悲しさ、将来への不安、等々。
それらを感じている自分を俯瞰して、感情の存在を認める。
今、自分は苦しみを感じているなと。
それだけでも楽になった。
鬱とともに気になっていたのが、胸の息苦しさ。
精神的につらくなってくると、胸が圧迫されているような感じで、呼吸が浅くなる。
胸が、感じてほしい思いを訴えていたのかもしれない。
胸に手を当てて、体の声に耳を澄ませる。
イネイトセラピーを受けていると、余計なものが解けていく感覚があって、
楽になれます。
喜怒哀楽を抱きしめること。
正常と異常
いつ観ても生命の樹は美しい。
少数派は異常とされる。それだけのこと。
多数派にとって不利益な存在は異常とされる。それだけのこと。
いつの時代も、この世界に変化をもたらすような存在は異端として迫害されてきた。
私は精神医療ユーザーです。鬱になりやすいもので。
関係施設で、統合失調症などと付き合っているユーザーと話していると、ほっとすることが多い。繊細すぎて、優しすぎて、自分に正直すぎて、社会に適応できなくなった、という感じがする。平均的な人々とは違った、面白さ、優しさ。
むしろ彼らに人間的魅力を感じるのはどうしたことか。
彼らの柔らかい雰囲気が私は好きです。私にとっては、彼らこそ正常な感じがするのですが。
消費のために、毎日あくせく働くことに疑問をもたずに生きている人々。
むしろ、そんな社会に疲れ果てて、ペースダウンした人の方が正常ではないか?
誰もが自分は正常だと思いたい。私もそうだ。
しかし、価値基準なんて簡単に変わるもの。
障がいは個性だと思う。現実にはつらいことがいろいろとあるけれど。少数派特有の苦しみはあるけれど。
だからといって、多数派に自分を委ねたいとは思わない。
世界を多少なりとも面白いものにするために、さて今日も動きますか。
以下、おすすめ映画です。イタリアの精神保健福祉は進んでいるね。
鬱に漂う
今日は鬱が溢れ出してきている。
昨晩の感情の交錯が原因か?
いやな記憶をずるずると引きずってしまうのは、なんとも気持ちの悪いもので、どうにかしたいともがくけれども、なかなかしぶとい。
鬱とは長い付き合いだ。私は不幸か?
いや、現象それ自体が幸不幸を決めはしない。どう捉えるかの問題だ。
鬱をしっかりと味わえる世界は優しいだろうね。
鬱を汚らしいものとして捨てようとする世界は、今、私が存在しているこの世界。
闇をしっかりと観なければ、むしろ闇に飲み込まれてしまうんだ。
闇が怖ければ、闇に飛び込め。
鬱の時は、悲しみが沁みこんでくる。悲しみ、苦しみの波動に共感できる。
忘れていた小さな優しさに涙することもできるんだ。
苦しむけれど、その感情を消去したいかと言われれば、躊躇するだろう。
鬱とはそんなものかな。厄介な伴侶だね。
日蓮仏法と癌治療
聖教新聞の体験談には、癌を克服した体験談がよく載る。
なぜ、仏法というホリスティックな哲学を信じる人々が、治療法といえば、西洋医学しか思い浮かばないのか不思議で仕方がない。
抗ガン剤の副作用で、全身の毛が抜け落ちた、激しい吐き気、倦怠感と戦ったという内容はしょっちゅう出てくる。癌を殺そうとして、自分が死にそうになってしまう。
癌を殺すという発想自体、仏法から見ておかしいのではないか。
癌が発生した原因を知り、解決しなければならない。
私は様々な本を読んで調べましたが、抗がん剤ほどひどい薬、いや毒はないと思います。
医者任せほど恐ろしい選択はありません。抗がん剤は医者や製薬会社の利権が絡んでいます。かなりの金儲けになるそうです。それは使いたがりますよね。
代替療法という選択肢を考えることもなく、手術や薬でしかアプローチしない病院をあてにするのは危険です。病院も慈善団体ではないため、儲けなければいけない。保険点数を稼がなければいけないのです。
信仰を実践しているとはいえ、自分で学ばなければいけません。
また、仏法の観点からして、病気を殺すという考え自体がおかしい。
そうなった原因を考え、生活をあらためるなどの行動が基本ではないでしょうか。
癌で苦しむ、というより抗がん剤という毒で苦しむ場合が多いようです。
以前、お世話になっていた先輩の癌克服体験を聞きました。今でも鮮明に覚えています。
薬を使いたくなかったため、(そのお金もなかったようですが)山に行って、よもぎを取ってきて、煎じてがぶがぶ飲んでいたそうです。すると、いつの間にか癌細胞が消えてなくなっていたそうです。担当医に話すと「本を書いて、治療法を紹介したらいいよ!」とまで言ってくれて喜んでくれたそうです。医者に、この治療法を勧めたところ、「そんなことしたら、医者は食べていけなくなる。」と苦笑いしながら答えたそうです。
ワイルドな学会員!本質的にこういうメンバーの方が賢明です。
最近の学会は変にアカデミズム信奉者が多く、こういう自然療法などを笑います。
スピリチュアル系を批判するくせに、題目があの世にも届くことは信じている。
祈りで様々な奇跡が起きることを信じているのに、スピリチュアルを笑うのはなぜなのか。
抗がん剤などが主流ではなかった時代、病院に行く金もないし、どうしようもないから、死ぬ気でガンガン題目をあげてみたら、癌細胞が消えていた、などという体験談はよくあったんですが、最近の新聞にはそういう話は敬遠されるのか、見かけませんね。
昔と違い、学会員の医者や学者も増えたから、アカデミックになったのかな。
中途半端に金と知識があると,信仰にすべてをかけるという判断ができにくいでしょうね。いい意味で馬鹿にならないと奇跡はおきない。
ともあれ、新聞の薬まみれの癌闘病記を観るのは苦しいし、悲しい。
治療法はしっかりと自分で調べることをお勧めします。
言葉は嘘をつくために
言葉がコミュニケーションを難しくしているのではないかとよく思う。
言葉。世界中に散らばった様々な言葉。
バベルの塔を思うたびに、言語中心の世界であるなら、せめて世界中で同じ言語が使われていたら、もっと分かり合えただろうに、などと考える。
子供のころ、漠然と見ていたアニメで面白いシーンがあった。
その世界では、言葉は使われていない。心に思うことがすぐに相手に伝わるため、
言葉を必要としないのです。telepathyですね。
それを観た私は、「うらやましい。本当のことしか分からないから、楽だろうなあ。」と、近くにいた母に言いました。すると母は、「考えていることがすべてわかってしまうなんて気持ち悪い。お母さんはそんな世界は嫌だ。」と言ったことを覚えています。
本音だらけの世界はつらいこともたくさんあるでしょうが、嘘だらけの世界よりはましな感じがするのですが。偽善ほど疲れるものはない。
好きなら好き、嫌いなら嫌いとはっきり伝えてもらったほうが、私は楽です。
お世辞なんていらない。知りたいのは本音なんです。
言葉は本音を隠す隠れ蓑。しかし、今の地球人の精神レベルでは混乱するでしょうから、やはり、現時点においては言葉が中心のコミュニケーションをせざるをえないのでしょうね。
コミュニケーションの行きつく先は、やはりtelepathyだと思うのです。
嫌人祈念 Clearing your heart
指導でも聞くことではありますが、嫌いな人の幸せを祈ること、これは凄い。
殺したいくらい憎い相手なら、死んでくれ、と憎しみをあらわにして祈ってもいいそうです。綺麗ごとはやめましょう。人間の腹の内なんて、宇宙は全てお見通しです。
隠しようがありません。さらけ出していきましょう。
題目をあげながら、憎しみ、怒りを御本尊にぶつけていくと、自然と心が穏やかになっていき、相手の幸福を祈りやすくなります。
まずは吐き出すこと。ありのままの自分を。そうすれば、自然と嫌な人に題目を送れる自分がいます。
題目はあらゆるものを価値へと転じる,とてつもない力があります。
どろどろとした感情を抑圧するのではなく、うまく昇華させることが肝心です。
煩悩即菩提ですね。煩悩の薪をがんがん燃やしましょう。
スピリチュアルな観点から補足すると、人だけではなく、嫌な思い出、トラウマなど、記憶にアプローチする方法もあります。退行催眠などのように。過去の記憶に題目を送る、という方法もなかなかいいですよ。