わわっ! 電子出版してしまった?
現在、公募再チャレンジへ向けて、推敲中。
元原稿はワードで作成しているのですが、これがどうも読みにくい。最悪なのが、縦書き原稿だと、閲覧モードにすると、左右が反転してしまうのです。これって、正常に表示させる設定が、どこかにあるのかな? 印刷レイアウトだと大丈夫なんですけど、長文の原稿だと、反応が遅い。
最近気に入っているのが、Kinde,PrevieWerで読むこと。Web上の情報を見て試してみたのですが、この情報が古くて、ちょっと苦労しました。が、無事インストールを完了。こちらのアプリは、ワードの文書をキンドル形式へ変換し、閲覧することができるのです。そして、変換したデータはエクスポートして保存しておくこともできます。
デフォルトの表示だと字がかなり小さいので、字を大きくしても、ちゃんとページ送りしてくれます。ルビもちゃんと表示される。
──おおっ! 電子出版したみたいだ!
と、一瞬、感動しました。だが、これは自己満足の世界。
そういえば、アマゾンで自費出版するという手もあるのですよね。でも、なんだかなあ……。
それはともかく、読み返すたびに、気になるところが出てくる。さすがに、誤字脱字は全部つぶしたと信じたいですが、細かい助詞の表現とか、文章の時系列を入れ替えてみたりとか……。
結果、冒頭の部分がだいぶ様変わりしたのですが、自信ないな。
よく、冒頭の4ページで読者の心をつかめ、とかいいますが微妙です。そこで主人公が登場しないのは論外とも……。いちおう、準主人公が先に出てくるのですが、ダメ?
でも、その4ページって、単行本の話だろうと思うのですが、4ページってかなりの字数がありますよね。最近は電子出版が当たり前で、1ページは画面の大きさにもよるし、字を大きくすればページ数は増える。その場合は、どうなのか?
まあ、もうしばらく作業をして、次回作に手を付けたいところです。ダメなら次を考えます。
ところで、私は、最近は、本の類は電子でしか買っていません。最初は、ソニーの電子出版のサイトで買っていました。ここの良いところは、青空文庫の一部の本が0円で読めるところ。青空文庫ヴューワー的なアプリをいろいろ試してみましたが、どれも使いずらいので、買った本みたいな感じで読めるところはいいです。
最近は、キンドル派へ移行しつつあります、迷っていたのですが、ついにkindleUnlimitedの魅力の前に、膝を屈しました。これだけでなく、動画といい、音楽といい、アマゾンは太っ腹ですよね。こちらとしては、使えるものは骨までしゃぶれというだけですが。
どこの電子書籍でも同じですが、PCでも、スマホでも読めて、どこまで読んだかの情報が共有されているので、PCで読んだ続きをスマホで読もうとすると、自動的に続きが表示される。これは便利ですね。
やはり、推敲は重要だ!
敗退した公募作品ですが、しばらく時間をおいて読み直してみると、誤字脱字が10個近く。日本語がおかしい部分も数カ所見つけました──あれだけ見直したと思ったのに……。
さらに、ずっと気になっていたラストシーン。尻切れトンボかなぁ? ずっと気になっていたので、少し書き足しました。
文章の順番も少々入れ替えました。もともと、単純時系列には書いていなくて、現在と過去が行ったり来たりする感じで書いていたのですが、読み直してみるとわかりにくい。結果、冒頭にもかなり書き足すはめに。
それでも、全体の分量からすれば、大幅改変ではないです。
次に気になったのが、記号の使い方。「──」、「……」、「( )」など。何人かの作家さんの作品を、この観点から読んでみたのですが、様々ですね。当たり前ですが、王道の使い方というものはありませんが、こうすると読みやすいとか、カッコいいとか少し見えた気がします。これも、修正しました。
最後に、小説を書き始めてから、ずっと悩んでいるのが、視点こと。個人的には、第三者的な神視点で書くのが好み。有名な作家さんたちも、これが多いように思います。ラノベだと、一人称の視点が多いかな。確かに、読みやすさで行くと、こちらが圧倒的にわかりやすい。
神視点だと、登場人物の心情を書きにくいな、というのが私の悩み。上手に書かないと、神視点ではなくて、一人称の視点がコロコロ変わっているように感じてしまう。かといって、第三者から見えることだけに徹底してしまうと、とても冷たい感じになってしまいます。ここは、まさに自分なりのスタイルを構築中という感じで、長い目で取り組んでいくしかないように思います。
もう書いてしまった作品の視点を根本的に修正するのは無理なので、今やっている推敲は、もうこの辺でかな。
まだ、別な公募の〆切まで少し時間があるので、1週間くらい眠らせて、もう一度推敲しようと思っています。そうすると、あのときは、こう思ったけど、こっちがいいなとか、この文章は冗長だからいらないとか、いろいろ見えてくるのでしょう。
小説の書き方の本などを読んでいると、とりあえず最後まで書いてから、推敲でどこまで磨きをかけるかが勝負ですと書いてあったりします。今回、それを実感したところです。
次の公募でリベンジできるといいのですが、こればかりは「神のみぞ知る」ですね。
公募敗退、そして次回作は?
以前に本ブログで書いた公募は、最終選考に残れませんでした。
残念ではありますが、応募した後に読み返してみると、あそこはこうしておけばよかった、という後悔ばかり。
作品については、気付いた部分をブラッシュアップして、別な公募へ出してみようと思います。これでダメだったら、せっかく書いたので、Webにアップしようかな。
で、次回作ですが、ようやく、ほんわかとイメージが湧いてきました。
まだプロットも書けない感じですが、私の場合、ガッチリとしたプロットを書いても、途中で脱線してしまうので、そろそろ書き始めてみようかと。書いているうちに、イメージが明確になってくることもあるので。
書いているうちに、キャラが勝手に動き出す感じもあるんですよね。我ながら、二重人格か、統合失調症みたいな話ではありますが、創作者なんて、そんなものなのでは?
確定ではありませんが、カクヨムにアップしようかと思い始めました。でも、やっぱり公募に出すかも。それは、作品の完結が見えて来てから再考します。
もう一作品。Webコンテストに出しているものの1次選考の発表が、来週で
す。過度に期待することなく……でも、通っているといいな? 1次すら通らないというのは、寂しいものがありますからね。
私の苦手なもの
しばらく間が空きました。実は、演奏会の本番が2つ重なり、燃え尽きて、しばらく呆けていました。しかし、既に次の演奏会の練習が始まりました。気持ちを切り替えなければなりません。
今回の演奏会で、私の苦手を実感しました。前の記事でもスピッカート(跳弓)は難しいという話を書きました。感じ方は、人それぞれですが、跳ねさせるというよりも、弓の弾力を使って、弓が自発的に跳ねるのをコントロールするといった感じでしょうか。
弦楽器にはダウンボウ(下げ弓)とアップボウ(上げ弓)があって、特性がことなります。スピッカートで弾くときは、上手くコントロールしないと、ダウンボウとアップボウが均等に聞こえません。これには、飛ぶ方向が乱れないようにすることが大切なのですが、遅いスピッカートは滞空時間が長くなるのでコントロールが難しいのです。
で、さらに難題なのが、PやPPの遅いスタッカートです。
弓を飛ばしやすい位置は、弓の重心の位置とされています。手元の方が重いので、概ね手元から弓の長さの3分の1くらいの位置です。ですが、この位置だと跳びやすいですが、力がかかり過ぎるのでPPにはなりません。弓は、梃の原理で、弓本は力がかかりやすく、弓先は力がかかりにくいという特性がありますので、飛ばす位置を弓先へと持っていくのです。そのためには、弓を持つ手の薬指と小指で支えて重心をズラす必要があります。
そして重要なのが、引く位置です。要するに、駒よりなのか、指板よりなのかということ。一般に、fを弾くときは駒より、pを弾くときは指板よりということになりますが、あまり指板に近づけてしまうと、弓は上手く跳びません。
しかし、オーケストラで弾いている習性の悲しさで、ppのときは、恐怖心から、どうしても指板よりに逃げてしまうのですね。そうすると弓が跳ばないし、音が長くなってしまいます。で、さらに移弦(弾く弦が変わる)があると、飛び方のコントロールも難しくなります。
先日やったベートーヴェンの交響曲第3番英雄(エロイカ)の第3楽章のスケルツォは、まさにppで始まります。
しかし、これは弦楽器のユニゾンで始まるので、凄く怖い訳ではありません。
次回の演奏会へ向けたベートーヴェンの交響曲第9番の第2楽章のスケルツォは、何度もやっていますが、何回やっても怖いです。
これは、冒頭でfで主題を提示した後、ppのフガートが始まり、まずは2ndヴァイオリンが、次にヴィオラが主題を提示して、次がチェロの番です。これがppの遅いスピッカートということもあるし、チェロのA線の高音域で、鳴りやすい音から始まるのでなおさらです。
同じようなppのスタッカートは、先日やったブラームスの交響曲第3番3楽章の中間部でも出てきます。こちらは、ppのスピッカートで、かつ、最後の音符だけアクセントがついていて、コントロールが難しい。
この2曲をやって、周りから音がでかいだの、音が長いだの苦情を言われながら練習した結果、それなりに上達はしました。さらに精度を上げて第9の演奏会へ臨みたいと思っております。
スピッカート(spiccato)/ソティエ(Sautille)/跳弓(ちょうきゅう)の弾き方と練習方法 ★動画で解説・バイオリン教室★
お題「夏に聴きたくなる音楽といえば」 ~エステ荘の噴水~
Hatenaブログのお題からひとつ。「夏にに聴きたくなる音楽といえば」です。
私は、チェリストなので、チェロのお話が多いですが、チェロやオーケストラの曲以外にも、ピアノの曲も好きです。
一番気に入っているのは、ドビュッシー御大なのですが、ラベルもいいし、ショパンも好き。ブラームスの後期のピアノ作品もいい。もちろん、ヴェートーヴェン翁のピアノ曲は、外せません。
微妙なのがリスト。ピアノ協奏曲などは、いただけないなと思うのですが、素敵な曲もあります。若い頃はスターとしてもてはやされ、ショパンと人気を二分した彼は、年を経て、生活スタイルも、曲調も変わります。晩年のリストは修行僧のようなストイックさを持っている。
そんな彼に「巡礼の年」というシリーズもののピアノ曲集があり、その最後、晩年の作品で第4集「第3年」の第4曲「エステ荘の噴水」という曲があります。
「エステ荘」は、イタリアのティヴォリにあるエステ家による別邸で、オルガンの噴水という巨大な噴水をはじめ、数百の噴水があることで有名。「エステ荘の噴水」は、その噴き出す水が光に反射してキラキラとした様子を見事に描いています。聴いていると、その映像が頭に浮かびあがり、涼やかな感じは暑苦しい夏に清涼感をもたらしてくれます。
この曲は、リストの代表作でもあり、ドビュッシーやラベルなど、後輩の作曲家たちにも影響を与えています。
ドビュッシーの 「映像 第1集:水の反映」やラベルの「水の戯れ」は、同じ水を題材とした曲として、リストの影響を受けていると言われる定番の作品です。
ドビュッシーやラベルは印象派と呼ばれますが、その先輩であるリストは、「エステ荘の噴水」で、そのスタイルを先取りしていたわけです。
「印象派」という言葉は、絵画の印象派からの転用です。絵画の印象派では、光がとても重要な要素です。中でも、水がキラキラと乱反射したり、透明な水を通して水底が見えたり、半透明な水面に風景が映り込んだりといった、神秘的・幻想的な光の作用は主要なモチーフの一つです。
定まらない、波に映る乱反射のように、型にはまらず、自由にたゆたう。しかし、完全な無秩序というほどアナーキーではない。そんな絶妙な自由さ。そんな感覚が私は大好きです。そういう共通点からドビュッシーらは印象派と呼ばれたのだと思いますし、言い得て妙です。
作曲技法としては、ドビュッシーの全音音階が、一種の無調だと前にブログで書きました。一方で、シェーンベルクに始まる新ウィーン学派は、12音技法という、完全な無調音楽の手法を確立したました。「無調」というと、調性という頸木から解き放たれた、完全フリーのように思いがちです。しかし、厳格な12音技法は、まさに
自由落下とは、不自由なものだな(by シャア・アズナブル)
というようなもので、いかなる調性からも中立でなければならない、という不自由があるのです。
人間は、大地に立って生きる存在。12音技法は、無重力状態のような不思議な雰囲気を醸し出しますが、人は、無重力状態の中では宇宙酔いをしてしまう。同様に、12音技法による音楽を長時間集中して聴くことは、無理だったのです。それに、いち早く気づいたシェーンベルクらは、12音技法と語りや合唱のテキストと結びつけるなどの工夫をし始めます。
ドビュッシー御大は、そんな様子を横目で見ながら、苦笑していたのでは、と想像してしまうのは、私だけでしょうか?
結局、音楽にも、ドラマがないと聴衆はついてこない。主調があって、これが属調などを経て不協和が生まれ、最後に主調へ戻って解結するのが音楽の基本形。型にはまったものばかりではつまらないので、いかにひねりを加えるかが作曲家の腕の見せ所でだと思うのですが……。
スタイルの崩し方に、絶対的な正解はなく、個人の趣味・センスがあるだけです。それは、創る方も、聴く方も同じです。ですが、20世紀は、古い価値の破壊が正義とされた時代。作曲業界では、12音技法が絶賛されミユージック・セリエルという技法に昇華されていきます。この中で、新ウィーン学派のウェーベルンは、その元祖として、神のように尊敬されていました。
しかし、それも20世紀の後半から様変わりし、今世紀では、旧来の作曲技法を使った作曲家たちが復権してきています。が、それらの話は、機会を改めるということで。
休符で始まるリズム ~ブラームスの得意技~
今度の定期演奏会でやるブラームス交響曲第2番の第4楽章の冒頭付近に印象深いリズムがあります。
冒頭、Pで始まり、消え入るようなデクレッシェンドで、そのまま静かに収まるかと思いきや、スビート(突然)フォルテの音型が静けさを唐突に破ります。
その音型の頭が八分休符なのです。ブラームスも、頭が休符で始まるリズムは得意なのですが、他の作曲家でも、見かけるリズムです。
この音型を見る度に思い出すのが、とある古い映像のこと。
指揮者の小沢征爾さんが、まだボストン交響楽団の音楽監督をやっていた頃。タングルウッド音楽祭で、若手の指揮者の指導をしている映像があります。そこで、ウェーバーの魔弾の射手序曲の指導をしていたのですが、同じような音型がでてくるのです。
そこで、小沢さんは、若手の指揮者に、休符のところで息を止めると、入りが遅れるので、止めるなと指導していました。これは演奏家ならなおさらで、休符のところは、「ウッ」と息を止めがちになるのですが、そうすると体が緊張して、リズムが遅れがちになります。
では、どうするのかというと、休符のところで、息を吸うのです。心得ている指揮者の方ですと、息を吸う音が聞こえますし、それが一つの合図にもなるのです。
アルバン・ベルク=カルテットが録音したブラームスの弦楽四重奏曲のCDでは、頭が休符リズムのところで、第1ヴァイオリン奏者が息を吸っている音がよく聞こえます。プロにとっては、常識なのですね。
第4楽章の中盤、やはり休符で始まるブラームスらしいリズムがあり、ちょっとしたクライマックスを作っています。
Brahms: Symphony No.2 / Seiji Ozawa Saito Kinen Orchestra (2009) - YouTube
このリズム、休符で始まるリズムへ向けて、盛り上がっていくのですが、例によって、4/4拍子に、3拍子のリズムをはめ込んだヘミオラというやつです。しかも、ヘミオラの一番最後の音型は、八分音符から3連符へ変化し、かつ、最後で八文音符に戻して急ブレーキを踏み、緊迫感を煽ります。
そして、頂点だと予測される1拍目の強迫を休符にするという裏切り行為に、誰もがつんのめりそうになります。ブラームスは、2拍目にアクセントを書いていますが、これは一種のシンコペーションなので、2拍目はいやでも強調されるのです。
まさに、ここの四分休符のところこそ、息を吸わないと演奏者としては持ちません。
しかし、よくぞ、こんなリズムを考えつくものだと感心します。慣れないアマチュアは、いっそ変拍子にしてくれればいいのに、と愚痴をいいます。気持ちはわからないではないですが、これを変拍子にしたら、ブラームスじゃない。演奏し慣れてくると、これがまた、たまらない魅力なのです。
チェリスト、彷徨する
先週の日曜日。オケの練習がありました。
私の家は、東京の南部にあるのですが、いくつかある定番の練習場所は、なぜか北部が多い。結果、そのための交通費も、バカにならなかったりします。アマオケをやっていると、本番会場や練習場所の使用料、指揮者やトレーナーの先生への謝礼、その他活動に必要な諸雑費に加え、楽器の維持に必要な消耗品費もあり、トータルでかなりの出費です。でも、好きでやっていることですからね。
初めての練習場所のときは、スマホのナビが頼り。ですが、実は、最短経路じゃなかったり、妙な小道を通ったりと、全面的には信頼できない。
今回は、湯島天神のすぐ近く。ここも、ナビでは、最短経路がわからなかったのですが、実は、最短経路はとんでもない坂道を通るのです。
最近、改修工事が行われて、手すりもついて、きれいになり、中央部に踊り場も作られたので、通りやすくはなりました。改修前は、古めかしい急階段で、チェロを背負って通るのは、少し怖かったです。
なぜ、このような道が残っているかというと、「実盛坂」という名前があり、それなりに由緒があったらしいです。
東京は、道路も舗装されているし、建物で覆い尽くされているので、地形がとても分かりずらい。こういう急な坂をみるとアップダウンがあるのが、よくわかります。
よく言われるのが「谷」が付いている地名のところは、文字どおり低い場所だということ。
私の家の近辺だと、「渋谷」は、その一例で、山手線と国道246号線が交差する高架下は、豪雨が降るといつも浸水して水浸しになっています。それが明確なのが、地下鉄銀座線の渋谷駅が、地上3階にあるということ。これは、銀座線がわざわざ坂を上っているのではなく、渋谷が低いので、高低差を維持すると3階に着いてしまうのです。銀座線は最も古い地下鉄の一つなので、技術的にそれしかできなかったのでしょう。
これは、東京初心者にとっては、大きな落とし穴ですね。普通は、想像できないですから。一方、渋谷を通っている地下鉄半蔵門線や副都心線へ乗り入れることになった東急線の駅は、地下2階にあります。地下鉄の経路図を見ると、渋谷で銀座線から半蔵門線に乗り換えができることになっています。それは間違いではないのですが、地上3階から地下2階へ延々と下ることになり、とても大変なのです。乗り換えるなら、一駅前の表参道で乗り換えれば、同じホームで乗り換えができるので、知っているかいないかで、雲泥の差があります。
といっても、それは広い関東平野でのこと。高低差といっても、たかだか数十m程度のことです。
スタジオジブリの映画「コクリコ坂」のモデルとされている「いろは阪」は典型的だと思われますが、この高低差はちょっとした川により地形が削られた河岸段丘なんですね。
「いろは坂」の場合は、おそらく多摩川の支流の大乗川だろうと思います。こちらは、現在でも川としての体裁があるので、わかりやすい。
しかし、都心部になると川が暗渠になっていて、よほど気を付けていないとわからない。でも、「いろは坂」のような場所が、あちこちにあるのです。渋谷でも、「スペイン坂」とかありますよね。
そういえば、「スペイン坂」近くにあるNHKの建物もまさに坂に面して建っていて、正面玄関がいちおう1階ですが、坂下にある西口とは、やはり相当な高低差があるのでした。昔、NHKがスポンサーの学生選抜オケの練習に、スタジオへ通ったことがあるのですが、スタッフ入り口は別なところにあって、やはり正面玄関からは下にありました。
そのときに、職員用の食堂を利用したことがあるのですが、ちょんまげを結ったお侍さんが普通に食事をしていたりして、おかしかったのを憶えています。
そのときの演奏は、いちおう放送されたのですが、各大学の代表1名がアップで映され、名前もテロップで表示されたのが恥ずかしかったです。トロンボーンの先輩も一緒だったのですが、譲るに譲れませんでした。