毎日違う土地で眠りたい

「わたしたちはそういうふうにますますなって行くんじゃないかと思うのよ、ヘレン。人をたくさん知れば知るほど、代わりを見つけるのがやさしくなって、それがロンドンのような所に住んでいることの不幸なんじゃないかと思う。わたしはしまいには、どこかの場所がわたしにとって一番大事になって死ぬんじゃないかという気がする」――『ハワーズ・エンド』(E・M・フォースター/吉田健一・訳)

うどんと阿波踊りとゲリラライブの夜 ―香川・徳島旅行2泊3日 後編―

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さて、旅行2日目は徳島県徳島市へと向かった。特急うずしお徳島駅へと向かう。徳島駅に着いてからバス待ちの間に駅構内を覗くと、素敵なお土産がたくさんあり、ここで買い込みたくなる。しかし、これから市内を巡るには荷物になるので、ぐっと我慢した。

 

バスで向かうのは、徳島県立阿波十郎兵衛屋敷だ。ここは人形浄瑠璃の展示や公演のほか、人形浄瑠璃を育んだ徳島の風土や歴史について学べるという施設である。

徳島県人形浄瑠璃の盛んな地として知られ、特に人形芝居のための農村舞台の数は全国一なのだそうだ。また、人形座や太夫部屋の数、人形をつくる人形師の数も他県と比べると群を抜いて多いのだという。私は人形浄瑠璃を見たことがなかったので、市民の生活の中で今も息づいている伝統的な文化に触れられると思うとわくわくした。

 

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駅からのバスに乗り、雄大吉野川を渡ってそこそこの距離を走った。目的地で降りると、静かな通りに溶け込むように阿波十郎兵衛屋敷の藍暖簾が見える。徳島は藍染でも有名なのだ。

入場料を払って中に入ると、松の剪定された美しい中庭が迎えてくれた。左手に室内式舞台がある建物、右手すぐにショップ、その奥が展示室という造りだ。

この施設では、なんと毎日2回の人形浄瑠璃の定期公演が行われているのだという。その講演の時間があと15分ほどだったので、どうしようかな?と私は思い、ひとまずショップを覗くことにした。しかし、とても小さなお店だったので、結局展示室へ向かうこととなる。徳島の特産品が品よく並べて売ってあって、こじんまりとしていたがとても雰囲気のいいお店だった。

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展示室も思ったより小さなつくりだったが、並べられた人形の姿が圧巻だった。ボランティアの解説の方がちょうど小さなグループを迎えたところだったので、そのグループに混ぜてもらう。が、そのうちに人形浄瑠璃の公演時間となった。わらわらとみんなで移動するのがなんだか愉快である。

舞台には歌舞伎でもよく見る橙・緑・黒の幕が引かれており、客席の椅子に私たちはそれぞれ腰掛けた。幕の上には電子式の表示で今日の演目「傾城阿波の鳴門 順礼歌の段」の文字が出ている。この演目は実際にあったとされる板東十郎兵衛のお家騒動が元になっており、その板東十郎兵衛の屋敷跡に建っているのがまさにこの「阿波十郎兵衛屋敷」なのだ。

客席の埋まり具合は4割ほどだが、白人グループがそこそこいるのが印象的だった。また、演目が始まる前の施設の人の挨拶でも、日本語と英語、さらにフランス語での案内があったのでへぇと思った。フランス語圏に関心を持っている人が多いのだろうか。

さぁ、いよいよ開幕である。舞台の幕が上がると、三味線の演奏と義太夫の語りが始まる。平日は録音だそうだが、この日は祝日だったので生演奏、生謡であった。舞台に人形が登場すると、いやがうえにも期待が高まり、私はドキドキした。

結論から言うと、ここでの人形浄瑠璃のお芝居はプロが人形を操るものではなく、有志の方々が人形を動かして上演されたものだったので、私にはその動きがかなりぎこちなく感じられた。人形の足がよく宙に浮いていたし、一体の人形を3人で操る連携がものすごく難しそうだった。

私はそれまでに人形浄瑠璃に関する本を少しだけ読んで、その舞台の素晴らしさとその世界を作り上げる厳しさにとても感銘を受けていたので、やはりプロのお芝居を見ないといけないなというのが一番の感想となった。

しかし、このように実際に人形が動き演じる舞台を観られる施設があるのは、やはり素晴らしいことだと思う。上演が終わると、私は力を込めて舞台の方々へ拍手を送った。

 

そのあとは、展示室を再度ゆっくり見学する。大阪の人形浄瑠璃と徳島の人形浄瑠璃の違い(大阪は基本的に舞台で上演されるのに対して、徳島は農村の野外で上演されることが多かったので、徳島の方が人形が大きいなど)を学んだり、人形の仕組みについての説明パネルを読んだりした。

小さな施設なので、思ったよりも早く見終わってしまう。私が外に出てバス待ちをしていると、白人男性の2人組が隣にやってきて、私たちはバス待ちの列となった。私は彼らがどういう理由で徳島までやってきて、また人形浄瑠璃を見たのかちょっと聞いてみたいなと思ったが、不躾かしらと思ってやめた。私は英語ができないが、質問しなかったのはそういう理由からではない(英語以外の言語を話す人かもしれない。通じるか通じないかの問題とは違うということ)。

 

 ***

 

その後、私は徳島県立文学書道館へ向かった。徳島に少しでもゆかりのある作家はすべて網羅されているのではと思うくらいの展示数は圧巻だったし、瀬戸内寂聴記念室の展示は歴史的にも貴重なものなのだろうと思ったが、いかんせん私の知識不足のせいで、ほぼ眺めるにとどまってしまった。

しかし、私はどの土地にもこのように公的な文学拠点となる施設が必要だと思っているので、自分の足で徳島の文学館にも行くことができてよかったと思う。

 

 

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さて、昼食はどうしようと思って入ったのは、またもやうどん屋だった。昨日の昼食に食べたうどんがとても美味しかったので、隣の県である徳島のうどんもきっと美味しいだろうと思ったのである。

しかし文学館の近くにあるうどん屋さんで食べたうどんは、意外にも関西風?だった。つゆは透き通って出汁が効いており、麺もやわらかめでいわゆる讃岐うどんとは違うようだ(高松で食べたうどんは、麺の角が直角に近かった)。

徳島ではわかめも有名なので、私はわかめうどんを頼んだ。そのせいなのか、あるいはそのお店が例外的に関西風だったのか…? わからないが、そのお店のうどんもとても美味しかったことはここに報告しておく。

 

 ***

 

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その後、私は徳島市の中心部に戻り、阿波おどり会館へと向かった。徳島と言えば、何をおいても阿波踊りがまず思い浮かぶ。「踊る阿呆に見る阿呆、同じ阿呆なら踊らにゃそんそん」。テレビで見る阿波踊りの様子はいつも圧巻だ。徳島に来たからには、何はともあれ阿波踊りを見ておかなければなるまい、というような使命感(?)があった。

阿波おどり会館は、徳島市のメインストリートの突き当たりにある。市内をまっすぐに貫くその道をバスで走りながら、私はそれがまさに阿波踊りのための花道であるように見えたことにびっくりした。この太い通りが、夏まっさかりの時期に大勢の観光客でいっぱいになるさまは、きっと壮観だろう。

それと同時に、高松との対比についても考えずにはいられなかった。高松市の通りはどこもにぎわっていて、商店街の脇道にもお洒落なお店がたくさんあり、街を歩いているだけでとても楽しかった。しかし、徳島市はメインストリート沿いの店でさえもシャッターが下りている店が多く、しかもその状態が長いこと続いているようだ。地方の町に行くと、このような光景を見ることは少なくない。しかし、市の中心部でこのような状態を目にすると、さすがに胸が痛んだ。

 

阿波おどり会館眉山を背にして、最上階がロープウェイ山麓駅になっている5階建ての建物である。ここではなんと、1日に4回も阿波踊りの定期公演が行われているのだそうだ。録画した映像を流すわけではなく、実際に人が阿波踊りを実演してくれるそうだから、それだけでもものすごいことである。

1階の徳島物産展で特産品を眺めていると、公演の時間になる。入場すると、舞台がすぐ近くであることに驚いた。段差もなく、本当に客席の間近である。客の入りは6割ほどで、海外からの団体観光客も多いようだった。

時間になり、すうっとホールの明かりが落とされる。ゆっくりと舞台の幕が開くと、にぎやかなお祭りの音楽とともに、連(阿波踊りのグループ)の人びとが入場してきた。やはり、一人一人の顔がはっきり見えるくらい近いことに驚いたが、それよりも私がびっくりしたのは、彼らの顔が生き生きと楽しそうなことだった。み、みなさん顔が…輝いている…!と思った。

阿波踊りは盆踊りの一種だそうなので、正直なところ私は阿波踊りに何かを期待していたわけではなかった。しかし、実際に踊る人びとを目の前にすると、彼ら一人一人が誇りをもって踊りを踊っていることが伝わってきて、かなり衝撃を受けた。

踊る人の年齢層が若いことも意外だった。40代、あるいは50代と思われる人もいたが数名で、そのほとんどは20代~30代くらいのようである。身のこなしもキレがあって、みんなとても美しい。予想外の展開に、私はかなりわくわくした。

 

総論として、舞台はエンターテイメントとしてよく考えられたもので素晴らしかった。阿波踊りの基本的な部分を押さえ(踊りの編成や年代ごとの歴史、そして現代の阿波踊りを説明)、客席にも参加を促し(体を動かす巻き込み型)、そしてアート・エンターテイメントとして魅せる(創造的な演目を実演)。

特に、プログラムの最後に希望者を舞台へ出てくるように促して一緒に踊り、上手い人を勝手に表彰してしまうのがとても微笑ましかった。想像していたよりもたくさんの人が舞台に出て行ったこともすごかったが(それまでのプログラムの作りがうまいおかげですね)、実際に躍る人びとを見ると、踊りのセンスがある人とない人が一目瞭然なのがわかって私はとても面白かった。やはり踊りのセンスというのは歴然とあるのだな、と思った。

個人的には、現代的にアレンジされたアーティスティックな阿波踊りにも大変感動して、こんなにきれいな阿波踊りもあるのだなと見入ってしまった。素晴らしい文化だと思ったので、これからもぜひこの施設が続いてほしいと思う。

 

 

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その後は阿波おどり会館ミュージアムフロアを見学し、ロープウェイで眉山に上った。眉山は標高290mと決して高い山ではないが、そのなだらかな景観が徳島の人びとに愛されており、街のシンボル的な存在なのだそうだ。

時間は美しい夕暮れ時で、徳島の街並みを一望する眺めも穏やかでとてもよかった。周囲に山や高い建物がないせいか、本当にゆったりした気分になれる。阿波踊りの余韻に浸りながら眺めた夕焼けは、とてもいい思い出になった。

 

それから駅に戻った私は、予定していたものより一本前の特急に乗れることに気が付いて、かなり慌ててしまった。今思えば、徳島土産を買ってゆっくり帰ってもよかったのだが、この時は気がせいて飛び乗ってしまったのである。

高松にも同じようにお土産があるだろうと思ったのだが、一度見た徳島駅の徳島土産の方が魅力的だったように思えてならない。逃した魚は大きいという心理なのかもしれないが、これはちょっと後悔している点である。

 

 ***

 

さて、高松に帰ってきてからも素敵な場所の数々へ行くことができた。しかし、すでにかなり長くこの旅行記を書いてしまったので、記録する程度にとどめようと思う。

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高松市内にある新刊書店「ルヌガンガ」さんは、創造的な棚が素晴らしい本屋さんだった。そのたたずまいからして夢のようにかわいいのだが(外にある「本」の書き文字は平野甲賀!)、ジャンルごとに選書された本の並びが、それぞれ隣の本と絡み合っているようで、まるで棚が生き物のように感じられるところがよかった。

Aの隣に並んでいるBという本と、Cという本の隣に並んでいるBという本は、同じ本でも買う人にとって違うのだ。それを作り出している本屋さんということです。

私が行った時は閉店間近だったので、翌日も開店早々に行って棚をじっくりと見た。香川に関する本を買ったところ、「この本の中にこの店も出てくるんですよ」と言われたことが印象的だった。

 

 

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ルヌガンガさんから少しお店を隔てた向かい側には、「古本YOMS」さんがあった。こちらも雰囲気満点の素敵なお店で、並んでいる本もよい古本屋さんならではの香り高さのようなものがあった。

私が行った時はそこそこ遅い時間だったのだが、続々とお客さんがあってにぎわっており、街の本屋さんとして親しまれているのだな、と思った。こういうお店が私の近所にもあったらいいのにと思う。ちょっと背伸びして買いたくなるような本がたくさんあったが、私は中国文学者の対談集を買って帰った。

 

 

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翌朝、私は喫茶「城の眼」へ向かった。ここは彫刻家のイサム・ノグチや、音楽家武満徹も通ったといわれる喫茶店である。さらに、店内の壁面はニューヨーク万博博覧会の日本館のために作られた石彫のレリーフの試作品が使われているらしい。

…というような情報から、せっかくだから行ってみたいなと思い足を運んだ。しかし、いざ来てみるとその店構えのオーラに圧倒されてしまい、なかなか店内に入ることができない。ここまで来たのだから、とようやく覚悟を決めて中に入ると、その独特な空間に圧倒されてしまう。私にもっと威厳があればよかったのだが、残念ながら威厳とは程遠い人間なので、どう見ても場違いである。

しかし、お店の優しいマスターが好きな席にどうぞと言ってくれたので、腰を下ろすことができた。注文を通してもらい、しばらく店内を眺める。入り口両脇には石造りの巨大なスピーカーがあり、なんとこれは1つ3トンもの重さがあるそうだ。そこから流れる音楽に耳を傾けながら、前衛的でシックな店内に見入っていた。おそらく、私には20年くらい早すぎるお店だったのだと思う。

しばらくして、コーヒーが運ばれてきた。それを啜りながら本を読んでいると、私より先に来ていたお客さんが、お店の壁面やスピーカー、イサム・ノグチが座っていた席などについて尋ねていた。店主さんはそれに丁寧に答えている。そんな様子を眺めながら、こんな重厚なお店なのに、店主さんは飾らなくて素敵だな、と思ったことを覚えている。

 

 ***

 

このようにして、私の香川・徳島旅行は終わった。いつも通りバタバタと落ち着きのない旅であったが、どこも素敵でとても楽しい旅であった。何より、私の中の茫漠とした思いがかなり紛れてとても助けられた。

 

私は現状の生活でもかなり行先がわからず、実はこれから自分はどうなるのだろうと思っている。そうなろうと思ってそうしているのではないのだが、なぜかそうなってしまう自分に呆れてしまう気持ちもある。

しかし、旅先の記憶は思い返すと確かに私が握りしめられると思うものの一つだ。もしかしたら、私は一生自分の安住の地を見つけることはできないかもしれないが、これからもそういう確かな基点として、旅を続けられればいいなと思う。

 

 

うどんと阿波踊りとゲリラライブの夜 ―香川・徳島旅行2泊3日 前編―

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おそらく、私は現在が人生の中でももっとも自由な時期なのだが、それでも何かと不自由でたまらない。本当ならば、すべてを置いて旅に出たい。今回はそんな気持ちを再確認する旅行となった。

いつも旅は素晴らしい。私は本来ならば、ずっと旅することを望んでいる。永遠に帰りたくない。

瀬戸内海を渡り、高松の楽しい街を歩き、徳島の文化に触れて思うのは、そのようなことだった。しかし一方で、私は別のことを考えてもいるのだ。それは、なぜ私の魂が安住できる場所はないのだろうということである。

もしかしたら、私の本当の住処があるのではないだろうか、と思いながらめぐる街は、どこも美しい。どんな街角でも、私はもしかしたら自分はここに住むべきかもしれないと思うし、もしかしたらここで人知れず死んでしまうのかもしれないなとも思う。

 

高松も徳島も魅力的な街で、ひょっとしたら私の終の棲家となった土地だったのかもしれない。しかし、こうして帰ってきて自宅でブログを書いているので、残念ながらそうではなかったようだ。

私のとりとめのない妄想はともかく、その思い出はとても楽しいものだった。なので、その2泊3日の記録を残していきたいと思う。

 

 

 

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博多から岡山への新幹線の車内で、私はずっとちくま日本文学の「菊池寛」を読んでいた。素晴らしく面白い。この日は天気がよかったので、普段ならば時折車窓の景色を楽しんだと思うのだが、本があまりに面白いので夢中で読んでしまった。

菊池寛は、香川県高松市出身の作家である。文藝春秋社を興し、芥川賞直木賞を創設した人物としてもよく知られている。今回私が高松を旅行先に選んだのは、菊池寛記念館に行きたいからというのが大きな理由の一つだった。

菊池寛は以前岩波文庫で読んで、こんなに面白い作家だったのかと驚いたものだった。今回ちくま日本文学の名編集で読み、改めてなんて上手い作家だろうと思う。エゴイズムのさびしさ、人間の我執を超えた先にあるものを、簡潔な文章でテーマ性豊かに描いておりとてもいい。

 

岡山からは、快速マリンライナーに乗った。本州から四国へ、電車で瀬戸内海を渡れるのは本当にすごいことだと思う。最初、窓側に座席を取れなかったので落ち込みそうになったが、海を渡る直前の駅で窓側の席が空いたので、移動して景色を見ることができた。

瀬戸内の島々が浮かぶ海は、その美しい青さが目に染みるようだ。真下を見るとその穏やかなさざ波まで見て取れる。波が優しいなぁと思う。私にとって、四国はこの穏やかな海を渡っていくところというイメージである。

 

 ***

 

たどり着いた高松駅はかまぼこ型の建物で、かまぼこの切り口にあたる側面がガラス張りになっていた。そのせいか、とても明るく開放的に感じた。

まずはホテルに荷物を置きたかったので、私は徒歩でことでん高松琴平電気鉄道)の高松築港駅(たかまつちっこうえき)へ向かう。途中少し迷ってしまい、さらに切符を買ってから反対側のホームに行ってしまったが、なんとか電車に乗り込んだ。電車は2両で、レトロな黄色の車体がかわいらしい。ごとごとと揺られて、すぐに瓦町にたどり着いた。ホテルに荷物を預けると、気合を入れる。

さて――。

高松でやりたいことは、たくさんあった。ありすぎて困るくらいだ。なので、初日の目的は次の5つとした。

1,菊池寛記念館へ行く

2,菊池寛銅像や文学碑を見る

3,うどんを食べる

4,香川県庁(丹下健三設計)を見る

5,予約制古本屋・なタ書へ行く

全てを時系列に書くとだらだらした記録になるので、ここでは要点だけを書いていこうと思う。

 

 ***

 

最初に果たしたのは「3、香川県庁(丹下健三設計)を見る」である。

香川県は知る人ぞ知る近現代建築の宝庫なのだそうだ。私は全く建築には詳しくないが、ホテルだとか博物館だとかの大きな建物が好きなので、見てみたいなと思った。

 

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香川県庁に行く前に、百十四銀行本店の近くを通るので、こちらにも足を運んでみる。ブロンズの外壁の色合いが面白く、とても個性的な建物だ。

一通り外観を眺めて写真を撮り、中に入った。白いタイルにまるで塔の入り口のようなデザインのシンプルなエレベーターの乗り口が並ぶ廊下がとても美しい。

内観も写真に撮っていいのかな?と思ったので、廊下脇に立っている警備の方に聞いてみると、撮影OKだと言われる。さらにその人は床のタイルを指して説明をしてくれた。

「この模様は瀬戸内海の波を表現しているそうですよ」

足元に視線を落とすと、白を基調にしつつもとろこどころ黒いタイルが入った一見不規則な模様である。しかし不思議と調和がとれており、確かにその様子は光によって優しく表情を変えるさざ波のようだ。

その警備員さんの後ろに流政之の彫刻があったので、こちらも写真に撮らせてもらう。すると警備員さんは、廊下の奥を指して「あの外に見える緑の壁も、流政之が作ったものですよ」と教えてくれた。「草壁画」と言われる、壁に実際にツタを這わせた「生きた」作品である。

「この廊下の奥に、ちょうどあの壁が見えるように作られたらしいです」

な、なるほど…!と私は感激した。白い廊下の突き当りにあざやかな緑の壁がある色彩づくりは、確かに美しい。すべてが計算して作られているのだな、と思う。

「草壁画」もぜひ間近で見たいと思ったので、警備員さんにお礼を言って、私は廊下を抜けて壁画も鑑賞した。実際に対面してみるとかなり大きく、風景に溶け込んでいるので、言われなければ気が付かなかっただろう。後で調べてみると、壁の高さは10m、幅は44.5mもあるらしい。なんとも巨大な「生きた壁」である。すごいなぁと思いながら写真に収めた。

 

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百十四銀行がとてもいい建物だったので、香川県庁舎(東館)も楽しみだな、くらいの気持ちで行ったところ、その予想は大きく外れた。そのことに、私自身がかなりびっくりした。

香川県庁舎の手前の交差点で建物が目に入ったのだが、その時点で私はもうかなりの衝撃を受けた。何がそんなにすごかったのか、いまだによくわからないのだが、とにかく、こ、これは格が違う…!というようなことを思った。ちょうどその時は平日のお昼時だったので、県庁周辺は昼食に出ている人たちがたくさん歩いていた。ふつうにみんな歩いている、と思った。こんなにすごい建物があるのに、ふつうにみんな歩いている…!

建築物の存在感がすごいので、目が離せず、ちょっとよくわからないまま、私はふらふらして県庁に近づいていった。お、おおお……。近づけば近づくほど、これはすごいという気持ちが確信になっていくような気がした。

 

香川県庁を手がけた丹下健三は、主に戦後から高度経済成長期にかけて活躍した世界的な建築家である。東京都庁、広島平和記念資料など、多くの人が一度は目にしたことがある建物を設計し、「世界のタンゲ」とも呼ばれているらしい。香川県庁は、そんな丹下健三の初期の三部作の一つに数えられる建物なのだそうだ。

一階部分はかなりひろびろとしたピロティ(壁がなく、柱で支えられた外部空間)になっていて、しかもフロアの壁がガラス張りなので、とても開放的に見えた。それでいて建物自体は非常に直線的で、頑強な印象のコンクリート製である。それらが違和感なく調和しており、シンプルなのに本当に美しい。

そして中に入っても、とにかく私は圧倒されてしまった。すべてが……すべてがすばらしい……。空間が……調和している……。

入ってすぐ目の前に猪熊弦一郎の巨大な陶板壁画があるのだが、その赤い色彩も全然けばけばしく感じず、むしろモダンでシックである。右手すぐには空中に伸びるようなシンプルだが浮遊感のある階段がしつらえられ、建物の角に沿ってギャラリースペースになっている。左手は陽光が降り注ぐ明るいロビー。その手前が受付となっていた。

これは…と私は内観を見て思った。東京上野の、国立西洋美術館に似ているな……。しかし、悲しいかな私の語彙力ではどこがどう似ているのか、上手く言葉にできない。むしろ国立西洋美術館は私の中で冷たく暗い印象だったので、この明るく広々とした香川県庁とは根本的に違う気もする。

もどかしさを感じたが、見て回っているうちにギャラリースペースの解説に「丹下健三ル・コルビュジェ国立西洋美術館の設計者)の建築理念を意識し~」みたいなことが書いてあった(ものすごくうろ覚え)ので、あっ、やっぱりそうなのか、とは思った。そう思うだけなら簡単である。

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一般市民も自由に出入りできる美しいロビーには、隣接している日本庭園からの陽光がさんさんと降り注いでいた。庭に出てみるが、この庭自体はぜんぜん大したことはない。むしろ私は、実際にここに来るまでおまけのように日本庭園があることを、丹下健三のような著名な建築家でも、日本的な意味合いを建物に付属したかったのかな?程度に考えていた。

しかし、建物の中から見た時、ここに庭があることがいかに重要であるかを感じて、私は自分の浅はかな考えが恥ずかしくなった。あのロビーの開放感、自然な明るさ、そして落ち着きは、この庭があるからこそ作り出されたものだということがよくわかったからだ。さえぎるものがない空間自体が建築の一部なのだな、と実感することは私にはとても楽しい経験だった。

 

完璧な芸術なんてこの世に存在しないと思うが、私は香川県庁にある種の「完璧」に迫るものを感じたように思う。うまく言えないが、それは私にとって絶対的な美しさではなくて、数学的な美しさだったので、そう感じたのかもしれない。

おそらく、時が数十年経って私が今の私でなくなっても、香川県庁は変わらず美しいだろう。建築なので耐久や劣化の問題はあるかもしれないが、ほぼ同時代人の手が作り出したものにそう思えることはとても貴重なことなので、大切にしようと思う。

 

 ***

 

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香川県庁の近くにうどんの有名店があったので、昼食はそこで取ろうと思っていた。しかし、いざその店の近くまで来ても、人の気配が全くしない。人気店だそうなのに、おかしいな?と思っていたら、表に張り紙がしてあった。なんと、「人員不足のため今日はお休みします」と書いてある。

次は菊池寛記念館へ行く予定だったのだが、県庁から記念館までの道にうどん屋がない…! 他のものを食べるべきか?と思った。今日は初日なのだから、まだチャンスはたくさんある。

いつもの私なら、あっさり諦めただろう。しかし、なぜかこの日はどうしてもうどんが食べたくて、私は違ううどん屋さんへ行くことにした。結果的には、これは正解だったようだ。なぜなら、この旅行で食べた3食のうどんのうち、この初日に食べたものがもっともおいしかったからである。

面白かったのは、食べている間だけでなく、食べたあともずっと口の中(?)に美味しい記憶(?)が残ったことである。食べたのは普通の釜玉うどんで、特別な具材は使ってあるように見えなかったのに、不思議な体験だった。

 

 ***

 

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菊池寛記念館もとてもよい記念館だった。来る途中の電車内で菊池寛の本を夢中で読んだせいか、私自身が菊池寛への尊敬がとても高まった状態で見られ、コンディション的にも最高だった。

これはちくま日本文学の解説で井上ひさしが書いていることだが、菊池は貧しい生まれで学業にも生活にも苦労したらしい。しかし、その人生は「もうダメだ」と思った時に誰かから救いの手がある、ということの連続だったようだ。非常に合理的な人だったらしいが、それは強い道徳意識に裏打ちされたもので、そこが菊池寛菊池寛たらしめていたのかなーということを感じた。

また、彼が西洋の演劇にとても強い影響を受け、その要素を自分の作風として見事に落とし込んで創作をしていたということが展示から伝わってきて、私はそれがとても印象に残った。わかりやすく鮮やかなテーマの描き方、ヒューマニズムに富んだキャラクターづくりなど、なるほどと腑に落ちるところがあってとても納得した。

菊池寛は文壇の大御所といわれただけあって、交友関係もかなり華やかで人によってはそこも興味深いポイントだと思う。写真の展示も多く楽しかった。

 

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この記念館のほかにも、高松市では各所で菊池寛が推されている様子が伝わってきて、ほほえましかった。菊池寛自身の銅像があるほか、代表作「父帰る」の銅像も通りのかなり目立つところに配置してあり、また文学碑も見つけることができた。私が宿泊したホテルがある通りの名前も「菊池寛通り」である。

こういうことも地方を旅行する醍醐味のひとつといえるだろう。作家が故郷でどういうふうに迎えられているのかは、やはり実際にその土地に行ってみないとわからない。

 

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そしてこの日最後のイベントは、予約制の古本屋・なタ書さんへ行くことだった。古本屋が予約制とは、どういうことなのだろう。面白そうなので、行く前から私はとても楽しみにしていた。

なタ書の入り口は草が茂っており、本当にここでよいのかな?と不安になるようなところである。勇気を出して入口に踏み入ると、すぐ階段になっており、先が見えない。すいませーんと声を上げるが、返事がない。勝手に入っていいのだろうか? もう一度声を上げると、ようやく「はーい」という返事があった。どうぞーという声が続いたので、私は靴を脱いでこわごわ急な階段を上がっていく。

店内は本に満ちた素敵な空間だった。しかし、人の姿が見当たらない。お返事はあったんだけどな?と思いながら奥へ踏み入ると、床に座り込んで本を読んでいる男性がいてびくっとしてしまった。

「あ、あの…」

おそるおそる声をかける。

「ああ」

その人は煙草をぷかぷかふかしながら、私に初めて気づいたというように振り返った。そのまま何も言わない。私も何も言わない。しばらくの無言のあと、その人は再び口を開いた。

「ああ。予約してたTさん?」

「はい。そうです」

「ああ、好きなところ見て。荷物もどこでも置いてください」

その人にあまりに気負いがないので、すごいなぁと思いながら私はお言葉に甘えることにした。店内には、彼以外に誰もいない。本がぎっしり詰まった空間を独り占めできるというのは、それだけでかなりいい気分だった。

しばらくは楽しく本棚を眺めていた。私の本の趣味とはちょっと違う感じだが、手作りだと思われる棚の配置やローカル雑誌を取り揃えているスペース、ちょっと怪しげなサブカル本なども置いてあるところが秘密基地のようでとても面白い。

そうやって楽しい時間を過ごしていると、若い女の子がお店に入ってきた。最初はお客さんかな?と思ったのだが、やがて店主さんと話し込んでいるのがとぎれとぎれに聞こえてくる。進路について話している様子で、彼女は岐阜へ行くらしい。やがて次々にお客さんがやって来た。それらの人々に店主さんはのらりくらりと対応している。

驚いたのは、店主さんが私にも話を振って来たことだ。私は話をしたくてここに来たわけではないので、盛り上がっている彼らが楽しければいいと思い、ちょっと話を振られても適当に答えてあとは本棚を見ていた。しかし話がひと段落すると、また店主さんが話しかけてくる。すごいなと思った。なぜかというと、これがこのお店のスタイルなのだろうということがわかってきたからだ。ここは古本屋だが、おそらくコミュニケーションもサービスの一つなのだろう。それが合わない人は、おそらくここには来ないのだ。ここは古本屋であると同時に、誰かに話を聞いてもらう場所でもあるのだ。

染色を学ぶためにインドに留学するというアナキストの女の子の話を聞きながら、私は居場所がないと感じている若い人たちがこういう風にちょっと強がったり相談したりできる場所があるのはとてもいいことだなと思っていた。私も若い時、身近にこういうお店があったら少し安心できたかもしれない。

「今日、ここでゲリラライブがあるんですよ。よかったら聞いていってください」

なので、店主さんにそう言われて、私は聞いていこうかなと思った。

ところがである。その時間になっても、当のアーティストさんがやってこない。しかし、誰も焦っている様子はない。そのまま、あっという間に半時間が過ぎてしまった。私はホテルのチェックインの時刻が迫ってきたので、どうしようと不安になってきた。その旨を店主さんに言うが、やはり全然焦る様子がない。彼の人柄からして、そうですよね、と思うが、私はかなりハラハラした。

ようやくアーティストさんが到着する頃には、私はお暇する時間になっていた。いつ切り出そうかなとタイミングをうかがっていると、店主さんが私を見る。あっ、出ていいよと言ってくれるのかな?と思った。

「Tさん、このままじゃ1曲も聞かないままになっちゃうので」

「はい」

「何か1曲歌ってもらいましょう」

ええーーーーー!? 私は内心びっくりしたが、そのままトークを振られて引くに引けなくなった。とんでもないことになってしまった。しかし、なんだろう、すごく面白い……。こんなの初めてだ……。

結局、私は2曲聞いてお店を出た。もちろん、時刻は大幅にオーバーしている。でも、この夜の経験は私にとってとてもいい思い出になった。

私は予定や時刻を破るのが苦手なのだが、しかし、この夜の経験はそれを上回る何かがあったのだと思う。それは得ようと思って得られるものでなく、とても貴重なものだということが、今もこの出来事をとても美しいものにしているのだろう。

 

熊野から遠く離れて(後編) ―和歌山旅行3泊4日の覚書―

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熊野3日目は、まず那智大社へ向かった。那智といえば、有名なのは那智の滝である。滝がご神体とはどういうことなのだろう? ぜひ一度見てみたいと思っていたので、この日も朝から楽しみであった。

新宮駅から列車で那智駅へ向かう。那智駅からさらにバスに乗り、熊野古道の大門坂で降りた。この日もいいお天気で、空が青い。ぱらぱらと坂を上る人たちに続くように、私も坂を上る。

コンクリートで舗装されているが、けっこうな急坂であるので、昨日熊野古道を歩いた体にはこたえる。実は、バスにそのまま乗っていればまっすぐ那智の滝まで行くことができたので、私は早くも、これは間違った選択だったかなと思い始めていた。

 

 

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大門坂の標識がある場所を過ぎてすぐ、木の立て札に書いてあることにおやっと思い立ち止まった。「南方熊楠が三年間滞在した大阪屋旅館跡」とあったからだ。

南方熊楠は、和歌山県和歌山市出身の粘菌研究者として著名な人物である。夏目漱石らと同じ年(1867年、慶応3年)の生まれで、粘菌のほかにもキノコ、藻類、コケ、シダなどいろいろな研究をしていたそうだ。その人が投宿していた跡地にこうして看板が立っているのは面白いな、と思った。

 

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さて、大門坂の入り口は大木が頭を寄せ合うようになっていて、まるで異世界への入り口のようだった。そしてそこをくぐってみると……私は目の前の光景に頭を抱えた。石を積み上げた急な階段が続いていたからである。

実は、私の中では昨日の中辺路が熊野古道のハイライトのつもりだったのだ。大門坂については特に下調べをしておらず、ただ人もたくさん降りてるし、なんとなくつられるようにバスを降りてしまったのである。

なので、目の前を圧倒する石段に絶句してしまったのだった。

 

 

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けれど、バスを降りてしまったので進むしかない。大きな木々で影になった石段を上がる。視界のずっと上の方まで階段は続いており、その両脇にはおそらく樹齢百年レベルであろう巨木がそびえたっている。壮観であったが、自分がこれを一歩一歩登るのかと考えると、道を引き返そうかしらとまで思った。

しかし、意を決して登ることにした。えっちらおっちら体を持ち上げる運動に、たちまち息が上がる。昨日の山道もたいがいであったが、これは昨日の比ではない。すぐに全身に汗が噴き出てくる。

どうにか階段を登り切った時には、汗びしょびしょになってしまっていた。直線距離は600mほどしかないそうだが、体感的には昨日の中辺路の方がまだ楽だった。階段の上から見下ろすと、眼下に急な階段が続いているのがわかる。よく登った。しかし、ここで終わりだと思った私は甘かった。

なんと、那智大社まではさらに階段を登らなければならなかったのだ。私は内心泣き言を言いながら登っていたが、途中、那智大社からの帰りらしいある家族連れとすれ違って、そのお父さんの言葉がとてもよかった。

お母さんや子供たちは「思ったよりしんどかったね」「ここどこ?」「お腹空いた」などと言っていたのだが、彼は「本当に来てよかったよ。感動した」と言っていたのである。家族の人たちはその言葉に無関心なようだったが、それだけに、その人の言葉が本音だと感じられて、私はへぇーと思った。

那智大社までの道のりには、那智黒石のお店がたくさんあった。普通のお土産屋さんにも、那智黒石でできた碁石や硯が並んでいる。本当にこの地域でしか取れない特産品なのだろう。

 

 

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そうやってようようたどり着いた那智大社は、やはり感慨深かった。熊野速玉大社、熊野本宮大社、とめぐってきて、私が最後にたどり着いた熊野三社の最後が那智大社である。

私がこの神社から受けた印象は、とてもすがすがしいものだった。あれだけの階段を自力で登って来たせいもあるだろう。しかし、熊野速玉大社、熊野本宮大社で感じたわざとらしさや大仰さをこの神社ではあまり感じず、とても清浄な印象を受けたのだ。高台にあって交通の便もよくなく、ちょっと俗世間から離れた感じが私の好みにも合致していたのだと思う。

ここの八咫烏の焼き物がとても可愛かったので、私はそれをお土産に買うことにする。小さくて丸いフォルムで、目がきょろっとしている。おみくじを咥えていてかわいい。大切にリュックの中へ入れた。

その後、那智大社の隣にある青岸渡寺へ向かった。ここの本堂は南紀州最古だそうで、木造建築の荘厳さが素晴らしかった。私は那智大社にも青岸渡寺にも満足して寺社を出る。視界が開け青空が美しい。さて、次は…と思いながらてくてく歩いていると、山間の向こうに一本の滝が見えた。

おや? もしかして……

引きよせられるように広場の端の方へ歩いて行って、手すりに手をかける。晴れ渡った空の下で流れるそれは、まさに一本の白糸のようだ。あれが那智の滝? わ……本当にまっ白できれい……。

自然の滝なのだが、その造形があまりに整っているのでちょっとびっくりしてしまう。富士山を見た時も、私は同じようなことを思った。これがある種の神秘性や信仰心を人びとの心にもたらすのもわかる気がする。乱れがなさすぎるのだ。

この位置からだと、滝と一緒に赤い三重塔が撮れて特に美しい。写真映えするので、私は何枚も写真を撮った。この日、晴れて本当によかったと思う。

しかし、ここからがまた大変だった。すぐ近くに滝が見えているのに、また急な階段を降りて林(?)の中に入り、また石段を登らなければならなかったのだ。すでに足はガクガクである。なのに、全然滝は近づかない。

周囲では、急な足場で若い女性や子供などが気を配られながら、そうっと上り下りをしていた。なるほど、だから那智の滝直行のバスも出ていたのだな、と今なら思う。お年寄りの方は、無理せずバスでまっすぐ滝を見に行った方がいいだろう。下手をすると本当に怪我をしてしまいかねない。

 

そうやって、ようやく私は滝の真下までやってきた。大きな滝は、その音がすさまじい。遠くから見ると美しい白糸のようだった那智の滝も、たいへんな水量で轟音を響かせている。

周囲には観光客もたくさんいて、神秘的な風情は特になかった。しかし、滝の柵の手前まで行くと、こちらまで細かい水しぶきが飛んでくる。それを浴びて、なんだか私は嬉しくなった。いつか見られたらと思っていた那智の滝を、ここまで来て間近に見ることができたのだ。

さて、ここからはもう帰るだけである。しかし、この帰り道でまた面白いことが起こった。那智の滝の参道を戻って道路まで出たところで、昨日熊野古道で少しだけ一緒に歩いた男性二人組に、また出会ったのである。

誰かこっちを見ている人がいるな、と思ったら、その人が昨日の親しみやすい胡麻塩頭の男性だった。私が気づいたことに向こうも気づくと、私たちは自然とまた声を掛け合う。もう一人の背の高い男性も一緒だ。

「いや、本当に会えるとは思わんかった」

「ほんとですね。すごい確率ですね」

「もう滝は見た?」

「はい」

「俺たちは今来たとこ」

「私は那智大社も見て、これから帰るとこです」

「大門坂行った?」

「行きました」

聞けば、彼らはこれから滝を見て那智大社にお参りし、それから勝浦の方へ行く予定だという。勝浦といえば、まぐろの水揚げで有名な漁港である。昼食は海の幸を堪能するのだろう。相変わらずセンスがいいなぁと思いながら、私は彼らの話を楽しく聞いた。

「またお会いできてよかったです」

「こっちこそ。いやぁ、ほんとびっくりしたわ」

お互いの旅運を喜び合いながら、私たちは別れた。不思議なことだが、なぜか旅先ではこういう偶然が時々起こるものなのだ。

 

 ***

 

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新宮市に帰ってきてから、私はどうしても行っておかなければという最後の場所へ向かった。中上健次の資料室である。

中上健次は、1946年(昭和21年)和歌山県新宮市生まれの作家。戦後生まれ初の芥川賞受賞者で、紀伊半島を舞台とし故郷の被差別地域を「路地」と呼んで、数々の作品を執筆した。血と暴力とエロスが交錯するその独特の土着的な作品群は、今も多くの読者に支持されている。

私は中上作品の愛読者とは言えないが、熊野といえばやはり外すことができない作家だろう。丹鶴ホールという建物の4階にある新宮市立図書館内の一画が、中上健次のコーナーになっているらしいので、行ってみたいと思っていたのだ。

 

特に愛読しているわけでもない作家の文学館や展示室に行くことをどう思うかは、人それぞれだと思う。ただ、実際にその土地でその作家の文章を読むとはっとすることは多い。

特に中上健次の作品群は故郷と強い結びつきがあり、その作品を語る上でほとんど熊野のことは切り離せないほどであるらしい。

例えば、中上がその晩年に創設した「熊野大学」の檄文を読んでみるだけでも、それは伝わると思う。(熊野大学 資料室 「設立者・中上健次の言葉」より引用。こちらで解説も読めます)

 もうがまんならないところに来ているのが、熊野の人間の本音ではあるまいか。黒潮の波の豊かさに魅かれ、この熊野の地に遠つ祖が拠を定めたのは何千年前か。神を畏れ、仏をうやまい、日々清く生きてきた。それがこの有様だ。

 汽車がこの間全通したと思ったら、いつの間にか、本数が減った。熊野に<近代>は一番遅くやって来て、一番早く去っていくという事なのか。それなら<近代>が打ち壊した山を返せ。原っぱを返せ。熊野川のあの川原の黒い砂利を返せ。人の情をかえせ。魂をかえせ。

 熊野。ここで子宮を蹴って日を浴びた俺も四十。空念仏は要らない。ここが豊かで魂の安らぎと充溢の場所とする為なら立つ。本宮、那智、速玉、三山の僧(氏子)兵とも、水軍(海賊)ともなって、山、海をゆき、熊野を害する者(物)らと戦おう。

 

実際に丹鶴ホール内4階に行ってみると、隣を流れる熊野川の姿が見下ろせるとてもいい図書館だった。まだ建ったばかりの新しい建物で、館内はぴかぴか、壁には郷土の偉人たちの写真が大きくレイアウトされておりかっこいい。佐藤春夫大逆事件に関連する本など、新宮ならではのテーマで作られた棚もあり、とてもよかった。

 

中上健次の資料室は、思ったよりも大きなスペースを取ってあった。生原稿や貴重な資料が展示されているほか、書斎の一部が再現されていてとても見ごたえがある。ファンなら垂涎ものだろう。

しかし、私がこの時見て一番よかったなと感じたのは、中上本人が語っているビデオメッセージだった。資料室の壁面に置かれた画面で映像が流しっぱしになっており、誰でも見ることができる。

これは熊野大学で実際に使われたものだそうだ。主として、中国の詩人・陶淵明の「形影神」のことを語りつつ、中上が熊野について、ある種の自己対話をしている内容だった。

正直なところ、私は中上の荒っぽい文壇エピソードのイメージが強くあったので、この映像での中上健次の語り口を大変意外に感じた。画面の中の彼はとても落ち着いていて、内省的に見えたのだ。

中上健次は、1992年に46歳の若さで亡くなる。死因は腎臓癌である。熊野大学が開設されたのは、1989年。このビデオが撮影された時には、中上にはもう死が見えていたのかもしれない。

 

 ***

 

時間が少し余ったので、私はその後、王子ヶ浜へ向かった。電車の中で見たあのダイナミックな白波を、どうしても間近に見たかったからだ。

バスから降りて実際に浜に出てみると、そのスケールは想像以上だった。波音がとても大きい。波そのものも、私が普段知っているものとは全く違う。大きな波が浜に打ち寄せて、それが砕けるので泡立って白く見えるのだ。

しかし、空の向こうまで続く海はとても青く、少し緑かがっている。やっぱり太平洋の海だなぁと思った。

浜には遠くに女性が座り込んでいるのが見えるだけで、ほかに誰もいない。大きな波の音が耳を聾しているので、それ以外何も聞こえない。世界はとても明るいのに時間が止まっているようで、不思議な気分だった。

 

 ***

 

こうして、私の和歌山・熊野旅行は終わった。熊野から遠く離れて、半年以上前のことを思い返しつつ、今どうにか旅行記を終えることができた。

旅先から帰るとき、私はいつもさみしい。空虚な気持ちになる。家に帰ってきても、まったくホッとしない。しかし、次の旅があるということで、どうにか現実を保っているような気持ちだ。

旅の記憶は私にとって、夢を反芻することではなく、今の夢を生き延びるようなものなのかもしれない。熊野はとても遠かった。できれば次の旅では、もっともっと、遠くへ行きたいなと思う。

 

 

熊野から遠く離れて(中編) ―和歌山旅行3泊4日の覚書―

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熊野旅行2日目は、熊野古道を歩いて熊野本宮大社へと向かう。

私が歩くルートは熊野古道の中でももっとも易しく初心者向けと言われる「発心門王子~熊野本宮大社」のコースだ。下りがメインの約7㎞ほどのコースで、所要時間は3時間ほどらしい。

とはいえ、私は日ごろ全く運動をしていない人間なので、実際はどのような道なりになるのかさっぱり見当がつかなかった。体力は持つのか? 道に迷いはしないか? 山で救助を呼ばれる羽目になりはしないか? など、行く前の悩みは尽きなかった。

 

なので、旅行から帰って来た今、結論を先に言おうと思う。

熊野古道は本当に素晴らしかった! もし熊野に行ってみたいけど迷っている、という方がいるならば、なるべく早く行かれることをおすすめする。少しでも体力があるうちに行っておいた方がいいし、またそれだけの価値がある場所だと私は感じました。

あくまでここで書くのは私の個人的な体験であるが、何かの参考になれれば幸いである。

 

 ***

 

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私が熊野本宮大社へ向かったのは11月4日、つまり祝日と土日の間に挟まれた平日であった。しかし、発信門王子に向かうバスはなかなかの乗車率である。みな山歩きらしい出で立ちをして、年齢層も若い人からお年寄りまでさまざまだ。ただ、端々に耳にする言葉のイントネーションから、関西圏の人が多いらしいことはなんとなくわかった。

熊野古道は、熊野本宮大社につながる和歌山・三重・奈良の参詣道の呼称である。田辺から熊野本宮に向かう中辺路(なかへち)、田辺から海岸線沿いに那智・新宮へ向かう大辺路(おおへち)、高野山から熊野本宮へ向かう小辺路(こへち)が、「熊野参詣道」として世界遺産に登録されており、古代から中世にかけて、そして今も多くの人々が神社へ参詣しているそうだ。(熊野古道ホームページ参照)

www.hongu.jp

発心門王子~熊野本宮大社のルートは、このうちの中辺路の一部にあたる。新宮駅からだと、バスで一度熊野大社まで行ってから、さらにバスで発心門王子まで20分ほどだ。ここから歩いて熊野大社まで戻って来るというわけである。

バスに揺られてたどり着いた先は、木漏れ日の差す山間という感じだった。どやどやとバスから人が降り、私もスニーカーを履いた足を下ろす。すると、そこからはもう観光客でなくて、一人の人間になったような気持ちになった。森がすべての音を吸い込んで、人々の姿をばらばらにする。私はそんな前を行く人たちの背中についていくようにして、発心門王子の社へと向かった。

 

 

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発心門王子は、歩きやすいように整備されつつも、どこか太古の昔の面影が感じられる気がする場所だった。朝の光を受けた社と鳥居がすがすがしい。

近くの立て看板の説明を読むと、後鳥羽上皇の熊野御幸に藤原定家随行し、ここで漢詩や歌を詠んだのだそうだ。それらの歌碑もカメラに収めると、私はようやく古道を歩き始めることにした。

 

 ***

 

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道に迷わないかがもっとも心配であったが、なんとなく道なりに歩いていけば大丈夫だということがわかってくる。間違った分かれ道に入ると、「ここは熊野古道ではありません」という看板が立っているのだ。親切である。そのことを知ると、張っていた気が少し緩んで、周りを見渡す余裕が出てきた。

この日は穏やかな快晴で、まさに山歩きにはうってつけだった。山の空気は澄んで、いつしか私はてくてくと一人歩きを楽しむようになる。今まさに、自分があの熊野古道を歩いているのだという高揚に包まれ、心まではるばるとした。

ただ、一度だけ本当にヒヤッとしたことがあった。歩いていて暑くなってきたので、上着を脱ぎながら歩いているまさにその時、自分の足が大きな蛇をまたごうとしていることに気が付いたのである。道の真ん中を横断するように蛇がいたのに、まったく気が付かなかった。怖かった……踏まなくて本当によかった……。

 

さて、そうやって歩いていると、後ろから壮年男性の2人組が私を追い越してきた。年齢は50前後くらいだろうか。追い越し際、彼らに「こんにちは」と声をかけられたので、私も「こんにちは」とあいさつを返す。

私よりも彼らの方が足が速いので、そのまま彼らは行ってしまうものと思っていた。しかし、意外にも片方の人が私に話しかけてきた。

「一人ですか?」

「一人です」

「すごいね」

話しかけてきた人は、胡麻塩頭で目がくりくりして、睫毛が濃い。元気で愛嬌があり、いかにも人と話すのが好きそうだ。逆に、もう一人の人は背が高く眼鏡をかけていて、ちょっとインテリ、あるいは知的な商社マンという感じである。私はこの対照的な二人組を興味深く眺めた。

熊野古道は初めて?」

「はい」

「すごいね、ここ一人で来ようと思ったの」

「だいたいいつも一人旅なので。そちらはお二人で?」

「俺とこいつは大阪の関空で待ち合わせして、昨日は車で高野山に行ったの。そのあと白浜の温泉に泊まって、今日は熊野」

いい日程だな、と思った。高野山のあとに熊野というスケジュールは私も憧れだが今回は叶わなかったので、高野山いいですね、と言う。すると、もう片方の人の方が初めて口を開いた。

「すごくよかったですよ。一度は行く価値がありますよ」

私はその後に続く言葉を待ったが、彼はそれ以上を語らなかった。頭の良さそうな人だから、きっと話そうと思えばいくらでも話せたことだろう。しかも、相手はずっと年下の、いかにも凡庸そうな女なのである。しかし、そこで口を閉じたところに、私は彼の節度を感じた。

話していて驚いたのは、話しかけてきた人が福岡の人だとわかった時だった。私も福岡からだと言うと、二人も顔を見合わせて驚いていた。関西圏の人は、イントネーションですぐにわかる。ここに来るまでに周りの言葉を聞いていただけに、私たちはここで九州の人間と会える確率がかなり少ないことがわかっていたのだ。

「わー、福岡から電車で来たのすごいなぁ」

「いや、車が運転できるなら車移動がいいと思います。大変なので…」

「明日はどこに行く予定?」

那智の滝に行きます」

彼らは再度、顔を見合わせる。なんと、彼らも明日、那智の滝へ行く予定だとのことだ。

「運が良ければ、明日も会えるかもしれないね」

「会えたらすごいですね」

面白いめぐり合わせだなぁと思った。もし本当に会えたらと思うが、そう都合よく行くはずがない。この時、私はそう思っていた。

私は彼らとの会話は最小限に留めた。とても感じのいい二人組だったし、話していて全く嫌な感じはしなかった。むしろ、彼らが年下の女性に対してやたら自慢したり、あるいは「教えてあげる」といった体で知識を披露しないことに、私はとても感心していた。

しかし、それはそれとして私はわざと歩くスピードを上げなかった。そして、二人はそれに気が付いたらしい。私に話しかけてきた胡麻塩頭の人の方が、さっぱりした元気な口調でこう言った。

「じゃ、我々は先を急ぐ!」

もう一人の人も私に目礼をする。私も挨拶を返すと、彼らはすーっと先を歩いて行った。とても自然だった。

わー、なんていい人たちなんだろう。私は思った。彼らは私の意図をちゃんとわかって、私に気を使って、そして礼儀正しく去って行ってくれたのだ。ありがとう。ありがとう。私は彼らの後ろ姿を見つめながら、静かに感動していた。

もし私が男だったら、彼らと一緒に歩いたかもしれない。しかし、やっぱり女だったので、そして私はその女という役割をどうしても意識してしまうので、彼らとは歩かない方がいいと思ったのだ。私の「女・年下・一人」という属性が、彼らと対等に話をさせるのを難しくさせていたのだ(例えば、ここで私が彼らよりも年上だったら、あるいは私も女友達と一緒だったら、彼らと一緒に歩いたかもしれないな、と思う)。

しかしそのことは私を悲しくさせたのではなく、彼らの親切に私は感動したのだった。話すよりも別れることに親切を感じることがあることを、この時私は初めて体験した。

 

 ***

 

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さて、最初のうちは熊野古道も穏やかな里山といった風で、民家がすぐそばにある道を歩くことも多かった。しかし、道を進むにつれてどんどん道のりが険しくなる。一応舗装はされているものの、雨の時には明らかに歩かないほうがいいと思われる山道や、獣道と見まがうような道もあった。アップダウンもなかなか激しく、歩きながら息が上がることもしばしばだ。

途中、何組かお年寄りの方を追い越した。私が後ろからやってくるのがわかると、足場の悪い中、みな親切に道を開けてくれる。すみませんと詫びを入れつつ、私はこの人たちは熊野古道を歩ききれるのかしら、とちょっと心配になった。運動不足とはいえ、30代の私がかなりハードだなぁと思うような道のりである。無理だと思ったら早めに切り上げて、どうにか無事に帰ってほしいなと思う。本当に、それくらいの山道だったのだ。

実は私は、熊野古道を歩いている時に、山伏さん(修験道の道者さん)に会えたりしないかな、とちょっと期待していた。熊野と言えば、山岳信仰の場である。今も山伏の人が修行をしているのを垣間見られたら、「本当にいるんだ…!」と思えていいな、と思っていたのだ(低俗な理由で本当にすみません)。

しかしこの日、そして翌日も山伏さんに会うことはできなかった。当たり前である。だが、もしこの熊野古道ですいすいと山道を登っている人を見たら、そしてその人が山伏の格好をしていたら、天狗だと思うだろうなぁということを自然と考えた。

古代の息吹を感じる森の中、はぁはぁと自分の呼吸だけを聞きながら山道を歩きつつふと目を上げると、高下駄を履いた人の後ろ姿が目に入る。その人は大きな木の根も崖にへばりついた岩も軽々と登っていくので、私はびっくりしてしまう。まるで背中に羽が生えているようだ……と思っていると、くるりとその人が振り向いた。山伏だと思っていたその顔は真っ赤で、しかもにゅっと大きな鼻が突き出している!!

……というシチュエーションがとても自然に思えてくる。「天狗」という存在が生まれた理由が、すんなりと理解できるように思えたのだった。

 

 

そうやって一時間半も山道を歩いていると、足がガクガクになってしまった。まだ半分なのにどうなることやら、と思うが、歩くしかない。

しかし、挫けそうになってもここは熊野である。途中、古道の要所の由来を説明する立て看板があったり、和泉式部の歌碑があったり(晴れやらぬ身のうき雲のたなびきて月のさわりとなるぞかなしき)して、その度に立ち止まることができ、ああ~いいな~と思う。

平安貴族たち、そして数々の上皇や院もこの道を歩いたのだと思うと、やはり感慨深かった。平安貴族はなよなよしているイメージしかないが、この道を歩き通せるならば実際はかなり強かったのでは……と思った。

そうやって歩きに歩き、2時間半を少し過ぎたくらいで熊野本宮大社にたどり着くことができた。たどり着いた頃には、もう膝が笑っていた。本宮大社にお参りしたら、早く帰ろうと思った。

しかし、本屋には寄った。というのは、なんと熊野本宮大社のすぐ近くに、古本屋さんがあるからだ。なかなか面白いランナップで素敵な古本屋さんだったが、ここで会ったが百年目!という本には出会わなかったので、文庫本を一冊だけ買って出た。もっと体力に余裕があれば、また印象が違ったかもしれない。私が運動不足なばかりに申し訳ない。

 

 ***

 

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最後に、熊野本宮大社のことを書いておこう。

熊野三山の中心であり、全国の熊野神社総本宮である熊野本宮大社の本殿は、本当にさっぱりとしていて余計なものが一切なかった。重厚な渋色の檜皮葺の社殿と真っ白な玉砂利の対比が美しく、撮影は一切禁止。参拝者は粛々と参拝して、そそくさと本殿の敷地を出る。ああ、やっぱりトップはこうなのだな、と思うような徹底ぶりが心地よかった。

しかし、本殿の敷地を出るとあちこちから大げさな文言が目に入ってきて、私は閉口した。「熊野の山・海より差し昇る 太陽を背にして 新たなる一歩」「神を父 仏を母にいただき 熊野より興さむ 出発の時」「今! 蘇りの時 皆様の努力で 希望の光の始まり 祈りと共に!」…このような文句は、いったい誰が考えているのだろう。文字が目に入るたびに、国旗掲揚的な文句ではないかとハラハラしてしまった(が、そのような文句はなかった。よかった)。

山を下ると、あたりはちょうどお昼時、いい感じに人出も多い。最後にやや気まずい思いをしたものの、熊野古道は本当に古代の息吹が感じられて素晴らしかったし、面白かった。いい出会いもあって何よりである。

私はお昼ご飯を食べて、それからのんびり新宮の町へ帰った。帰りのバスでは、ぽかぽかと日差しが温かかった。

 

 

熊野から遠く離れて(前編) ―和歌山旅行3泊4日の覚書―

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私があまり人が行かないような場所へ旅行へ行く人間だと、周知の人びとに知られるようになったと思う。旅立つ前に、気を付けてね、だとか、楽しんできてね、だとか声を掛けられることも多くなった。

そう言ってもらえることはうれしい。どんなことであれ、自分が大事にしているものを他者も尊重してくれているのだと思えることは本当にうれしい。

私の旅は孤独なもので、それは私が選んでそうしているのであるが、それを他者に隠したり、あるいは後ろめたく思ったりしないでいいということを、私も楽しんでいる。

 

もうふた月近く前、私は和歌山県の熊野地方を旅行した。直線的な距離はあまりないように感じるかもしれないが、福岡市から和歌山県新宮市までは片道8時間かかるので、実はそこそこの大旅行だった。

私の目的はもちろんその土地自体にある。熊野で言えば、それは熊野三社、熊野古道佐藤春夫記念館、新宮市立図書館の中上健次資料収集室、などである。そういうものを有している土地を訪れることは、なんというか、尊敬する大先輩に試合を申し込むようなものだ。よろしくお願いしぁす!! お胸お借りしぁす!! ……自分もそれなりの気持ちで挑むからこそ、胸が躍るし気が高ぶるのである。

熊野はそういう偉大な先輩(?)の一人だったので、「勉強させてもらいます!!!!」みたいなビッグな気持ちで向かった。そして、実際とても素晴らしい土地だったので、大分記憶も薄れてしまったが、今回もちょっとだけその覚書をつけていこうと思う。

 

 ***

 

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日本海側に住んでいる人間なので、太平洋を見ると本当に明るいなぁと思う。

大阪から和歌山県新宮市に行くのに、私は「特急くろしお」に乗って紀伊半島をぐるりと回るルートを取った。車窓からこぼれる陽光とどこまでも広がる少し緑かがったような青い海が、もう自分の生活圏域のそれではない。

しかし、私が座っていた座席は山側だったので、それらの景色を満喫することができなかった。首を伸ばして座席越しに見る波を、なんだかすごく白くて大きい気がする!と思ったが、よく見えなくてモダモダする。どうしてもその白波を間近で見たかったので、そのためだけに私は後に王子ヶ浜まで出向くこととなった。

 

たどり着いた新宮駅は、こぢんまりとしてのどかな感じである。ホテルへ到着して、荷物を置きたいのですがと言うと、もうチェックインされて構いませんよと言われた。受付の人の話し方がとても丁寧で優しいので、あっ、この人はきっといい人だと思い、私は出かける際にもう一度その人に話しかけて周辺の地図をもらう。その際にも、どこに行く予定ですか? 交通手段はなんですか? と聞かれた。いろいろと教えてもらってから、私はまず熊野三社の一つである熊野速玉大社へと向かった。

 

 

 

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速玉大社の入り口は、鮮やかな朱塗りの鳥居と灯篭が美しかった。駐車場の案内の看板のフォントが独特で面白い。その奥に、こんもりと繁る森のような境内が続いている。

鳥居をくぐるとすぐに、佐藤春夫の句碑を見つけた。「秋晴れよ丹鶴城址児に見せむ」。解説には「郷土ご出身の文豪」「佐藤春夫先生」「先生のにこやかなお顔」など、佐藤春夫を郷土の誇りとしているらしい文面が躍っている。私は思わず微笑みながら、神社の奥へと進んでいった。

佐藤春夫和歌山県新宮市出身の詩人、小説家である。詩人として注目されたのち小説家としても名を成し、谷崎潤一郎芥川龍之介などとの交流でも知られる。この熊野速玉大社内に佐藤春夫の記念館があり、それもあって私はここを訪れるのを楽しみにしていたのだ。

この神社の御神木として有名な梛の木(樹齢千年)を見たあと、果たして私は佐藤春夫記念館の案内板を見つけた。神社の本殿とどちらから行くべきか迷ったが、春夫記念館の方へ先に向かうこととする。

それにしても、有名な熊野三社のうちの一社の境内に文学館があるとは、地元での佐藤春夫の評価はすごく高いんだなぁと改めて思った。非常に名の知れた文豪でも、実際に文学館を訪れてみると故郷での評判はあまりよくないのかな、と感じる文豪もいる。そんな中、春夫はこの土地でとても愛されているのだなぁと感じたのだ。

 

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立派な門構えの入り口がすぐに見つかった。ツイッターのフォロワーさんたちがアップされている写真で見慣れた入り口が、今目の前にある。それを見ると、私もはるばる新宮までやって来たのだなぁ、という感慨が湧いた。

門をくぐると、可愛らしいピンクがかった洋風の家が現れる。かっ、かわいい…! 佐藤春夫が実際に住んでいた家を移築したものだということは知っていたが、こうして目にすると想像していた以上にセンスのいいお家だ。中に入ると、その印象はますます強まった。入り口に帆船のレリーフがあってかわいい! 玄関脇のステンドグラスがお洒落! 天井がサンルームになっていて素敵! 一階の応接間の調度品がエキゾチックだけど統一が取れていて趣味がいい! 

佐藤春夫はとても素敵な家に住んでいたのだな、と思った。この家で、彼の憂愁と耽美が混じり合ったような、あの切なくも甘い夢見心地の作品群が生まれたのだ。詩人であり小説家である文豪の生まれ故郷で、実際にその人が執筆していた家を訪れることができるのは、とても幸せなことだな、と思った。

ところで、速玉大社では野口雨情の文学碑も見つけたのだが、こちらはあまり由来がわからなかった。神倉神社にも雨情の文学碑があったので、何か新宮にゆかりがある詩人なのだろうと思う。北原白秋西條八十とともに童謡界の三大詩人と言われた人なので、こちらも文学碑の背景がわかると嬉しい……。

 

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さて、速玉大社の本殿である。鮮やかな朱塗りが美しく、敷き詰められた白い玉砂利が清潔で、とても歴史のある神社なのだが全体的に新しい印象を受けた。もしかしたら、2004年に「紀伊山地の霊場と参詣道」のうちの一つとして世界遺産に登録された際に、全面的に改装したのかもしれないな、と思った。本殿の入り口には、大きく「未来へ繋ぐ 日本の祈り」とある。

境内には「熊野御幸」として、熊野に参詣した上皇や院の名前が連ねてあった。その歴史と格式の高さは、やはりとても貴重なものだろう。ただ、なんとなく、世界遺産として登録される前もこんなにピカピカに清潔で、歴史が対外的にカスタマイズされてたのかな?という気はした。神社も経営があるだろうから、あまり大きなことは言えないが、これは熊野本宮大社でも私が感じたことであった。

 

 ***

 

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新宮の町はゆったりとしていて、夕暮れも心なしか穏やかである。佐藤春夫の誕生の地の碑を見るついでに、近くの「尾崎酒造」を覗く。門構えは派手ではないが、とても落ち着きがあって素敵だ。歴史ある酒蔵は、なぜどこもこんなにかっこいいのだろう。

次に、大逆事件で死刑となった大石誠之助の宅跡にも足を伸ばし、さらに大逆事件の犠牲者顕彰碑を見る。大逆事件は明治時代に起きた、社会主義者が検挙・処刑された事件である。大石誠之助らは反政府的な思想を持っていたというだけで、政府のフレームアップ(でっちあげ)により死刑となったのである。新宮の町は、その弾圧の歴史を今も伝えているのだ。

私は、薄闇が迫る中その顕彰碑の写真を撮った。私のスマホが古い型のせいか、暗い中での撮影がなかなか難しい。写真を加工すればどうにか顕彰碑の文字が読めることを確認して、ようやくホテルに帰ることにした。

 

帰り際、フォロワーさんが「新宮に来たらぜひ買うべき」と言われていたお菓子「鈴焼」を買ったので、ホテルの部屋に着くとそれをものすごく食べたくなった。創業100年以上である老舗の和菓子屋さんで買った一口サイズの鈴形のカステラなのだが、悪魔的に美味しいらしい……。しかし、晩御飯前なので私はそれを我慢した。理性は大事である。

この日は地元のスーパーがホテルの近くにあったので、そこでなにか買って適当に食べた。覚えているのは、せっかく和歌山に来たのだからお刺身を食べよう! と思ったのに、いざホテルの部屋で買ったものを見てみると「長崎産」と書いてあったことだ。ただうっかりなだけかもしれないが、私はどうも根本的に食事に興味がなくていけないな、と思う。しかし、食事の後で食べた鈴焼は本当にめちゃくちゃ美味しかったことをここに報告しておきます。

 

 

【新潟旅行3泊4日】人生で2度訪れる場所 ~その③ 佐渡編~

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新潟旅行の3日目は、佐渡へ向かった。4日目は帰るのみなので、実質的にはこの日が観光最終日である。

前日、天気が崩れており船で佐渡へ渡れるか(行くことはできても帰ることはできるのか)と心配していた。しかし、目が覚めてみると青空が広がっている。晴れた! 私は元気よく直江津の港へ向かう。

天気ばかりは自分の力でどうにもならないので、晴れて本当に嬉しい。そして、また佐渡へ行けるのだと思うと私の心は弾んだ。

 

 

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ゴールデンカムイの主な舞台は、北海道である。

私がこれまで行ったことのある場所の北限は、東京と新潟なので、北海道は未知の土地だ。作中で繰り広げられる活劇と同じくらい、私にはその土地の描かれ方も魅力的だった。美しく厳しい大自然、そこで暮らす人々の文化や習慣、そしてそこに根付いている人々の生活そのもの……。

しかし、それはあくまで情報として面白いな、きれいだな、と感じていたものだった。ところが、15巻の月島軍曹の過去編になって、そこに描かれている風景に私はびっくりしてしまった。

宿根木(しゅくねぎ)じゃないか!?

え、月島軍曹の出身は宿根木なんだ!?

ゴールデンカムイ佐渡出身のキャラクターが出てくるとはちらっと聞いていたが、いざ出てくると私はとても驚いた。一番驚いたのは、そこが佐渡の宿根木であることが一目瞭然だったことだ。自分の記憶と同じ土地が、物語の中に登場したのである。

まさか、この漫画に自分が行ったことのある土地が出てくるとは思っていなかったので、私はとても嬉しかった。と同時に、ゴールデンカムイが土地にとてもこだわりを持っていること、その土地への尊敬を込めて描かれていることが伝わってきて、改めていい漫画だなと思った。

 

今回、様々なタイミングが重なって、こうして再び佐渡を訪れることができたのは、本当に幸運なことだと思う。

ゴールデンカムイのことと共に、約3年前に私が新潟を訪れた時のことなどを振り返りつつ、それを記録したい。

 

 ***

 

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直江津港から船に乗り込み、佐渡小木港に到着する。乗船時間は1時間15分ほどだ。

私はバス乗り場へ向かった。お天気を心配していたのが嘘のように晴れている。バス停には観光客の姿も多く、みなまぶしそうに目を細めながらバス待ちをしていた。

時間の関係で、私は宿根木より先に度津(わたつ)神社へ向かう予定だった。ここに並んでいる人たちは、どこに向かうのかな?と私は思う。金山がある相川地区は、島の中間部にあるのでここからは大分遠い。酒蔵見学に行くのだろうか? それにしては若い女の子もいるけど……と、私には不思議だった。

バスがやってくる。クーラーが効いた社内に乗り込むと、ホッとした。数人立っている人がいるくらいで、座席はほぼ埋まっている。

やがて私は、一宮入り口でバスを降りた。降車客は、私のほかに旅装のおじさんが一人だけだ。車の行き来のない道路に、ぽつんと私は降り立つ。この寄る辺なさに、ようやく旅が始まる気がする。

 

 

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度津神社へ行くのは、仕事の関係である。いわゆる取材だ。バス停から20分ほど歩かなくてはならないので、そこまでして行く価値があるのかなぁという思いもないことはない。

しかし、離島の一の宮(もっとも社格の高いとされる神社。全国に102社ある)という物珍しさも相まって、せっかくだから行ってみたいという気持ちの方が強かった。

少し歩くと、羽茂(はもち)川に突き当たる。それからしばらくは、川沿いの一本道を歩いた。視界が開けて、青い水田が広がっているのが見えてくる。わー、きれい。私は思わず息を飲んだ。なんでもない風景なのに、なぜか胸がいっぱいになる。私ではない誰かと共有している記憶の中の風景が、目の前にあるという感覚になる。

その後も、神社までの風景はとても美しかった。夏という季節のせいもあるかもしれない。なにもかもが魔法にかかったように美しいので、神社に到着する前から私は満足してしまった。

やがて、橋の向こうに一之鳥居が見えてきた。想像よりもずっと大きく、真っ青な空の下で堂々としている。向かい側から、ヘルメットをかぶり自転車に乗っている親子とすれ違った。その風景ごと、一枚の絵画のようだ。私は写真を撮って、先へ進んだ。

神社の入り口もとても立派だ。さすが一の宮というべきか、どこに出しても恥ずかしくない、という風格が感じられる。とても写真映えするので、やっぱり来てよかったな、としみじみ思った。

 

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度津神社はとても歴史の古い神社だそうだが、1470年の洪水により社地、古文書等が流失したため、その由緒や縁起などは明らかではない。現在の建物は1472年に再建されたものだそうだ。とはいえ、それでも十分に格式高さが感じられる立派な造りだった。

ユニークなのは、祀ってあるのが林業・建築業・造船業の神ということだろう。古来より佐渡がほかの土地との交流がさかんだったことがうかがえるようで、興味深いと思う。

私が参拝している間にもぱらぱらと参拝客があり、地元の信仰が厚いのだなと感じた。帰り際も、神社の入り口が実に立派なのでもう一度写真を撮る。イケメンな神社だ……と思いながら私はその場を後にした。

 

 

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バス停の近くまで戻ってきて、あまりの暑さに追加で飲み物を買った。日陰でそれを飲みながら、そういえばこの近くに能舞台があるはず、と思い出す。グーグルマップを開いて見てみると、すぐ近くだ。バスの時間まで余裕があるので、足を延ばしてみることにした。

あたりは青々とした田圃に囲まれ、真夏だが目に涼しい。途中、畑仕事に向かうらしきおばあさんに追いついたので、「草刈神社の能舞台はどちらでしょうか」と訊ねてみる(これからまた人に訊けるかわからないので、ここで訊いておいた方がいいという判断)。おばあさんはにこにこして、道の先を指さすと「あの一つ屋根」と言った。

「あ! 見えてるあれですか?」

おばあさんは深く何度もうなずく。お礼を言って、私はずんずん歩いて行った。

草刈神社能舞台は、野外にある茅葺き屋根能舞台だった。周囲は綺麗に草が取られ、ごみ一つ落ちていない。私が行った時も、ちょうど清掃をしている人がいて、ここがこんなに綺麗なのは、こういう風に常に管理をしてくれている人のおかげなのだな、と思った。

佐渡は能が盛んな土地としても有名である。日本に現存する能舞台の3分の1が佐渡にあるというのだから、その程度は推して知るべしだろう。ただ、佐渡に流された著名人として世阿弥が挙げられるが、世阿弥佐渡で能を広めたわけではないそうだ。江戸時代に佐渡に渡った佐渡代官・佐渡奉行が基盤を作り、それが広まったというのが通説のようである。

草刈神社の能舞台は戸が立てられていたので、鏡板(舞台後方に描いてある松の絵)を見ることはできなかった。それでもあたりには神聖な雰囲気が漂い、土地の人にとっても大事な場所なのだろうな、ということが伝わって来た。

いつか佐渡で能を観たいな、と思いながら、私はその場を去る。帰りに掃除中の人に挨拶をして頭を下げると、その人も深くお辞儀を返してくれた。

 

 ***

 

宿根木へ向かうバスに乗り込むと、乗客は私一人だけだ。どこに座ろうかなと思っていると、運転手さんから「このバスで大丈夫?(行先は合っている?)」と訊ねられる。私は「はい」と答えた。地方では割とよくあることである。

しかし、ここからは異例だった。なんと運転手さんは、せっかくだから景色の見えるところに座ったらと言って、一番前の席を示したのである。地方のバスの運転手さんによくしてもらったことは何度もあるが、さすがにこういうことは初めてだった。

お言葉に甘えて一番前の席に座ると、バスが発車する。運転手さんは運転中も私に話しかけてくるのでいいのかしらと思うが、他に乗客もいないし、たぶん大丈夫なのだろう。

羽茂の平野を走っていると、運転手さんに「トキセンターには行った?」と訊ねられた。

「いいえ」

「ああそう。ここらへんにはね、トキがいるんだよ」

そう言って運転手さんは、美しい田園風景を指さす。

「えっ、それって、野生のトキということですか?」

「野生というか、中国からもらったトキを育てて増やして、自然に還してるんだね。ここらへんにはそういうトキが多いから、たまに見ることができますよ」

私は、ちらとでもいいからぜひトキが見たいと思ったが、残念ながら見ることはできなかった。その後しばらく運転手さんと会話があったが、他のお客さんが乗り込んでくると運転手さんは運転に専念する。

他のお客さんが降りるとき、停車場を間違えたらしいことがわかると、この運転手さんはとても丁寧に道順を教えていた。旅先でこういう運転手さんに出会えたことも、また運が良かったというべきだろう。

 

 ***

 

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宿根木に降り立つと、記憶そのままの場所であることに驚いた。はるばる来たというよりも、なんだかふらっと遊びに来たというような気持ちになる。

お昼を食べようかなとも思ったが、先にたらい舟に乗ることにした。受付でコースを選択すると(外海まで出るコースを選択した)、すぐに船に乗り込む。

ゴールデンカムイで月島がいご草ちゃんを探す時に乗っていた、あのたらいを半分に切ったような舟そのままだ。一見とても簡素で、転覆しないかなと心配になるような見た目だが、3人で乗っている舟もある。固定された櫂ひとつで操縦する様は本当に不思議で、見ていてもどういう原理なのかわからない。舟の横ではなく、前面で振り子のように操縦するのに、きちんと進むのである。

船頭さんは、よく日に焼けた元気な壮年男性だった。軽快に海に漕ぎ出し、テンポよく解説をしてくれる。宿根木を含む小木半島では海底火山の活動が活発で、ここで見られる岩のようなものは、海底火山から流れ出た溶岩が海の中で固まったものであること。この一帯は浅瀬が多く、普通の船なら入れないところもたらい舟なら入ることができて小回りが利くこと、などなど。

外海の方へ出ていくと、明らかに波の大きさが変わる。お椀で大海に出たような、頼りない気持ちになるが、船頭さんは力強く櫂を漕いで進んでいく。晴れているので、空も海も真っ青だ。まさに、日本海の荒波を身に受けているという気持ちである。

私が前回たらい舟に乗った時は、曇り空のベタ凪だった。その時の船頭さんは若い女性で、彼女も「こんなに波が静かな日は珍しいです」と言うほどだったのを覚えている。それはそれで、とても風情があって素晴らしかった。

そのことを船頭さんに言うと、船頭さんは大変喜んでくれる。しかも、私が福岡から来た客だとわかると、本当に驚いているようだった。

「はぁー、わざわざ福岡からね! そうだ、今度はぜひ夜に来てください!」

「夜?」

新月の日の夜に、ナイトクルーズをするんです。夜光虫が光って、とても面白いですよ!」

それは確かに、とても面白そうだと思った。わざわざ新月の夜に行うなんて、ふるっている。舟が一周して岸に戻って来ると、船頭さんはぜひぜひと言ってそのナイトクルーズのちらしを持ってきてくれた。周りの人にも、私を福岡からのリピーターだと言って紹介する。

すると、そこへ若い女性の船頭さんがやってきた。あれっ、と私は思う。

サングラスをかけて、ショートカットの髪がとても垢抜けたかわいい子だ。前に乗せてくれた船頭さんは、まだ子供っぽさが残る学生さんといった雰囲気だった。目の前の人とは、雰囲気が全然違う。なのに、私はこの人が前に乗せてくれた船頭さんではないかと思った。

福岡からのお客さんだよ、と聞くと、彼女も驚いている。しかし、私の姿に見覚えがある様子は見られない。でも、そうだろうと私は思う。私も、たった3年で変わったのだ。

たらい舟の人たちに盛大に見送られて、私は気恥ずかしかった。そして、お昼ご飯を食べる前に舟に乗ってよかったと思う。あの荒海では、ご飯のあとに乗ったら酔ってそうとう苦しい思いをしただろう。

 

 ***

 

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昼食を食べてから散策した宿根木の町も、私の記憶の通りだった。そんなはずはないのだが、そんな気がした。

2階建ての家屋と家屋が密集して、隙間のようになっている通りを歩く。公開民家である清九郎家や、宿根木のシンボルマークとして有名な三角家の中は、以前見学したので入らない。三角家の前では、多くの人が記念撮影をしていた。ゴールデンカムイの中でも、この場所に鶴見中尉が立っていたな、と私は思う。

来る前に佐渡や宿根木に関する本を読んでいたので、見るとその知識が思い出される。家に使用してある木材は、舟材をそのまま利用したものもあること。公会堂の前にある御影石の橋は「念仏橋」といって、葬式で寺にお棺を運ぶなど、特別な時しか渡ってはいけないと言われているらしいこと。などなど。

晴れているので、影の色もくっきりと濃い。人々が物珍しそうに建物や通りを眺めているのを、私も眺める。廻船業の基地として栄え、一時は佐渡の富の3分の1を集めたと言われるほどだったという宿根木は、当時の面影を色濃く残しながら今も存在している。そういう特色のある街並みと、時代を経てもなお変わらない雰囲気が、おそらく漫画の舞台として選ばれた一番大きな理由ではないだろうか。

集落の一番奥、称光寺へとやって来る。お寺の前にはお地蔵さんが並んでおり、そのどれもに鮮やかな花が活けてあった。これも記憶の通りだ。私はこれを見て、宿根木は素敵なところだな、と思ったのである。

最後に町を見下ろせる場所へ上って、記念撮影をした。隙間なくびっしりと瓦屋根が並んだ街並みを見下ろしながら、ここで月島軍曹が生まれ育ったのだなぁ、と考えたが、なぜかしっくりこない。私にとって、やはり宿根木は宿根木らしい。たくさんある思い出の中のひとつに、月島軍曹の出身地、という記憶が加わった感じだ。別にそれでいいと私は思う。

瓦屋根の向こうに見える海がまぶしかった。いつか、もっとゆっくりこの土地に滞在してみたいものだ。

 

 ***

 

……このようにして、私の慌ただしい新潟旅行は終わった。

私にとって、旅行するとは移動することとほぼ同意である。今回も、長岡→松之山→高田→佐渡と移動してきて思うのは、その土地土地に、そこしかない何かがあると思えるのはいいものだな、ということだ。

ゴールデンカムイで、彼らは北海道のあちこち、果ては樺太まで旅をする。そこで彼らは時に離れ離れになりながらも、同じものを見て同じ時間を過ごし、同じご飯を食べる。そこにはまだ「巨大な力にすりつぶされていない何か」がある。その力とは、当時でいえば、権力的なものと言えるかもしれない。現代でいえば、資本の力だろうか。

すりつぶされていないその「何か」を見るのが、私は好きだ。それを不便だとか時代遅れだとか言うこともできるだろう。しかし、もし、選びたいと思った時に、常にその「何か」の方も選べる世界であってほしいと、私は思っているのだ。

誰だって、他者の意志で自分のことを決めたくはない。巨大な力が、私の意思決定に介在してほしくないのだ。

 

ゴールデンカムイロードムービーとしても読んだ私は、新潟旅行を通じてその思いを深くした。

今回、新潟にめでたく再訪することができたが、もしまた来たいと思ったら、3度目、そして4度目と、いつでもそれが可能である世界であってほしい。最近の世界情勢を見るにつけ、つくづくそう思う。

 

 

【新潟旅行3泊4日】人生で2度訪れる場所 ~その② 松之山・高田編~

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新潟旅行2日目は、十日町市の松之山と、上越市の高田へ向かった。

ゴールデンカムイを読む前から私が新潟へ行きたいと思っていたのは、そもそも私の好きな作家である坂口安吾が、新潟の出身だからである。1度目の新潟旅行の際、交通の便が悪い松之山に行けなかったので、いつかぜひ行きたいと思っていたのだ。

 

堕落論」「白痴」等で著名な無頼派作家・坂口安吾が生まれ育ったのは新潟市内である。では、そんな彼と松之山にどんなゆかりがあるかというと、彼の叔母と姉の嫁ぎ先が松之山の村山家という家だったのだ。

安吾はこの村山家をたびたび訪れ、松之山を舞台にした作品をいくつか書いている。「黒谷村」「逃げたい心」そして『不連続殺人事件』などは松之山を舞台にしているらしい。

現在、村山家邸宅は大棟山美術博物館として一般公開されており、その中には安吾の著書や関係資料などの展示がされているとホームページにあった。なので、今回満を持して訪れるわけである。

 

 ***

 

こちらはまつだい郷土資料館の内部

大棟山美術博物館の最寄り駅は、北越急行ほくほく線まつだい駅である。長岡からはまず上越線越後川口駅へ、越後川口駅から飯山線十日町駅、十日町駅から北越急行ほくほく線の超快速スノーラビットまつだい駅へ、という手順で行った。

たどりついたまつだい駅は、無人駅である。改札には誰もいない。しかし、思っていたよりもずっと降車客が多かった。家族連れやカップルといった、明らかに観光客だとわかる人たちが電車を降りて行くので、私は意外な気がした。

 

グーグルマップを眺めていた時、十日町市には美術館が多いなと思った記憶がある。まつだい駅にも、「まつだい「農舞台」」という総合文化施設が隣接しており、降車後すぐに足を運ぶことができる作りになっていた。

展示されているのは、主に現代アートらしい。規模の大きな体験型の現代アートを、カップルや家族でめぐるのは楽しかろう。また、雪国の無人駅にそのような人たちが訪れるのは、町にも活気が出てとてもいいことだなと思った。

 

とはいえ、この時の私は残念ながら、ゆっくり現代アートを見る時間がない。大荷物を持ったまま、コインロッカーはどこだろうとうろうろした。

と、駅を出た私の目に、けやき造りの立派な民家が目に入る。明らかに歴史的建造物だとわかる造りで、まつだい郷土資料館とあった。現代アートは見る時間がないと言いながら、私はこういうものに目がない。ああ~きれいなおうちだ、と思い、ついふらふらと中に入ってしまった。

受付の人にコインロッカーの場所を聞こうという思いもあったのだが、中には誰もいない。大荷物は移動に邪魔なので、出た方がいいかなとも思う。しかし、あまりに立派なおうちなので、私の足はいつの間にか靴を脱ぎ、そのまま上がりこんでしまった。

 

この資料館は江戸時代末期に建てられた民家を移築したものらしい。

解説パネルには、けやき造りの母屋(木造2階建)は約10mもの大黒柱と梁で支えられており、豪雪にも耐えうる重厚な造りだとある。囲炉裏や座敷、茶の間、客間などが当時のまま残っていて、どこも清潔にしてありとても美しい。

私は額に汗したまま、広く美しい家の中で思わず正座して、そのセンスに見入った。一部屋一部屋が大きく、戸板は漆塗り、高い天井に太い梁、どれも豊かさの象徴でありながら、それがすべて自然で嫌味なところが全くない。本当にきれいだ。

2階にも上がってみる。立派な書院造の襖に書があって、これも大変素晴らしかった。こういうところにこういう作品があるんだよなぁ、と思う。中俣天遊という人の書で、新潟県を代表する書家なのだそうだ。

もっとゆっくり展示を見たかったが、あくまで私の目的は大棟山美術博物館である。大荷物を抱えたまま、私はよたよたと資料館を出た。

 

 

無事コインロッカーを発見することができ、バスの乗り場と時刻のチェックを終え、ようやく安心して一息ついた。バス乗り場は道の駅(?)と隣接しているので、私は道の駅で昼食をとることにする。

私はこの日もかなり早めに起きて行動していた。時刻はまだ、11時を過ぎたくらいである。食堂が開いていないため、コンビニでお昼を買って、駅の座敷スペースのようなところで昼食とした。

私の背後にも昼食を食べながらくつろいでいる人たちがおり、その人たちの会話がとぎれとぎれに聞こえてくる。どうやら彼らは親戚で、これから親族の何周忌かのお墓参りに行くところらしい。朝5時に起きたよ、という彼らの笑いさざめく声が聞こえる。

親戚が集まると、とかく誰かの悪口を言いがちであるが、彼らは本当に仲の良い親族のようだ。始終穏やかな調子である。このように朝早くから集まって、一緒にその家なり墓なりに行くのだから、おそらく身内の中でも特に親しい人たちなのだろう。

私はコンビニのおにぎりを食べながら、このような何気ない会話も、もしかしたら一つの時代の過渡期や終わりの声なのかもしれないなぁ、ということを考えていた。

 

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大棟山美術博物館までの道のりで、ここは豪雪地帯なのだな、ということをしみじみ感じた。家の玄関は二重扉のところが多く、入り口前には必ずステップがあって数段高くなっている。雪を防ぐために屋根は張り出し、家の脇には梯子が立てかけてあった。

バスはぐいぐい山道へ入って行く。ところどころに季節の花がこぼれるように咲いていて、私の目は特に合歓(ねむ)の花に引かれた。細い糸のような花びらが集まったようなこの花は、真夏の青空の下でもどこかひっそりと静かさをたたえており、まるで安吾の松之山作品とそのまま地続きになっているかのようだ。

バスを降りて、大棟山美術博物館まで歩く。あたりは山に囲まれ、真っ白な雲が浮いている。体中に汗をかきながら、急な坂を黙々とのぼる。すると、遠くからでもわかる堂々とした杉並木が続いているのが目に入った。近くに来てみても、ちょっと異様な感じのするくらい周囲から浮いた杉並木である。石段は苔むして半ば隠れていた。この先に由緒正しいお寺でもあるのかな、と私は思う。大棟山美術博物館の後に寄ってみたいな、と。

ところがなんと、この杉並木の先が大棟山美術博物館だったのだ。さんざん道に迷った末、大棟山美術博物館の正門にたどり着いた私は、来る前に見た杉並木が眼下に続いているのを見てびっくりした。しかし、この杉並木がたどり着く正門も負けず劣らず立派だったので、この土地における村山家の権威を改めて感じた。正門は古刹のような風格を備え、どっしりと大きい。明らかに、個人宅の門構えではない。

正直な感想を言うと、大棟山美術博物館では、私はこの門にもっとも感動した。その前にまつだい郷土資料館を見ていたからかもしれない。青葉の繁る中、堂々とした男らしい正門の前に立つと、大きなものと対面している高揚感があって、とてもいい気分だった。

 

 

さて、大棟山美術博物館である。村山家は元造り酒屋というだけあって、大変な大邸宅であった(酒屋は資本がないと経営できないので、昔は酒屋といえばお金持ちの代名詞的な存在だったらしい)。

部屋数が多く、しかもどの部屋も良材が使用してあることが説明書きに書いてある。波打った窓ガラスは早くからこの家がガラスを張るだけの経済力があったことがわかるし、展示してある所蔵品の数々も、どれも値打ちがありそうだ。

大棟山美術博物館の2階の1室が、安吾の資料が展示してある部屋になっている。発表当時の安吾作品がケースに収められているほか、研究書や関連資料などが置いてあり、安吾の写真パネルが飾られていた。

しかし、特に貴重な資料が見られるというわけではなく、詳しい説明もないので、その空間を楽しむといった感じだ。私にとっては、この家の大きさそのもの、この権威と富そのものが、もっとも安吾について思いを馳せる材料になった。

 

坂口安吾の作品には、特に貴族的な描写は見られない。むしろ彼の作品を読んで私たちが感じるのは、唯物論的なリアリズム、それこそ「必要ならば、法隆寺をとりこわして停車場をつくるがいい」という徹底的な現実主義である。

安吾の生家は残っていない。しかし、彼の叔母と姉が嫁ぎ、彼自身も何度も訪れ滞在したというこの家を見ると、私は彼もまた貴族的な生まれだったのだと感じずにはいられない。その上で、安吾無頼派と呼ばれるようになる作品の数々を書いたのだ。

それは、彼が生まれから自由だったということだろうか? 彼は自身の生い立ちに優越感を持っていなかったのか? 彼は本当に物質主義者だったのか?

私はそうは思えなかった。しかし、安吾の作品がそれを証明しているのだから不思議なものだ。安吾の伝記や評論などを読まれた方は少なからず同じようなことを感じられているかもしれないが、私は彼の伝記を読むと、作品との解離性に時々首をひねる。それでいて、やはり彼と作品は一心同体、決して引き離すことのできない同じものだということも感じる。

そんなことを思いながら、私はこの巨大な邸宅を見て回ったのだった。

 

 

大棟山美術博物館を見終わった私は、近くの小学校にあるという安吾の文学碑を見に行くか迷った。しかし、碑の正確な場所がわからない上、真夏のよく晴れた日に長時間歩いたら熱中症になる恐れがあると思ったので、諦めた。

帰りのバスが来るまでに、少し時間がある。あたりにカフェや喫茶店などはないので、スーパーでアイスを買って、立ったまま食べた。青空の下、屋外でアイスを食べるなんて何年ぶりだろう。とても美味しかった。

バス停のそばにも、静かに合歓の花が咲いているのが目に入る。夏の花なのに、それはとてもささやかでおとなしい印象を人に与える。それでいてどこか官能的なイメージがあるのは、やはりその特徴的な名前のせいだろうか。

私は安吾の松之山を舞台にした作品のひとつ、「黒谷村」を思い出す。それは一人の青年が黒谷村(松之山がモデル)に来て、ひと夏を過ごす物語である。しかし、そこには夏らしいさわやかさは見られない。やるせなくなやましい情欲とともに、ところどころに死の影がちらつき、真っ白な夏雲がただたださみしさを感じさせる。「風博士」に続く安吾の初期代表作のひとつであるが、不思議なほど全編に挫折感のただよう作品である。

私が安吾作品に共感するのは、その強靭さにではない。私は彼のうらさみしいほどの孤独、滑稽なほどはりつめた緊張感、そして人間の悲しさと愛しさが好きなのだ。私は彼のもっとも弱い、プライベートな部分が好きなのだ。

バスが来て、私はそれに乗り込む。上って来た山道を、今度はするすると下っていく。夏の陽はまだ高かった。しかし、なぜか松之山は、私の中でとてもひっそりとした場所というイメージになっている。

 

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再び電車に乗って、私は上越市に向かう。翌日は直江津港から佐渡に向かう予定なので、ホテルは直江津で取っている。一度直江津で降りて荷物を預け、私は三度(みたび)電車に乗り込み、高田へ向かった。ドキドキした。

高田は私がとても好きな街だ。以前この街へ来たのは、「赤い蝋燭と人魚」の作者として有名な、小川未明の文学館へ行くためだった。文学館とその周辺の環境は素晴らしかったが、なぜか私は、この街自体をとても好きになったのである。

それはなぜなのか、上手く説明できない。駅に降り立って、煉瓦造りにステンドグラスがあしらわれた駅舎を見た時から、胸が高鳴るのを覚えた。駅から続く城郭のようなデザインのアーケードも素敵だったし、山間の奥ゆかしい雰囲気が街全体に感じられることにもときめいた。派手なところがまったくなくて、上品で、落ち着いていた。すてきな街だった。

一方で、それは私の中の思い出でしかないのでは、という思いもあった。ここにまた来られたことはとても嬉しかったが、あまりに私の中でイメージが美化されているのでは、という心配もあったのだ。

 

 

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以前来たときに、高田城に蓮池があるのを覚えていた私は、ここに初夏に来られたらいいだろうな、と思っていた。なので、まずは高田城の蓮池に向かうことにする。

その道すがら、旧師団長官舎があるのでこちらも寄ることにした。明治43年に旧陸軍の師団長・長岡外史中将の邸宅として建てられた建物が保存されて、現在は一部がレストランになっているのだそうだ。今回はゴールデンカムイをめぐる旅でもあるので、行かないわけにはいかない。

途中、少し雨がパラついてきて焦る。あたりは完全な住宅地だったので、道を間違えているのではないかと思ったが、周囲に溶け込むようにその洋館はあった。外装からしてとてもロマンチックな、美しい建物である。

折り畳み傘を畳んでから中に入って、おやと思った。全体的に、印象が新しいのだ。しかし、よく見てみると、当時の雰囲気を壊さないよう上手く内装が整えてあるのだとわかった。建物や部屋の造りはそのままに、家具やカーテン、小物などがセンス良く配置されている。レトロで女性的な趣向が、洋館とよくマッチしていた。

奥から人が出てきて、レストランですか?と訊かれる。見学ですと答えると、食事スペース以外はご自由にご見学くださいと言われた。他の部屋も見て回る。旧陸軍高田第13師団のことや、第3代師団長・長岡外史中将のこと、高田の街が陸軍を誘致して一時軍都であったことなどを説明する展示もあった。歴史的な背景の説明もきちんとあって、とてもいい感じだ。

2階にも上がってみる。1階は洋間であったが、この階は畳だった。しかし家具は洋風のソファで、これまた和洋折衷のセンスがとてもいい。雰囲気を損なわないように内装をリノベーションしつつ、商業スペースと展示スペースを設け両立する。こういう建物の在り方もいいなぁと思った施設だった。

 

 

さて、旧師団長官舎の後に高田城の蓮池に行ってみると、私の記憶よりもずっと大きなものだったので驚いた。なんでも、東洋最大級の規模だという。お城をぐるりと囲む周辺がそうなので、一度に見渡せる面積ではないが、どこまでも蓮池が続いている感覚である。歩いても歩いても蓮池があるのだ。

蓮の花は、また四分咲きといったくらいだった。開いた花は清らかな美しさだったが、やはりここは新潟なのだ、と私は思う。九州よりも少し季節が遅いのだろう。花が開くには、私が来るのが早すぎたようだ。

ほころび始めた蓮の花に早々に見切りをつけて、私は次の目的地へ向かうことにした。

 

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目指すは、高田世界館という映画館だ。なんでもここは、創業が明治時代で日本最古級の現役映画館だというのである。建物だけでなく上映ラインナップも素敵で、ツイッターでも映画通アカウントとして有名なので、ご存じの方もいるかもしれない。

実は私は、先ほどお城の蓮池で、蓮の花がまだ咲いていなかったことが少し残念だった。なんとなく、夢のような再会を期待していたのかもしれないし、やはり街自体に夢を見すぎていたのかもしれない、という気がしていた。高田の街は美しかったが、やはりお城を離れるとその街並みはごくごく平凡なものに見えないこともない。期待をしすぎていたのではないかと思うと、そんな夢見がちな自分が嫌になるのだった。

 

 

しかし、映画館が近づいてきて、その街並みがまた変わって来た。私は高田を端正な城下町と思っていたが、このあたりはまた様子が違う。古い木造の家並みが続いており、小売店が多く町家といった雰囲気である。そのひさしが延長されて、通路の上を屋根のように覆っているのが、とても珍しかった。

後でわかることだが、このひさしは「雁木(がんき)」と言って、高田はこの雁木の総延長距離が日本一なのだそうだ。冬季の通路を確保するための雪よけなのだが、とても風情があって美しい。軒を連ねるお店も、歴史のありそうな和菓子屋さんやお味噌屋さん、お豆腐屋さんなどがあり、歩いているだけでとても面白かった。

私はがっかりしていた気持ちをすっかり忘れてしまった。好きだと思っていた街の新たな面を発見し、心が満たされる。勝手なものだと思ったが、嬉しかった。

 

そうやって歩いているうちに、何やら妙な音が聞こえてくることに気がついた。あたりの古い町並みに似合わない、人工的なくぐもった音がするのだ。何だろうと思っているうちに、高田世界館へたどり着いて、私はまさか…と思った。

このくぐもった音は、もしかしてこの映画館の音漏れなのでは?

そのまさかだった。映画館の扉を開けると、もう一つ扉を隔てたすぐそこが劇場で、まさに映画が上映中だったのである。その巨大な音響が漏れて、外にまで聞こえていたのだった。

明治44年に創業した建物が、当時の姿をとどめて今も使われているのだから、防音が不完全なのはある意味当然なのかもしれない。しかし、この映画館が現役でいられるのは、周囲の多大な協力があってのことだったのだな、と実際に来てみて初めてわかった。そう思うと、よりこの映画館が尊いものに思われる。文化施設は、街の協力とともに成り立っているのだなぁと思った。

 

受付の方に見学料を支払い、上映中の映画が終わるのを待つ。映画と映画が上映される間の時間のみ、自由に劇場の見学ができるのである。

この時上映されているのは、インド映画だった。先ほど受付にいた映画館の方(まだ学生さんかな、と思うくらいの若い女性)に聞いてみると、高田世界館はこの時、独自にインド映画特集をしているとのことだった。明治創業の映画館でインド映画特集があっているなんて、その事実だけで胸が踊る。上映中の映画もクライマックスのようだ。インド映画らしく、みんなが踊りに踊っていることが容易に想像できる、アップテンポの陽気な音楽が、爆音で鳴り響いていた。

やがて映画が終わり、劇場から人が出てくる。それと入れ替わりに、私は中に入った。レトロな赤い椅子が並んでいるのも、桟敷席があってぐるりと劇場を囲んでいるのも、とてもノスタルジックで素晴らしい。私は夢中で写真を撮った。

ふと劇場の入り口を見ると、先ほど出てきたお客さんがその場ではしゃぎながら、映画の内容についてきゃっきゃと笑い合っている。男女半々ほどの若い子たちで、先ほどの映画の真似だろう、その場で踊るポーズを取っている子もいた。

いいなー、と思う。青春だ。映画館自体も素晴らしいが、それ以上に私は、その人たちがこの街に住んでいることを羨ましいなと思った。

映画館を出る間際、私は受付の人にお礼を言う。私は通常、人から訊かれない限り自分がどこから来たかを言わないのだが、この時は言いたくなって、自分から言ってしまった。

受付の人のリアクションは私の想像以上で、彼女はえっと言って息を飲み、固まってしまった。その反応に、私もびっくりしてしまう。

「私、高田の街が大好きで、来るの2回目なんですよ」

とりあえず、続けてそう言っておいた。聞けば、彼女もこの土地の人ではないそうだ。私の言葉を聞いて、彼女も、ここいい街ですよね、と同意してくれた。

やっぱり言わない方が良かったかな、と私は少し恥ずかしくなりながら映画館を出る。けれど、言いたくなったのだから仕方がない。あの時の私は、そういう気分だったのだ。

 

 

この日の夜は、そのまま高田の雁木通りの居酒屋さんに入った。

お店に入って、一人ですと言うと驚いた顔をされる。まだ6時を回ったくらいの早い時間なので、ほかにお客さんはいない。私がカウンターにかけると、女将さんが話し相手になってくれた。

「なんでここに入ったの? ここ、駅からもちょっと離れてるでしょう」

「高田世界館さんに行きたくて」

「ああ、高田世界館さんね。ああいうところが好き?」

「はい」

「どこの人?」

女将さんはサバサバしたとても気のいい方で、私のほぼ新潟横断の旅程を知ると、無茶だね!と笑った。

「あなたさぁ、ここまで来て新潟に帰るのは効率が悪いんじゃない?」

「え?」

「ここから新潟に行くより、小松空港(石川県の空港)から帰った方が早いんじゃない? ここから金沢まで2時間半だよ?」

そういう行程は考えたことがなかった。しかし、小松空港から福岡空港への直通便は出ているのだろうか? そう尋ねると、女将さんはうーんと考え、それはわからないねぇと言う。

「こっちから九州には、なかなか行かないからねぇ」

私は出されたおかずに箸を伸ばす。頼んだのは、夜ご飯セットというお店のお任せコースだ。サラダの豚しゃぶ乗せだとか、きゅうりの塩麹漬けだとか、茄子の蒸し焼きの生姜醤油和えだとか、どれもほっとする味でとても美味しい。

「ここはほんとに冬は大変だから…。表の道のね、ずっと雁木が続いているでしょう。ひさしが張り出したようなの」

「はい」

「あの通路はね、みんな私有地なのよ。個人がお金を出して作ってるの。今は補助金とかも出るけど、一時はもうやめようかという話も出てね」

でも、ないと困るから、という意味合いなのだろう。景観のために残しているのではなく、長く厳しい冬を乗り越えるために、必然的に残っている。女将さんの口ぶりからは、そのような含みがうかがわれた。彼女は、この土地の人なのだそうだ。私は質問する。

「金沢の方によく行かれます?」

「そうね、新潟よりも金沢かな。いろんなところに行きますよ」

「どこがおすすめですか?」

女将さんはなかなか答えられず、とても可愛く迷いに迷ってからこう答えた。

「富山のおわらだね」

「おわら?」

「そう。風の盆と言ってね、盆踊りなんだけど、とても風情があって綺麗なの。男の人もね、こう、編み笠を被るのね」

「へぇー」

「盆踊りなんだけどほんとに、とっても優雅で。静かなんです。三味線や胡弓と、そして地唄で踊るの」

「えっ!? 生演奏ですか?」

「そう、だからね、うるさかったら聞こえないでしょう。夜にね、静かにしてください、静かにしてください、って言うのね、そして静かになったら踊るの。すーってね。とっても綺麗」

女将さんは、ここでうっとりするような、遠くを見るような目で続けた。

「本当はねぇ、お嫁に行く前に踊るのが本当のおわらで、今は観光だから人がいっぱいだけど…。本当のおわらは、観光客がいなくなってからなのよ。私は1回だけ見たんだけどね、ほんとにお嫁に行く前の人が踊るのを…。観光客が帰った、夜遅くにね……」

女将さんが話すのを聞きながら、私もうっとりした。人生で、旅先で、ずっとこのような話だけを聞いていたいなぁ、と思う。

しかし、時間が経つにつれてお店にどんどんお客さんがやってくる。夜ご飯セットを食べ終わった私は、お勘定をしてもらった。

また来てね!と女将さんに言われる。また来ます、と笑いながら私も答える。これも私の幸福な記憶の一つである。

日が暮れ切った高田の町は、とても暗かった。真夏でこれなら、雪の何メートルも降り積もる夜なら、その寂しさはどれほどだろう。固く戸が閉められた家々の雁木の下の私有地を、私は潜るように歩いていく。

私がこの土地の冬を知ることは、果たしてこれからあるのだろうか。