暇コラム

鬱病と生きる会社員のブログ

エディプス・コンプレックスの話

 

NHK「100分de名著」を見ている。

国内外の様々な名著を1か月間4回に分け、研究者が解説してくれる番組だ。

要点をかいつまんだ解説とそれを受けた伊集院光さんの鋭い発言が見所で、私はこれを唯一録画して視聴するほど好きである。

 

2024年の4月の「名著」はフロイトの「夢判断」だった。

奇しくも私はフロイトが研究対象とした「神経症」患者であり、加えて通院先の先生もフロイトを半ば崇拝している。

フロイトの理論が少しでも理解できれば治療が進むかもしれない。

そう考え、いつもよりもはるかに邪な思いで見始めた。


第3回で取り扱ったのは「エディプス・コンプレックス」であった。

エディプス・コンプレックスとは、3歳から6歳くらいの子供が異性の親への性愛と、同性の親への敵対心をもつ状態のことである。

神経症は、幼児期の愛情生活の破綻に起源をもつ」とし、フロイトはこの理論を確立したようだ。

 

ただし、エディプス・コンプレックスは本当のところは、男女で非対称であるとフロイトは言う。

つまり、男女ともに異性の親に性愛的な感情を抱くのではなく、男女ともに最初の愛の対象は母親であるというのだ。

 

医療に従事する両親はこれを見落としていた。

そして、私の幼少期を振り返って、あれはエディプス・コンプレックスだったと思ったことがあると言った。

吐き気がするほど嫌だった。

性愛的な感情など持ったことがなかった。

むしろ、私の父への関心は薄かった。

それは父の子供への関心が薄いことに気付いていたからだ。

 

それでも、父が家庭で孤立しないよう気にかけたのは、私が持つ慈愛の精神からくるものだった。

父に話しかけ、手を繋ぎにいき、返事の来ない手紙を書き、幼稚園で描いた似顔絵を渡した。

父の接し方は対象年齢を誤ったもので、5歳の私に1歳児ならギリギリ喜びそうなアプローチをしたが、努力を無下にできなくて、つとめてニコニコして過ごすようにした。

 

稀に家族で出かけても、父のまわりには誰も寄りつかない。

その背中がただ、悲しそうに見えてしまったのだ。


その結果、親からは「エディプス・コンプレックス」と言われ、祖母からは「お父さんが大好きな子」と言われた。

記憶にはないが、大人が喜ぶならと心にもない「お父さんと結婚する」というまやかしのフレーズを言ったこともあったのかもしれない。

私はそういうパフォーマンスをしてしまう子供だった。

周囲の人間が勘違いしてしまうのも無理はないのかもしれない。

しかし、私は親や祖母の言葉をはっきり否定して本心を明かすこともなかった。

余計に父が可哀想だと思ったからだ。

私はただ口をつぐんでいた。

 

父に書いた手紙は何十枚にも及んだと思う。

日中、父に会うことはないので直接渡すことはできない。

代わりに父の書斎の机に置くようにしていた。

返事は全くないし会話もないので、一方通行ではあったが、きっと読んでくれているだろうと満足していた。

 

ところがあるとき、一通の返事が来た。

大人向けの無地の便箋が三つ折りになっていた。

中を開くと端正な字が縦書きで並んでいた。

 

「今度の休みには一緒にどこにいこうか考えています。海に行こうか山に行こうか考えています。〇〇ちゃんも考えておいてください」

 

父と海や山に出かけたことはなかった。

ワーカホリックだった父に休日らしい休日はなく、たまの休日に家族で出かけても父は大抵仕事で呼ばれ、道中を家族みんなで引き返す。

一緒に海や山に行く休日はこの先来ることがないことを私は分かっていた。

 

そもそも当時住んでいた沖縄に山らしい山もない。

海の対義語として山を書いただけだったのだろう。

変な手紙だと思った。

本当にこれを父が書いたのだろうかと思った。

 

それでもこの、大学教授が初めて会う孫に書いたようなぎこちない文章はとても眩しくかっこよく映って、私を高揚させた。

返事を書こうとしたが、父の大人の文章力の前では自分の言葉の稚拙さが浮き彫りになるようで恥ずかしかった。

それでも鉛筆で文章を書いてみては消し、書いてみては消し、何度も下書きを試みた。

しかしボールペンで端正に書かれた父の字と比べると、鉛筆で強い筆圧で書いた私の筆跡のなんと幼いことか。

文章を書く力も文字を書く力も、返事を書くには及ばなかった。

 

結局それ以来父に手紙を書くことはなかった。

もちろん、父から手紙が来ることもなかった。

 

大人になってから、返事のこない手紙を書く私を見かねて、母が父に返事を書くように言ったことを知った。

父の休日がなかったのはワーカホリックだったからという理由だけではなかったことも知った。

子供がうるさいという理由で、仕事がなくても職場に行き、本を読んでいたらしい。

父の不可思議な距離感で書かれた手紙は、やはり子供への愛情の稚拙さを現していたんだと思った。

 

結局フロイトの指摘通り、私が猛烈に愛を寄せ、求め続けたのは母だった。

本当は姉たちを押し退けて、母と手を繋ぎたかった。

母だけに話を聞いてほしかった。

父に懐かない姉たちのことも、子供がうるさいからと子育てに関わらない父のことも、全部無視して、母に縋りつきたかった。

私はそれができない子供だった。


幼稚園に入園する前のすこしの間、母とふたりきりで過ごした時間がある。

私は3歳になったばかりで、まだ幼稚園に入園できず、2歳上の姉が幼稚園から戻るのを母と待っていた。

池の淵に座って亀に餌をあげたり、図書館でたくさんの本を読んだりした。

母は疲れて私の横で眠っていたこともあったが、それすらも心地よかった。

母の隣に私だけがいる。

母の手が私の手だけと繋がれている。

母の優しい声が私の名前だけを呼んでいる。

 

母が着ていた黄色いコートの柔らかな質感も、母の体温のあたたかさも、母の笑顔のやわらかさも、すべてが映画のワンシーンのように深く深く記憶に刻まれている。

母はまばゆい光のなかにいて、私だけを見つめている。

 

あの時間が人生のうちで、最も輝いていた、宝石のような時間だったと思う。

思い出すたびにあたたかいものに襲われる。

そんな日々を結局いまも追いかけているとすれば、私はいまも非対称なエディプス・コンプレックスのなかにいるのだろう。

本の話

本が好きなのか本が好きな自分が好きなのか、はたまた本がある空間が好きなのか、もはやよくわからないが、本が好きである。

本屋や図書館に飽き足らず、ブックカフェやブックホテルまで行って本を物色し、そこで出会った本を買うこともしばしばある。

けれども結局、買って満足してしまい、開きもしない本も多い。

 

本というものは、美術品と同じで、「そこにあるから魅力的」という類のものがあるのではないかと思う。

雨が降る日の古民家カフェで、あたたかいコーヒーを片手に読んだ本。

旅先のモダンな本棚でみつけた、現地の暮らしについて綴った本。

心を揺らす本をみつけたときは、運命の出会いをしたと思う。

しかし購入して、家のなかであらためて見る本は、出会ったときの輝きを失っている。

 

あるいは精神状態の揺らぎの中で、一際輝いて見える本もある。

仕事のこと、生活のこと、人生のこと、溢れ出る悩みのなかで、解決に導いてくれそうな本を見つけて買ってみるが、買った頃には悩みが色を失っていたり、逆に悩みが膨らみ過ぎて、ページを捲ることすら心の負担になったりしている。

 

安心するためにただ手元に置いている本もある。

仕事に関する本がその例だ。

心から関心がある分野ではないから中々読み進められない。

法律関係の本、仕事の進め方の本、著名人の仕事の話をまとめた本、オンライン会議のコツに関する本、肥やしと化している本は枚挙にいとまがない。

けれども持っておくと、なんとなく仕事に関して1コマ進められている気がするから本棚に並べてみている。

 

結局、自宅の本棚を見てみると、1ページも目を通していない本がポツポツある。

それ以外も、最後まで読み終わっていない本ばかりだ。

まずは手持ちの本をしっかり読み終わってから、あたらしい本を手にしようと思うのに、いまも目の前にあるのは図書館で借りてきたあたらしい短編集である。

 

生来の癖で、物を買ったなら価格分の元を取るべきだと思ってしまう。

だから、肥やしにしている今の状況はとてもきまりがわるい。

 

しかし、そもそも本の「価格分の価値」とはなんだろうか。

本を隅から隅まで読んで、知識を頭に入れ込んだり、感動を心から味わったりすることが本のただしい価値なのだろうか。

本を買うことで、一瞬でも気が紛れたり満足感を味わえたり、なんらかの安らぎを手に入れたこと。

それはもう価格分の価値があるのかもしれないとも思う。

 

そもそも本がシチュエーションによって輝きを放つなら、シチュエーションによってその輝きが再興することもあるだろう。

そうであれば自宅本棚の「コレクション」はまたタイミングが訪れたら覗けばいいか。

 

いまはとりあえず気の進むままに、文字の海を探検しよう。

本を全部読み切る必要もない。

文字に触れて、なんとなくいい時間を過ごせればそれでいい。

ぼんやり、適当に。

それが私にとって、今のところ一番良さそうである。

コミュニケーションの話

慢性疾患になってから、人からの声かけが善意だとわかっていても悲しくなってしまうことがあると気付いた。

 

たとえば、久しぶりに会った人がよく言ってくれる「元気そうだね」という言葉がある。

これに心配してくれていたんだなあ有難いなあ…などという思いは実のところ全くわかない。

ただ「いや今日は頑張って元気に見せてるだけで、普段は床に伏せって死にたい死にたい殺してくれと思いながら天井を見つめているんだけどな」と思うのみである。

 

「人生そういう時もあるよね!ゆっくり行こ」

このタイプの声かけも心にくるものがある。

キミの人生には「そういう時」=「慢性疾患に苦しめられる時間」はないだろう。

 

大変だねと心配してくれたうえで、「体調が悪い時に自分はこうしている」と頼んでもいない自分語りをしてくれる人もいる。

健康な人間が時々抱く「調子が悪いなあ」とか「疲れたなあ」という類の、生き物として普遍的にある感覚と慢性疾患は全く違う。

こう同一視されると、もう心のシャッターは完全に下りてしまう。

 

休んで元気になるとか、気をつけて体調管理をすれば調子良く過ごせるか、そういう一般的な体調不良を私は体調不良と呼ばない。

外部環境にかかわらず、突然予測不可能なタイミングで訪れる体調不良、それも気合いでどうにかなるレベルではなく、インフルエンザに罹患した時のような重い倦怠感。

ほんの数歩歩くだけで、フルマラソンを走ったかのようなとてつもない疲労感。

これが慢性疾患による体調不良である。

 

…と、面と向かって説明しても説明を受けた方は反応に困るだろうから、なにを言われてもハハハと日本人得意の愛想笑いで応えることになる。

人からされたくないことをするな、されて嬉しいことをしろ、という教育格言は誰もが耳にしたことがあると思うが、なかなかに詭弁である。

自分がされて嬉しいことが他人にとっても嬉しいとは全くもって限らず、逆に他人にとってはされたくないことかもしれないのだ。

 

そうは言いつつも、慢性疾患を抱える友人と久しぶりに会うと、あやうく「元気そうだね」と言ってしまうこともある。

考えあぐねて、「なにかあったら遠慮なく言ってね」と捻り出すが、果たしてそれも友人にとって言われて嬉しいことかどうかわからない。

 

コミュニケーションは、つくづくむずかしい。

誕生日の話

15年程前に、よく当たるという占い師に占ってもらったことがある。

私の前世は中国の歴史家で、(これもなんだかなあとは思いつつ、実は思い当たるフシもあるので半分だけネタにしている)その叙述により戦争を引き起こしたことが今世に影響を与えていると言われた。

占い師曰く、私はひどく大きな罪悪感をかかえて生きている、らしい。

 

ちょうどその頃、自分でもなぜそんなことをしてしまうのかわからないまま、故意に自らを傷付ける行為を繰り返していた。

痛みを感じるたびに妙に安心した。

痛みを忘れるとまた自ら傷付きにいった。

あれは、こんな自分は罰せられるべきだ、誰も罰さないなら自分が自分を罰しよう、そう思っていたからだったのだと、すこし経ってから気付いた。

 

この「傷付きに行く癖」は治ることもなく、たびたび私を苦しめた。

過度に自分を追い込み、状況や背景があまりにも違う他者と自分を比較しては自分を卑下した。

大切にしてくれないとわかっている人を必死で追いかけ続けた。

そのたびに勝手に傷付き、自分には価値がないと勘違いしては怯えた。

価値がない私はもっと傷付くべきだ、罰せられるべきだと、自分に鞭を打ってはその苦しみに安堵した。

 

苦しみは溶けてなくなることはない。

ただ蓄積し、やがて爆発する。

社会から何度も離脱しかけながら、私はがたがたとした、平凡な人生を生きている。

 

期待どおりでなかった人生が目の前にあると思うことは、私を苦しめる格好の材料になった。

私は人生や自分に絶望し、希死念慮自己批判を常に抱きながら、また自分に鞭を打っては安心した。

 

そうして一向に自分を愛せないまま、30年弱生きてしまった。

 

今日またひとつ、私は年をとった。

もうこんな生き方はやめようと思う。

ただ、くるしいからだ。

くるしいから、もうやめたい。

 

本当は私は誰よりも私を愛し抜きたいのだ。

 

小学生の頃の日記帳に「大人になるということは自分を受け入れるということなんだろう」と書いてあった。

もうその頃には、私は自分の限界を感じ、望むような人生は待っていないことを悟っていた。

人生を諦めていくことが大人になることなんだと思っていた。

そしてやはり、望むような人生は私の手にはない。

 

小学生の私にひとつだけ伝えたい。

人生を諦めるのでもなく、過度に期待するのでもなく、ただ手の中にあるものをありのまま愛することが、生きることの本髄だ、と。

 

私のこれからの人生は、自分を愛しぬくことに使いたい。

病めるときも健やかなるときも、駆けるときも止まるときも、いついかなるときも、存在しているだけで私は価値があるのだと認め続ける人生にしたい。

これは妥協かもしれない。甘やかしているのかもしれない。

それでも私を苦しみから救うために、私は私をただありのまま、愛したいのだ。

この愛を、これからの目標にしよう。

 

もっとも、今後も生きていられるかという健康問題は別の話なのだが。

体調の話

結局メンタルの調子がわるいのか、身体の調子がわるいのか、よくわからなくなっているが、とにかく身体の調子が本当にわるい。

 

この前新宿のクリニックで検査をしたら、私の脳はほとんど機能していないことがわかった。

健常と言われる状態の3分の1程度しか血流量がないらしい。

それから脳の血流量を元に戻すために脳に磁気をあてるという、一見危なそうな治療を続けている。

厄介なのはこの治療がまだ日本国内では保険適用外であるということで、私は薄給の身でありながら高額な治療費を泣く泣く支払っている。

ただ生きながらえるためだけに支払う高い金は、なんとも虚しい。

 

病名が鬱病であることは変わりない。

もっとどうしようもない、抗えないような病名がつけばどんなにか楽だろうと思う。

障害者手帳をもらって障害者雇用で細々と働くのもいいなあと思う。

私はちょうどグレーゾーンにいる。

健常者でも、障害者でもない。

 

そもそも鬱病とはこころの風邪などという生やさしいものではなく、脳の病気だということが近年わかりつつあるらしい。

専門家ではないので詳しいことはなにもわからないが、気持ちの問題で片付けられてきたあらゆる精神疾患が脳の病気だと認知されれば、当事者は本当に救われる。

この病気を言い訳にして生きていきたいのだ、本当は。

その反面、決して言い訳にして生きていきたくもない、本当は。

くるしい、ただ、くるしい。

 

夜、床につくとき、明日の朝目覚めることがありませんように、と祈りながら眠る。

呼吸と心臓が自然に止まって、もう朝の光を見ることもなくこのまま命の終わりを迎えられたらと思う。

それでも、生命の機能が止まるほどの身体ではないから、無情にも毎日朝が来る。

朝が来てしまったと絶望する。

 

良くなっては悪くなり、悪くなってはすこし良くなる。

調子がいいときはたしかに調子がよく、1日外出することもできる。

そんなときは心も晴れやかで生の喜びを感じられる。

 

ただ今は、長い長い、暗いトンネルの向こうを考える余裕もない。

いま立っているここだけを考えて、ただ呼吸をして心臓を動かしている。

自分を知るという営み

自分の性質を不可避だった経験で説明したくはないのだが、私は人との関係において、それがどんな関係であろうと根本的に期待することはないように思う。

すべていつか終わるだろうと思いながら、誰かと関係を築いている。

終わらせるべきタイミングがきたら、たとえどんなに深い関係の人とでも縁を切る覚悟を腹の底で持っておきたい。

それは親でもきょうだいでも、友人でも、恋人でも、そのどれにもカテゴライズされない関係でも。

その覚悟があることで安心感を抱いてはじめて、人間関係を構築することができる。

それなのにその反面、関係が終わらないことへの漠然とした憧れを抱いている。

厄介だと思う。

 

不可避な別れを何度も経験した。

どんなに深い関係になっても次の日からあっさりと会わなくなることに、酷く嘆き悲しんだこともあった。

ただ、中学生くらいになったときにはもう別れにドライな感情を抱いていたように思う。

その場では別れを悲しみ、泣き叫ぶことがあっても、いざその人という物理的存在と離れて、ひとりの空間に入れば、波のように急に感情がさめて消えていく。すん、という音が聞こえる。

それも駅のホームで別れてからたった数秒の間、というようなスパンで、すん、とさめていく。

 

できる限り自分を自分の言葉で説明尽くして理解したいが、人間にはどうもそうはできないぼんやりとした部分がある。

私の中にはウェットな感情とドライな感情が確かに共存して、その間を瞬時に反復横跳びしていく。

エモーショナルでウェットな感情を抱きながら、瞬時に残酷なほどにドライになれる自分を、実のところ私は、強烈に愛している。

 

人は自分を理解してくれる人なんかいなくても生きていけるということを知ることが一番大切なことだと、とある本にあった。

理解というのはひどく定義が曖昧で、ぼんやりとして、耽美な響きがある。

だからあまり理解という言葉を使いたくはないのだが、あえて使うとすると、私は誰からも理解されない私がいることに心底、安心している。

その状況の中だからこそ、私は私自身を深く愛しているんだと思う。

 

不意に、こんなにも自分を愛していることを猛烈に思い出した。

それは人との関わりのなかで偶発的に訪れた瞬間で、結局人間は自分が何者かを知るためには人と関わる他ないのだろうと思う。

他者との関わりのなかで、自分が把握しきれていない、あるいは忘れ去ってしまっていた自分が不意に現れる。

人間関係はすべて自分を知るという営みに過ぎない。

私は猛烈に自分を愛していて、自分を"理解"したいと思うからこそ、すべての人間関係を実験のように感じながら、そこに現れる新たな自分に満足してきたのだ。

 

この1ヶ月ほどで、ようやく気付いたことがある。

私はいまこの場所に立っていることに対して、長らく、満足はできていなかった。

だから私が持つあらゆる物事に対して、なんの努力もしていないというフリをし、涼しい顔をすることで感情の均衡を保ってきた。

 

ただ本当は、そんな美学には反する、随分かっこわるいことを認めるべきなんだと思う。

私は私だけのために、人生の毎秒、努力をしてきた。

私の努力は他の誰にも穢されない、尊いものだ。

私は27年間、ただひとりで生きてきたことを心の底から肯定している。

27万円の話

サラリーマンという生き物は、人事異動に翻弄される、哀しき性のもとに生まれている。

当然私も御多分に洩れず、そんな性とともに日々を過ごしてきた。

とは言え、最初の数年はそこそこ周りに恵まれ、それなりに楽しくやれていたし、大きな不満もなかった。


しかし、突然の "ハズレクジ" は前置きなくやってくる。

社会人3年目の中頃に異動してきた上司が、なんともまあ、全くもってウマが合わなかったのである。

どう合わなかったかを話せば、つまらぬ自己弁護にしかならないので割愛するが (いや、本当のところ当方の正当性をいつまでも抗弁したいほどだが)、

1年も一緒に仕事をしていると (上司は一緒に仕事をしてくれなかったので、厳密には一緒に仕事をしておらず、同じ空間にいただけではあるが)

段々と気が滅入ってきた。


人事部に相談したが、半年以内の異動はむずかしいと言う。

代わりに、復職後の異動を条件に休職することを提案された。

この提案には当初かなり面食らった。

しかし、このまま少なくとも半年、前述の上司とともに仕事をしても、 (再掲: "ともに" 仕事をしたことはないが) 苦しみしか生まれない。

意を決して、かねてから罹っていた心療内科のF先生に「休職した方がいいかなと思いまして…」と打ち明けた。

すると、あっさり「休職しましょうか」と返ってきたので、昨年秋頃から会社を休むことにした。

このF先生という人は、「薬をください」と言えば薬をくれるし、「薬を減らしたい」と言えば薬を減らしてくれる。

ゆるふわな先生で非常に助かっている。


とは言え、困るのは金銭面である。

会社を休むのだから給料はもらえない。

ただ、幸運なことに私は実家で暮らしているため、支出はかなり抑えられる。

まあ、すこしの間、収入がゼロでもいいか。

父が買った家で、母が作った食事をとりながら

悠々自適に休職ライフを楽しもう。

そう余裕をこいていたある日、突如として悲劇が襲った。

会社から一通の封書が届いたのである。

『振込依頼』

恐る恐る封を切ると、休職によって会社が立て替えた社会保険料やらナンタラ料だかを払えという内容だった。

はあはあ、まあそういうこともあると社内のウェブサイトに書いてあったなあ。

そう思いながら、支払金額を確認する。


期日までにお振込ください。

         ¥272,000-


…いち、じゅう、ひゃく、せん、まん…

にじゅう…ななまん…?

いや、待ってくれ。

もう一度ゼロを数えてみる。

やはり、27万の日本円である。


血の気が引く、というのが比喩表現ではないことをはじめて知った。

身体の力が抜けて、フラフラと床に手をついた。

胃液が逆流する。

昼間食べたハンバーグを吐きそうだ。

あらためて内訳を確認するが、

紛うことなく、確かに、累計27万円だ。


私が一体なにをしたというのだ。

奮発したGUCCIの鞄だって、

ヨーロッパ旅行だって、

27万円もしなかった。

それが、ただここで呼吸をしているだけの日々で27万円。

つまり、呼吸代、27万円。


横から母が「鎌倉に住んでいた時の家賃はこんなもんだったよ」と慰めてくれたが、

それは居住空間という対価を得ているではないか。

私の27万円は、家賃月ウン十万円の家で過ごそうが、横浜市の路上で過ごそうが、別途発生してしまう27万円なのだ。

呼吸だけが対価の27万円なのだ。


しかし考えてみれば、この27万円も、仕事をしていた時は細々と払っていたということになる。

私ほど頻繁に病院に行く人間ですら、社会保険料を納めるより、医療費を10割負担した方がよっぽど安い。

高額な税金を、国および横浜市という税金吸い取り自治体に支払い、子どもや老人たちに還元していたのである。

国民の三大義務のうち、勤労と納税をやり遂げる労働人口は、働いているだけでなんと社会に貢献しているのだろうか。

もっと感謝されたっていい。

いやいや、社会貢献のためだと思えば、27万円もなんてことはない。

これは喜捨だ。

喜んで、捨てる、と書く、喜捨である。

この27万円で、道を歩く子どもが無料で給食を食べられるかもしれないし、杖をつく老人が1割負担で望む医療を受けられるかもしれない。

しかし、悲しいことに、道ゆく子どもや老人は全く困窮しているようには見えない。

どころか身なりは美しく、子どもなどは惜しげもなくお菓子を食べ散らかしている。

これは呼吸代で27万円もとられた私が、1番困窮しているのではないかーーーーーー。


「私が死んだら遺産をあげるからね」と母が言う。

違うのだ。いつもらえるかわからない不確実な遺産より、いま目の前の27万円が惜しいのだ。


実家暮らしだと言うと、お金が溜まっていいね、と言われる。

一人暮らしのコスパが悪いことは承知の上で、

しかしこれは言っておきたいのだが、実家暮らしであれば自動的に金が貯まるわけではない。

私はなかなかの倹約家であり、衝動買いはうまれてこの方一度もしたことがない。

3,000円の水筒を買うことすら1ヶ月しぶる。

「あ〜これカワイイ〜買っちゃお♡」

などといつかゴミになるものを思いつきで買うような浪費は決してしたことがない。

100円、200円単位で本当に必要なのか吟味し、慎重な消費を心がけている。

その私が、全くもって吟味することもできず、

突如として27万円を支払う義務を負っている。

人は生きるだけで金がかかるのか。

生まれてきたいとオーダーしたわけでもないのに。


つい出生にまで思いを馳せてしまったが、義務からは逃れられない。

しぶしぶインターネットバンキングで指定の口座に振り込む。

ATMで振り込むよりも手数料が安いことが、心を軽くした。


3月から、異動のうえで復職する。

異動自体は喜ばしいことなのだが、

"まだ休職による控除が残っているのか"

その1点だけがあまりにも気がかりである。

控除が重なれば、3月の給与はアルバイト並みかもしれない。

キリキリと痛む胃をいたわって、胃薬を1錠飲んだ。

胃薬が効いてくれれば良いのだが。

ああ、日本国、横浜市、私にも現金を給付してくれないか。

もちろん、非課税で、お願いします。