ういたり、しずんだり、そしてまたうかんだり

ういたり、しずんだりして気がついたら数年。思いつくことやチャルーンサテイのことなどを書こうと思っています。

秋+奈良+鹿+人人人人+宝物=正倉院展

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生まれて初めて正倉院展に行ってきました。これまでもポスターなどを見かけては、あ、やってるのか…と思い、いつのまにか終わっているということを繰り返していて、もはや見逃すことが風物詩のようになっていて、このまま一生観にいくことないのかも…、という気さえしていたのですが、今年は夏を奈良で過ごしたこと、そこで出会った人の影響もあり、必ず行こう、と考えていました。

しかし日は過ぎて残りあと数日…となった8日、今日行かないと!という気分になり、午後二時ごろから慌てて支度をして、ICOCAをきっぷ投入口に挟みそうになったり、乗る電車を間違えたりしながら着いた3ヶ月ぶりの奈良公園には、やっぱり鹿がいました…

と、そこで力尽きたわけではなくて残り時間は少なく、予想通り混雑していましたが端から端までしっかり観て歩いて、最後には周囲の人を驚かせるほど勢いよくスタンプまで押してきました。

何十年ぶりかの秋の遠足にきたような気分で、帰りの電車に乗る頃には、来年も来ようという気持ちになっていました。

ババロア

さっきからスピッツババロアが20連続くらいリピート再生されていて、その度にもういいかげんにしろよと思いながらも聴きつづけている。

子供の頃ババロアといえばお菓子…であるというよりお風呂にあるものだった。

当時のお風呂にはたしか給湯機能はなく、浴槽に水を張り、それを温めて入るものだった。その浴槽には上下の温度差が生じやすく、その差を緩和するための道具もあったと記憶している…と大層に書いてきましたが、うちではババロアというのはその上・中・下の温度差のことを差す言葉で、たとえば母がお風呂に入ると言って風呂場にいったのにタオルを巻いてガタガタ震えていたとき、「ババロアやった」と言えば、そのまま納得して母はタオル姿のまま一緒に15分ほどテレビを見ているというような情景をあらわす言葉、それがババロアである…

私は秋が好きだ。そう言えるようになったのは最近のことだ。

子供の頃はなにか物悲しい感じがして、母が「秋が好き」というのを聞くのがいやだった。なぜだろう。なにかを諦めてしまった人の言葉のにおいを感じとっていたからかもしれない。

しかし秋というのはじっさい、どこからはじまっていたのか、なかなか思い出せないもので、いつ去っていったのかもまた思い出せない、つかみどころのないものだなあと思う。

だから大人になった私は秋が好きなのかもしれないなと思う。

奈良へ、そしてあの場所へ

7月末から続いた大阪流浪のゲストハウスめぐり(こう書くと悲壮感が薄れていいな)、この日だけはどうしても大阪の宿がとれず、思い切って奈良に行くことに。天王寺では迷いに迷って、午後3時過ぎてようやく予約をし、それでも大和路快速に乗るため改札を通るところでまたかなり迷う。(あの抵抗感ってなんだったのだろう)

でもそうやってようやく奈良駅またどりつき、エレベーターで改札階へ降りたとたん、これはなんだ、大阪とはまったく空気がちがっている。まずあの重さがなくて、透き通っている。そしてここには人ひとりひとりのスペースがちゃんとあって、その間をかすかな風が通りぬけていくようだ。

ああ、来てよかった...と心から思った。

お遍路のことはずっと前から気になっていたのです。
ネットがない時代だったら、実行に移したかどうか。半々だけど、否、のほうが重い気がする。
ドラマや映画で見る遍路、巡礼のイメージはあまり明るい(ってのも変だけど)ものではないし、
山道を女一人で歩くってのもよく考えるとやはりこわい。