「こんなお堅い仕事してますけどね、本当は、自分のことなんて誰も知らないような外国の街に飛び出して、肩で風をきって通りを歩いてみたい、なんて思っているんですよ」と彼はいかにも照れ臭そうに言った。彼の小さい目が更に小さくなって、ついには見えなくなった。「全く別の人生を送ってみたいというか。本気でそう思っているんです。密かな願望とでも言えばいいですかね」
日曜日の午後の駅近のビアカフェ。ぐずついている天気のせいか人はまばらだ。徐々に夕食時が近づいているということもあるのかもしれない。
「だったら、きっぱり仕事を辞めて、何なら明日の便にでも飛び乗って、試しにどこか行ってみればいいんじゃないですか」
「どこって言ったって、一体どこへ」「うーん、ほら、たとえばエルパソとか」と僕は思いつきで、それでも割と真剣に言ってみた。
エルパソ?何でよりによってエルパソなんだ?東京からわざわざテキサスの端っこまで行って、国境を越えてメキシコ側でしばらく身を隠せとでもいうのか?リオ・グランド川を渡って?古いギャング映画みたいに?
茶化すのはよそう。いつもの悪い癖だ。
案の定、彼はきょとんとしたような表情で、ひとしきり僕の言ったことについて思案しているようだった。多分エルパソがどこかなんて分かっていないのだろう。でも彼がエルパソを知らなかったことによって非難されるべきではない。これまでも、この先も、彼の人生において(というか多くの人々の人生において)エルパソが重要な意味を持つことはおそらくないのだから。
それから、彼は思い出したかのように手元のいかにも甘ったるそうなフルーツティーをストローでかき混ぜた。氷はすでに溶け切っている。僕はビールのおかわりを頼めずにいる。
「確かに今の仕事はそんなに好きじゃないですよ。平日は仕事ばかりで、楽しみといえば週末に学生時代からやってるバレーボールをすることくらい。とはいえですね、やっぱり仕事はそんなすぐに辞められないですよ。他人に迷惑もかかるし。何よりお金も大事です。働くことは、生きることです」
働くことは、生きることです、と僕は心の中で復唱した。死ぬことは、生きることです、と別の誰かが言った。
「でも、このままじゃたぶん変わらないと思いますよ。何も」と僕は意地悪く言ってしまう。「変わりたいと思っているだけで終わってしまうかもしれませんよ」そうやってまた正論を振りかざす。
出し抜けに僕は、彼が言ったように「肩で風を切って」ストックホルムかどこかの裏通り颯爽と去っていく姿を思い浮かべた。身の丈に合っていないトレンチコートに首を埋めて。やや滑稽な光景だけど、どこか小説的で気に入った。
「分かりました。そうですよね。じゃあ、来年こそ、有給使ってとりあえずどこかに行ってみます」と彼は誰かに向かってそう言った。「出来れば日本人に対して偏見のないような国がいいんですよね。どこがいいですかね。やっぱり台湾とかですかね」そうかもしれないですね、と僕は誰でもない声で言った。
店の外に出ると、いつの間にか降りやんだ雨は街を夜の光ですっかり染め上げていた。風が少し寒い。ついつい長居をしてしまったようだった。次の予定があるわけではなかったけれど、ここで切り上げてよかった。
「何かが変わるかもしれない」と彼は最後にそう言った。
「何かが変わらなくても」と僕は返す刀でそう言った。
そうして彼は駅の方へと消えていった。
そこには、じゃあ、もなければ、またね、もなかった。