仕事で肝要なのは「巻き込む」力。

「まず調査して、その地域の特色となる食材を見つけます。そして、地域のいろいろなお店にその食材を活かした料理を考案してもらう。

それでここからが重要なんだけど、必ず試食会をやるんですね。

地域のおばさまやお母さんたちなんかを招いてそれぞれの料理の試食会をやる。

 

で、ここがポイントで、『ダメ出しして下さい』とお願いするんです。

そうすると『盛り付けがダメ』とか『味付けがダメ』とかみんなダメ出しをしてくれる。

それでそのダメ出しを元にして、もう一回シェフや板前さん、職人さんに料理を練り直してもらう。

 

そうやって地域の新・名物料理を作り上げて、お披露目する。

そうするとね、ダメ出しをしてくれたおばさまお母さんがたがどんどん口コミで宣伝してくれるんです。『私たちが作り上げた名物料理が出来たから食べに行こう!』って」

 

食で地域おこしをしている料理人兼プロデューサーのかたから聞いた話だ。

顧客である地域の人たちを企画段階から意識的、積極的に巻き込んでゆくことで、大きな流れを生み出してゆくその仕事術に、ぼくはとても魅了された。

 

自分ひとりでできることはたかがしれている。

うまい具合にまわりを「巻き込む」ことこそ肝要だが、それがなかなか難しい。

 

〈「いいか。テレビ局の制作ってのは、クレームをつけるのが仕事なんだ。今のテレビ番組ってのは八十%が制作プロダクションへの外注だ。そうなってくると、局の担当というのは仕事がないわけで、何もすることがない。毎日非常に困るわけだ。手持ちぶさたで。で、何をやるかというと、制作プロダクションが仕上げてきた作品にいちゃもんをつける。それしかないんだ、することが」

「なるほどね」

「そういうときに制作プロのディレクターはどう対処すればいいか。わかるか、沢井ディレクター」

「わかりません」

「巻き込むんだ、相手を」〉

(中島らも『水に似た感情』集英社文庫2000年 p.174-175)

 

 

「つかんではなしてギュッと締める」の話。

『インベスターZ』という漫画の1シーン、「つまらん映画は冒頭で出て損切り」の話がTwitterで話題だ。

創作論の専門家でもないし成功の方程式は無数にあるのが前提。

 

映画とネット動画、あるいは講演会と文章の違いは何か。強制性だ。

映画や講演会では、基本的に観客や聴衆は見続ける聞き続けることを強制される(もちろん自分が望んでだけど)。

一方、 ネット動画や文章は、基本的にはいつ見ることや読むことをやめても構わない。構造的な話だ。

 

2時間なら2時間、見ること聞くことが確約されている映画や講演会では、はじめのうちは一見低調でも、後半に向けてぐわーっと盛り上がっていくような構成が許される。

あるいはわざと前半は低調にしておいて、そのリズムに観客や聴衆が慣れたところで一気にギアを上げていくと印象が強くなる。

 

一方で、テレビや動画や文章では、見る側や読み手にいつ立ち去られてもおかしくない。このため観客聴衆を拘束できる映画や講演会とは構成の仕方を変えなければならない。 あるでしょ、冒頭からだらだらと何を言いたいのかわからなく読むのやめちゃう文章とか。

 

ではどうするかといえば、「つかんではなしてギュッと締める」だ、と中島らも氏が『水に似た感情』で書いている。

冒頭に、見る者読む者の心をつかむシーンを持ってくる。「なんだろう、何を読ませてもらえるんだろう、何を見させてもらえるんだろう」と思わせるわけだ。 らもさんはインディジョーンズの映画を例に挙げている。

 

ブログや Twitterとかで一番マネしやすいのは誰かの会話で文章を始める方法。

人間は、誰かが話していると本能的に耳を澄ますのだ。会話で文章を始めるのは使い勝手がよい手法である。

あとは偉人の格言、警句を冒頭にポンと置いておく。なんかエラい人の話っぽいから読まなきゃと思わせるわけだ。

またこの文章でもそうだけれど、冒頭に「言い切り型」の一文を持ってくると、「そうだそうだ」と思ってくれる読者と「え、言い切ってるけどホントにそうなの?なんとかアラを探してやる」という読者の両方をつかむことが出来る。

 

「つかんではなしてギュッと締める」の「はなす」は「話す」であり「放す」であり「離す」でもある。

うまい具合に読み手観客の心をつかめれば、しばらくの間はお付き合いいただける。 その間に、自論や自説、伝えたいことを展開する。

ここの部分は好き好きだが、ある程度ゆるく話すほうが効果的だ。

ガチガチに読み手の解釈をしばるような書き方や語り口をしてしまうと、息苦しいし、かえって話が広がらない。

語り継がれる名作などは、「ここの部分はファンの間でも解釈が分かれる」とか「このセリフをどう捉えるかは今も論争になる」みたいに、ある程度読み手観客の心を「離し」て「放し」つつ「話し」ているわけだ。そのほうが広がりが得られる。

ただし学術論文や論説文では、解釈の余地を残さず一語や一文は一定義であることが望ましい。

 

最後の「ギュッと締める」はオチ、クライマックスだ。 このオチに意外性を持たせるためには(ためにも)、中盤の「はなす」は「離す」であるのが良い。

読み手観客の心を「離し」て「放し」て、場合によっては誤誘導をしてオチの意外性につなげるのだ。

 

はじめの話に戻すと、「つまらない映画は5分で出ろ」みたいな話はメディア特性を無視した暴論である。

しかしながらメタ視点で見れば、『インベスターZ』がどういうことに心惹かれる読者層をターゲットにしたメディアかまで考えるとこれまた興味深いから、とにかく『インベスターZ』は読んでみてもよいと思う。

 

 

積み上げてゆくこと。

多くの政治家は、一番最初はたった1人で駅前や街角に立ち、誰も聞いていなくても演説を始める。
作家や評論家だって、一冊一冊、自分で自分の本を売る“手売り”から始める人もいる。
綾小路きみまろだって、自分の漫談を吹き込んだテープを持って高速道路のパーキングエリアに行き、観光バスのドライバーに「これ面白いからバスの中で流してみてください!」って頭を下げて一本一本テープを配ってファンを積み上げた。
そういう泥くさいことができる人々と、それを見てただ嘲笑う人がいる。
 ////
「駅頭、辻立ちとかって、“見てるようで見てない、見てないようで見てる”んだ。
毎朝駅に立って挨拶と演説をしてると、出勤に急ぐ人たちは誰も立ち止まったりせずにちらりと横目で見て通り過ぎる。誰も聞いてない。
ここで心を折られずに毎日続けていると、ある時言われるんだな。『毎日駅で立ってますよね。頑張ってください!』。
こうやって1人また1人と、支援者を増やしていくんだ。それしかない」
多くの政治家はみなそんなことを言う。
そういうものなのだろう。

「欲望の枯渇」問題。

「ほしいものが、ほしいわ。」
糸井重里氏の名コピーである。
 
「欲望の枯渇」。
ここ数年のテーマだ。
 
 加齢に伴い(現実を直視するのは大事だ)、欲しいものは無くなり、やりたいことも無くなった。食べたいものも飲みたいものも無くなり、ただただスマホの画面をスワイプするのみ。虫だったらとっくに死んでいる頃だ。
幸いなことに良い仕事をしたいという欲求は残っているから日々のリズムは刻めている。それだけのことだ。
 
頑張って心の奥底を漁ってみると、まだ会いたい人に会いたいとか、行きたい場所に行きたいという欲求は残っている。しかしコロナ禍でそうした欲求のことも忘れ去ってしまった。
 
この「欲望の枯渇」というのは当事者としては深刻なテーマで、今さらながらに「人はなぜ生きるのか」なんてことを考えてしまう。
そんなことを言うと、「じゃあお金とか要らないんすか?」みたいに言われることもあるが、お金は生活を守りながら欲望をかなえる道具であり手段でしかない。そうだろう?かなえるべき欲望が無いのに道具や手段だけ血眼になって集めて何になるというのだ。
 
困ったときは人に聞け、ということでここ数年、会う人会う人に「欲望の枯渇」という悩みを相談している。さぞやウザいことだろう。ごめんね。
相談してみると得られることも多い。
 
先日相談した友人Tはこう言った。
「いろんなものに触れ合うのが足りないんじゃないの?
“触発”っていうくらいで、いろんなものに触れ合ったりすれば心が動くんじゃね?」
4人でバリバリ肉を喰らいながらそんな話をした。
なるほど。
 
確かに新たな関係性の中からしか新たな心の動きは生まれないのかも知れぬ。
コロナ禍の中で人と人との関わり合い、からみ合いということに臆病になっていた。
ネットばかりやっていてはダメだ。
思い切ってネットから離れ、新たなからみ合いの中に身を投じなければならぬ。
と、ネットに書いておく。
 
すべてのリア

花見の意味。

今年になってようやく花見の意味がわかった。何十年も、「花など眺めて何になる。どうせ皆花など見てはいない」と思ってきた。
コロナ禍と加齢を経て唐突に花見の意味がわかった。あれは「桜浴(さくらよく)」「生命浴(せいめいよく)」なのだ。


暗くて寒い冬を耐え、銀色の冬が春に溶け込んで、啓蟄と春分を経ていよいよ無数の生命が本格的に躍動し始めた、活力あふるる大気を浴びるために人々は花見をするのだろう。

SNSは承認欲求を肥大させ、そして同時に承認欲求をやせ細らせる。

SNSは承認欲求を肥大させ、そして同時に承認欲求をやせ細らせる。

 

SNSが承認欲求を肥大化させる問題は、しばしば指摘されてきた。 SNSでの承認が欲しいばかりに人はバイト先でアイスケースに横たわって写真をアップしたり飲食店での問題行動を動画に上げたりして失敗する。

しかしもう一方の、SNSが承認欲求をやせ細らせる問題はあまり指摘されていない。

 

前提として、適度な欲求や欲望は行動のエンジンであり、適度であるかぎり欲求や欲望は好ましいものと考える。

食欲があるからこそそれを満たすために我らは働き社会参加する。

もし人間が葉緑素を持っていたら、人間はわざわざ汗水垂らして働かず日がな一日ひなたぼっこして暮らすだろう。いいなそれ。

 

食欲などなどの欲望があるからこそそれを充足させようと我らはあがく。

承認欲求もしかりで、承認欲求を満たすために「も」我らは社会的活動をする。

 

さてここで問題が一つ。

承認欲求を満たす、他者からの承認にも「量」と「質」がある。

そして、ダニエル・カーネマンがいうところのシステム1は、他者からの承認の「量」は認識できても「質」は認識できないっぽいのだ。

 

滋養あふるる料理ではなくジャンク・フードでも手軽に空腹は満たされるように、承認欲求もまたインスタントな他者からの承認でも満たされてしまう。

承認欲求を満たすために「も」、学者は論文を書きビジネスマンは売り上げを上げ、それぞれの職業仲間から承認を得る。そうやって良質な承認を得ようとして前に進んでいく。

しかしSNSで指一本で承認がお手軽に大量に得られる時代になると、わざわざウイルスの研究に打ち込んでうんうんうなりながら論文書いて世に問うよりも、エキセントリックな言説でSNSの人気者になったほうが早い。

 

SNSによる承認欲求のインスタントな充足という問題は、目に見えにくい。

SNSによる承認欲求のインスタント充足とそれによる社会の停滞という問題を認識し、人間社会はただちに対応すべきだろう。

そして我々一人一人がこの問題を意識し、安易な他者からの承認を求めることのないように広く呼びかけたい。

 

※↓気に入ったら「いいね!」ボタンを押してね!

 

 

 

『納税Pay導入』のエイプリールフールネタに思う。

早朝から大炎上している例のサイトを見てきた。

「納税Pay導入のお知らせ」という歳入省のエイプリル・フールネタのことだ。

確かにあれはやり過ぎだと思う。

 

炎上でサーバーが落ちたりしてるといけないので簡単に説明する。

歳入省のサイトに飛ぶといきなりこんな文言が出てくる。

〈「納税したくてしたくてたまらない!どうにかして!」

そんな国民の声にこたえ、このたび歳入省では「いつでもどこでもハイ納税」のキャッチフレーズで国民から愛される『納税Pay』を導入しました!

使い方は簡単!

アプリをダウンロードしてクリックするだけですぐ納税できます。

納税ボタンを押して『のうぜ〜い♪チャリン、バサバサッ♪』の音が鳴ったら納税成功。

ボタンを連打すると二重三重に納税できます。

抽選で1等を引くと、なんと税金が100%キックバック! 合言葉は『納税者からNo税者へ』。

さああなたも納税Pay、始めてみませんか?

 

※なお『納税Pay』は、2024年7月から義務化されます。

 

レッツ・エンジョイ・納税!

2024年エイプリルフール〉

 

近年企業のアカウントなどでもエイプリルフールネタは盛んだが、歳入省の『納税Pay』はやり過ぎだと思う。あれでは炎上しても仕方がない。

『チェンソーマン』のパロディ動画『税ソーマン』も笑えないしBGMが米津玄師『Kick back』の〈幸せになりたい 楽して生きていたい〉の部分なのもブラックユーモアが過ぎる。

しかもなんなんだあのゆるキャラ『3代目 税ソウルブラザーズ』って。設定に「JポップもKポップももう古い!これからは税ポップ!」というのもひどすぎる。

 

とにかく歳入省は今すぐあの『納税Pay』のエイプリルフールネタを取りやめたほうがよいと思うがそもそも歳入省なんて存在しないというエイプリルフールネタを考えたがいかがだろうか。