アスペルガーは荒野をめざす

アスペルガー、自閉症スペクトラム、学習障害、発達障害当事者。思ったことを思った時に書く。寂しくて繋がりたいわけじゃないけど、言葉の行き着く先がない。主に発達障害、鬱病などの二次障害、アスペルガーの生きづらさや腹立ち紛れの愚痴なんぞ書いてます。

算数障害は社会に不適合か

久しぶりの更新。以前書いた記事と被るかもしれないが、算数障害(ディスカリキュリア)についてもう少し。

ぶっちゃけ、適合か不適合かはその人次第。数字の概念がないといわれたボクでも、買い物はできる。ある程度社会経験を積み重ねていけば、1,245円の品物に対して、千円札一枚、百円玉三枚、五円玉一枚を差し出すこともできるようになる。

よほど数字、数学を使わない職業につかない限りは社会で生きていける。ただまあ、営業職で、やれ売り上げだ預り金だ見積もり修正だ、とかになると、ボクはダメだった。うつ病再発、適応障害で病院送りになった。

日常的に困ることなら、もう少し「微妙?」なわからなさがちょくちょく顔を出す。

とにかく数字が書いてあるだけで拒否反応がでるから、例えば保険とか年金とか、小難しい文章の中に数字やパーセントが書いてあると、もう読む気すらしない。読んでも理解できない。

そんな感じの(多分)重要な書類、しばらく放っておかれてそのうちゴミ箱行きにしてしまう。

どのくらい数字が苦手かというと、桁数一万以上は見てわからない読めない書けない。

なかには千の位や百の位がないのもあるから厄介だ。

「12,345円」ならちょっと逡巡してから何とかわかる程度。「,」の位置も微妙で、自分では適切な場所に「,」を入れられない。

一番困るのが「10,345円」とかを耳で聞くとき。

口頭や電話などで「いちまんさんびゃくよんじゅうごえん」です、と聞くと、「1345円」と書いてしまう。

言われた数字をそのまま書いてしまうのだ。一の位、十の位、とか関係なく。

一番ありがたい言い方は「いちまんとんでさんびゃくよんじゅうごえん」と言ってくれること。ゼロを「とんで」に言い換えてもらうのだ。

ゼロがあんまり多く並んでいる数字も「,」の位置がいまいちよくわからないもので、「1,000,000,000」という数字を、おそらくほかの人は「,」の位置で覚えているのだろうけど、ボクは下から「いち、じゅう、ひゃく、せん、まん・・・」と全部数え上げていかなければ結局いくつを表してる数字なのかわからないのだ。

そんな高い買い物をしたことがないから、仕事以外では別に不便でもないけどね。

それに自閉症スペクトラム障害のせいでワーキングメモリが少ない、弱いから、すぐ次に似たような数字がまた出てきたとしても覚えていられず、また「いち、じゅう、ひゃく・・・」と始めなきゃならない。さっきの数字はするりと頭の中からどこやらへ行ってしまう。

ほんとにありがたいことに貧乏だから、めったに一万円以上のお金を数えることなんてないから余計に慣れない。

ただそれこそ確定申告や税金など、どうしても少しは数に触れなければならないこともあるけど、その時は頭の中が真っ白、思考停止、自分がいま何をしてるのかもわからず、外国の文章を眺めてるようなわけのわからなさ。

そのままぽいと捨てられた重要文書のおかげで、何度面倒なことになったことか。

そもそもASDのお粗末なボクの頭は、文章を読んでいるうちに今さっき読んだ前の文章から忘れていくのに、そこに数字が入ったら人間の読むものじゃない、と思う。

ASDとLDが複雑に絡み合って、数字と数字の入った文章は、子供の時からの永遠の敵である。

日常的に生活費、銀行から引き落とされる光熱費など、いわゆる「やりくり」が恐ろしいほど下手なボクに、最近「あんしんサポートネット」という強い味方ができた。これについてはまた今度。

 

 

発達障害の聴覚過敏とミソフォニアの併存か

ミソフォニア、という病名をご存じだろうか。

以下、Wikipediaから引用させていただく。

【ミソフォニア(英語:Misophonia, literally "hatred of sound")、音嫌悪症または音恐怖症とは、まれに診断される医学的な障害である。原因は神経学的だと思われ、特定の音に対して否定的な感情(怒り、逃避反応、憎しみ、嫌悪)が起こされる。小さい音も大きい音もある。ミソフォニアの名前はアメリカ人の神経学者Pawel JastreboffとMargaret Jastreboffに作り出され、「selective sound sensitivity syndrome」(選択的音感受性症候群)とも呼ばれる】

【ミソフォニアを患っている人は最もよくある場合、唇鳴らし、ズルズルの音立て、咳払い、爪切り、そしゃく、飲用、歯磨き、呼吸、鼻のクンクン鳴らし、会話、くしゃみ、あくび、徒歩、ガムをかむことまたはバブルを破裂すること、笑い、いびき、飲み込み、ゴクゴク、げっぷ、義歯のかちっという音、タイピング、咳、鼻歌、口笛, 歌い、ある子音の音や、反復的な音により、怒りの感情が生じる。発汗、筋肉緊張や高心拍数などの「闘争・逃走反応」の症状が出る】

要するに、主に他人から発せられる音に異常な不快感、嫌悪感を抱く症例だ。

ボクの聴覚過敏は劇的というほどでもないが、結構困らされている。イヤーマフを使うこともあるが、耳栓でも事足りることも多い。

例えばビンとビンが触れ合うガラス音が痛くて、町内の不燃物当番の時に耳栓をする、という程度。

ところが、めったに外出することはないが例えば病院の待合室。

会話の声が聞こえる。誰かが咳またはくしゃみをする。笑い声、受付の呼び出し声、他人のもぞもぞと洋服のこすれる音、鼻をすする音、そんな類の音がものすごい嫌悪感をもって圧迫してくる。これを避けるために、ボクは待合室のようなしばらく時間を過ごさなければならない場所では、サングラスをし、帽子を目深にかぶり、イヤーマフをつけた上にさらに大判のスカーフを頭からかぶる。

そうでないと、他人の出す音が不快で、汚く思え、自分が汚染されていく気がするのだ。

それは嫌悪感をはるかに超えて、正直、殺意を覚える。

大きな音でなくても、小さければそれもまた神経を小指でこすられているように、イライラを募らせることになる。

医者に聞いてみたら、なんと、ボクの主治医はミソフォニア自体を知らなかった。これはあまりにも勉強不足。

ということで、まだミソフォニアなのか、発達障害からくる聴覚過敏なのかは判別しがたいし、有効な対策をとれていない。

自分もまだその病名を知ったばかりなので、もう少し勉強したり自分の感覚の推移を見守ってみたいと思う。

人混みは、地獄だ。

精神障害にも訪問看護はおススメ

先月から、訪問看護というものを始めた。

正直、看護師さんが訪問してくれる、というのはお年寄りや身体障害のある人向けのものだと思っていた。

ボクのような身体は健常、頭のなかがごっちゃごちゃの発達障害者・うつ病患者にも訪問してもらえるとは思ってもみなかった。

薬をきちんと飲みきれなかったり、主治医に会える通院日と通院日の間にパニック起こしたり。そんな自分の生活に、コンスタントに看護師さんが来てくれるのがこんなにありがたいとは思わなかった。

訪問看護ステーションは各地にあるので、その施設施設によっていろいろ制度は異なるだろうが、ボクは週に一回、服薬管理と体調管理、なによりも、障害・病状、不安やパニックに関することを何でも話せるのが大変ありがたい。

自分が自傷してしまったこと、不安でオーバードーズしてしまったこと、そんなことでも素人さんみたいに一概に「ダメよ!」ではなく、「うん、うん、なにがきっかけだったのかな?」てな感じで、傷口に塩ではなく薬を塗ってくれる。

ボクは発達障害をオープンにして生きているが、かといって自分の困りごと、苦しんでいることを、友人や親しい人に話したところで、聞いたほうもどうしたらいいかわからないだろう。下手するとうつ病患者に頑張れ頑張れというように、余計なことを言ってくれてパニックのトリガーになったりする。

訪問看護の看護師さんならば、こちらの障害、病状を共有したうえで自宅まで来てくれる。

自宅という一番安心できる場所で、ある意味聞き上手な看護師さん相手だと、今週「しでかしちまったこと」なんかも、正直に話せるし、また看護師さんのほうも自宅の様子などから、色々な気付きをしてくれるみたいだ。それを主治医に伝えてくれるので、次に病院へ行ったときにうまく説明できなかったり、時間が少なかったりしても、主治医はあらかたボクの様子をわかっていてくれるのだ。

もちろんこういった制度は向き不向きがあるので、発達障害とその二次障害に苦しんでいるすべての人にお勧めというわけではないが、話を聞いてもらう、それだけでも不安感が減少するのは確かだと思う。ともかく相手は少なくとも素人ではない。精神科からきている専門の看護師さんだ。

最近のボクはすっかり外にでるのが怖くなってしまって、このままだと病院にも行けなくなったりするかもしれないという不安がある。看護師さんにそれを話すことで、解決までの道のりを指さしてくれもするし、看護師さん自体が外界への窓口として機能してくれて、完全な引きこもり状態を回避することもできる。

訪問看護をお願いしてから3週間、今のところお薬カレンダーをもらって飲み忘れを防いだり、体調や気分の変動を話してストレス解消させてもらっている。

人間大嫌い!な自分が、そのことを人間に話している。相手が看護師さんだということを免罪符にしているのだ(笑)

 

 

方向音痴と発達障害

 前回よりさらに規模の大きな台風19号が近づいている。

 みんな台風の進路予想図を見て、自分の住んでいる地域の被害を予想したり対策を準備したりするのだろう。

 台風の進路予想図を見て、さて、ボクは自分の住んでいる場所がどこにあるかわからない。都道府県単位でわからない。進路予想図ってだいたい都道府県名が入ってないからね。

 まあ、これはボク自身が努力を放棄した結果であり、発達障害の人が全部自分の住んでいる場所を白地図の上に示せないということではない。

 ボクはかなりの、いや、酷い方向音痴だ。道を気まぐれに一本曲がれば、もう目的地の方角がわからなくなる。だから余計にいつも通っている道にこだわることになる。たとえそれが遠回りだとしても。

 車で出かけるときは同じ場所でもかなり何度も行かない限りは毎回ナビを使う。

 そもそも運転する行為に対する過集中で、周りの景色が目に入らず、まっすぐ前だけを向いているので視野が狭い。追突事故を起こさない代わりに、道を覚えるときに必要なランドマークや風景などが、全く覚えられないのだ。

 たとえナビを使ったとしても、2次元で表示されるナビの地図と、3次元で動いている自分の現在位置感覚が合わなくて、変なところで曲がってしまったりして、割と大変なことになる。

 「空間認識能力(くうかんにんしきのうりょく)とは、物体の位置・方向・姿勢・大きさ・形状・間隔など、物体が三次元空間に占めている状態や関係を、すばやく正確に把握、認識する能力のこと。」(Wikipediaより引用)

 この空間認識の能力が決定的に弱いのが、ボクの発達障害の一つの特性だ。

 ボクの住んでいる街には大きな国道がちょうど垂直に交差する場所がある。国道Aと国道Bには、それぞれ似たような大型店舗、チェーン店が並んでいるが、両方に全く同じ店のならぶそっくりな道ではない。

 国道AにあるA店に行こうとおもって車を運転している。自分の頭の中にはA店の外見がちゃんと浮かんでいる。ところがボクは小さな道を抜けたあとで、一目散に国道Bに走り出す。その店にたどり着くまでの国道の様相が似ていて、A店が国道Bの先にあると、思い込んでいるのだ。むしろ、いま走っているのが国道Aだと思っている。

 これが最初から、この道をたどって国道Aに出て、A店に行こう、と思っているときにはちゃんとその道へ行かれるのだが、たいがい道の名前なんて思いつかないもので、なんとなくの道の様子とA店が立っている場面が頭を占めている。混乱しているのだ。

 どんなに行きなれた場所でも、始点と終点、その経路をしっかりと再確認してからでないと、目的地にたどり着けない。

 ところが、普通だったら地図を確認すればどんなに道を知らない人でも現在地と目的地の位置関係くらいはわかると思うが、ボクの場合、2次元の地図と3次元の自分の世界を結びつけることが難しい。

 いざ出かけてみれば、今、地図上のどこにいるのか、あるいはわからなくなったとしてもどちら方面へ向かえばいいのか、確実に誤認する。空間認識に決定的に弱いのだ。

 これは発達障害の診断が下りていなかった子供の頃からもちろん続いていることだ。

 迷子になる、空間認知が弱いのでモノにぶつかる、一番アホらしいのは、右足を出した後、左足をどこまで出せばよいのか見当がつかず、右足に自分の左足をひっかけて転ぶ。このパターンは母親が発見した。あまりによく転ぶので、じっとボクの動きを見ていて発見したそうだ。

 今の子供たちには発達障害の診断だけでなく、そのケアや支援、療育が揃っているので、子供の頃から空間認知能力の訓練などもあるという。

 さすがに大人になるまでに痛い目にあい続け、歩くのにはほとんど支障がなくなったが、発達障害ゆえの方向音痴は全く治っていない。ボクが発達障害だと知らない人には、ありえないほどの方向音痴な奴と思われていることだろう。

 療育、という型にはめて「普通」の人々と同じように矯正することに対して、ボクは懐疑的なのだが、空間認識に関して言えば、訓練で治るものなら治しておいたほうがいい。仕事の選択肢が狭くなる。ボクはもうすっかりあきらめたので、自分が日本のどの辺に住んでいるかなんてどうでもよくなった。なんとなくこんな形の県が関東と言われるあたりにある、で十分だ。

 空間認識はスポーツなどにも大いに関係するので、特に球技に苦手な人は一度自分の空間認識を疑ってみるといいかもしれない。

 

 

アスペルガーになりたい症候群?

 今話題の環境問題に取り組んでるお嬢さんについて。

 彼女の行動力は素晴らしいし、主張にも賛同する。そして確かに言動にはアスペルガーらしい特徴が出ている。彼女はそれを才能、行動力として使うことができたのだ。

 その記事を引用して、自分もアスペルガーかもしれないとなぜか自慢げに書いてる人の文を読んだのね。俺もこういうタイプだから、アスペルガーが入ってるかも、って。なに、入ってるかも、って言い方。アスペルガーの本質を全くわかってないうえに、実際アスペルガーという言葉を半濁点と濁点を取り違えて書いている。

 彼女は自分の才能を伸ばすことができた。だが多くのアスペルガーがそうではない。

 エジソンアインシュタインアスペルガーADHDだったとしても、アスペルガーADHDの人がエジソンアインシュタインではないのだ。

 彼女はアスペルガーの特性に後押しされてこういう活動ができたかもしれないが、アスペルガーだからこの活動をしているのではない。それは彼女の信念だ。信念に従って行動しているのだ。

 アスペルガーでもヒーローになれる、と勇気をもらえる明日ベルガー当事者も、むろんいるだろう。

 だが、アスペルガーの人に会ったら、あなたはアスペルガーの一人に合っただけ、というがごとく様々なAspergianがいる。

 彼女を見て、アスペルガーはヒーローだと思わないでほしい。我々はスペクトラムなのだ。その鼻につく文章を書いた奴は、彼女を紹介する記事を引用していたが、そこでは軽くアスペルガーの意味について触れているのみで、生きづらさを抱えて苦しんでいる大勢のアスペルガーの苦しみは理解されず、むしろアスペルガーになりたい、なんだかアスペルガーを特別視するようなやつも出てくるに十分だ。

 彼女だってどれだけ生きづらく苦しい思いをしてきたのか、表舞台ではわからない。実際、彼女もいじめられたと体験を語っている。

 彼女の活動を、彼女の生涯を同じ列で見てほしくない。そして例えば、うちの子にも人並外れた才能があるはず、とか、俺も才能あるからアスペルガーに違いない、とかあやふやな期待で軽く扱ってほしくない。

 活躍して、才能のある人がアスペルガーであることを告白すると、必ずアスペルガーであることを期待、望むような現象がみられる。もし本当に興味があるなら、アスペルガーの光と影をしっかりと勉強してほしいものだ。

 アスペルガーは病気ではない。先天的な脳機能の偏りだ。そして才能そのものでもない。才能を生かすためにアスペルガーの特性を使えるかどうかはその人次第だ。

 少なくとも多くの当事者にとっては、ただの障害だ。その手帳が示すように。

 当事者でも、アスペルガーは個性だ!才能だ!と叫ぶ人もいるが、ボクは決して前のめりにも後ろ向きにもなりたくない。ただ、脳の機能が異常だ、という事実があるのみで、せめてアスペルガーやそのための二次障害を少しでも知ってもらえるかも、とボクの苦しみや悩みをぽつぽつと吐き出して、着地点を探すだけだ。

 

過剰適応のその先に

 アスペルガーの過集中と適応障害の過剰適応には通じるところがあるような気がする。

 ボクは頻繁に過集中になるタイプではないけれど、仕事に対して過剰適応でエネルギーを使い果たして倒れる、というパターンを繰り返してきた。

 自分の体調や気力を顧みず、寝る間も惜しみ、24時間仕事のことを考えて、すべてを仕事中心にしてしまう。自分の特性に合わないマルチタスクを盲滅法やろうとして頭の中に白の世界が爆発したり、その仕事に要求される人物像、理想像を演じようと、舞台上の人物が如く笑顔、饒舌、サービス。

 アスペルガーは空気が読めないというが、それだって人による。敏感系のアスペルガーは空気を読みすぎて、どれが本当か、どれが自分か、わからなくなるのだ。ちなみに、この状態のある意味ハイな時期を見て、双極性障害と誤診する医者がいるので要注意だ。

 わき目もふらず演じて演じて、期待に沿おうと演じて、ある日突然バタリと倒れる。

 自分が倒れるほどにその演技に夢中になっていることに気づかないまま、必要以上に突っ走ってしまう。

 スパンが長いか短いかだけで、これも過集中に理屈は似てると思うんだけどな。

 

アナログ時計とデジタル時計とディスカリキュリア

 ボクには算数障害がある。数の概念がわからないんだから、と医者は言う。その意味も分からない(笑) 

 今までそれとは全然切り離して考えていたのだが、時計の表示はアナログ表示が好きだ。例えば10:00に約束があるとして、時計を見たときに08:23と表示されていたら、約束の時間までどのくらいの余裕があるのか、あと何分で約束時間なのかがすぐにわからない。それぞれの位をいちいち引き算とか足し算とかしてみないと、すぐに頭に浮かばない。

 あと何分で支度をして、何分歩いて行って、何分前に到着すればちょうどいい、とか予定がすぐに立てられない。

 アナログ時計ならば、短針と長針と数字までの距離を見て、大体の行動予定を立てる。完全に視覚優位なのだ。針がここからここまでの間に支度をして、ここからここまでを歩いて、ここに来た時に到着する、と想像がつく。視覚で時間を計っているのだ。

 自分の時計の見方はずっと気づいていたけど、それを算数障害と関連付けて考えるとこがすっぽ抜けていた。

 小学校の最初で、1+1は2になります。と習った。

 なんで2に「なる」のかがわからなかった。もうそこから躓き始めて、以来算数・数学は最低線を歩んできた。今思っても蕁麻疹が出そうだ。

 大人になった今、あの時もしも、1+1は2と呼ぶルールです、と教えてくれていたら、もう少し算数に対してマシな思いがあったろうと思う。

 リンゴがポツンとある。この状態を1と呼びます。

 別のところにリンゴがポツンとある。この状態を1と呼びます。

 このリンゴとリンゴを並べます。この状態を2と呼びます。そういうルールにしてあります。

 1+1は2に「なる」んじゃない、1+1を2と「呼ぶルール」なんだ、とあの時分かれば、次のステップに行けたかもしれない。発達障害だって、少しずつ発達していくんだから。

 自閉症スペクトラム、というように、各人によって症状は様々千差万別だ。どんな成長の仕方、発達の仕方をするか、わかったもんじゃない。苦手な部分だって様々だ。

 ボクにはボクの、キミにはキミの、わかる世界わからない世界があって、それは定型発達者には到底想像できないだろう。