hmhm781の日記

短い間ですが、どうぞお付き合いください…

でも、意味ないことをやることも楽しいといえば楽しい

はてさて、ここまで前提。

お時間のない方はここまで飛ばしても全然かまわないぜ☆(横ピース)

 

なんでこんな長く語るというメンヘラ的暴挙に乗り出たのかというと、こんな感じで具体例を挙げるとともに『何事も自覚することが大事』という俺の22年という短い人生で得た教訓から、皆さんにちょっと考えてみてみれば?とちょっとしたご提案をするためであります。

 

要するに、自分はどうありたいかでもいいし、どんな人間かとうことでも、みたいなこと自覚することが納得や覚悟につながり(いい結果とは言っていません。ご注意。)、その覚悟や納得は原動力なりえるという意味で人生に貢献するということです(これは個人意見ですが)。

 

プッチ神父的に言えば『「覚悟」は「絶望」を吹き飛ばすからだッ!』

ジャイロ的に言えば『「納得」はすべてに優先するッ!』

といったところでしょうか(元ネタはggrks)。

 

上の話は1)考えてもらう上で参考にしてもらおうという役割、2)ちょっと後半の主題に関わる、自覚にするには?ということに対するアプローチの一例。といった役割をになってもらうために書いたのですが、存外に長くなってしょんぼり。もっとスマートにまとめたかった。

 

別に上の内容は一例であり、方法論であるだけで、とにかくみなさんの周りや人生にまつわることに関することをなんでもいいから考えてみて、そしてあわよくば理解し、自覚してみては?という提案です。

 

もちろん理解が重要とわたしは言いたいのであってその理解の内容を問うものではありません。八方美人だってそれでいいし。たとえば、他人の意見に流されるのだって、なんにも知らない私が考えるより先人の知恵を頼ったほうがいいという考え方もあります。それが最優先事項だと理解していれば、どんな結果に納得できるのだと信じますし、その状況を最大限利用もできるのでしょう。

 

ここで私が注意したいといっていたのは、この認識、つまりまだよくわからないから他人に流されるという事実を、覆い隠し、あたかも、天啓を得たかのように自分の選択だと勘違いすることだ、ということです。(でも実は、どんなふうに考えたってうまく行かないこともありますし、なんとなくできることもあります。結局結果は神のみぞ知ります。なので、自身が無自覚に流されるのに納得できるのならそれもまた正解だと思います。ぶっちゃけなんでもOKです。しょせんただの提案ですし。)

 

私は無自覚であることは不幸なのではないかと盲目(矛盾じゃね?)に信奉してしまっているので、今日という日がみなさんにとってある種のきっかけになってくれればと願わずにはいられないのです。私にはこうやって、自分の意見を参考に挙げてみたり、問題提起してみたりと、取っ掛かりを与えることしかできません。つまるところ、他人の価値観をそのままもらい受けられることは稀だと思うからです。どんな偉人もつまるところあなたに直接影響を与えられません。すべては自分次第なのです。もちろん今日すぐに答えをだせとか、はたまた、答えを強制するものでももちろんありませんので、いつか考えたときとか、ちょっと時間が空いたときに思い出してくれるだけで十分であり、そんなときにそういやキモイやつがあんなこといっていたなぁでいいのです。きっかけで十二分。

 

ただ、誕生日とかいう、大学生にとってプレゼントだのパーティだの騒ぐ口実にしかならないような、たいして意味があるのかないのかわからない日が、まぁつまり、既にどちらの口実にもならない無価値な私の22歳の誕生日が皆さんの暇つぶし、あるいは自身の矜持や信念、考え方や、あり方、を考え、理解し今後の糧にするきっかけになってくれれば、それはこの日に意味を与えることができたのではないかなと思うのです。

 

では今日が『よい』一日になると信じて。

節目節目の長文は書きたくなるけど大抵意味はない

さて、昔っからちょっと女の子に褒められたりすると「こいつ俺のこと好きなんじゃなかろうか?」と勘違いをする不健全な私をして、相も変わらず昨日もキャンパスで授業のTAがふいに出会った際に、挨拶してくれたので「お?お?先輩~、俺にホの字っすかぁ~?困っちゃうなぁwww」と年甲斐もなく勘違いを起こしたりしていました。ちなみに俺と関わったことのある女子はだいたい俺に勘違いされています。え?キモイって?うるせぇ告白すんぞ(こっぴどく振っていただけると喜びます)。

 

勘違いというものは恐ろしくて、人を簡単に死地に送り込んでしまいますね(主に愚かな男子)。で、なんでこんな勘違いを起こしてしまうのかというと、俺の様々な面での認識に問題があるのだと思います。というのは、カッコいいや面白いと言われただけ、果てには挨拶をされただけであたかも自身の人間性を全肯定されたかのように錯覚してしまうことが原因ということです。カッコいいといわれたならば大抵の場合、容姿やその時折の行動が称賛されたというだけで、それ以上でも以下でもないのにも関わらず(多くの場合)、私は懲りずにいつも同じミスを繰り返してしまいます。(もっと言えば、他人の意見だけを参考にし、その評価の対象である自己を顧みなかったことが一番の要因。)

 

で、この話は恥ずかしい暴露話にとどまるものか、と。というのもこのうわべだけを掬って、それを何の気なく解釈してしまうことってよくしてしまいませんか?例えば、優秀という幅をもつ言葉を使われることによってあたかも全肯定されるような感覚に陥ったなんてことは俺にとっちゃ日常茶飯事です。もっと具体的に言えば、そうだな、例えば、悪口を言わない人は素晴らしいとかっていうけど、いや勿論その通りなんだけど。これは、悪意を悪意と認識したうえで、それを口にしない寛容さや、そんな中で相手の立場も鑑みる視野の広さを称賛されるべきであって、悪口を言わないそのものが称賛の対象になりえる場合は少ないと思うのですね。そういえばMr,Childrenの桜井さん(ボーカルの方)が『歌手はその音楽を評価されているのであって、決してその人間性を認められている訳ではない。だから私たちは音楽でのみ語るべきだ』といった内容を仰っていたとの記事をみたことがあります。ネット知識なので真偽の程はわかりませんが。このように驕るでもなく、卑屈になるでもなく、ただただ事実に相対する姿勢は学ぶべきと個人的に思っています。

 

じゃあ、私は、ともすれば欺瞞ともとれるようなこと被害者なのかとの考えるとそれも違っていて。というのも、私は無根拠に無責任に自身(この場合自分の意見とも言えないのかもしれないが)の意見を発信してしまいます。例えば、人のためといいながら内実、自己の保身のためであったり、ネットでも現実でも批判するに際して、怒っている体でも実際に怒っているのなんて稀だったり(そもそも、『批判』は自己本位的かつ表層的で、相手だって立場があって行動しているのだから、相手の立場とかを考慮に入れれば批判すること自体とても難しいのですが)。この場合も自分都合で事実に蓋をしていて…。

外からでも内からでも自分をだますのは案外簡単ですってことでしょうか。

 

私なんぞに個々人の行動の是非を問うようなことはできませんが、ただ一点、このような行動が無自覚に行われているのだとしたら不幸なことなのではないのかとただ信じています。上記例に則れば、自覚的に自己保身をしているのであれば、結果自身の利益にはなりますが、仮にそれを無自覚に行ったとするならば、その二人はどうなるでしょうか?

 

この提言に対する各々の是非は各々に判断してもらうべきでありますが、そんなこんなで、うわべだけを掬くって活用しながら生きてしまったおかげで、時として勘違いや、こんなはずじゃなかったのにといった後悔をたくさんしてきました(そしておそらく今現在も黒歴史更新中)。それは例えば『技術のための技術』といった目的と手段を混合してしまっている行動や、『感動のための試合』といった目的と手段が倒錯してしまっている(結果と手段ともいえる)の行動といった、てんで自分がどこを走っているのかわかっていなかったことが多かったように思います

 

原因としては色々と思いつきますが、SNSの発達で短絡的な思考や軽はずみな主張を断定的にかつ短文で送ることに慣れてしまった、とか。ネットとかを通して他人の主観にあたる際に自己と他者の前提の違いを無視して、その主観を自分に適応してしまった、などと枚挙にいとまがありません。

 

そんな、これでもかと意見、主観が飛び交うなかで、自らを確立し自覚しながら生きる(自己満足以外の何物でもないが)にはやはり根底に流れる事実を見つめる、そうあろうと努力することが一つの手だと思います。例えば偉人だろうがなんだろうが、意見を意見たらしめているのは元となる事実、事象に当人の人生観、価値観が相まってのことです。それらの金言を自己に還元するためには、安易に同一化を図るのではなく、その意見の根底を見つめなおし、あるいは先人の過程を自身と対比しながら、自己の価値観をもってして再構築を行う必要があるのでしょう。

同じシーンを見て同じように感動している観客の、各々が思い浮かべる情景が違うように、事象、事実といったものそれ自体に価値を見出すのは不毛であり、各々が自由に価値を付与していくべきことだと信じています。なればこそ、他人や、自身の上澄みに左右されることなどあってはならないと思うのです。まあ言うは易しといった感じですが。

 

まあ、長ったらしいですが、小学校の先生が『自分らしく生きてください』と言っているようなもので、それにはどうすればいいですか?って方法論を考えてみただけなのですが。当時、別になんとも思いませんでしたし、別に自分らしさが必ずしも正しいとは限りませんが、今となってはそうしたほうが納得できるのだと思っています。