でも、それは確かにあったじゃないか
歴史を踏まえる、と言えば聞こえがいいのかもしれないのだれけど、うじうじと事の経緯を追ってしまう性分だ。うまく行きかけたことが突然ひっくり返されたり、途切れたりした一年だった。しかし、そのように年を振り返るのは、自分の性分がそうさせるのも多分にあるだなあという実感を感じた一年でもあった。
何故だか、ようやく、他人のことが分かるようになってきた気がする。それは年齢のせいだろうか。他人に興味を持たざるを得ないくらい、自分の本質的な空っぽさに向き合ってしまったからだろうか。よく分からない。けれど、そのおかげか、幾人かが僕に悩みを打ち明けてくれた。あなたに興味がある、という空気感に人は敏感なのだなあというのも、実感として分かってきた。
東浩紀さんが哲学書というのは、ガイドブックみたいなものだ、という話をされていた。ガイドブックを読む。情報を仕入れる。しかし、それは全く頭に残らない。旅に出て、そこを訪れると、驚きや困惑に出逢う。そして、帰ってきてから再びガイドブックを開くと、そこにそのことが全て書いてあったことに気づく。哲学もそのようなもので、実際に哲学的な体験を経てから読み返すと、改めてそこに既に書かれていた哲学に気づき直す。
色々なことを、知っているはずだった。でも、何も分かってはいなかった。仕事がひっくり返ったり、人との関係が途切れたりする度に、何度も何度も思い知らされる。すでに知っていた。でも、何も分かってはいなかった。
あと、どれくらい自分が生きるのかは知る由もないけれど、ずっとこれが続くのだという柔らかな感触を伴った諦念が、やっと手に入った気がする。
でも、その話は確かに進んでいたじゃないか。
でも、そんな風にあなたは言ってなかったじゃないか。
でも、あのときそれは確かにあったじゃないか。
しかし、いちから全部、やり直す。
そんな、一年だった。
"
何回だってやり直す
悲しみなんて川に捨てる
本当は内ポケットに仕舞ったままだ
仕様が無いから連れて歩く
午後の陽が陰ってきて
俺は目を挙ぐ
何も見えちゃいないが
(矯正視力0.六/easternyouth)
"
輝いていないけれども心を揺らすもの、輝く女体
写真を撮るとき、選ぶとき、何かを感じることと同時に、きちんと考えることも重要だ。感じるだけの写真だといいねがたくさんついておしまいの写真になってしまいがちだからだ。かといって、あまりにも、考えだけが先行したコンセプト重視の写真は単にあまり好きではない。それは、笑いに似ているかもしれない。ただ面白いだけでもなく、うまいこと言ってるだけでもなく、うまいことを言うことが必然的に笑いを催おさせるもの。そういうものを愛したい。
そのようなことを踏まえて、撮影対象として「あまり輝いていないけれども、心を揺らすもの」を選んでいる。眩しく刺激的に輝いて目に飛び込んでくるものは、画面の全体を観る冷静さを僕から奪い取ってしまう。僕がみたいもの、写真として止めておきたい光は、刹那的に周囲を照らして耳目を集める花火ではない。全ての遮蔽物を無視してこの世界を貫いているような静かで、徹底した光だ。
眩しく輝くものの一例は裸である。問題は、世界の男は二つに分けられるというところだ。つまり、女の人の裸を見慣れているものとそうでないものだ。僕は分けられた世界で女の人の裸を見慣れない族として暮らしている。女の人の裸の前で冷静になれないし、フレーミングもできない、そう自覚させられたのが次の記事を読んだ時のことだった。
ソス:ええ、その通りです。私はエド・ファン・デル・エルスケンによる足にギプスをはめた女性の写真が一番好きなのですが、この写真をご存知ですか? 彼女はスキーリゾートのような所にいるのですが、窓のすぐ内側に寝そべっていて、足にはギプスをはめているのです。本当にあれは素晴らしい写真です。
ホンマ:それは白黒の写真ですか。
ソス:いいえ、カラーです。本当に素晴らしい写真です。実際、私はこの写真についての文章を書いたことがあります。この写真です。本当に好きだ。
ホンマ:この写真、僕は知りませんでした。外もとてもはっきり見ることができるのに、同時に内側も見えていて、不思議ですね。
僕がEd van der Elskenの写真をみたとき、最初に思ったのは「いいお尻だな」ということである。お尻は僕から、構図を探し、露出を決め、シャッターを押す貴重な時間の幾らかを奪うだろう。窓からの光を幾分かみえにくくするだろう。“外もとてもはっきり見ることができるのに、同時に内側も見えていて、不思議ですね”と、ホンマタカシさんは言った。僕はいいお尻だな、と思った。人には向き不向きがある。あまり輝いていないものを今後もみつめていくべきだ、と僕に思わせるのには十分な出来事だった。
2019年2月5日の三十六歳
最近はフィルムで写真を撮っている。LeicaM3の使い方にも慣れてきたのでフィルムを安価なFUJICOLOR業務用100からお高めのPORTRA160に変えてみて、好きな色味に近づいていて満足度が高い。
そのようにして撮影している対象のひとつが、近所に堆積しているゴミと資材の中間のようなモノたちだ。うちの周囲は工業地帯なので工場やそれを経営する人の家があったりするのだけれど、彼らはとにかく、物を捨てない。庭や敷地に「いつか使おうと思って置いている」であろう朽ちた資材がいたるところに夥しく積まれている。僕は生まれ育ったところも工業地帯で、零細工場がある地域なのだが、そこではこのようなことは無かった。土地が無いから、そういった選択肢も生まれなかったのだろうと推察される。
今日で三十六歳になった僕は、散歩をすると出会う、朽ちた資材の山々にシンパシーを感じてしまう。いつか使おうと思って置いていた才能や、可能性の成れの果てが、この山で、この僕で、そうしていつか本当に誰がみても正真正銘のゴミとなって、邪魔者として綺麗に片付けられてしまうんだろう。
人間存在に起因したゴミのような生に切なくなると同時に、僕はもうひとつ、普遍的な力の存在を重ね合わせて観ている。あるものがうず高く積まれたとき、積まれたものは崩れ始め、やがて崩れをもたらす力と、そのものが留まろうとする力が釣り合い、山の形となって保持される。工事現場に積まれた砂山も富士山も似たような形をしているのは、そういった普遍的な力の相互作用の表れである。砂もトウモロコシの粒もゴミも資材も死体もそれぞれがほんの少し相互作用のバランスがとれる位置が異なるというだけで、結局は山を形作る。
山の青々とした美しさみたいなものもあるのだろうけれど、僕はそうしたテクスチャを無視して何かひとつのものの構造を見出そうとしてしまう人の特性を、また、そうした「ひとつのもの」そのものをじっと見つめてしまう。
砂山がある。山の形状は、砂粒の性質とそれが置かれた星の重力加速度によって規定される。地面に積まれた砂が崩れ、安定を獲得したとき、総体として完成する山。その山が地面と為す角度を安息角という。すべてのものは積まれると山と化す。そこには安息角がある。たとえそれが死体の山であったとしても。
「世界を貫くたったひとつ」があるとして、そうしたものが現に表象するとするならば、それはどんな形をしうるのだろう。それは美麗な富士山と無意味なこのゴミの山と残虐な死体の山を区別しないはずだ。きっとすべての山々を等しく同じ地平に並べるに違いない。たとえば、安息角のように。
普遍的なもの、普遍的であるということについて、ずっと考えている。
2018年10月1日のゲンロン7巻頭言
文章がうまい人、歌がうまい人、話がうまい人、というのがあるような気がしていて、歌と文章の間に話があるんじゃないかと思ったりしている。僕はどちらかというと歌の人で、文章からは遠い。なんというか、文章の構造がぱっと見えない。明らかに直感的に構造がパッと見えてるな、この人、という人がいて、才能だと思うし、尊敬する。難しくて硬い文章も好きだけど、あまりにもハードで分からなさ過ぎると飽きが先にきてしまう。昨日、寝る前にゲンロン7を読んでいたけれど、東浩紀さんの巻頭言はポップで、でも端正で分からないところを分からせようとする調理の具合が素晴らしいと思った。僕は音楽でもポップじゃないと聴けないたちなんだな、っていうのも思い出した。
戦後の病 。幽霊の視覚 。受信する立場 。そして距離の回復 。それぞれ関係がないように見えるかもしれないが 、ぼくのなかでは密接につながっている 。批評とは 、現実と言葉とがぴったり重なりあうことができない 、その障害あるいは不能性への鋭敏さで定義づけられる行為である 。だから 、批評とはなにかをぴったり言葉にすることも 、またその定義上絶対にできない。 (ゲンロン7巻頭言/東浩紀)
ここの構造の良さというか、単語のくっつけ方とばらしかたの配置で何か分からないことについて描くというのが、音的にもキャッチーで心地よくて、うなってしまった。これは批評を写真とかに置き換えても、何か分からないことについて、我々の心を動かし、分かることを助けてくれる、かもしれないし、しかし、そのような構造的、音的な心地よさに騙されてしまうのが歌の人なのかもしれない。
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『認識の病 。幽霊の視覚 。撮影する立場 。そして距離の回復 。それぞれ関係がないように見えるかもしれないが 、ぼくのなかでは密接につながっている 。写真とは 、現実と表現とがぴったり重なりあうことができない 、その障害あるいは不能性への鋭敏さで定義づけられる行為である 。だから 、写真とはなにかをぴったり言葉にすることも 、またその定義上絶対にできない。』
2018年9月26日の鉄格子の月
今年に入ってもう250日以上経過していて、もうあと3ヶ月くらいで年が終わってしまう。
年が開けてしばらくはライカで少し撮っていた。
4月は義母が同窓会のついでに顔を見せにきてくれた。
5月のゴールデンウイークは四国カルストに行っていた。
この間は結婚10周年でお高めのフレンチを奮発した。
昨日、奇妙礼太郎さんの新しいアルバムが届いて、聴いてたら、
アルバム製作に携わった田淵徹さんの「鉄格子の月」を聴きたくなって、聴いてる。
もう会えなくなってしまった人と、でも同じ月をきっとみていて、口笛を届ける歌。
四国カルストに行った日は、晴れてて、でも雲が流れていて、最高の日だった。
そういう日が1年に1度でもあったことを幸せに思う。
2018年1月1日の頭痛
(おそらく頭痛の訪れと共に)精神年齢が全然上がっていかない辛みが込み上げてきた、などと呟いて妻は布団に伏して泣いていた。何か、大人になるっていうのは、立場の問題で、弱い者を抱えたときに不意に入ってしまうスイッチがあってね、それが入る立場にいけるかどうかは、偶然でね、大人の方が優れているわけじゃないよね、とか、そういう理屈を捏ねるのが得意な俺は、捏ねた理屈を丸めて捩じ込もうかと思ったけど、ほとんどの人間は泣いてるときに胸に何かが入ると窒息してしまう。どれくらい、妻はこの後泣くのだろう。ティッシュを強めに押して涙を拭くと、水分も気持ちのキレもいいものだけれど、摩擦も大きいので何度もやると目の周りの薄い皮膚は傷んでしまう。
LeicaのM3というカメラがあって、レンジファインダー方式の完成形で、余りにもデキが良いものだから、50年以上経った今でも現役で使われていて、余りにもデキが良いものだから、その後、たくさんは売れなくなって、作っていた会社は何度も潰れかけた、とか。そういう伝説を想い出しながら、今日は、去年生まれた二人の甥っ子頬を撫でた。お年玉もくれてやった。ピン札をどのタイミングで渡すか、みたいな時に、えいっ!と一瞬背筋を伸ばすええカッコをするときだけ、俺は大人だ。みんな大体そんなものだし、俺の会社のおっさんなんて総じて子供のままだ。だいたい人もカメラもM3で、生まれてきた時に全ては決まっていて、デキがいいからって、会社や家庭や人生が続くってわけでは無い。
そこまで俺はさらに理屈を捏ねて、その捏ね尽くしたしょうもない理屈を、完了した2017年の方向に投げた。それで、なるべく何も考えないように、妻の頭痛が治るように祈った。
あけましておめでとうございます。
こんなに遠くにきてしまって
初めて物心がついたのはおそらく2歳くらいのときだった。
昼寝から目が覚めて、ああ、目が覚めたのだなあ、と僕は思った。
覚醒後の曖昧な状態が記憶に残っていることは多い。
5歳くらいのときだっただろうか。
父や母に子供の頃の記憶を訪ねたけれど、父も母もほとんど覚えていなかった。
僕は、そのとき、今日あった出来事や友人たちのことを忘れないでおこうと強く思った。
ずっと、忘れないでおこう、と強く思ったことだけを思い出す。何度も。
あの友達の名前はなんだったんだろう。
新しい命に触れると何だかプレッシャーを感じる気がして。
と、妻の実家の帰り道、車中で妻がそんなことを言った。
全くその通りで僕たちはどんどん新しい命に追いやられてしまう、きっと。
多分、妻が言いたかったのは、そんなことではなかったのだろう。
寝て起きて、忘れて、そうとても多くのことを忘れてしまって。
だけど、身体は大きくなったし、パスタも作れる。
運転だってずいぶんうまくなったじゃないか。
我々の実家は遠くて、少し大変だけど、もう二人で往復500kmなら超えられる。