出自という言葉はあまり好きではないが、自分自身が何者であるかを考えざるを得ないところがあり、模索する時期はあった。
ただ、はたから思うほどそれだけを深く悩んできたともいえないところが他人と共有しにくい。
結局、日本の中ではどこにもはまらないので、自分で考えないといけないという地点に立って今日に至った。
父の親族はみな韓国にいて、自分が小さい頃はたびたび国際電話がかかってきた。父親の安否の確認と一度帰ってきてほしいという親族の願いを伝えるためだった。
当時からずっと父は韓国に行ったり来たりする「器用な」生活はもっていなかった。うまくいえないがそういう人ではなかった。歳をとってきてやっと人に甘えることができるようになって重たい腰を上げた。
父の親族の日本での生活を語る際の合言葉は、「くにさき」であることを気づき始めた時期がある。
父親は1943年あたりに就職のために育った国東半島を離れた。
戦後世の中が落ち着いてきた頃、父は一度だけ育った国東半島を訪ねたことがある。ほとんど変わっていないことに驚いたという。
国東半島は鉄道が通っていないので、今も公共交通手段はバスでしかない。ただし、車があればいいドライブコースになって「仏の里」を満喫できる。体力があれば、自転車も快適そうだ。
1970年代の初めごろ、まだ父親の高齢の両親も韓国で健在だったころ、一度も帰ってこようとしない父にかわって、叔父の一人がとうとう日本に来ることになった。しびれを切らした親族を代表して、叔父が直接乗り込んできた感じ。
当時韓国政府は国民の海外への出国は制限していた。軍事政権の朴正熙大統領のころだった。普通の人が観光旅行で海外に出国するなんて考えられなかった。ただし、海外から韓国に入国するのは問題はなかったと思う。
叔父は手広く事業をしている人だった。事業家たちが集まる親睦団体の一員で、その団体は日本の各地にもあった。たまたま叔父が属する支部と九州のあるエリアの支部が姉妹関係を結んでいたので、日本側から招待状を出してもらい、叔父はその団体の招待を受ける形で来日することになった。
入国ゲートから背広姿の男性が父の姿を認めると「こんなかんたんなことなのに」という感じで父に軽くだきついていた。まだ記憶に残っている。数十年ぶりの兄弟の再会だった。
その夜から、父がにわかに勉強した不安定な韓国語と叔父が覚えているわずかの日本語を使っての兄弟の語り合いが始まった。別れてからの家族のその後の暮らしなど。
祖父からの「こっちは落ち着いたから一度帰ってこい」と綴られた手紙も渡された。それを父親がどこまで理解できたか怪しいところはある。
私はKoreanをまだ学習していなかったので、叔父とは意思疎通がむずかしい面はあった。叔父に請われてアルバムを見せたが、日本での暮らしぶりを理解しようとしていた。
母方のいとこたちとは小さいころは交流もあり写真もあったので、叔父はそれを見て納得するかのようにうなづいていた。
それから叔父は父親に案内されて、招待状を出してくれた人の元を訪ねた。九州のあるエリアで広大な森林を所有する人で、叔父一人のために立派な歓迎の宴を開いてくれて父親は恐縮したという。後日慣れない礼状を書いていた。
そのあと、叔父と父親は国東半島まで足を伸ばした。多分タクシーで移動したと思われる。叔父はその国東半島で生まれ、1945年に家族と共にKoreaに引き上げていった。父親は知らなかったが、最後に住んでいた家も叔父は確認できた。幼なじみとよじ登って遊んだ木もそのまま残っていて、懐かしんでいたそうだ。
やがて何日か滞在して叔父は無事に帰っていった。帰国する態度をはっきり見せない父の説得を諦めて「子どもの世代はせめてつないでほしい」といったそうだ。つまりいとこ同士はつながっていけと。
空港で別れたあと、父はみなとはなれて一人空港の屋上で、叔父が乗る飛行機を見送っていたのだが、複雑な心境だっただろう。ひとりで屋上の手すりにもたれかかっていた。背中はひとりにしておいてほしいと語っているようだった。
1970年代後半、私は学生時代に韓国の親族を訪ねる機会を初めてもった。
80歳前後の祖母はまだ健在だった。
「くにさき、チョア(好きだ)」とはっきり国東半島を思い出していたし、米か麦かはっきり覚えていないが、一升いくらするのかと生活者らしいことを訊かれたりもした。7人の子どもを産み育てるのは大変だったと思う。
私が会った時、客観的に見れば、祖母は非常に恵まれた環境にいた。
いつの頃か、一度私も国東半島を訪ねたいという思いが芽生えていた。実現するまでに少し時間がかかったが、高齢になった父親に記憶に残る2軒の家の付近図を書いてもらい、まだ若かったのでバスと徒歩で回った。
一軒だけはわかりやすかったので、見つけることはできた。
小さな一軒家だったので思うところはあった。
パール・バックの名作『大地』三部作は農夫の三代にわたる物語だが、その中に自分のような人が出てくる。
1代目が基礎を築き、2代目の息子たちが商人になったりして豊かになっていくのだが、末の息子は軍閥になった。
息子に自分が築いた地盤を継がせようと計画したのだが、その息子は争いを好まない気質だった。父親に反発し、むしろ農業に惹かれていく。その息子がお祖父さんに当たる1代目が住んでいた小さな家を探し出すシーンがある。
まさに自分と同じだと思いだす。
祖父たちが住んでいたエリアは観光地ではないので、キョロキョロ見学しながらの旅はちょっと目立ってしまう。
が、寿命がわかれば財布の中身と相談しながら、しっかり計画をたて、もう一度ゆっくりまわってみたいとは思っている。