Out of Far East    

アジアの歴史、民俗、言語、暮らし、読書、映画鑑賞など  by ほおのき麻衣

国東半島を訪ねて

出自という言葉はあまり好きではないが、自分自身が何者であるかを考えざるを得ないところがあり、模索する時期はあった。

ただ、はたから思うほどそれだけを深く悩んできたともいえないところが他人と共有しにくい。

結局、日本の中ではどこにもはまらないので、自分で考えないといけないという地点に立って今日に至った。

 

父の親族はみな韓国にいて、自分が小さい頃はたびたび国際電話がかかってきた。父親の安否の確認と一度帰ってきてほしいという親族の願いを伝えるためだった。

当時からずっと父は韓国に行ったり来たりする「器用な」生活はもっていなかった。うまくいえないがそういう人ではなかった。歳をとってきてやっと人に甘えることができるようになって重たい腰を上げた。

 

父の親族の日本での生活を語る際の合言葉は、「くにさき」であることを気づき始めた時期がある。

父親は1943年あたりに就職のために育った国東半島を離れた。

戦後世の中が落ち着いてきた頃、父は一度だけ育った国東半島を訪ねたことがある。ほとんど変わっていないことに驚いたという。

国東半島は鉄道が通っていないので、今も公共交通手段はバスでしかない。ただし、車があればいいドライブコースになって「仏の里」を満喫できる。体力があれば、自転車も快適そうだ。

 

1970年代の初めごろ、まだ父親の高齢の両親も韓国で健在だったころ、一度も帰ってこようとしない父にかわって、叔父の一人がとうとう日本に来ることになった。しびれを切らした親族を代表して、叔父が直接乗り込んできた感じ。

 

当時韓国政府は国民の海外への出国は制限していた。軍事政権の朴正熙大統領のころだった。普通の人が観光旅行で海外に出国するなんて考えられなかった。ただし、海外から韓国に入国するのは問題はなかったと思う。

 

叔父は手広く事業をしている人だった。事業家たちが集まる親睦団体の一員で、その団体は日本の各地にもあった。たまたま叔父が属する支部と九州のあるエリアの支部が姉妹関係を結んでいたので、日本側から招待状を出してもらい、叔父はその団体の招待を受ける形で来日することになった。

 

入国ゲートから背広姿の男性が父の姿を認めると「こんなかんたんなことなのに」という感じで父に軽くだきついていた。まだ記憶に残っている。数十年ぶりの兄弟の再会だった。

 

その夜から、父がにわかに勉強した不安定な韓国語と叔父が覚えているわずかの日本語を使っての兄弟の語り合いが始まった。別れてからの家族のその後の暮らしなど。

祖父からの「こっちは落ち着いたから一度帰ってこい」と綴られた手紙も渡された。それを父親がどこまで理解できたか怪しいところはある。

 

私はKoreanをまだ学習していなかったので、叔父とは意思疎通がむずかしい面はあった。叔父に請われてアルバムを見せたが、日本での暮らしぶりを理解しようとしていた。

母方のいとこたちとは小さいころは交流もあり写真もあったので、叔父はそれを見て納得するかのようにうなづいていた。

 

それから叔父は父親に案内されて、招待状を出してくれた人の元を訪ねた。九州のあるエリアで広大な森林を所有する人で、叔父一人のために立派な歓迎の宴を開いてくれて父親は恐縮したという。後日慣れない礼状を書いていた。

 

そのあと、叔父と父親は国東半島まで足を伸ばした。多分タクシーで移動したと思われる。叔父はその国東半島で生まれ、1945年に家族と共にKoreaに引き上げていった。父親は知らなかったが、最後に住んでいた家も叔父は確認できた。幼なじみとよじ登って遊んだ木もそのまま残っていて、懐かしんでいたそうだ。

やがて何日か滞在して叔父は無事に帰っていった。帰国する態度をはっきり見せない父の説得を諦めて「子どもの世代はせめてつないでほしい」といったそうだ。つまりいとこ同士はつながっていけと。

 

空港で別れたあと、父はみなとはなれて一人空港の屋上で、叔父が乗る飛行機を見送っていたのだが、複雑な心境だっただろう。ひとりで屋上の手すりにもたれかかっていた。背中はひとりにしておいてほしいと語っているようだった。

 

1970年代後半、私は学生時代に韓国の親族を訪ねる機会を初めてもった。

80歳前後の祖母はまだ健在だった。

「くにさき、チョア(好きだ)」とはっきり国東半島を思い出していたし、米か麦かはっきり覚えていないが、一升いくらするのかと生活者らしいことを訊かれたりもした。7人の子どもを産み育てるのは大変だったと思う。

私が会った時、客観的に見れば、祖母は非常に恵まれた環境にいた。

 

いつの頃か、一度私も国東半島を訪ねたいという思いが芽生えていた。実現するまでに少し時間がかかったが、高齢になった父親に記憶に残る2軒の家の付近図を書いてもらい、まだ若かったのでバスと徒歩で回った。

 

一軒だけはわかりやすかったので、見つけることはできた。

小さな一軒家だったので思うところはあった。

 

パール・バックの名作『大地』三部作は農夫の三代にわたる物語だが、その中に自分のような人が出てくる。

1代目が基礎を築き、2代目の息子たちが商人になったりして豊かになっていくのだが、末の息子は軍閥になった。

息子に自分が築いた地盤を継がせようと計画したのだが、その息子は争いを好まない気質だった。父親に反発し、むしろ農業に惹かれていく。その息子がお祖父さんに当たる1代目が住んでいた小さな家を探し出すシーンがある。

まさに自分と同じだと思いだす。

 

祖父たちが住んでいたエリアは観光地ではないので、キョロキョロ見学しながらの旅はちょっと目立ってしまう。

が、寿命がわかれば財布の中身と相談しながら、しっかり計画をたて、もう一度ゆっくりまわってみたいとは思っている。

歴史を扱った映画

戦争や革命や他国による侵略行為、植民地主義などを扱った映画が好きだ。ややもすれば暗い映画になりがちなので、直球で描いても集客が難しい。

表面的には甘い恋愛映画に見えるけれど、実は背景に描かれていることは歴史的な事象で、個人ではどうしようもないことに主人公たちが巻き込まれていったことがじわーっとわかるような作品が特に好きだ。

 

映画『風と共に去りぬ

日本ではこれから戦中に入ろうかという1939年に制作された映画ということが驚く。背景になっているのは南北戦争の時代で、黒人奴隷の労働抜きに成り立たない頃の南部の上流社会が描かれている。

勝ち気なスカーレットのアシュレーとレット・バトラーとの恋愛を取り巻くもろもろや、環境に順応するために底辺から這い上がっていく姿が描かれて、高校生のころ夢中になるぐらい本も映画も親しんだ。

この南北戦争時代に使われた大量の武器が、明治維新以降の日本に流れ込んだと読んだことがある。あり得るかな。

とにかく、南北戦争とはどういうものかと初歩がわかる映画だと思う。

 

映画『ドクトルジバゴ』

背景は第一次世界大戦ロシア革命。どちらかと言えばロシアの上流社会に生きる人たちの目線で描かれている。時々無性に見たくなる映画だ。原作はかなり分厚い本なので読むのは早々に諦めた。

社会が不安定な時に、誠実で情熱的な主人公の医師は二人の女性を対等に愛するという設定になっている。革命時だからあり得るのかな。

ロシア革命を描いた作品といえば、深い感動を呼び起こす音楽とともにこの映画を思い出す。

ロシア革命を扱った「サヨク」系の演劇を見たことがあるがなんか教科書的でピンとこない。映画『レッズ』も最後は感動したけれど好みではない。

 

映画『カサブランカ

この恋愛映画も味わい深くて好きだ。背景に第二次世界大戦中のドイツ軍によるフランスのパリ陥落の様子を描いている。好きな哲学者のハンナ・アーレントもこんな時代に生きたんだと思わせてくれる。

 

映画『人間の条件』

五味川純平の小説を映画化されたもので長い映画だ。背景は日本軍による満州国建設やシベリア抑留生活が描かれている。夫婦愛がメインに描かれていて、テーマの重さの割には読みやすい。文庫本を一冊ずつ購入して揃えていったことが懐かしい。

今見てもあの時代のことを考えさせてくれるいい映画だと思う。

 

映画『愛と悲しみの果て』

アイザック・ディネーセンの『アフリカの日々』を映画化したもの。第一次世界大戦が始まるころが背景で、当時のヨーロッパのアフリカをどういうふうに扱っていたかがわかる。

映画ではアフリカで農園を経営する女経営者と結婚という枠組みを嫌う男性との恋愛をメインに描いているけれど、原作はヨーロッパの植民地主義やアフリカの雄大な自然を描いていて映画とやや趣が違う。

実はこの本ハンナ・アーレントもお気に入りの一冊だったと読んだことがある。

 

映画『戦争と平和

背景にナポレオン戦争を描いている長編恋愛映画。アジアの片隅にいるとナポレオン戦争なんてなかなか知る機会がないと思う。原作の方はもう読む機会を失った。

 

映画『慕情』

1940年代の中国革命から逃げてきた難民でごった返す香港が舞台。映画では中国とイギリスとの混血であるユーラシアンの女医とアメリカ人ジャーナリストとの恋愛をロマンチックに描いているけれど、原作は国籍も違い、もっと内面に重きを置いているらしい。もう絶版になっている。

当時の時代背景を知るにはいい作品だと思う。

 

他に『尼僧物語』『誰がために鐘は鳴る』『レ・ミゼラブル』とか、今のところはこのぐらいしか思いつかない。そのものを描いた作品は他にもたくさんあると思う。

 

古い映画が多いのはブログの管理人が歳をとってきたということを表現しているとつくづく思う。それと戦争や革命を扱った作品自体あまりないというか売れないというのも理由だろう。

慶尚南道について

ブログの管理人は韓国にルーツをおく人間で、以前の本籍地は韓国本土の南部に位置する慶尚南道にあった。残念ながら一度もいったことはない。自分が男性なら、いく機会はあったと思う。ただし韓国にいる親族も、もうほとんど行かない土地になっているし、何かと不便なことがあり本籍地も動かしていると思う。というか、韓国にまだ本籍地という概念はあるのかな。このあたりよくわからい。

 

若い頃、親族の家に滞在していた時に、

「今日は偉い先祖のお墓に行こう」と言われたので、「ああ、やっとこの日が来たのね」と喜んだのだが、朴氏の始祖説話で初代とされる人のお墓のことだとわかると、内心がっかりした思い出がある。慶州あたりのいいところにあった。

自分は本当の故郷に一度行ってみたかったけれど、大きな石がゴロゴロ転がって何も見るものがない場所らしい。最寄り駅といえるものもなく、車がなければ難しいという。

 

新婚間もない祖父母が1920年代にこの地を離れたことが、その後の子や孫の世代に新しい生き方を模索させたことになる。当然嫌な思い出もあったはず。しかし、結果的にはいいものをもたらしたと思っている。

元気だった頃の叔父か中心メンバーの一人になって、同じ姓の親族を祀る祠のような物を建てて、毎年なんらかの儀式をしていると教えてもらったことがある。五百人ぐらいが集まると聞いた。自分は外野にいる歴史好きの女なので、ゆっくり見物してみたいと思った。

 

関西とくに大阪では済州島をルーツにする人が多い。東京もあるエリアでは多いらしいが。

戦前、大阪市のある区では直接済州島とつなぐ船の便があったらしい。だからその子孫がたくさん今も住んでいる。韓国南部にルーツをもつ人たちは、戦前戦中は釜山港から関釜連絡船を利用してきている人がほとんどである。

日本で会うKoreanで済州島出身者とそうでない人の違いは、個人的には釜山港を通過しているかいないかも入っていた。

 

今はそれほどではないと思うが、韓国の釜山では済州島出身者への差別感情は強烈なものがあったという。その点では全羅道出身者に対しても同じだったと思う。ただし水平方向の差別感情であり、日本のように上下関係ではない。お互いが下に見ることで水平になっている感じ。

 

これはもともと国が違って存在していた時期が長かったのが原因だと考えている。

慶尚南道新羅という国であった時期があるけれど、百済高句麗なんて国とは全く関係なかった。双方で婚姻関係を結ぶこともなかったことが現代にも多少尾を引いている感じと理解している。

解放間もない頃にあった済州島四三事件という痛ましい虐殺事件は、この差別感情を利用された部分もあったと思う。警察や軍は本土から派遣されたと読んだことがある。

たとえば日本で言えば、九州出身者と本土出身者の地域的な差別感情なんてないし、婚姻関係を絶対結ばないという慣習もない。

 

韓国にいる親族は姻族、友人、知り合い、ビジネスパートナーと呼べる人間関係の中に済州島出身者や地続きの全羅道の人たちはほとんどいないと思われる。あるとすれば例外。部外者なのでわからないところがあるので、言い過ぎかもしれないが。

 

大阪のある区には朝鮮半島をルーツにする人が多いのだが、外から見れば一様に見える。しかし中ではそうでもない。さすがに韓国本土ほどの線引きされた人間関係はないかもしれないが、多少の確執、特に婚姻はちょっと古い人たちには残されてきたと思う。

韓国では水面下で線引きされているが、この日本とくに大阪では済州島出身者とそうでない人たちが共存している。

 

15、6年前に、済州島から移住してきたと思われる同年輩の男性と話しをする機会があって意気投合していたのだが、「故郷はどこ?」と改めてきかれて「慶尚南道」と答えると態度が少し硬くなり間をおいて「おれ、慶尚南道の人間すきですよ」と白々しいことをいう。

なんとも言えない後味の悪さをその場に残して別れた。

 

一見なさそうで実はそうではない、このあたりを素材にした文芸作品ってあるのかな。整然と棲み分けられているので、文学にもならないのではないかと思う。ひょっとしたら、数百年たっても、変わらない地域感情ではないかとも悲観的に考えてしまう。

実業家と作家

いつか書いておきたいと思っていたこと。自分もいつどこでどうなるかわからない時代になってきたので、やっぱり書いておこう。

 

自分が生まれ育ったA市はあまり好きになれない。家庭の中でも外でも居場所がなかったからだと思う。

1985年にそのA市の最北部に都市郊外型の複合商業施設ができた。今でこそ⚪︎⚪︎ショッピングセンターとかショッピングモールとか珍しくないけれど、当時は画期的な施設だった。

この商業施設が普通に呼ばれている略称は、有名なコピーライターが考案したと最近知ったばかり。

 

A市はもともと商工業が盛んな市であり、その複合商業施設も大きな繊維工場の跡地にできたものだった。閑静な住宅地の中に、大きなテーマパークができた感じもした。

家からバスで行けたので、オープン日からよく行った。敷地の中に小川が流れていて、その両脇の通路にフリマのような手作りの店が並び、休日ともなれば、子連れの家族で賑やかだった。石畳の広場もあり、かわいい教会も建っていた。そして鳩が舞い、小さな子供たちが楽しそうにすごしていた。

デパートも入っていたし、レストランを含めた専門店街がいい雰囲気を出していた。今思えば楽しい空間だった。全体的にヨーロッパのおしゃれな街並みを再現していたように思う。

バブル景気といわれる時代に入るころで、子どもの数も多かったし、豊かな時代だったこともある。

 

で、その敷地の中にあるデパートに、チマチョゴリというKoreanの華やかな民族衣装の店が入っていてびっくりした記憶がある。

ただし採算を度外視して、ただパフォーマンスのような店に見えた。

韓流ドラマや韓流映画やKポップとかなんて全くない時代で、日本中探してもこんな店が出ている商業施設はないと思えて、考えられない光景と当時の自分には写った。

どういう経緯で店舗が出されたのかわからないけれど、ちょっと強烈な印象を残したのは事実。

この時、ここを企画運営していた会社の社長さんのことは名前はもちろん何も知らなかった。

ただどういう人かなと考えさせてくれた。

後日、私と同じ立場の知り合いにこの時の印象を語った。

「⚪︎⚪︎の社長はそういう人だと聞いたことがある」

ということだった。私が知らないだけで有名な方らしいとわかった。

 

負のイメージがやや強かった A市に、こんなおしゃれな商業施設を創った社長が作家でもあることは、後日わかった。作風も嫌いではなく、むしろ複雑な家庭環境を語る本は好んで読んでいた。ただ一人の人であることがわかった時は、あの時の民族衣装の店を思い出して感動したものだった。

実業家と作家として別々に存在していた名前が、自分で調べていくとどうやら同じ人だとわかるという珍しい経験をした。場所は図書館だった。

 

ここで話が変わるが、ちょっと自分の時間が持てるようになった頃、簡単な小説を書いて読んでくれそうな編集者に送り始めた。さらに小説のコンクールがあればそこへも送った。記憶は定かではないが、いろんなところへ送ったように思う。

審査に合格して、合格者として名前が活字にされてどこかに載ることが目的だった。ある方に「諦めていませんよ」「這い上がってますよ」と知ってもらうためだった。褒められたことではないし、品がある行為ではない。これ以外に方法が考えられなかったし、控えめでなかなかいいと思うのだが。

結果的には一箇所で一次審査合格者として名前が載り目的は果たせた。もうほんとに嬉しかった。ここまできたかっていう感じ。

 

ちょうどその頃、購読していた新聞に作家辻井喬の小説が連載小説として始まった。前半を興味深く読んでいた。なんとビルマでのインパール作戦を扱っていたからだった。大興奮して、暗い記憶を語る人物の表現を感心しながらノートに抜書きしたりした。自分の作品の中で真似たりしたかも。

専属のライターがいたんだと思うが、語彙が豊富で、辻井喬の著作を再度読み始めるきっかけになった。

さらにこの新聞社も小説を募集していることがわかると、今ならチャンスかもしれないと思って厚顔無恥にも送ったりした。

 

そんな頃、読んでもらうために出版社に送ってある作品の感想を聞くために、担当の編集者に電話を入れたら、

「今、ちょうどコーヒーブレイクしようと思っていたので、ちょっとお話ししましょう」ということになった。それで雑談が始まり、

「作家の中で誰が好き」と聞かれて、ちょうど辻井喬の本を読み漁っていた最中だったのでその名前をだすと

「政治力で読ませているんですよ」とやや冷めた感想が返ってきた。

政治力で読ませるとはどういうことか今だにわからない。

「あの複雑な家庭環境で物を考える姿に共感するんですよ」と答えると黙っていた。

なんと言われようとも、辻井喬の文章は誰からも勧められたわけではなく、自分の好みで読んでいた。

 

だいぶ前に、バブルの時代を振り返るテレビ番組で、この作家が実業家として出演しているのを見た。控えめでシャイな人だなと思った。

 

この作家の新聞小説で、インパール作戦やわだつみという活字を見つけると心は躍った。この時点で日本でインパール作戦にこだわり、戦後の企業戦士と戦中の兵士の記憶を一体化して考える方向性は間違っていないと思った。

この作家と同じ方向を見ていると思うと嬉しくて、書いてみる価値はあると思ったものだった。信じられないけれど、これは全く偶然。

この作家からは多大なインスピレーションを受けた。

ミンガラドン空港での別れ ビルマ慕情(35)

 ミンガラドン空港での別れの日がやってきた。誠一郎たちは出国の手続きをしていた。

 マーウィンがツアー客一人一人に別れの挨拶を笑顔で交わしていた。

 年配の婦人が

「日程に入っていなかった日本人墓地がよかった。あんなのがあるなんて知らなかったわ。これからも案内してあげてください」

「ヨカッタ」

 マーウィンが顔をほころばせて答えていた。

 やがて出国カウンターに荷物を預け終わった誠一郎がマーウィンの方に近づいた。

「オトウサン ムスコガ ニホンカラ アウタメニ クルコト ソウゾウシテイナカッタ」

 誠一郎は黙ってうなづいていた。

「オトウサン ヤジマサンノコト オモッテタ……」

 マーウィンは言葉に詰まってしまった。

「ヤジマサン イイコト シタ」

「ありがとう」

 誠一郎はマーウィンの顔を見つめていった。

ミャンマーデハ イツモ ドコカデ ダレカガ イノッテル。 イノリノナカノ シシャハミナ オナジデス」

「……そうだね」

 

 いよいよ別れが迫ってきた。誠一郎たちは出国ゲートに入っていった。

 マーウィンがツアーのみなを見送るために立っている。白いブラウスに華やかな色がいくつも重なって見えるロンジーを身につけている。美しい立ち姿だった。

 誠一郎はツアー客の後ろを歩いていたが、マーウィンのことがが気になって振り返るとマーウィンがいなかった。誠一郎はあたりを見渡すが、見失ってしまった。もう一度マーウィンが立っていた場所あたりを目で追うと、竪琴を抱えたビルマの僧が、大きなインコを肩に載せて静かに出口に向かって歩いていく後ろ姿が見えた。肩のインコが色鮮やかな羽を広げて後ろをふりかえった。

 ツアーの同行の婦人が誠一郎の背中にそっとを手をおいて促した。

「さあ、行きましょう。マーウィンさん、もういないわ」

 誠一郎は振り切るように前を歩いていった。

 

 飛行機が離陸した。

 誠一郎は旅を振り返り、目を瞑っていた。

「マーウィンさんいい人でしたね。日本に留学していたことがあるそうよ。だから若いのに日本語が上手なのよ。日本とミャンマーの歴史に興味があるそうよ。いい人にガイドになってもらったわ」

 隣に座っている同行の婦人が誠一郎に話し続けてきた。

「実は私の歳の離れた兄が戦中ビルマで亡くなってるんですよ……詳しいことはわからないし、両親も語ろうとはしなかったし……私なんかも戦中は勤労動員で、工場で銃弾作ってたわ」

 

 伊丹国際空港で誠一郎たちは挨拶をすますとそれぞれ別れた。

 入国ロビーに出ると、妻の恵子と娘の幸恵の姿が見えた。

「あ、お父さん」

 幸恵が手を振っていた。

「おかえりなさい」

 と言いながら、妻の恵子が手荷物を預かった。

「迎えはいいといったのに」

「幸恵がどうしてもいこっていって」

 幸恵が誠一郎の日焼けした顔をみながら

「おとうさん、日焼けしたよね。いい旅だったんでしょ?」

「さあ、家に帰ろう……」

                                     <完>

旅と祈り ビルマ慕情(34)

 翌朝、誠一郎たちはマーウィンに案内されて、飛行機で世界三大仏教遺跡・バガン観光の玄関口であるニャウンウーへ向かった。

 到着後、ナッ神信仰の聖地ポッパ山のふもとに聳えるタウンカラッを訪ねたり、パゴダや寺院群が多く残るオールド・バガンの仏教遺跡群を馬車に分乗して見学。その日はバガンのホテルで宿泊。

 翌朝、マーウィンはニャウンウーのにぎやかな市場に案内してくれた。その後、一日だけの見学ではもったいないオールド・バガンの仏教遺跡群を再び見学することになった。夕食は、ミャンマー伝統の人形劇を鑑賞しながらミャンマー料理を堪能した。

 次の日、飛行機でミャンマーの第二の都市マンダレーに向かった。

 

 ビルマ戦線の最中、牟田口廉也司令官は、このマンダレーから車で1時間ほどのメイミョウという町に司令部を置いた。イギリスの植民地時代は、気候がいいということで別荘地として使われていた。

 ミャンマーは国の全土でイギリスの影響が色濃く残されていたが、このメイミョウの街は特にイギリスを思わせる建築物が多かった。

 マンダレーからザガインを経て、北部の主要都市であるミチーナへのびるただ一本の鉄道の途中にある要衝の駅がシュエポである。ここが物資の集積地となり、ここから西にあるチンドウィン河沿岸の拠点カレワまでの道が、前線部隊はもちろん補給部隊にとっても唯一の幹線道路となった。

 ザガインの郊外に日本軍の兵士が「オッパイパゴダ」と名付けたカウンムードパゴダがある。女性のふくよかな乳房を思わせたからである。このオッパイパゴダの横を通り過ぎると一本道があり、ここから過酷な戦場へとつながっていった。この道を徒歩で行軍しながら、日本に残した母や妻、恋人、密かに心を寄せる女性への思いを断ち切っただろうと想像される。

 

 誠一郎たちは、マンダレーの市内観光をして、郊外にある古都アマラプラのウーベイン橋、ミャンマー最大のマハーガンダーヨン寺院も見学した。さらに夕日を眺めるためにマンダレーヒルに登った。

 旅の日程をほとんど終えて、ヤンゴンのホテルに戻ってきた誠一郎たちは昼食をすませてゆっくりしていた。昼から自由行動だったが、他の人たちは疲れているのでホテルでゆっくり過ごすことになった。

 マーウィンは誠一郎に

「ヤジマサン マチヲ アルキマショウ」

 と、提案してきた。

 誠一郎は早足で歩くマーウィンの後ろを追いかけるようについていった。市場の間をくぐり抜け、路地を抜け、寺院の前を通り、お坊さんたちが一列に並んで歩くそばを通り、やがてマーウィンは誠一郎を誰もいない丘に導いた。はるか北側を見下ろすとマンダレーにのびる鉄道が見えた。

「タクサンノヒトカラ キキマシタ。ムカシ ココカラ ニホンノ ヘイタイガ マンダレーニ ムカウノヲ ミタ。オジイサン オバアサンガ コドモノトキ デス」

 誠一郎ははるか遠いマンダレーを思いながら、しばらく眺めていた。

 ふと、旅の間いつもポケットに忍ばせていた母の香水を、ここでまこうと思いついた。香水の瓶をマーウィンに見せると強くうなづいていた。誠一郎は母の香水の瓶の蓋を開けて、足元の地面にひたすようにまいた。そして手を合わせて、誠一郎は頭を垂れて祈った。

 母は生きて帰ってくれることを切に願っていたこと、母と子が寄り添って生きてきたこと、息子として会ってみたかったことを祈りの中でつぶいやいていた。

 込み上げてくるものがあった。長い祈りの途中で、合わせていた掌はいつの間にか顔を覆っていた。誠一郎は今まで抑えていた感情に身を任せて、子どものようにしゃくりあげて泣きはじめた。傍のマーウィンも手のひらを合わせて、涙をこらえて祈っていた。

日本人墓地 ビルマ慕情(33)

 翌朝、誠一郎たちは朝食をすませて、ホテルのロビーに集まった。

 マーウィンがやってきた。日程表によれば、今日は一日ヤンゴンの市内観光になっていた。マーウィンは日程表に入っていない日本人墓地を、午前中案内することを提案してきた。

 誠一郎がミャンマービルマ)フェスティバルの写真展で見た、いわゆるカラユキさんたちの墓がある有名なタモエ墓地である。

 マーウィンは春に日本から来たツアーの人たちを案内したという。

「ミンナ カンドウ シテイタ」

 誠一郎たちは賛同した。

 誠一郎たちは小型バスに乗り、市街地から少し離れたところにあるタモエ墓地に向かった。その日のヤンゴンはどんよりしていたが、墓は緑に囲まれた静かな環境の中にあった。「日本人墓地」と記された鉄柵状の門を開けて入ると、墓地は奥に向かって細長くのびていた。カラユキさんたちの墓は両側の塀にそって並んでいた。

 マーウィンがカラユキさんと呼ばれた女たちの悲しい話を簡単にすると、

「こんなところまで来ていたんですね……知らなかったわ」

 と、ツアー参加者の年配の女性がしみじみつぶやいていた。

 誠一郎はゆっくり観察して歩いた。そしていちばん奥に来ると「大東亜戦争陣没英霊之碑」とほられた高さ3メートルほどの碑があった。裏側には「昭和二十二年五月 緬甸方面軍生存者建之」と記されていた。終戦後、ラングーンの収容所に入れられていた日本兵の捕虜たちが、帰国前に亡き戦友のために建てたものである。

 碑の前には菊の花束と果物、カップに入った日本酒が供えられていた。そして線香をあげた跡も残っていて、ツアー参加者全員言葉が出てこない。誠一郎たちもマーウィンに促されて碑の前で手を合わせた。

 

 その後、小型バスに戻り、シュエダゴンゴンパゴダやアウンサンマーケットと本格的な市内観光を始めた。夕方ホテルに戻ってきた時には、心地よい疲労を感じていた。明日は朝早くから飛行機に乗り、バガン観光をすることになっている。マーウィンは皆を気遣い、ゆっくり休むようにいった。

 誠一郎はマーウィンに聞きたいことがあったのでロビーに残っていた。

「キョウハ ツカレマシタカ?」

 とマーウィンは聞いて、ソファに案内して一緒に座った。

「そんなことはないです」

 と言いながら誠一郎は言葉を探していた。

「キジマサン、ドウシテ ヒトリ?」

 しばらく二人の間に沈黙が会った。

 誠一郎は思い切って父が昔ビルマで戦死していることを説明した。

 マーウィンは少し驚いていた。

「マエ オンナノヒト アンナイシマシタ。ニホンジンボチデ ナイテイタ」

 一日中微笑みを絶やさなかった顔に少し翳りがあった。

 誠一郎も亡き母の思いやここに来るまでに会った人たちの話を思い切って話した。

「オトウサンノ クワシイコト ワカリマスカ?」

 誠一郎は静かに首を横に振った。

「……ワカリマシタ」

 マーウィンは全てを理解したような顔で誠一郎を見つめて微笑んでいた。