生きるリアルさの回復のために

読むことで自分の未来を拓く

第2の肩書きに込められたもの

ぼくが公共性に関心があるのは、自立の基準というか指標というか、とにかく個人の自由というだけでは足りないと感じるからだ。好きなことをやってればいいという個人基準のことではなくて、仲間とか地域とか共同体基準で自分が目指すものを持ちたいと考えている。個人それぞれが他人のために貢献したいという仕方で問題を立てるのではなく、個人一人ひとりの主観性が客観性に変わる場面の内面性を問題にしたいのだ。私人が公人になるには、何をどのように取り組んで自立という状態に持っていくかを課題的に明らかにしたい。

一般に学生の身分から社会人になるのは、ここでは自立だとは認めない。一つの自立場面ではあるが、単に外的環境が変わっただけでは自立はできない。職業に就くというのも一つの自立場面である。肩書きがつくというのも自立場面だし、私人から公人への転換がそれによってなされる。

改めてぼくの公共性への関心を問うと、定年退職して肩書きのない生活を今している中で考えていることに気づく。会社人であった頃の肩書きが一切通じなくなってからの、言わば第2の肩書きを問おうとしているのだ。今ある肩書きは、野々市市読書会連絡協議会会長というものだ。この肩書きに含まれている客観性を内面化すれば、私人から公人への転換という問題に応えることになると思う。

ぼくが加わる前にすでに地元に読書会があった。やはり公民館というコミュニティがあったことが幸いしていると思う。その中のサークルとして自然発生的に読書会ができていた。全国どこにも地域の読書会があるものだろうか。もしそうだとしたら日本という国は素晴らしいと思う。ただし、これは県の読連協の人から聞いた話だが、石川県に古い読書会が多いのは、戦前の大政翼賛会が戦争に向けて国民の意思を統一させるために、各地に読書会を作る運動があったからとのことだった。意外と読書と政治は結びついているらしいのだ。

さて、野々市市読書会連絡協議会に公共性があるとすれば如何なるものか?次に問われるのはどんな成果を出すのか、そこに公共性があるかということだろう。成果がなければ客観性が認められないからだ。集団による読書の成果はどんなものか?本の販売に関わる文芸出版社等の宣伝によらない、商業的価値以外の公共的な価値に公的な読書会は関わらなければならない。売れることが至上命令の商業本ではない、公共財としての読書から得られる成果物とは何か?

それは職業人ではない、素人の、一住民の「書評」なのではないだろうか。

生涯教育とは

おそらく「生涯教育」という言葉は行政用語だと思う。私たちの読書会は、野々市市と石川県の生涯教育課の管轄下にあるらしい。図書館協議会という団体のメンバーに市の生涯教育課から推薦を受け、会議に参加して意見を述べると報酬が得られる。図書館からは何がしかの本を借りてほとんど毎日読んでいる。意見を求められれば読書経験から読書による自己教育の価値みたいなことを発言している。何を読むべきかに公共性があるとの立場を示しているので、与えられた役割は果たしていると自認している。しかし、改めて「生涯教育」を考えてみることはして来なかった。そもそも教育の目的は何で、教育は生涯続けられなければならないのか、自分なりの解答はまだない。

先日、NHKの朝のテレビ小説「虎に翼」で、法律の定義を寅子が述べるシーンがあった。「法とは、泉の水のようなもの」という定義があった。これにはドラマといって馬鹿にできないくらい感心した。源泉なのかと腑に落ちた。混じり気なしで守るべき場というか、単なる言葉でなく生きている定義だった。

そのように「生涯教育」も定義する必要がある。人生を誤らないための判断と意志を育てるもの、と私は定義したい。学ぶとは探求であり、得たものを応用することであり、本質的に公共性に与するものであると思う。しかし、何か言い当ててない感じがする。一言で言えないものか?

学ぶのは人間だけのような気がする。自然や生物は学ぶ必要がなく、すでに必要なものや事は備わっている。だから、学ぶのは欠如を埋める事なのだ。欠けてる存在の一生を賭けた回復が「生涯教育」だ、というのが私の定義である。

石川子ども文庫連絡会への手紙

前略

突然のご連絡になり不審に思われたかもしれません。私は野々市市の読書会連絡協議会の藤井と申します。臼井さんの連絡先は、石川県の読書会連絡協議会(以下読連協と略す)の事務局から教えていたただきました。臼井さんは県の読連協の名簿には石川子ども文庫連絡会代表とありました。実は先ごろ県の読連協の理事会で、児童書の読書会の方々とも連携して読連協の活動の幅を広げたらどうかとの提案があり、村井会長から野々市市の読連協で連絡を取ってみて欲しいと指示を受けました。

私は28年前に金沢市から野々市市に自宅を建て転入しました。家を建てることで野々市の住民意識が湧き、定年退職後は読書会に入れてもらって地域の人と愛着も生まれてきました。野々市には子供の頃金沢にあった温かい人間関係が残っているような気がします。助け合って生きようとする気遣いが感じられ、金沢では失われつつある一体感があるような気がします。私には地域の読書会には、単に本好きの仲間が集まる読書会とは違う一体感が感じられます。

そちらの石川子ども文庫連絡会は、野々市の会ばかりではないのかもしれませんが、臼井さんが代表ということであれば、野々市の会が中心的な存在なのでしょう。野々市図書館が共催となっている全国高校ビブリオバトル石川県大会は、毎年野々市市が会場を提供しています。これも中心的な役割を野々市市が担っているのかもしれません。またこれは手前味噌になるのですが、令和5年度の全国優良読書グループ表彰に我が野々市野露読書会が選ばれました。このように野々市市には全国的にみても珍しい読書愛好家の多い地域と言ってもいいのではないかと思います。

さて今後、野々市市読書会連絡協議会と石川子ども文庫連絡会はより密接な交流を進めたいとお願いしたいわけですが、具体的には県の読連協の活動の中でご一緒させていただきたい案件があります。臼井さんもご存知のことと思いますが、毎年のイベントに「本を読む仲間の集い」があり、今年度は9月29日に金沢市玉川こども図書館で予定されております。3つの課題図書を挙げて3グループに分かれて読書会を行うわけですが、その1つを児童図書でという提案が出ております。

もし臼井さんのご協力をいただけるのであれば、この1つの課題図書を推薦して頂きたいのです。また推薦いただいた児童書の解説等の「助言」も担っていただけるとありがたいのですが、、、、

突然お手紙を差し上げて急なお願いになるのですが、ご検討いただけないでしょうか。よろしくお願いいたします。

敬具

 

自分の郷土が舞台の時代小説

たかが趣味の読書会サークル活動に、自分を向上させようとするまで打ち込まなくていいものよと思うのだが、趣味なだけにかえって拘ってしまうのかもしれない。自分の生き方が関わってくると考えるといい加減に出来ないのだ。文学散歩といった楽しみを小説を深く読むように、イベントとして企画してしまう。言わば時代小説の舞台を再現するための探究的な、文学散歩なのだ。加賀の一向宗が中心となった農民一揆の歴史的事実が我が郷土の中にかつてあった。空間的には確かに私たちの祖先の土地に一大事件として巻き起こったのだ。そのリアルさは21世紀の現実にはない。ところが直木賞作家が小説の中でリアルに再現してくれる。登場人物を想像力で作り出す。手取り川や白山、打木や小松や山中、高尾城や鳥越城や吉崎御坊など実名で小説の中に出てくると、現在も存在する場所なので想像する基点が特定されるわけだ。そこに実在した人物と想像された人物が入り混じって躍動する。ひょっとすると私の祖先が混じっているかもしれないと想像もできる。自分もその時代に生きていたらと想像もできる。言わば自分の想像力の解像度が中世と現代の往復の中で試される。しかしそれは上手くいけば頭脳の快楽になると思う。自分の郷土が舞台の時代小説を読む醍醐味というものだろう。

文学散歩のお知らせ

以下、私が会長を務める野々市市読書会連絡協議会の春のイベント、文学散歩案内文原稿を作成する。

過日私たち読書会連絡協議会は、作者の松村昌子さんをお迎えして「姫ヶ生水」を巡って講演会を開いた結果、自分たちの生活圏の歴史についての一つの認識を得ました。それは意外にもこれまで誰からも学校からも得られないものでした。初めて血のつながった郷土の歴史に触れ得た実感がしました。そこで、これまで伝えられていた加賀の一向一揆の舞台であった金沢以南の歴史にも、小説を読むことによる土地からの実感を得たいと考えるようになりました。それは著名な直木賞作家北方謙三の「魂の沃野」を読むことによって現実的になりました。

  

今年の野々市市読書会連絡協議会文学散歩は、鳥越一向一揆歴史館に集められた発掘遺跡を始めとした資料集を見学することにしました。「姫ヶ生水」講演会から当地の歴史的過去に思いを馳せる流れに、是非ご参加ください。

 

 

仕事に精を出し休まない

偉大な芸術家の仕事にどうして卑小な自分が嫉妬しなければならないのか。彼は晩年癌で闘病生活を余儀なくされた以外はこれ以上ないほどの幸せな人生だったと思える。音楽の才能一筋に自分の仕事をやり遂げて一生を終えることができたからだ。才能のある人の成功物語には充実した一貫性がある。仕事をやり遂げた人の人生ほど素晴らしいものはないと思える。仕事という活動の場が何より大事だと改めて思い知らされた。今のぼくにそれがない。ぼくの仕事は何か。生まれて死ぬまで自分の仕事が分からなくて終わるのは何という無残さだろう。ここのところの気落ちの原因はそのことに違いない。地元に読書クラブを作る仕事をもっと真剣に取り組んで、弛まずに進めなければならない。野々市市に臼井さんという、石川子ども文庫連絡会代表の方がいらっしゃる。その方とまず連絡をとって、子ども文庫と地域読書クラブとの連携を模索してみよう。すぐにアイデアを出して実行するのに間を空けてはいけない。これを定年後の自分の仕事として精一杯身を入れて頑張らなければならない。違いではなく、同じ部分で協力できることを探そう。まずは本を読むことの、生涯学習プログラムのようなものを一緒に作ろう。子供から少年少女に成長し大人になり老人となるまでの、生涯にわたる本との生活を推進するモデルを地元に作りましょうと提案してみよう。

日常と非日常

昨日はよく晴れて気温も高かった。桜は満開になりお花見に母を連れて行こうと朝迎えに行くと、物憂がって家から出たくないと言ってキャンセルになった。それでは二人で行こうかと妻を誘ってみるとじゃあということになって、人混みはぼくも妻も嫌いなので、犀川沿いの河川敷の桜並木をお花見することになった。月曜なので混雑するほどではなかったが、メインのところではそこそこ賑わっていた。このように書いて普通にお花見を楽しんだことにすればいいのかもしれないが、ところがぼくの気分はどういうわけか沈んできたのだった。河川敷の東屋に幸せそうにしている家族連れの側に、一人で座って佇んでいたお婆ちゃんを横目で見て通り過ぎた。丸い大きな背中を向けてベンチに一人で俯いて座っていた中年男性が目に留まった。その時の感じがあとに引いた。微妙な賑わいに紛れ込んだ寂寥というべきか、ぼくにはその河川敷が心の隙に取り憑くような不安を与えるようだった。こんな筈ではなかったという思いで帰ってきて、一日経って今まで頭の隅に残り続けていた。その気落ちの原因がようやく分かった気がした。それはおそらく誰も分かってくれないだろう。ぼくのこれまでの日常と非日常のバランスが最近変わってきた、と言っても理解してもらえる自信がない。お花見は日常で、小説の世界が非日常なのだが、後者の方が大きくなってきて前者を凌駕するようになってきたと思えて、昨日の気落ちの原因に納得できたのだった。つまりぼくは小説の世界に住んでいると思える方が幸せで、現実の日常は何処か寂しさを感じるようになったと思える。これはおそらく、先日来からブログに書いている地域の公的な読書会を作りたいと計画を持ったことの反動だと思える。現実の活動的な目標に無意識的に反対していると考えられる。そっちの方向じゃないよと無意識は教えている。そしていつも無意識の方が勝つようにできている。