週末の遺言

主に週末の遺言を書いています。

投票に行きましょうと呼びかける前に国がやることやれよという話

選挙が近い。この時期にはいつも「みなさん投票に行きましょう」という呼びかけが行われる。どうやら若者は政治への関心が低く、政治への関心の低さが投票率の低さにつながっているらしい。しかしよく考えてみて欲しい。若者への訴えかけを行う前にできることがあるのではないだろうか。

実は投票率などというものは簡単にあげることができるのではないだろうか?

例えば、日曜日にしか投票できないルールを変えて、日曜日ともう1日平日の二日間に渡って投票日を設ければ良い。そうすることで日曜日に仕事をしている人も平日に投票に行きやすくなるだろう。

例えば、朝から夜までしか投票できないルールを変えて、24時間投票できるようにすればよい。そうすることで夜に仕事をして昼は寝ている人も投票に行きやすくなるだろう。

例えば、住民票のある場所と現住所に違いがあっても現住所に近い場所で投票に行けるようにすればよい。そうすることで住民票が実家にある大学生も投票に行きやすくなるだろう。

例えば、公民館や小学校の体育館を投票所にするだけでなく、駅やコンビニなどに投票所を設けたどうだろう。そうすることで外出先でも投票に行きやすくなるだろう。

何が言いたいかと言うと、旧態依然とした現在の制度を少し変えることで投票率は上昇させることができるものなのである。にも関わらず、制度変更によって投票率を上昇させようという試みは一切行われず、投票率の低さを国民(多くの場合は若者)の政治への関心の低さであると決めつけるのはいかがなものか。政治や選挙に関心を持ちましょうとただ感情に訴えかけるだけのこといつまで続けるのだろう。

国民のライフスタイルは変わってきている。それに合わせて選挙制度自体も変えていく必要があるのではないだろうか。投票率の低さの原因が関心の低さであると決めつけるのはもう限界なのではないだろうか。

【キングオブコント】最速でキングオブコント2021の感想を書いてみた。

まずは前半戦

 

蛙亭

独特の世界観が面白い。SF的な難しい設定を早々に視聴者に認識させる手腕はさすが。短い時間の中で「中野が何かを言えば面白い」というレベルにまで場を持っていくのはなかなかのもの。

 

ジェラード

転校生視点の学園ネタ。ずーっと少しだけ面白い…という感じのネタ。個人的には少し受け付けない部分が正直あった。バカバカしいノリをどこまで楽しめるかと言う問題だと思われる。賞レースではこのようなネタが爆発することもあるが、今回はそうではなかった。

 

男性ブランコ

男女の待ち合わせネタ。非常に高度なテクニックを感じた。松本が好きそうなネタ。自分も好き。右側の女性役の男性が千原ジュニアみたい。裏切ることが当たり前となっているこの時代の笑いにおいて、裏切らないことが裏切りであるという事実をうまく利用した。

 

ウルトラブリーズ

迷子センターネタ。緊張と緩和の典型。笑ってはいけない状況は面白い…と言うのは普遍の真理のようだ。

 

日本の社長

バッティングセンターのネタ。おっさんにボールが当たってるというだけのネタ。だがそれだけで面白い。ただ松本が言うようにもう少し全体をぎゅっと詰めたら、もう少し別の笑いを作ることができたかもしれない。

 

そいつどいつ

彼氏と彼女の部屋での会話ネタ。典型的な視覚で笑わせるタイプのネタ。そのため松本が95点をつけたことがとても意外に感じた。本人曰くチャレンジ精神を評価したとのこと。

 

ニューヨーク

結婚式の事前打ち合わせネタ。M-1での松本とのやりとりが気になっているのか、かなり怒り気味のツッコミ。ネタの後のやりとりに松本から「態度が悪いぞw」と言われていたが本当にちょっと態度が悪く見えた。ニューヨークはバラエティーでも活躍もあり、必要以上に期待値が上がりすぎていたようにも思う。

 

ザ・マミィ

やばいおじさんネタ。酒井のクズっぷりがこの人間描写を生み出すのだろう。最高に面白かった。しかもハートフル。フリースタイルティーチャーでの即興ラップを見ても思うが、酒井は肝が座っているし、微妙な言葉選び、ワードセンスがうまい。酒井のクズキャラが少しだけ空気階段モグラと被る。

 

空気階段

SMクラブが火事になるネタ。何を言っても面白いという状況にまで場を持っていったことはすごい。この格好で何言っとんねんの連続。このネタは松本が好きそうだと思った。今日一の爆発。水川かたまりがイケメンすぎる。相方の揺れるお腹も面白い。「私は警察官だ!」がピーク。歴代最高得点も納得。

 

マジカルラブリー

コックリさんのネタ。吊り革ネタと変わらないw「おいこっくり!やめろこっくり!」と言うフレーズが個人的にはツボだった。

 

ここからは後半戦

 

男性ブランコ

レジ袋をケチった男のネタ。前半戦ほどの爆発力がなく少し残念な結果に。

 

ザ・マミィ

社長と部下のネタ。かまいたちのネタに非常によく似たものがあるのが少し気になった。コメントを聞く限り秋山も少しそこを気にしていたように感じた。緊張と緩和をうまく使ったものではある。こちらも前半戦と比べ爆発力に欠けたか。

この時点で男性ブランコとは同点。

 

空気階段

コンセプトカフェのネタ。正直モグラが登場した時点で優勝は確定だと思った。メガトンパンチマンかわいい。「豆にはこだわっております」

 

ということで空気階段の優勝は納得でした!

 

令和の時代の家事に足りていないたった一つの考え方とは?

いわゆる民間企業では、業務を効率化、省力化する事は望ましいことであると考えられている。また外部委託(アウトソーシング)などの手段を使ってリソースを本業に集中させる事は必ずしもあるべき姿とは限らないまでも、少なくとも悪いことではないだろう。

しかし家庭に目を向けるとどうだろうか。いわゆる家事については、省力化、効率化、外部委託という考え方があまり浸透していないように思う。家事は手間ひまをかけて行うものであるという考え方が根強く、省力化、効率化、外部委託をして本業(自分が本当にやりたいことや家族、友達と過ごすこと)により多くの時間を使おうという考え方があまり見られないように思う。さらにいえば、家事に省力化、効率化の考え方を持ち込むと「家庭を顧みない態度」などとみなされ、むしろ批判の対象にすらなっていないだろうか。これはマクロを使えば数分で終わるExcel作業を、丸一日の時間をかけて行うことがよしとされるような文化と同じであり、マクロを使うことがずるいとされるような文化そのものである。

考え方を変えなければならない。床掃除はルンバで十分、乾燥機を買えば洗濯物を干す必要は無い。外食や出前を使えば洗い物は発生しないし、仮に発生したとしても食洗機を使えば作業は限りなくゼロに近づけられる。(もちろん各作業の細かな部分は人が補う必要はある)

昭和から平成そして令和へ時代は変わる。昭和という時代は女性が家事を行う時代だったのであろう。平成という時代は家事を分担する時代だった。では令和はどうだろうか。令和の時代は家事を効率化、省力化、外部委託し、大切な時間を確保することに頭を使うことこそが最も必要となる時代なのである。

 

「いつ着きますか」に対して「今向かってます」と答える人の心情が理解できないという話

待ち合わせ場所で自分が先に着いた時に「いつも着きますか?」と言うようなLINEを送る事はよくあるだろう。それに対して「今向かってます」とか「もうすぐ着きます」という返信をする人の心情が本当に理解できないという話。

こちらは5分後に着くのか10分後に着くのが30分後に着くのかを聞きたいだ。その答え次第で、待ち合わせ場所で待ち続けるか、近くのコンビニに行くのか、一旦カフェに入るのか、先に目的地に向かうのか…などが判断できる。つまり時間を無駄にせずに済むのである。「いつ着きますか?」に対して「今向かってます」などと言われてもその判断ができない。

また、"今向かっている"ことは明らかなので、そんな情報は不要なのである。「今向かってます」という文字をスマホに入力して送信ボタンを押す行為に何の意味があるのだろうか?

さらに文法的にもおかしいだろう。例えばTOEICには次の質問に対して正しい答えを選択しなさいと言う問題がある。その問題で「What time is it now?」という問いに対して「This is a pen」という選択肢を選択しているのと同じである。不正解である。正解は「It's nine o'clock」でなければならないのだ。繰り返しになるが「This is a pen」は不正解である。「今向かっています」は「This is a pen」と同じレベルの異常な回答だ。

本当に教えて欲しい。このブログを見た人に教えて欲しい。「いつ着きますか?」に対して「今向かってます」と回答する人は何を考えてるのか。何を考えてそのような回答するのか。その回答に何の意味があるのか。そしてその回答をしようと思うその心情は一体何なのか。

一度でもこのような回答したことがある人は正直名乗り出て、本当にその行動の意味を教えて欲しい。

掛け算の順序問題に全く別の観点から終止符を打ってみた

古くから算数には掛け算の順序問題というものがある。後ほど具体的な例を提示するが、最近は割り算の問題でも、この順序問題に関わる問題が小学校で出題されているらしい。

この問題については様々な大人がそれぞれの立場で色々と議論を重ねているが、この議論には1つ抜けている視点があるように思えてならない。それは、子供の教育上最も避けなければならない事態は何かということである。

例えば下の画像を見てもらいたい。21 ÷ 7を計算するためには7の段を使用するらしい。

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この問題について肯定派の意見は大凡以下のようなものである。7 × 1 = 7、7 × 2 = 14といった具合に7の段の計算を進めていき、7 × 3 = 21となるのだから、21 ÷  7 = 3なのである…と言う論理だ。これは理屈にかなっている。確かに21 ÷  7を計算するために7の段を使用している。

一方で、否定派の意見は大凡以下のようなものである。3という数値は21 ÷  7を計算した結果として算出される数値であるのだから、計算の過程で使用している3の段を答えとする事はおかしい。計算に使用しているのはあくまで7の段であり3の段ではない…ということらしい。

上記のように意見が分かれるのも、7 × 3と3 × 7を同一として扱うか否かという、少し形を変えた掛け算の順序問題の形であろう。

ここまでは過去にも散々議論された通常の順序問題の議論である。しかし繰り返しになるが、最も重要な事は、掛け算の順序がどうあるべきかではなく、教育上最も避けなければならない事態は何は何かと言うことである。

ところで個々の子供には計算能力に差がある。例えば21 ÷  3 と問われた際に、時間をかけて計算する子供と反射で回答をだせる子供がいる。そして計算能力という意味では反射的に回答をだせる子供の方が少し上なのであろう。つまり計算能力の高い子供からすると、思考過程で使用するに過ぎない7の段というものは脳内で意識されることのないもの(反射)なのだ。そして、脳内で意識されないものをアウトプットすることが子供に求められてしまっているということだ。これは算数とは別の作業を強制していることになる。そこに子供は理不尽さやつまらなさを感じるのだ。これは大人でも同じだ。自分が感じたことや思ったことを正確にアウトプットするという作業は、それなりに重労働であることは分かってもらえると思う。しかも子供はこの重労働を算数という枠組みの中で強制されているために、より理不尽さに拍車がかかる。「これって算数なの?」と言うことである。

では結論に入る。教育が最も避けねばならない事態は、子供につまらなさを感じさせることだ。理不尽なものはつまらないのだ。答えさえわかれば過程は不要とまでは言わないが、子供につまらなさを感じさせる教育だけは絶対に避ける必要があるのだと考える。「算数って面白い!」「もっといろんなことを勉強したい!」と思わせることが教育の最も重要なことなのだから。

 

PS.無意識の思考過程をアウトプットする作業は教育上必要なのだという意見もあるだろう。しかしそれは算数でやるべきことではない。国語でやるべきことなのだ。これが国語の授業で行われ日本語の練習なのだという割り切りがあれば、理不尽さもある程度は解消され、子供にとってのつまらなさもある程度軽減されるのかもしれない。

独身高齢者は将来、部屋を借りられなくなる。本当か嘘か。

独身の高齢者は今後、賃貸で部屋を借りにくくなると言う話がある。孤独死などの危険性があるがために大家が部屋を貸すことをためらうということらしい。だがちょっと待って欲しい。本当にそうだろうか。いちど状況を整理してみよう。

まずは需用について考えてみる。人口が減っていることは間違いのないことである。つまり部屋を借りる側の人間の総数は減っている。 このことから、部屋を借りることに対する需要はおそらく今後は減っていくであろう。

次に供給を考えてみる。この国の土地の面積は今後も変わらない。また建物の総数は増えるばかりである。新たに山を切り開きマンションを建築するという話はあっても、マンションを取り壊し野原にするという話は聞いたことがない。つまり大家が貸さなければいけない部屋の総数は今後も増えていくのである。

以上のことから、需要と供給のバランスを鑑みるに、供給過多の状況へと進む事は確定的であり、 大家(部屋を貸す側の立場)からすると、「お願いだから借りてください」と言わざるを得ない状況になることは想像ができる。

加えて、人口が減少していく中で、高齢者の比率は増加していくことも確定的であるので、大家 (部屋を貸す側の立場)からすると、高齢者には部屋を貸さないなどとはいっていられない状況になっていくだろう。

つまり、独身の高齢者であるからといって部屋を借りにくくなるという事はなく、そのような心配は今後もないである。 独身高齢者(その予備軍)については、安心して賃貸に住み続けてほしい。

クッパはなぜ吊り橋の上でマリオを待つのか?

任天堂のゲームは分かりやすいと言われる。それはなぜか?

ファミコン版の初代スーパーマリオブラザーズをご存じだろうか? このゲームではマリオは画面の右へ右へと進みポールにつかまることでゴールとなる。そして最後はクッパを倒すとピーチ姫を助けることができる。それがこのゲームの目的である。つまりゲームのプログラムとしての目的は画面の右端へ到達することであり、ゲームの設定上の目的はクッパを倒してピーチ姫を助けることなのである。

しかし目的が2つある事はわかりにくい。ここからが任天堂のなせる技なのであるが、任天堂はプログラムとしての目的と設定上の目的を同一のものとして消化していることにお気づきだろうか?

クッパとマリオが対峙しているシーンを思い浮かべてほしい。クッパはマリオの右側にいて、 なぜか吊り橋の上に立っている。 そしてクッパのさらに右側には斧が置いてあるのである。当然この斧は吊り橋を落とすためのものである。

最近のリアルなゲームを前提とする場合、このシチュエーションはご都合主義のように取られても仕方がないであろう。クッパが都合よく釣り橋の上にいるのはおかしいし、もちろんクッパの右側に斧が置いてある事はもっとおかしい。

ところがこれが、ゲームとしての目的と設定上の目的を同一のものとして扱うための作為的に作られたシチュエーションであると考えると非常に納得ができる。

つまりプログラム上の目的である右へ進むことにより、クッパと言う存在を乗り越えることができ、そのさらに右側に斧があることで、クッパを溶岩の海に落とすことができるのである。さらにその右側にはピーチ姫がいる。

逆に言えば、クッパは右へ向かうことによりマリオに倒され、 ピーチ姫はマリオが右側に向かうことにより最終的に助けられるというシチュエーションである。これはゲームがわかりやすくあるべき、シンプルであるべきという任天堂の思想に則った作為的なシチュエーションそのものであり、 このシチュエーションに対してクッパが都合よく吊り橋の上にいるのはおかしい」だとか、「都合よく斧が配置されていることはおかしい」などと注文をつけるのは非常に野暮な話なのである。

今後も任天堂は、シンプルで分かりやすく楽しいものを私たちに届けてくれるであろうし、ファンとしてはそれを今後も期待するものである。