(伊勢志摩その1) 宇治山田駅の訪問
最初、宇治山田駅で下車しました。駅をじっくり見たかったからです。
1931年(昭和6年)の参宮急行電鉄線(のちの近鉄大阪線・山田線)全通に際し、宇治山田市(1955年に伊勢市と改称)の新たな玄関口となる伊勢神宮最寄りのターミナル駅として開設されました。
当時から長距離列車の始終着駅として賑わい、また貴賓室があるため天皇をはじめとする貴賓客や、正月恒例の内閣総理大臣の伊勢神宮参拝の際の乗降駅となっています。
駅舎は開業当時からの鉄筋コンクリート3階建て、幅120mの堂々たる駅舎外部壁面はクリーム色のテラコッタ・タイルで全面装飾されています。
入口上部には八角形の窓が並びます。
コンコースの高い天井共々、デザインに優れた昭和初期の名建築と評価されており、駅舎本屋は2001年に国の登録有形文化財に登録されました。
朝の鳥羽行き普通に5200型が充てられていました。
寝台列車の思い出(つぶやき)
鉄道マニアといえば、寝台列車 ブルートレインを結びつける人も多いでしょう。
私が少年時代、日本各地に国鉄の寝台特急が走っていました。
寝台急行もありました。寝台特急が全車寝台に対し、急行のほうは座席車も連結されていました。
寝ている間に移動できるので、交通の不便なところには特に便利でした。
私の住んでいる愛知県一宮市は東海道本線の沿線でしたので、春から秋にかけて早朝は、九州寝台列車の上りが撮影可能でした。
EF65が牽くはやぶさ、みずほです。確かに外から見るとかっこよく、あこがれるわけです。
しかし国鉄からJRになると寝台列車を取り巻く状況は変わったように思います。遠距離列車中心のダイヤから、都市近郊列車が増発されるようになりました。
飛行機の便が増え、高速道路が整備されると、これらに押されて客足は遠のいてゆきました。
実際に寝台特急に乗車するには、乗車券+特急券+寝台料金-510円(指定席券がダブるため)
が必要です。寝台料金は、B寝台でも標準6480円、A寝台でも9720円です。グリーン料金が最高7600円くらいです。ビジネスホテルでも平均B寝台くらいの値段です。やはり高価です。
寝台列車の値段が高い理由はたくさんあります。
1.夜間走って目的地に着くため、毎日往復すると4本の列車と、列車に必要な人員が必要。
(昼間の列車の倍のコストがかかる)このため運賃を簡単に下げられない。
2.長距離に走行がわたるため、複数のJR区間を走る。このため運賃収入は100%入るわけでなく走行距離の割合で割ったものになる。このため昼間の列車に比べ収益が悪い。
3.乗車率が高い水準を保てないと、採算がとれない。
こういった厳しい環境の列車でした。移動目的としては、新幹線が開通したこともあり、年々利用が減少していきました。
価格だけでなく、ブルートレインを取り巻く状況は年々厳しくなっていきました。
<九州方面の寝台列車>
とくに九州方面の列車は、東京駅を夕刻出発して22-23時に名古屋に着きます。電車に比べ、加速が悪いのでたいてい遅れることが多く。JRに変って各社共に電車を増発したので、巻き添えになってこの時間帯の電車も日常的に10分ほど遅れていました。当然苦情が多くなり、乗車率も低く、遅延の元であったブルートレインを自分でも嫌ったほどでした。 おまけにその後のダイヤは特急貨物も控えている状況でした。比較的早い時期にきえてゆきました。上りに至っては、遅れて朝のラッシュにかかれば、ラッシュがおわるまで側線で退避です。哀れなものです。寝台列車が全部廃止されたときは正直「ほっとした」感がありました。
<日本海縦貫線の寝台列車>
日本海を回る寝台列車は少し事情が違いました。寝台列車が残る環境がありました。
1.幹線を走る列車が比較的長距離で、都市近郊区間を走る列車が少なかった。
2.空港から遠い地域が多く、寝台列車の需要があった。
3.青函トンネルが開通したことで、需要が維持できた。
上野発の「北斗星」「カシオペア」などはJRからできた列車です。当時は好景気で、寝台列車の需要もあった時期です。
また「トワイライトエクスプレス」も豪華寝台列車として誕生しました。これらは移動目的と言うより、列車旅そのものを楽しむ列車です。
(これは新疋田という、敦賀の1つ前の駅です)
ブルートレインに乗車する機会は、私が秋田県の「鷹ノ巣」へ出張する際に「日本海1号」に乗車したのが、最初で最後でした。日本海は2本あり、当時1号は函館まで走りました。
寝台列車は客車列車の場合当たり前ですが、機関車が牽引するため、連結器に隙間があります。このため発車の際に「ガシャン」と振動が伝わります。このためなかなか眠れませんでした。
もともと乗車するのは好きではなかったのでなおさらです。
3月14日には北陸新幹線が開業。青函トンネルも新幹線を通す工事が始まりました。
架線電圧が20000Vから25000Vに変るので、対応を迫られていました。
「トワイライトエクスプレス」「北斗星」も終わりを迎えました。
寝台列車として残るは、「サンライズ出雲・瀬戸」電車寝台です。加速性能もよく、連結器の衝撃もありません。でも寝台列車として残すならこうだなと思います。これは尾張一宮駅で、おくれたため側線におしこめられていました。
名鉄揖斐線、谷汲線について
線路図は
です。
揖斐線とは、忠節で岐阜市内線と接続していた。専用軌道線。谷汲線は現大野市 黒野
から谷汲を結んでいた線です。自分の揖斐線のイメージは、花と柿、梨です。
1987年(昭和62年)にデビューした、レンゲ畑を行く 770型電車 真桑ー政田間だったような気がします。中古ばかりだった揖斐線に初めて新車が登場しました。
4月、と 9,10月は花や、果物が盛んでよく通ったものです。
気がつけば2019年(令和1年)もはや2代前になってしまいました。
ぼちぼち書いてゆきますので、お楽しみに
梅
春、最初に咲く花
梅が咲きました、春です。コトコトと電車が行きます。
桜
春のうららの隅田川~
4月になると桜シーズンです。あちこちで桜が咲き、行楽シーズンになります。
揖斐線の電車は、赤や、赤白のカラーですので、花に似合った絵になる電車でした。
谷汲山の桜が有名で、新岐阜から、谷汲へ直通電車がありました。
政田から下方へ向かうところでしたか?
美濃北方駅を、発車する電車。
谷汲線のハイライト、北野畑駅付近の電車。
レンゲ、菜の花
沿線には、レンゲ、菜の花などカラフルな彩りです。
510,520型 など 本揖斐と岐阜駅前を結んでいました。 770型が登場すると、520型は消えてゆきました。
尻毛から北方千歳町にあった 伊自良川橋梁を渡る3連の黒野行き。黒野から忠節へ走った帰りです。
3連
朝の通勤、通学時は上のように3両がありました。以前は夕方にもあったようです。
2本あって、最初が750型、次が510,520型だった記憶があります。770型も3連がありました。そのためデビュー時、770型は連結器がついていました。
750,2320型の3連、場所は覚えていませんが、政田のあたりだったか。
510型 の3連です。
下方駅手前を、根尾川鉄橋に向かう750 3連だったと思います。
同じところの 510型 3連 カラーの変更時期です。
名鉄岐阜市内線の思い出 本線(長良線)
今回は1986年(昭和61年)まで 岐阜市内線の内、新岐阜と長良北町を結んでいた本線の部分を紹介します。
私がよく利用した線です。小さい頃、柳ヶ瀬に丸物(後に 岐阜近鉄に改称)というデパートがあり、そこに行くために新岐阜から柳ヶ瀬まで、母親に連れられて乗った記憶があります。北陸鉄道金沢市内線から来た 550型という電車ばかりで、扉は車掌さんが開け閉めしていました。
当時の柳ヶ瀬は岐阜一の繁華街でした。後に西側に高島屋ができました。
南にはグランドタマコシという感じで、次々と店舗が出来ました。
最後のほうは 新岐阜始発が多かったのですが、1960年代はほとんどが岐阜駅前始発。市内線で唯一安全地帯があった電停です。
おわかれ電車のころの新岐阜駅前。左へ伸びる線は、長住町にあった岐阜車庫へ通じる線でした。この線はまた、各務原線へ通じていて、貨物扱い用でしたが、最後は留置線扱いでした。
金宝町ー徹明町間の かに将軍あたりを走ります。最後の頃は伊奈波通までが半数折り返しだったような気がします。
(本町までの写真はありません)
本町(ほんまち)
伊奈波通を過ぎると道路が狭くなり、90度曲がったところが、本町。どこにでもありような名前です。前の布団店が、レトロでした。
材木町(ざいもくちょう)
本町をまた90度曲がると、材木町です。長良川の材木商の大家が並んで、レトロでした。
公園前(こうえんまえ)
平凡な名前ですが 岐阜公園の電停でした。背後は金華山で岐阜城が見えます。この公園から金華山までロープーウェイがありました。学生の頃、妻とここまで電車にのって、金華山へのぼって、リス園でリスと遊んだことを覚えています。
本町からこの区間までは交通量が多い割りに道路がせまいので、奥の岐阜公園前の交差点から右に走って、本町まで走る道があり、次の長良橋から渡って南行きの、バスを除く自動車は、ここを通らず直進して、本町で合流する道を走ります。このため本町からここまでは、車は北行きの一方通行です。
長良橋(ながらばし)
公園前から90度曲がって北へ行くと 、長良橋 長良川にかかる橋の中で、一番鵜飼で有名な橋です。
最後は560型も走っていました。
電車の広告に「ぜにや」があります。柳ヶ瀬にある有名な老舗の乾物屋で、ここの鰹節や海苔は有名です。もう1つ「起き上がり最中」がありますが、これも徹明町にあるお菓子屋さんです。
橋のたもとから下流にかけて、昼間は鵜飼船がずらりと並んでいます。
長良川もこのあたりは二重堤防になっていて、両岸とも外提坊、内堤防があります。
内堤防は低く作ってあるので、長良川の水位が増すと外堤防と道路が交差する場所は扉で仕切られていて、水位が高くなると扉が閉まるようになっています。 しかし河畔の
ホテルや旅館は、内堤防沿いに作られていて、水が入ってしまうことになってしまいます。
長良橋を渡ると、鵜飼屋、長良北町で終点です。終点を降りて、移転前の岐阜大学の教養部にいった覚えがあります。
昔は この北を 専用軌道を走り、山形市(旧高富町)まで走っていました。
岐阜市内線があったころ、ワンデーフリーぎふ というフリーきっぷがありました。
新一宮、新名古屋などからの発行もありました。
きっぷの中に 名鉄バスの記載がありますが、これは電車の廃止代替バスで、高富から長良線に沿って、新岐阜、岐阜駅前を通り、北進して千手堂から西鏡島まで走っていました。唯一の名鉄バス路線でしたが、現在は岐阜市営バスともに岐阜バスに移管されています。
名鉄起線
名鉄起線(おこしせん)は名鉄新一宮駅(現 名鉄一宮駅)と 一宮市(旧尾西市)起を結んでいた約5.3kmの路面電車です。当時の起点一宮駅は 以下の地図の通りです。
青色の線は、廃止された線です。一宮線は 岩倉までを結んでいた線です。こちらは専用軌道でした。一宮市と尾西市に当たる地区は、明治から繊維産業が盛んで、工場が増え、輸送需要も増えました。当時は馬車が車も人も主な交通手段だったので、電車を走らせようと考えたようです。大正時代に今の一宮線が開通し、名古屋まで電車で行けるようになると、今度は起まで、走らせようと考えます。
路線と電車です。停留場が10 停留場の間隔が平均500m。尾西線を一部借りて新一宮駅から出ていました。当時の新一宮駅は、尾西線と本線の貨物扱いもしていたので混雑したと思います。
日中事変(1930年代)から戦中戦後以降、輸送人員が次第に増加しました。交換設備も増えたのですが、単線ですので、輸送力が限界になりました。道路が狭いので、複線化も出来ません。1950年代後半になると、バスが大型化し、電車より1台あたりの輸送人員が大きくなりました。また尾西線が600Vから1500Vに昇圧したため、起線は新一宮に入れなくなり、八幡町が始発になりました。名鉄は電車を廃止しバスに切替、増発する方針に切り替えます。
地元は反対しましたが、テストの結果、賛成するようになりました。1953年(昭和28年)廃線になりました。 道路が未舗装で、まだ馬車が走っていた頃のことです。