ただ、ただぼんやりと。

流れるままに、流されるままに・・・。

週末のこと。

先日、Jリーグの鳥栖対浦和を観てきた。

 

鳥栖といえば万年J2の地方クラブ。J1に存在していること自体が珍しいチームである。

一方の浦和といえば、いわゆるビッククラブ。ここ何年かは調子が良くなかったが、今シーズンは割とよい成績を残している。

両者には、クラブの規模・実績・サポーターの数・選手年俸・運営費等、数えればきりがないくらい多くの事で、大きな差がある。

 

そんな両者が対戦するのだから、自分は当然浦和が勝利するだろうと思っていた。鳥栖サポーターも半分くらいはそう思っていたかもしれない・・・。

しかし、結果は違っていた。予想に反しての鳥栖の勝利。

 

自分はサッカーの専門家でもないし、経験もないので細かい試合内容や分析は省略するが、鳥栖の勝因は試合を観ていてすぐにわかった。

それは「やれることをやる。」ということである。それも愚直なままに。

鳥栖は自分たちがやれることを、ただひたすらやっていた。それで勝負をしていた。

一方の浦和はというと、技術的には優位にありながらも、どこか「うまくやろう」とし過ぎて、不完全燃焼な感じがしてならなかった。

 

話は飛躍してしまうが、鳥栖のような「やれることをやる」という考え方は、サッカーだけじゃなく、日常生活でも大切なような気がしたこの週末だった。

年齢と人との距離について

最近、フェイスブックをしている。とは言っても、他人に晒すことのできるプライベートなんぞほとんど持ちえていないので、友達の近況を確認して、「いいね!」を押すことが専らなのだが。もちろん、友達申請をし(たま~に申請をされ)、徐々にではあるがフェイスブック上の友達も増えていっている。

 

そこで、一つ気づいたことがある。小学校、中学校の時など、自分が幼い時に知り合ってた友達は、たとえ当時あまり絡みがなくても、同じクラスだったとか、ただ知っているだけで友達になることができる。一方で、高校や大学などで同じクラスだったからとか、ただ存在を知っているからとかの理由だけで友達申請をしても、大体無視されているような気がする。(まぁ、その時々の自分のキャラが影響しているのは言うまでもないが・・・)

 

そういったことがあり、人間は自分が幼い時に会った人に対しては距離を近く感じ、逆に年齢を重ねて出会った人に対しては距離を遠く感じるんじゃないかという考えるようになった。

世間でやたらとコミュニケーション能力の必要性を問うているのも、人は大人になると自然と他人との距離を保ちたがるからではないだろうか。

 

 

映画はだれのものか。『プロメテウス』を観て。

先日暇だったので映画を観てきた。「ネットで“人類の起源”と検索せぃ。」とCMしているアレである。

んで、感想はといえば「騙された!!」の一言。しかも良い意味ではなく、悪い意味で・・・。「これはないわぁ」と思うほどであった。

 

どんな映画でもたいがい好評価してしまう自分だが、今回の映画は正直ヒドイと思った。ただ、作品自体が悪いのではなく“人間はどこからきたのか”と売るCMが・・・。

最近はスパイダーマントランスフォーマーみたいな格闘もの以外のSF映画は、作品も少なかったと思うし、あっても面白そうじゃなかったので、全く観ていなかった。しかし、今回のやつに限ってはテーマがでかいし、格闘ものじゃないし、久しぶりに期待していたのだが・・・。

 

それで、今回のCMの何が悪いかというと、一言で言うと、観客をミスリードしているのである。明らかに余計な先入観を与えて映画館に足を運ばしている。そこで、今回の記事のテーマである疑問文に移るのだが。

 

自分は大前提として映画は観る人間のものだと思う。その映画を観てどう感じようが、どう解釈をしようが、監督・脚本・俳優をどう評価しようが、それは観客の自由である。もちろん製作者側には作品に対して意図するものがあると思うが、それは受け取る側の自由である。たとえそれが、観る側の知識不足や教養の足りなさからくるものであっても。

このような前提とは別に、製作者側から立場を表した言葉で「映画は監督のもの、ドラマは脚本家のもの、舞台は俳優のもの」というのを聞いたことがある。この言葉が、だれの言葉で、何を意図していて、そもそも本当にこの言葉があるのかどうかは定かではない。ただ、「作品において誰の影響を最も表すか」と考えた時に、かなり的を得ている言葉だと思う。

多くの映画のポスターで、映画の題名の上に監督の名前が付いているのはこの言葉が正しいことを表していると思う。(たまに主演者の名前があるものもあるが。)

 

とすると、今回の映画は、監督であるリドリー・スコットのものである。であれば、映画を売る側としては、リドリー・スコットの意図を汲んだ上で、宣伝していかなければならないと思う。 

それが、今回の映画には全く反映されていなかった。確かに、CMはインパクトがあって興味を引き立たせるものだった。しかし、それが監督の意図を宣伝するものでなければ、結果的に作品自体の評価を落とすことにつながると思う。

そして、最近の映画ではそのようなCMが増えてきていると感じる。こういう宣伝を行うことは、最終的には映画産業の衰退を招き、自分で自分の首を絞めつけることになるのではないかと、映画ファンとして危惧してしまうところである。

 

(※こんな偉そうな事を書いていますが、正直リドリー・スコットが今回の映画で何を意図していたかは正確なところは正直わかりません。ただ、それが“人類の起源”ではないことは明白です。なんせ、今回の映画で明らかになったのは“人類の起源”なんかではなく“エイリアンの起源”だったのですから・・・。)