これから

最近、先のことばかり考えている。
先のことを考えるということは、
つまり、今のことを考えるということになる。


「やりたいことはなんだろう…?」、
とやみくもに考えてしまうことがあるが、
結局は、現在の状態が、
ある程度、
「やりたいこと」をやっている状態なんだろうと思う。


最終的にはコンサルに入りたいと思い、
「まずは商社かな」と考えていた最近。
実際にインターンに行ってみて、
今後の方向性を考える上で、
極めてクリティカルな一つの問いを与えられた。



「どれだけ働きたいのか?」
ということ。



何事も、その行動をする上で、
目的が最も重要なのはわかっている。
要は、
「そのことをすることによって何を達成したいのか?」
である。
その目的がまずは決まることによって、
それを達成する為の手段が決まる。
しかし、往々にして、
手段自体が目的になることがありうる。
例えるならば、
自分の頭の形にあった帽子をかぶるべきなのに、
その帽子をかぶるために頭を削るようなことである。



就活の場合、
「お前はどんな人生を歩みたいのか?」
という問いに対する答えが出て、
初めて、
そこでそれを実現する為の仕事が決まるのだと思う。


と考えれば、
「どんなことをしたいのか(質)」も大事だけど、
「どれだけそれをしたいのか(量)」言い換えれば、
「どんな形でそれを実現したいのか」
「どれだけその能力を周りから求められるのか」
も同じくらい重要になることがわかる。


「様々なことを知りたい。幅広い分野に精通したい」
と一口に言っても、
コンサルのように「三日徹夜なんて当たり前」というやり方もあるし、
土日が休みのところにして「カフェでのんびりいろいろな分野の本を読む」
というやり方もある。
俺はせめて日曜日は海に行って浜辺でぼーっとしたいな。
お金にしても30〜40で1000万ももらえれば本当に贅沢だと思う。


「様々な人と交流したい」
といっても
「毎日接待で」とか、
「毎日ガツガツしたやつらと競争でまじ議論」
とか嫌だしね。
まじな議論は好きだけど、
その目的が、
お互いの考えを出し合うのではなく、
相手を蹴散らす為にあるような議論はしたくない。
就活のディスカッションも、
結局は、
お互いの考えを出し合いよりよい解を導き出すことが目的なのではなく、
周りの連中よりできる人間であることをプレゼンすることが真の目的。
だから俺は嫌いなんだなと思う。


多くの仲間と交流するにも、
どっかに旅行に行ってその土地の人と仲良くなるとか、
会社の仲間と、また取引先の人と飲むとかそういう感じがいい。


「成長したい」
と言っても、
「生きるか死ぬかの中で常に120パーセントの結果を出すことを強いられ、
否応無しにレベルアップしなくてはいけない」
とか嫌だな。
120%の力を出さないと勝てないのは楽しいけど、
それは部活やサークルでの話。
人間背負いきれなくなると、
必ず、周りにその背負いきれなくなったものを背負わそうとするからね。


俺自身、チャレンジしたいという気持ちはある。
次こそ、高校のときのような失敗はしないという自信もある。

しかし同時に、
もうあんな厳しいことはしたくないと思う気持ちや、
できなかったときのことを考える自分もまたいる。
俺は、そんな風にして、
自分の周りにいる人を不幸にはしたくない。




現時点での生活…
大学はゼミしか行かない。
(テストは直前に友人たちと集まり分担して答案を作成する)
普段は
①家にいる(本を読むか料理をしているか)
②カフェに行く(一人で考え事をするか、友人と話をしているか)
③鴨川(丸太町のあたり)で川を見ているか寝ている
④二条城の周りをランニングする
これに加え、バイクの免許を取ったら、
海に行って浜辺でぼーっとしたい。


人と関わるのも好きだけど、
それはあくまで一人の時間が確保されている状態。
話すのは好きだね。


この現状からまた戦場へ身を乗り出すのか?



リングにもう一度上がるのか。
それとも、このまま去るのか。



どっちだ?

『俺にはよぉわからんが』

就活をしていて切に感じることが三つある。


①論理性と人間性のバランスを重んじている人が非常に少ない
②みんなやたら自分の未来に対して希望を持っている
(「成長したい」「社会に貢献したい」という具合になんかキラキラしてる)
③そんな人たちに囲まれて、自分は今後やっていけるのだろうかという不安




①に関して
これはセミナーに行くと毎回感じること。


たとえば、グループディスカッションのとき。
ケーススタディのときなどこれが顕著なんだけれど、
課題が渡されると、
とりあえず、各々の方法論でもってその課題を「喰い散らかす」。
チームとしての方針、方向性を決めずに、
または決めても途中から無視して、
とりあえず自分のやりたいようにやる。


そうすると、草食系の俺は、
「またかよ」とばかりに競争を避けて、
そのやり取りを外から眺める。
彼らは、自分のやり方で実際にやって、
煮詰まるまで人の意見を聞こうとしない。


まず、チームとしての方向性を決めなければ、
お互いの言葉の意味を確認しあうように進めていかなければ、
初対面の人間同士が、
話し合いなどできるはずがない。


ケーススタディなんかは時間制限が設けられているから、
時間が迫ってくるとみんな焦る。
そうすると、さらにその争いは激化し、
最終的には、課題ではなくお互の肉を喰らいあう。


そうなる前にうまく割って入って、
リーダーではなくフォローアーという形で、
うまくチームを軌道修正しなくてはいけないのだろう。
しかし、まじで争うことを好まない草食系の俺にとって、
本当に苦痛な時間となる。


②に関して
「成長したい」
「社会に貢献したい」
「本音でアツく語り合える仲間を見つけたい」(「アツく」のあたりが)
という言葉をよく耳にする。


申し訳ない。
本当に申し訳ない。
端的に言うと、そういうことを公の前で言う人、
嫌いだわ。


「なんでそうしたいの?」
「ところで、あなたが大切にしているものは何なの?」
「成長して何になりたいの?」
「なんで社会貢献したいの?」
「てか個人的に『アツい』って言葉まじで嫌い」
「なぜそんなにキラキラしてるの?」
「これ以上豊かになってどうするの?」
「てか本当にそんなこと思ってるの?」


そんな吠えないでさ。
もっと淡々とやろうよ。
結局は自己満なんだから。

自己満、エゴった結果、
「結果的に」、
社会貢献とやら、
成長とやらになればいいとは思うよ。

それを自己満とも気づかず、
エゴとも気づかずやっている高慢な連中を見てると、
本当に嫌気がさすわ。


相手に優しく「してやってる」感が本当にいや。
100%相手を思いやれない人間、
100%エゴの人間がすることなんて、
たかが知れてるだろうよ。
醜い。全然美しくない。


ならせめて黙ってやれよ。
淡々とやれよ。
むしろ、
こんな「自己満なことしかできません」って謝りながらやれよ。
「俺まじで思いやりとかないから]
って言いながら公につくせよ。
「その方が目立ってカッコイイじゃん?」
とか言いながらおばあちゃんに席譲れよ。


その黙ってやっている姿に、
俺は本当の温かさを感じる。



③に関して
という一連の違和感を感じる俺。
そんな俺は、
果たして、彼らとやっていけるのだろうか。
正直、そういうことを考えてる時点で、
常に多くの人と接する職業には向いていないのだと思う。
彼らと会って、
自分は草食動物、
もしくは農耕民族なのだと思った。


しかし、
企業社会にもちょっとは興味があるので、
とりあえず就職しようかとは思う。


できれば、早いうちに会社を辞めて、
北の大地に渡り、
どこかで教員の職を得ながら、
農業あるいは酪農を営みたいと思う。

あんた嘘つきだよ

「あれって…だよね〜。」
と言うと、
「いろんな人(考え)があっていいんじゃない?」
と言う人。


あんた嘘つきだよ。



いろんな考えがあっていいのは当たり前。
でもあんた…
そのいろんな人や考えが存在する中で、
どうしてその考え方、生き方をしてるんだよ。
あんた、他の生き方は嫌だから、
その生き方を選んだろう?

ここにきて

ようやく、
自分の「型」ができてきたように思う。


「型」とは?
言い換えれば、
プレースタイル、方法論、やり方……
といろいろあるが、
イチローとか養老さんが言ってる、
「型」という言葉が一番しっくりくる。


「何に対する型か?方法論か?」
と言えば、
「自らが生きていく上で遭遇する、
問いにアプローチする際の型であり、
方法論」
となる。


どんな問いに当たろうとも、
「こんな風にやっていかなくてはいけないんだろうな。
最低限、こうしないと筋が通らないよね、
うまくいかないよね。」
って感じの手順がだいたいわかってきた。


その手順がわかったところで、
それが実際にできるかどうかは話は別。
しかし、わかった時点で、
それは*1「問い」ではなくて、
ある意味*2「問題」となる。
方向性がわかったらあとは前進あるのみ。
その問題を解くのに必要な道具をそろえる(能力の向上)だけだから、
あとは練習あるのみ、パターン認識、暗記あるのみ。
根性の勝負となる。


「こう来たらこう。そう来たらこう。そういう型ができてきた。」
と言うと、
「人の意見を取り入れない頑固者」だとか、
「通り一遍等のマニュアル人間」と言われるかもしれない。
しかし、実際はむしろ逆。


自分のものさしやルールを明確にせずして、
どうして相手の意見が見えてくることがあるだろうか。
人間は、
比較によってでしか物事を捉えることができないのであれば、
ものさしやルールを明確にしていない人こそ、
相手が何を言おうと適当に流している頑固者と言える。


そして後者の意見には二通りの反論ができる。

第一に、
方法論やマニュアルを創り出すことが悪いこととは思わないということ。
だってあなた、
そもそも、マニュアル無しで生きていけますか?
「昼の次に夜が来る」とわからずに生きていけますか?
人間、マニュアル無しでは生きてはいけない。
ということは、
悪いのはマニュアルを創り出す人ではなくて、
そのマニュアルを無思考で使う人だね。


第二に、
マニュアルがなくては、
真の意味で、勝負の世界に入れない。


勝負の世界は、
問題ではなく、問いの世界にあり。
既知の世界ではなく、未知の世界にある…
と思う。


自分が知らない世界、体験したことのない世界。
そのような世界でどれだけやれるかが、
自分にとっては非常に重要な気はする。
マニュアルの必要性とは、
そういう未知の世界に飛び込んでやっていく際に生じるものだと思う。
「どんなものが降りかかってくるかわからない。
しかし、どんなものが来ようがこうしていくしかない。」
という原則、マニュアルがなければ、
怖くて飛び込んでいけやしない。


方法論を創り出すとは、
ある意味自分の身の丈を知るということなのかもしれない。
自分とは何か。
自分には何ができるのか。
それがわからなければ何かに取り組むこと、
またその取り組み方に、
一貫したスタンスを与えることはできないだろう。


最近、自分は背伸びをしなくなったなと感じる。
他人と競ったり、
あるいは優劣を考えること自体に意味を感じなくなった。
以前は意識的に「考えないようにしていた」から、
実際は考えていたわけだし、
意味を感じていたのだろう。
もちろん他人より何かが劣ったとき、
全く感情が起こらないわけではない。
しかし、その程度は以前に比べて少ないし、
その感情すらも、
自分なのだと受け入れるようになったと思う。


以前は、
自分の身の丈以上のことをやろうとしていたなと、
今になって感じる。
ここで言う「身の丈以上」とは、
「自分の想いや考え以上」のことという意味だ。
「実力以上」のことという意味ではない。
単に見栄を張って、
「俺はこうなりたい」だとか「こうしたい」だとか、
自分の本当のこだわりであったり、
願望をちゃんと認識していなかった。
本当の願望であれば、
たとえ、現在の自分の実力以上のことであっても、
いいと思う。
しかし、周りの目だとか風潮を気にしすぎるあまり、
自分の内面を完全に見ていなかった。
言ってみれば、にわかファンだ。





昔から、生き方には非常にこだわってきた。
しかし、いつもその時点で、
現在の生き方には納得できなかった。


自分の生き方に違和感を感じ始めたのは、
だいたい中学校に入ったあたりから。
当時はそれほどでもなかったが、
高校時代はそればかりを考えていた。
イチロー問答で、
イチローが「青春時代」という言葉で、
「犠牲」という言葉をインスピレーションした。
俺が彼と同じだとは全く思わないが、
俺なりに全てを犠牲にしたと思っている。
というよりは、いろいろな方に、
多大なるご迷惑をおかけしたと、
深く反省している。





中学から数えたら九年、
高校から六年という歳月。




苦しかった。



ここに来てようやく、
自分は納得のいく生き方をしている。



そしてここから、
型は変わらずに、
今まで見えなかったところが見えてくるということ……
つまり、本当の意味での進化が始まるのだと思う。




*2問題……高校までの勉強のように、
        「問題」といいながら、
        特定の答えや、そこに行き着くまでの手順が、
        あらかじめ用意されているもの。

*1問い……特定の「答え」や、そこに行き着く「手順」が、
        あらかじめ用意されていないもの。

追求すべきもの

追うべきものは、
形ではなく、その内容。


どんなブランドであるとか、
どんな肩書きであるとか、
そんなことは二の次三の次。
別次元の話だ。


就活のときのTOEIC 700点と同じ。
持っていればちょっとプラスにはなるが、
持っていなくとも決してマイナスにはならない…
て話と同じ。


TOEIC 950点ならば話は別。
といっても、点数以上に、
そこに至るまでの過程(内容)の評価が大きいと思う。


もっともっと、大切なことはある。


どんな状況で、
どんな事情で、
それがそのように在るのか。


追求すべきは、まさに後者。