蓄音機 ─言葉とか催眠とか─

催眠が好きです。言葉や催眠や文具、その他面白そうな事について、ああとかこうとか書いて行こうと思います。

怪盗が盗みに入るように、僕はハガキを出しに行った

午前二時を回っていた。

 

何日越しになるか、ようよう宛名書きまで書き終えて、さていつ出しに行こうと考えた。

普通に考えれば、夜が明けてから、となるだろう。

 

ただ目が覚めた明日、外出できる具合とも限らない。

明日中に出せなければ、速達で出すにしても少々厳しかろう。

 

今は動けそうでも、果たして起きた時にどうなるか。賭けだな、としみじみ考えていた。

 

 

なぜか不意に、大昔の『無人島生活』のOAを思い出した。それかひょっとすると、『節約生活』の頃かもしれない。

 

わからないが、とにかく、僕の脳内にいるマサルさんが言った。

 

「ほんなら、抜け出すしかないな。」

 

嘘やろ。

僕は、脳内の有野さんと一緒に嘆いた。

 

 

夜九時を過ぎて家を出たことは二度しかない。

祖母の危篤の時と、母が倒れた時だ。

 

好き好んでの、夜の外出は初めてだった。

 

うちには色々とセンサーがある。比喩ではなく、どこかが開くと、警報が鳴る。

気配を殺して、センサーを切りにいく。切ったら切ったで、切れたという通知音が鳴る。

 

仕方がないので、なるべく音が響き渡らないように工夫をする。

 

パジャマの上にコートを着て、鍵と財布とスマートホンをポケットに入れて、ハガキは折れないよう手に持って、玄関を出た。

 

困ったことに、切れないセンサーもあった。

切ると、通知音が家族の寝室で鳴る。

 

とはいえ、伊達に生まれた時からこの家で暮らしていない。

センサーに引っかからない場所を考えて、ハガキを片手に持ったまま乗り越える。

 

 

母が見たらなんと言うか。

 

 

母はバラエティ番組を嫌っていた。

 

父は『電波少年』が好きで、『黄金伝説』『炎のチャレンジャー』は父が観るから観られていた。『めちゃイケ』は許されなかった。『はねトび』はその日のコーナーによりけりだった。

 

その昔、マサルさん無人島の岩肌を、抜き身の銛を片手によじ登っていた。

今ならクレームでも入るんじゃないか。

極寒の海に入ったり、サメの巣穴にケンカを売ったり、なみなみの油に魚を丸ごと放り込んだり、思えばむちゃくちゃばかりだった。

 

たとえば早晩、金ダライはただのタライになって、お笑いの道具ではなくなる気がする。

ローションはやらしいことに使うもので、クリームパイはおいしく食べるものになる。

 

 

金ダライは人の頭に落っこちると、とてもいい音を立てる。

『オーダーメイド2019』の映像で、たぶん久しぶりに金ダライを見た。

 

 

そんな令和の夜更けに、僕はハガキを出しに、初めて誰にも言わず家を出た。

 

外は寒かった。昼間より空気が少し、郊外に近づいた気がした。

目に見えない細かな氷の粒が頰に当たっている。寒い、より、冷たい、かもしれない。

 

黄色く光るコインパーキングの看板の下で、居並ぶボンネットとフロントガラスが白く凍てついていた。

指でなぞれば何か描けそうなキャンバスで、しかし僕は昔から、「そういうこと」ができない。

 

この場に居たら何かしらを描きそうな芸人の顔が、何人か浮かんだ。

 

 

大通り。車がバンバン走っている。通行人はいない。

通っていく車は、ちょっと飛ばし気味。

歩行者信号がちゃんと点いているのが、なんとなく不思議だ。

 

終電はとうになくなったはずなのに、駅に明かりが見えた。

ヘルメットに作業服姿の人たち。工事かなにかをやっている。

改札機に、でっかいビニールがかぶせてある。

 

「夜中に仕事をしている人」だ、と我ながら、おかしな高まりを覚える。

妙に、感動した。

 

 

ポストは駅からほど近い。

ポストの前に立って、差込口を確かめた。

ハガキと手紙は左、それはさすがに知っている。でも、確かめた。切手も確かめる。何度か値上げがあったものだから、家には62円切手ばかりが残っていた。

 

なにかの不備で自宅に戻ってきてしまったら、見咎められてなにを言われるかわからない。

年賀状ならともかく、この時期に僕宛にハガキが来るなんてことはない。

 

学校に通っていた頃も、うちは住所録に住所を載せていなかった。

 

ポストに手を突っ込んだまま、しばらくハガキを離せずにいた。

差入口の舌が手の甲に冷たかった。

 

 

帰りしな、コンビニに寄った。

初めて一人でコンビニに入ったのは高校生の頃だったか。

夜中のコンビニは当然初めてだった。夜中に一番くじでA賞を当てた、マサルさんを思い出した。

 

僕ががんばっても眠れないその時に、コンビニでくじを引いて喜び合っている人たちがいたのが、どうしようもなく不思議だった。

 

この世には、地を這うような辛苦と、ささやかな救いが遍在している。

 

 

コンビニの店員さんたちは、あまり昼間と変わらなく見えた。

ただ、商品を入れ替えるかなにかで、三人協力して力仕事をやっている。

僕はその近くのお菓子棚で、新発売のチョコレートを探してうろうろしていた。

 

ごく当たり前のこととして、誰も僕を咎めなかった。

家を抜け出してきたことも、誰にも知らせず外出したことも、一人で行動していることも。

こんな夜中に、まだ眠れていないことも。

 

なにか買いものができたら面白いだろうと思ったのに、チョコレートは売り切れだった。

 

 

 

その昔、僕が『黄金伝説』を観ていた頃、よゐこの二人は徹夜ばかりしていた。

実際数えたらそこまでじゃないのかもしれないけど、僕の印象では、節約やら無人島やらが絡むとほとんど毎回していた気がする。

 

当時の僕は夜更かしを許された日でも十時には寝ていて、こっそり起きていても日付が変わる前には寝ていたから、「徹夜」は想像のできない領域だった。

昔地球は恐竜に支配されていたとか、宇宙のどこかには知的生命体がいるかもしれないとか、そのレベルの掴みどころのなさ。

 

僕の中で、「徹夜」は行為というより、道に似ていた。

 

夜中という場所がある。そこは夜の先で、朝の手前。

よゐこの二人はその、僕の入ったことのない道に分け入って、朝にたどり着く人たちだった。

 

『黄金伝説』のカメラを通して、のたのた料理をする二人の背に、夜をたどる道程を見ていた。

 

そして、その印象は今に至るまで、おおよそずっと変わらない。

 

海に潜る。焚き火をする。洞窟探検をする。

知らない道ばかり通る、兄さん二人組。

 

番組などで聞く二人の思い出話は、まったくもって現実味がない。

互いの家に遊びにいく。二人でゲームをする。物騒な経験をしながらバイトをする。漫画を全巻大人買いする。それを読みながら寝落ちする。

 

都市伝説の権化みたいだと思った。

 

原作の方の『ガリバー旅行記』を読んだ時と似た気持ち、かもしれない。リアルでありつつ荒唐無稽、夢があるくせどこか卑近な冒険譚。

 

僕にとって、よゐこはそんな、「物語」に近かった。

 

 

 

コンビニをなにも買わずに出て、帰路に着いた。

大通りを外れると、人も車も通らない。いわゆる閑静な住宅街。

間をあけて並ぶ街灯は路面を照らして、その明かりの間隙で、アスファルトの黒が際立つ。

 

ふと気になって、車道の真ん中に立ってみた。

昼間でも車通りなど滅多にない道だ。

周りに気をつけながら、車道の真ん中を少しだけ歩いた。

まっすぐな道で、見通しのいい直線上には誰もいない。

 

道路を一本違えただけで、空っぽの町だ。

時刻は二時半くらいだろうか。

たしか番組によっては、当たり前に収録中の時間だった気がする。

 

ざまあみろ、と少し、せいせいした。

 

 

センサーに引っかからないように境界を越えて、玄関の鍵をじりじり回して、帰宅した。

靴は元通りしまって、切っておいたセンサーも慎重に入れ直す。

 

コートを一枚脱げば、元のパジャマ。

うん、僕にしては、都市伝説みたいな夜じゃないか。

 

 

 

僕の書いたハガキは、なにかをやり損なっていない限り、あの兄さん二人の元へ届くのか。

全部を全部読んでくれているのかは知らないが、届きはすると思っていいのだろう。都市伝説の塊みたいな、あの二人に。

 

 

まったく、十数年越しの、荒唐無稽な現実である。

 

 

 

 

 

 

延命と点滴

 

 十一月の末。
 やくたいもない、病院の帰り道。
 馴染みのない路線だ。車内の液晶パネルを見て、このまま終点まで乗っていけば新宿なのだと初めて知った。

 

 知らず、係留点に繋がっていた丸ノ内ライン。

 

 そもそも座席を立つ気力もなかった。だのに、ここで降りねば、時間もない。
 そんな乗り換え駅でドアが閉まるのを、座ったまま眺めていた。ああ、帰ったらなんと言いわけしようか。ここから先は知らない駅だ。知らないけれど、終着駅はよく知る街。新宿は、歌舞伎町のど真ん中に区役所がある。夜になれば客引きが恐ろしい街だ。行くもんじゃあないと言い含められて育ってきた街だった。

 そんな駅にふらりと降りた。終点だったから、もう座ったままではいられない。だから仕方なしに座席を立って、降りた。
 映画館が多いとか、いかがわしいお店が多いとか、洒落た服屋やカフェがあるとか、そういうイメージには現実味が持てなかった。大人になってからよく知るようになった新宿は、そんな街ではない。

 ルミネ、角座、末廣亭ネイキッドロフト、バティオス。

 

 お笑いの街だ。

 

 平日昼間ですらチケットが取れない日があった。香盤表を見て今日もそんな日だろうと覚悟していたら、前売は売り切れだったくせして最前列が取れた。急なキャンセルが出たのだろう。何日も前から狙ってみたところでずっと取れなかった最前列が、ふいにぽろっと取れてしまった。

 一時間半ほどの観覧は、あまりに辛かった。

 称号持ちばかりが揃った香盤表だった。ピン芸日本一、漫才日本一、またはそんな賞レースのファイナリスト経験者たち。結成十五年内の漫才師のうちでぼくが一番好きなコンビも、その中にはいた。やはり変わらず、きれいな漫才をするコンビだ。しかし今年一年は、楽しげでないのが観ていて苦しいコンビだった。

 

 そんな公演を念願の最前列から、特に笑いもせず観ていた。

 

 ひとつ前の病院は半ば医者との喧嘩別れのように通うのをやめた。
「失感情症なんだよ」
その医者は捨て台詞のようにそう言った。
 同席していた母は帰りの電車、怒りと呆れでしどろもどろにぼくに今までの経緯を尋ねてきた。聞かれたところで、特に説明できるような中身はない気がした。その前の病院ではひと月にいっぺんだった診察が二週間にいっぺんになっただけの話だ。ぼくの時間がやくたいなく削られる、それだけの一年だった。

 

 その日行っていた病院には、週いっぺん来いと言われている。そして同じことを言う病院が、もうひとつあった。それぞれ別の専門領域。とはいえたぶん、なんの意味もないのだ。どちらの主治医も、そう、ほとんど認めていた。今までの誰も、方針どころか要因すら断定してくれなかった。


 家に帰って手紙を書いた。いや、確かに便箋に書きはするのだが、およそ手紙とは呼べない気もしている。何月何日どの劇場の何回目公演でやったこのネタのこの部分がこうでした、と並べ立てるだけの文章。スマートフォンに下書きをさらさらと書く。帰りの電車でおおよそ書けてしまう。そうして、一通便箋に起こすのに四時間かかる。こういう手紙を書くときは、あるコンビが昔ラジオで話していたことを思い出す。バレンタインのチョコレート、あんなにもらっても食べきられへん、という話。それやったら代わりにこんなものくれた方が嬉しい、という提言。

 

「でも、それやとあげた感ないやん。やっぱりあげる側もあげた感ってほしいやろ」
そんな相方の柔らかいフォローに、一刀両断。
「だから、そういう自己満足やめませんか、って話やん」

 

 あらゆる創作活動の中で、お笑いというのは特殊な、リアルタイムにフィードバックが白黒はっきり返ってくる分野だ。
 だから、素人があえて書く感想というのは間違いなく、自己満足なのだろう。

 それでも国内最大級の賞レースの直前、おそらく勝負ネタであろう漫才を観て、身の置き所がなかった。
 今年は特に、結果を見届けるのがファンの「義務」だろうと、生まれて初めて誰かのファンを自称してみてまで、思っていたから。

 

 数日後、何もかも放り出して劇場へ行った。
呼び込みの若手芸人すらまだ仕事前の、朝の東南口改札前。
 どうしたって、顔はわからない。彼のよく身に付けている私服と時計とカバンと、人間の見分けがつかないぼくは知れる限りの手がかりを叩き込んで行った。
 極まる寒風に立ちんぼの小一時間。
 ぼくの斜めがけの布カバンは、ほとんど空だった。
 たまらず重たい生地のコートを脱いで、背中の詰まるジャケットも脱いだ。気休め程度にしかならないが、それでも少しはましになる。息が浅くならないよう、人差し指の付け根に爪を立てて戒めていた。
 そうして彼は、ふらっと現れた。
 カバンは夏と変わっていたけれど、背格好と歩幅と腕時計で同定して、走り寄った。出番前ぎりぎりのこの時間に呼び止めたくはなくて、止まらなくて済むように封筒を見せて、できる限り簡潔に。
「先週金曜日の回の感想文なのですが、よろしいでしょうか」

 

 こういう瞬間はいつも、ああこの人はあの人なのか、と思う。
 おかしな話だ。
 ぼくは彼をよく知っていて、それこそ生まれた家が潮騒のすぐ傍らであるとか、両親に黙ってとんでもない転職をしたことが賞レースで実績を上げたばっかりにバレてしまったことだとか、初恋の女の子の名前とか、そんなことまでよく知っているのだ。
 しかし彼は、ぼくのことを何ひとつ知らない。不自然で不可思議な非対称性だった。ずいぶん前に初めて言葉を二、三交わしたとき、それは怪訝な顔をされたから、性別すら計りあぐねていたのかもしれない。
 こちらがどれだけよく知っていようとも、向こうからすれば初対面の赤の他人よりもっと気味の悪い、ぼくはそんな関係性にいる。

 

 彼はぱっと封筒を見て、ぼくの方を見て、さらりと言った。
「ああ。また? ありがとうございます」

 

 それはきっと、少し前にやはり一度、封筒を渡したことを指していた。
 夏に観た公演と、テレビでのネタ見せの何本かと、それらの感想文を何ヵ月も持て余していて、それをようよう手渡せた少し前のこと。
覚えられていたことを、どう取っていいものかわからなかった。
 ああ、申し訳ない。いま、こんな大切なときに煩わせて、申し訳ない。
 だけれど、いま他に生命線を知らないのだ。

 


 今年の賞レースが終わって、ああ、ほとぼりが冷めたら感想文を書こう、と思った。去年のときは、再び予選が始まる夏頃に書いた。台詞全てを文字起こしして、一行一行に感想を書いた。今回はそこまで待てそうにない。ひと月待てば、もういいだろうか。待ったと思ってもらえるだろうか。一月も半ばになれば、もういいだろうか。
 その頃には、また別の病院へも検査に通っているだろう。
 昨日、母親が言ったのだ。


「そんなに悪いなら、お笑い番組なんか観て楽しそうにしていられるはずがない」


 今月初め、テレビどころか大きな劇場にも出たことの無いあるコンビに、次に昇格バトルに出られたときにはまた観に行きますねと伝えた。ファンと話し込む癖のある話好きの芸人さんに、話すの好きやからまた呼び止めてな、と言われた。

 

 次に彼に手紙を渡したら、なんと言われるだろうか。またかい、と苦笑いされるだろうか。ファンにも容赦ないひとだから、敗戦からひと月も経ってないのにデリカシーのない、と怒られるだろうか。要らない記憶は切り捨てていくひとだから、そもそも前回のやりとりなんて覚えていないだろうか。
 しかし間違いなく、「ありがとうございます」とは言われるのだ。言われて、愛想良く笑ってはくれるのだろう。

 

 ぼくはこんな、わざわざファンと自称してみてまで、お為ごかしにかこつけて生きているのだ。素人の書いた感想文なんて要りもしないだろうに、彼は仕事として受け取るだろうし、ぼくはファンの義務として渡すのだ。
 ファンでいる限り、ぼくはひとまず来年の十二月までは生きていかないといけないから。優勝を見届けるまでは、ひとまず延命できるから。

 優勝候補と言われ続ける彼らコンビは、次の大会で優勝するのかもしれない。こんな寝室の片隅で、ひとつ、命を負わされているとも知らずに。

 

 

 一月になったら、診察が長引いたとうそぶいて、ぼくはまた新宿へ寄る。

赤の他人

 名前というのは、親が一番初めに子に背負わせるエゴであり、呪いである。
 早くは、生まれる前から始まる。
 顔を見てから決めるという親もいる。

 会話も交わしたことのない相手なのに、親に子どものなにがわかるというのか。

 

 うちに来た赤ん坊には、まだ名前がなかった。
 まっさらなタブラ・ラサ
「この世の苦悩を一身に背負ったような泣き方をするよねぇ」
僕の母はしみじみと言った。
 火の点いたように泣く赤ん坊。
 理由はあったり、なかったり。
 ミルク、おむつ、と何かの主張のこともあれば、落ち着かないというだけで泣いている様子なこともある。
 推して応じてもらわねば、寝返りを打つことも叶わぬ。


 不自由だ、と泣くのだ。

 

 お前は今、人生でもっとも自由なのだぞと、泣き叫ぶ赤ん坊に言い聞かせてやりたい。
 人生で恐らくもっとも、呪いの少ないときだ。
おむつを替えられるその股にちょこんと付いたふぐりを見つめた。
「ちび太、もうきれいになったよ、ほら」
母親にあやされて、しかしさっぱり聞く耳を持たない赤ん坊。
 名前もないので、便宜上のあだ名だった。

 見る人のいない間、見ておいてくれと預けられる。
 なるべく話しかけてやってくれと言うので、理路整然と話した。
 赤ん坊には不似合いかもしれない。
 とはいえ恣意は僕の方に不似合いなのだから、許してほしい。
「要求が通った後も泣き続けるのは、スムーズな対応を望むなら逆効果だぞ」
重要なのは声かけそのものなので、どうせ、なにを言ってもあまり変わらないのである。
 晩年の祖母を思い出した。
 日常生活を肩代わりする管を繋がれて、時々目を開ければその日は上々、という生き方。
 刺激を与えるためだけに点けっぱなしにされたテレビをBGMに、やくたいのない声かけをひたすらした。
 手ごたえのなさは正に同じで、だがこの赤ん坊には先がある。

 どちらが幸せなのか、僕には明確な答がない。

 僕の名前には、有難くないアイコンが入っている。
 キティちゃんやミニーマウスが着けるリボンのような一文字だ。
 台所から、母親と僕の母が話し合う声が漏れ聞こえてくる。
 ちび太は、ちび太が、と、「母」という生き物の懇話。
「お前、名無しのうちからもう男名で呼ばれるのか」
不憫なやつめ、と指を差し出すと、ぎゅうと掴まれ握られる。
 なんの含みもない把握反射。
 僕に子どもはいない。この赤ん坊とは子ども同士だ。
「あっ、笑ってる」
戻ってきた二人の母が、覗き込んで微笑んだ。
 生理的微笑反射にほだされる母親たち。
 母というのは、つくづく愚かにできている。
「べつに、好きで笑ってるんじゃないもんなぁ」
自由な代わりに無力な子どもの生存戦略に、そっと理解を示してやった。
 赤ん坊はまだ、僕の指を離さない。

さびしい一人称

 最近、よく話すイギリス人がいる。

 あまりに僕の中の「イギリス人」という概念にはまり過ぎているので、陰では概念英国人氏、なんて呼んでいる。ステレオタイプというもの自体は好きではない僕だが、これはちょっと、ロマンに近い。

『狭い質問していい?』
彼は日本語がわからない。
 全くではないようだけど、文章が作れるほどの日本語力はないらしかった。
『君の質問はいつも狭い』
そんなふうに茶化す言葉で、暗に「どうぞ」と彼は言った。
『日本語の「さびしい」を和英辞典で引くとさ、sadとかlonelyとかlonesomeが出るんだけど、違うと思うんだよね。少なくともlonelyではない』
『「さびしい」?』
彼は会議室のブラインドを端から閉めながら、探るように繰り返した。
『lonelyは、人がいない感じだね』
『「さびしい」にも、その意味はあるよ』
『solitudeなら、ちょっと違う意味もある。いい孤独っていうか』
『いい孤独?』
『そう、ポジティブな孤独。森の奥で、人の気配もなくて、静かに一人。そんなポジティブな孤独』
ポジティブな孤独とは、概念はわかるが、それを表す言葉があるのは面白い。
『「さびしい」は、基本ポジティブじゃないなぁ。多分』
『いい文脈じゃ使わないの?ふぅん』
後片付けをする片手間のように、彼は相槌を打つ。彼が相手をしてくれるときは大体が何かの片手間なのに、不思議とおざなりにされている気はしないのだ。
『「さびしい」は、何ていうかな、例えば田舎に帰ったら自然が減っちゃってた...とかは「さびしい」かな。でもlonelyじゃないでしょ』
『じゃ、sadなんじゃないの』
『sadなのかなぁ』
どうにも腑に落ちなくて、思わず唸る。「さびしい」とはなんなのか。外国語の話をするときは結局いつも、日本語の話になってしまう。
『sadって、英和辞典だと「悲しい」って出てくるんだよね』
さっさと荷物をまとめてしまった彼を追いかけて、僕は会議室を出た。廊下を歩きながら、日本語と英語── 二つの言葉を追うのに必死になる。
『だけど、「悲しい」と「さびしい」は違うよ』
『どんな言語にも言えることだけど、一対一に対応する単語なんて見つからない方が普通だ』
『それは、よくよくわかってるけど』
「さびしい」は、sadでlonelyなのだという。逆にsadは「悲しい」だというけれど、本当はその中に、「さびしい」も入っているのだろうか。
『「さびしい」は「悲しい」と違ってさ、例えば私なんかはいつも──』
わかりづらい上に余計な例えを口走りかけて、思わず黙った。
 彼は、全く気遣いなんてないようにすたすた前を歩いていたくせに、尋ねるようにちらと視線をくれた。
 あーあと思いながら、続きを白状する。
『私には、君の一人称がわからない。どうしたってね。それがいつも、「さびしい」よ』

英語力と羞恥心のせいで、言葉足らずの訴え。
『へぇ』

興味があるのかないんだか、色気のない返事。しかし、感じるところが通じた手ごたえはあった。
『「さびしい」には確か、漢字が二種類あったね。あっちの、「林」みたいなやつの方、あっちの方が詩的だね』
『ああ......もう一方のほう、あっちの雰囲気は── 「寂寞」、なんて知らないよね』
『ジャクマク...』
『なんだろうな。「古池や...」の感じ』
『あー』
これで通じるあたり、日本語はできずとも文学通な彼である。

 二人して、エレベーターに乗る。話しながらなんとなく、別れるタイミングを逸していた。
「このままだとデスクまで着いて行っちゃうけど、いいのかねぇ」
わからないのをいいことに、日本語でつぶやきながらエレベーターを閉める。用もないので、僕の方はもう帰らなくてはなぁと考えていた。

 彼が降りる階で見送ってそのまま別れようと思いながら、そろそろ別れの挨拶を切り出さなくてはと口を開いた。
『いつも細かい質問ばかりして悪いね。他に聞く相手も居なくて』
『ああ、いいよいいよ。──、』
一瞬、なにか、妙な間。
 彼が何かを口走りかけた気配を感じて、思わず鳶色の目を捕まえた。
 ここで逃してしまったら、言わずじまいなんだろうという直感があった。

「I can be sad」
観念したように、ちょっと笑って彼は言った。

 聞き返せもしなかった。
 エレベーターが開いて彼が廊下へ歩み出すまでにぴったりな英文を作るだけの力が、僕にはなかったから。
『じゃ、気をつけて』
扉が閉まる寸前にそつのない笑顔をにこっと浮かべて、彼は僕に背を向けた。ありがとう、ともじゃあね、とも返さずに、扉が閉まる。

 エレベーターがエントランスに向かって下がっていく。一人きりの箱の中、えもいわれぬ気分で考えた。 

 

 ああ、さびしい。彼はsadを選んでつぶやいた。あのつぶやきを辞書で引いたら、いったいなんと載っているだろう。

 僕は一人なのをいいことに、やるせなく笑った。

異邦人 ─手話が公用語の国─

  外国人によく頼みごとをされる。
  写真を撮ってほしい、道を教えてほしい、電車の乗り方を教えてほしい......頼みやすそうに見えるのか、外国語が堪能に見えるのか。ともかく、よく助けを求められる。
  日本語で話しかけてくる外国語はほとんどいない。覚えている限り一回だけだ。外国人の多い大学にいた頃の話である。
「スミマセン、ショクジヲスルトコロ、ハ、ドコニアルデスカ」
「《食堂のことですか?あそこです。あの建物》」
僕も英語は流暢ではないが、恐らく英語圏の人だろうと思えばとりあえず英語で話す。すると彼らは良かった、という表情をする。英語が全く通じなかったらどうしよう、自分の意思を伝えるすべがなかったらどうしよう、そう思いながら彼らは話しかけてくる。

  僕はほんの少しだけ手話ができる。僕のような聴者が使う音声言語とは違う、沈黙の言語。手話は世界共通語ではなく、国ごとに別だという。表意文字ならぬ表意表現もあれば、当て字ならぬ当て表現もある。身振りならではの直感的で感情に寄り添った表現もある。
 
  手話は思うに、 ‘外国語’ だ。「森」と「緑」を同じ単語で表す。「海」と「浜」の区別はない。日本語を身振りというサインに置き換えた ‘なにか’ ではなく、外国語なのだ。

  手話は思うに、透明な言語だ。音声言語話者と違うレイヤーの上にあり、多くの聴者が行き遭うことはない。僕は点字はわからないけれど、点字よりももっと透明に近いような気がする。券売機やエレベーターのボタンに偏在する点字と違って、人によったら手話は見たことすらないかもしれない。


  先日僕は、手話話者たちが働く店に行った。僕に手話を教えてくれた人がパンフレットをくれた店だ(「Sign with Me」http://www.signwithme.in/?mobile=1)。この真夏に、芯から温まると銘打ったスープ屋さん。パンフレットのメニューを見て、パスタにしよう......と事前に決めた。

  狭い狭い階段を上がる。店内からは賑やかな声が聞こえた。聴者もたくさん来ているのか、と少し驚いた。
  店内への扉を押し開ける。扉にはベルも何もついていない。ああそうか、と思う。店員さんは誰もこちらに気付かない。とりあえずレジの方ににじり寄る。レジの店員さんがふっとこちらを見て、
『一名ですか?』
と身振りで尋ねた。人差し指を立てる仕草だが、手の甲がこちらを向いている。ただの身振りではなく、手話の『一人だけ』だ。僕が頷くと、レジのそばのカウンター席を示された。ひとまず荷物を置く。席にはいくつか注意書が置いてあった。「注文はレジで」の文字を見て、財布を持ってレジに立つ。レジには写真つきのメニューが用意されていた。写真には番号が振ってある。

  これを。
  僕は8番のパスタを指差した。
  頷いた店員さんは、メニューの横に立ててある注意書を示した。『単品  セット』の大きなゴシック体の文字。僕が手話話者でないとわかっているようだった。マクドナルドの店員さんが外国人を見るとメニューを英語面に裏返すように、僕は ‘聴者向けマニュアル’ のルートに入ったのだろうなと頭の片隅で考えた。
  僕は『セット』を指差して、首をかしげて見せた。店員さんは頷いて、メニューのスープとライスを指す。了解して『単品』を示すと、店員さんはファミレスでよくある確認の復唱のように、
『8』
と両手で示して見せた。片手をパーにして、もう片手で指を三本立てる。
  手話の8は片手で表す。店員さんは ‘日本語’ のできない僕に気を遣って、聴者が使う言葉を使った。ああ、僕はここでは異邦人なのだ。外国に行った事もないのに、異邦人の感覚をおぼえた。

  8番のパスタ──たらこパスタは美味しかった。辺りを見渡すと、わいわい歓談する聴者もいる。僕の隣に座った青年は恐らく手話話者だ。ろう者の集会のチラシを黙々と読んでいる。
  帰るときにはトレイはそのままでいいと注意書にあったので、遠慮なく身支度をする。いつものようにご馳走さまと声をかけようとして、ああそうか、とまた思う。彼女たちは仕事に忙しく、目すら捕らえることができない。仕方なしにカバンを背負うと、僕の隣に座っていた青年がレジへ立つのが見えた。店員さんを捕まえ、何やら流暢な手話で会話している。レジ横に積んである、店長さんの出した本を買いたいらしい。青年は小銭を用意しながら、片手だけの簡略な手話で世間話に見える会話をしている。店員さんは営業スマイルでない笑顔でふふふと笑った。何の話をしているのだろう。僕には彼らの流暢な、崩した言葉はまるでわからなかった。

  店を出ようと扉を開けると、すぐそばでテーブルを片付けていた店員さんが気が付いてくれた。布巾をテーブルに置いて、声をかけてくる。
『ありがとうございました』
僕にも、幸いこれくらいは読み取れる。
こちらも頭を下げて、両手で返事をする。
『ありがとうございました』
異邦人の僕には、「ご馳走さま」はわからなかった。

させられる「師」たち ─催眠の抽象的な話─

 時々お世話になるマッサージ師のお兄さんがいる。
 初めの頃こそ「まとも」なふりをしていたお兄さんだが、実のところかなり変だ。やがてわたしも変であると判ったらしく、遠慮なく変な話を変な話し方でするようになった。


 お兄さんはわたしの催眠趣味を知っている。信じていないし知識も無いけれど、理屈はとても飲み込みよく理解している。こういうところも変だ。

「こうやって他人の好き勝手にいじり回されるのって、なんか変な話ですよね」
ある時、施術中にそんな事をぽろっとこぼした。
 するとお兄さんは、あからさまに残念な人間を見る目をしてこちらを見下ろしてきた。
「はぁ?」
こういう時のお兄さんは容赦がない。たいていのお客に対しては猫をかぶっているくせに、脱ぎ捨てた後はかなりひどい。
「おれの好き勝手じゃないっすよ」
論理的でありながら言葉が足りないのもお兄さんの特徴だ。
 それでも、言わんとしている事はいつもピンと来る。感覚が近いのかもしれない。
「そうか。お兄さんの勝手じゃないか。わたしがさせてるんですもんね」
「そう」
わたしがお金を払ってやらせている──という意味では、もちろんない。思うに、これはとても催眠っぽい理屈なのだ。

 催眠の知識がほとんど無いお兄さんに通じるように、回りくどい喩え話をすることにした。
「アメフトわかります?」
「全く」
「わたしも漫画の知識ですけどね。面白い話があるんです。
...アメフトは大雑把に言うと、ボールをゴールラインまで運べたら点が入るゲームです。で、ボールを抱えて走って運ぶ役の人がいるんですけど、敵側はその人を通せんぼしたり、後ろから飛びついたりして止めようとします。つまり、走ってくる人に敵側が対応してブロックするわけです。」

でも、とわたしは核心に入る。
「ブロックが上手いチームは選手の配置を工夫して、あえて隙を作るんだそうです。その場合、ボールを持った相手が『ここなら通れる』と思って選ぶルートは全て敵がわざと用意したもので。そして、ルートの出口に当たる部分で待ち伏せすれば......」
「相手が動いてから対応するんじゃなくて、レールを敷いてその上を走らせちゃうんだ。へぇ」
お兄さんは合気道を始め、いくつか武道をやっている。こういう話には食いついてくれるだろうと踏んでいた。武道と催眠も、たぶん近い。
「選んで走ってるつもりで、走らされてるんですよ。面白くないですか?結局お兄さんの施術もそういうことですもんね」
「ほう。と言うのは?」
相槌の打ち方で、お兄さんが少し面白がっているのがわかる。通じていて、かつ彼にとって当たり前過ぎなかったことにホッとした。

「わたしが──もっと言うと、わたしの身体が、かな。身体がお兄さんの行動を決めてるんですよね。身体がどこかしらおかしくて、お兄さんはそれに応じて自分で判断して好き勝手施術するわけじゃないですか。それは好き勝手に見えるけど、その実、主導権は患者側にあるっていう」
「はい。そういうことっすよ」
「なんかですね、催眠もわりとそういうところがある気がするんですよ」
「ほう」
催眠を信じていないくせに、催眠の話が出てもお兄さんのリアクションは変わらない。他の知人の反応を考えるに、これは実はなかなか珍しいんじゃないかと思っている。
「催眠の中でも、催眠誘導......えーっと、『立てなくなる』『レモンが甘くなる』とかの暗示部分じゃなくて、暗示が通るような『催眠状態』にするための導入の部分が特にそうなんですけどね。
 相手の性格とか、かかりやすさとか、その時点での状態を見極めて適切な言葉や動作をぶつけるんです。常に最適解を探してるような感じで......掛ける側をやっていて、最適を考えれば考えるほど、『これはわたしが掛けていると言えるのか?』みたいな気分になってきまして」
「んん?催眠術師が掛けてないなら、誰が掛けてるんですか?」
「あ、えーっと、掛けてるは掛けてるんですけど......」
慌てて言葉を整理する。
 お兄さんは沈黙を気にしない人だ。いくらでも待ってくれる。会話を止めてみると、店内のBGMがもう二周目なのに気がついた。曲数が足りていないんじゃないだろうか。
「主客の問題、ですかね。たいていの掛け手は、いつも最適を探します。自由に選んでいるように見えて、掛かり手に選ばされているんです。『そういうふうに掛けている』んじゃなくて、『そういうふうに掛けさせられている』んですよ。
 なぜか世間的には掛け手の方が立場が上に思われてるみたいなんですが、違う気がしてるんですよね。わたしは掛かり手もやってるんですけど、上手な掛け手の人にやってもらうと、あまりに『好きにしていい』からびっくりするし、すごくストレス解消になりますよ」
「治療家は、世間的にもお客さんより立場下って見られてる感じありますけどね。好きにしていいからストレス解消になるっていうのは、おれ的にもかなり『そうだな〜』と思うかな」
「......お兄さんは、マッサージ屋さん行ったりするんですか?」
のらりくらりとした摑みどころの無いお兄さんから『ストレス』なんて単語が出たものだから、思わず尋ねてみる。
「行かないです。みんな下手くそだから」
「…………お兄さんって、そういうところありますよね」
「そういうとこって何っすか」
 言葉選びに容赦が無いのもまた、お兄さんの特徴である。

ホーホーのさいみんじゅつ ─催眠の基礎知識─

  今日3月21日は、「催眠術の日」と言われている。催眠術師がよくやる、「3・2・1」というカウントダウンが由来になっているとのこと。というわけで、今日は催眠術の話をしようと思う。

  
  昔話から始めよう。僕が小さい頃、姉がプレイするポケモンを覗いていた時のこと。
  姉のホーホーが、「さいみんじゅつ」を使った。敵は眠ってしまう。
「なんで催眠術をかけられた相手が寝るんだろう?」
僕は不思議だった。姉に質問したいところだったが、ゲームの邪魔をすると容赦ない蹴りが飛んで来るのでぐっと我慢したのだった。
 
  僕はどうもレアケースであるらしい、と、のちのち催眠をやるようになってから初めて知った。
  催眠との出会い方のお陰で、初めから正しい催眠の知識──オカルトでも超能力でもヤラセでもなく、心理的な技術であるということ──を持っていたのである。

  多くの人が催眠術をどう捉えているのか、最近になって色々わかってきた。せっかくの催眠の日だし、催眠好きにとってはベタだろうけど、ちょっと説明をしてみようと思う。
 
ホーホーのさいみんじゅつ
  ホーホーのさいみんじゅつの特徴はなんだろう。少し考えてみよう。
 
①相手を眠らせる
  まずこれが一つ。
 
②嫌がる相手にかけることができる
  敵にかけているんだから、相手が協力的なわけがない。嫌がる相手でもかけられる、と考えるのが良さそうだ。
 
③失敗することがある
  他の攻撃と同じで、外すというか、失敗する場合もある。これはちょっと面白い。
 
おれたちの催眠術
  では、現実の催眠術はどうなのか。
...ちなみに僕は、催眠術というとなんか胡散臭いので普段は催眠と言うのだが、ホーホーに対抗してあえて催眠術と言ってみる。
 
①寝かせるのは下手な人
  催眠術にかかった状態、『催眠状態』というのはリラックスしている状態だとよく説明される。なので外から見ると眠っているように見えがちだけれど、目を閉じてマッサージを受けている人が眠って見えるのと同じで別に眠っているわけではない。
  とはいえ、相手を寝かせてしまうこともある。どういう場合かといえば、相手が既に深い催眠状態に入っているのに、その見極めができずもっとリラックスさせようと頑張ってしまった場合だ。しかし眠ってしまった相手には、基本的にほとんど暗示が通らない。そういうわけで、たいていの場合において、相手を眠らせてしまうのは下手な催眠術と言っていいと思う。
 
②協力してもらわないといけない
  ホーホーのように、敵対している相手に僕たちが催眠術をかけるのは無理だ。細かく言うと、敵対のレベルにもよるだろうけど、自分を襲ってくるとわかりきっている催眠術師の催眠術にかかることはまずない。
  僕たちの使う催眠術は、イメージとしては「かかり手の想像力を実現する技術」である。たとえば、普通の人は水を飲むときに「これはオレンジジュースの味がする水だ」と想像することはできるけど、実際飲んだら「やっぱり水の味だ」と現実に負けてしまう。ここで、かかり手の想像力に加勢してやることができるのが催眠術なのだ。かけ手とかかり手が力を合わせて、「水の味がする」という現実に想像力を勝たせることができれば、水はオレンジジュースの味に(かかり手の主観的には)なる。これが催眠術のイメージだ。
  そう、だから、非協力的なかかり手に催眠術をかけるのは原理的に非常に難しいのだ。なぜなら非協力的なかかり手にとっては、そもそも想像力を現実と戦わせる気がなかったり、戦わせるまでもなく現実の方が好ましかったりするならである。ホーホーのさいみんじゅつとは、多分原理が根本的に違うんだろうなぁ。
 
③やっぱり、失敗することはある
  嫌がる相手にだってさいみんじゅつをかけてしまうホーホーでも失敗するんだから、もちろん僕たちも失敗する。ホーホーが失敗するかどうかは命中率の問題なんだろうけど、僕たちの場合はもっと色々な要素が絡まっていて、これは上に書いた②の内容と深く関わってくる。
 
  要素を大きく分けると、以下のあたりになる。
・催眠術が嫌だ
  かかり手が、「なんだかんだ言って、催眠術にかかるのは怖いなぁ、嫌だなぁ...」と思っていると、②の理屈でかかり辛くなる。
 
・この催眠術は嫌だ
  催眠術には、実は色んなかけ方がある。そして、かかり手によって当然好き嫌いも出てくる。かかり手が「この催眠術のかけ方は私の趣味じゃないな」と感じると、やはり②の理屈でかかり辛い。
 
・この催眠術師は嫌だ
  声が嫌い、見た目が怪しい、年がずっと下だから信頼しにくい...もうなんでもアリだ。かかり手が「この人嫌だなぁ」と思ったら、それがかかり辛い理由になり得る。もちろん、逆──付き合ってみたら良い人だとわかってある日突然かかるようになる──もあり得る話。
 
・この暗示は嫌だ
  これも②の理屈だ。上に書いた「催眠術が嫌だ」の項と根本的には同じことで、普段催眠術にかかる人でも「この暗示は怖い」「この暗示はやりたくない」と思ったら一気にかかり辛くなる。
※ちなみに、暗示というのは「水がオレンジジュースになる」「椅子から立てなくなる」などの『命令文の形をとったお願い事』のことである
 
 
  さて、以上の「さいみんじゅつvs催眠術」の比較を通して一番伝えたいのは、
催眠術は嫌がる人にはかからないし、かけ手の立場は世間の人が思うよりずっと弱い
 
・かかりたいけど未だかかれていない、という人も、かけ手やかけ方が変われば案外かかるかもしれない
 
ということである。
  この記事を、催眠クラスタ以外の人がたくさん読んでくれると嬉しいんだけどなぁ。