「裏声」の伝え方を考える
ある夜のマック。Sサイズのコーヒーを頼み、ろう者2人と一緒におしゃべりしていた時のこと。
声の調子やイントネーションといった話から、「裏声」の話題に。
裏声ってどんな声のこと?と聞かれ、
・高くて細い声
・頭の上から出てる感じ
・カラオケとか歌うときに、高い音になったら裏声に切り替わる
みたいな返事をしたのですが、
声が細い、ってどういう状態?
頭の上?震えてるのは喉じゃないの?
声の切り替えは自然とできるの?しようと思えばいつでもできる?
裏声で話す人もいるの?それって聞いてる側はどんな感じ?
と質問の嵐(笑)
今まで自分が「感覚」で捉えてきたことを、いざ言語化しようとするとこんなに難しいのか!と実感。
そこから辞書を引き、ネットを調べ、CiNiiで論文を検索し、いろいろと情報収集をしていたのですが、あんまりピンとくる説明は見当たらず…。
「もう無理~!!」と思いながら自宅で寝ころんでいた時でした。
ふと思いついて、実践。
「これならいけるかも!」
と視界が開けた瞬間でした。
まず、普段自分が出す声で「あ~」って言ってみます。
そうすると、胸とのどのあたりが両方震えると思う。
そこから音を上げていくと、どこかで胸が震えないで、喉だけが震える高さになる。
その高さを出しているときの声が裏声なんじゃないか、と思うのです。
実際にやってみてもらうと、「おぉ…」と違いは分かってもらえたみたい。
よくよく考えれば、そんなに難しいことではないんだけど、最初は私が言葉で伝えようと思って、頑なになってたから、体験的に感じてもらう方法に気付けなかったのです。
でも、こうやって体で分かってもらって、あとで言葉を添えた方が分かりやすいこともあるかなって。
言葉で伝えることばかり考えて、頭でっかちになってたけれど、まずはどうしたら知ってもらえるかを考える方がいいんだなって、気付いた経験でした。
「それ、ネタでしょ?!」と思う理由を考える
こんにちは。暑いですね。雨の地域は大丈夫でしょうか。
覗いていただいてありがとうございます。
昨日、ボーっと見ていたEテレのB面談義。
すると、ろう者の落語家が、仕事をしていたころの話をはじめました。
大量の資料を前にして、上司から「『きって』持って来い」と言われた。
はさみを取り出して、資料を細かく『切って』上司の元に持っていくと
「『切手』持って来い、と言ったんだ!!」と指摘された。
それを聞いていた司会者は「それ、ネタでしょ?!」と、鋭くヒトコト。
周りの人の多くは、そのツッコミに笑っていたけれど、隣にいた弁護士さんは「こういうことはよく聞く」と真剣な顔で話を続けていた。
そこで、ふと思った。
なんで、司会者はネタだと思ったんだろう?
同じような話を以前にも聞いた。
ろう者の先生が話した、高校時代の体験談だ。
部活で、先生に「『コーン』持って来い」と言われた。
でも自分は、コーン=とうもろこし、だと思っていて
「なぜ、先生は今とうもろこしを欲しがっているのか?」
とマジメに悩んでしまったことがある。
その時、その話を聞いていた受講生も笑っていた。
たぶん私も笑っていたと思う。どうして笑ったんだろう。
思うのは、「まさかそんなこと起こるの?」という、想像とかけ離れたところで生じた出来事だからなんだと思う。
アンジャッシュのコントに似ていると思う。
言葉のやり取りは通じる。でも、お互いの立場や前提として持っている情報・知識が違うから、言葉を受けて想像する状況が、まったく一致していない、あの感じ。
資料が目の前にあれば『切って』の選択肢も間違いとは言い切れない。
『コーン』がとうもろこしを意味する、という知識も正しい。
聞こえる人は、音が聞こえてから本当にわずかな時間で、同音異義語を判別し、その場における正解を導き出しているんだと思う。でもこれには、いくつかの条件が必要になる。
・正しく聞き取れていること
・聞きとった音に同音異義語があるという知識を持っていること
・該当する同音異義語を知っていて、意味も含めて思い出せること
・文脈にあてはまる“正解”を判断できること
どこかに苦手があったり、エラーが生じるとこの流れはつまづいたり、間違った答えを導いてしまう。
でも、聞こえる人にとっては造作ないことで、考える間もなくやってしまう。だから、間違えることが想像できないんだろう。
知るは難き、想像も難き。…ではできることは何?
「通れないんだよね」の一言から考える
ゴールデンウィークが終わりました。
長かったですね。
いつもは「ちぇ、なにがウィークだよ。4日間しかないじゃないか」などとその名に似合わぬ短さに悪態をついていましたが、今年はたっぷり8日間(初日と最終日はお仕事)。ウィークには収まりきらない長い休みでした。
でもなぜか疲れています…。休み方が下手なのかな。
さて、GW中のある日、彼と一緒に買い物に。衣料品店で服を見ていたのですが、隣に女性の2人組がいて、話をしていました。彼と手話で会話をしながらも、「あまり目ぼしいものがないらしい」ということは聞こえてくる会話でなんとなく分かっていました。
そんな時、聞こえてきたのは、「通れないんだよね」という言葉。
私のカバンが邪魔なんだ、と思って、少し前に動いたら、女性たちはすっと別の場所に移動していきました。
そのあと、時間差でハタと気づいたことが。
「もしかして『通れないんだよね』って、私への文句だった??」
そう思ったらいろんなことにモヤモヤしてきました。
・手話で話してるから私も彼もろう者だと思ったのか。
・だから聞こえないと思って「通れないんだよね」って口に出したのか。
・声に出せばいいじゃん。ダメなら肩でも叩けばいいじゃん。
・ろう者と付き合う聴者だっているんだぞっ。
そう思ってることを彼に伝えてみたところ
「そういう人、たくさんいるよ。だからもう諦めてる」
と言われ、私がしばらくプリプリしていたことが逆に意外だったみたい。
諦めちゃうほどそういった体験をたくさんしてるのか。
障害があることそのものはなにも悪いことじゃないのに。悪意を向けられることを、諦めという言葉で麻痺させているような感じがしました。
誰が悪い、何が悪いという気はないです。
ただ、少しだけでいいから想像してほしかったな、と思ってはいます。
今度同じような場面に出会ったら、キッとそちらを向いてみようと画策しています。
ろう者と付き合う聴者だっているんだぞっ!
「一緒にいる」を考える
一緒にいるってなんだろうか。
時間が長ければ?
同じ空間にいたら?
目が合っていたら?
同じ話をしていたら?
どれもかすっているようで、どれも的を射てはいないような。
自分のテリトリーに相手をただ繋ぎとめておくだけでは、「一緒にいる」ことにはならないだろうな、とは今考えている。
目の前にいるかどうかにこだわらず、自分の中に相手の存在が意識されていて、相手の中にも自分が意識されていること。
そんな状態にあることが、一緒にいる、なのかな。
うーん、一緒にいるってなんだろうか。
通訳の感度を考える
よい通訳者とよい通訳の間にはどんな関係が成り立つのだろうか。
よい通訳をする人は、よい通訳者なのか。
よい通訳者は、よい通訳をするのか。
感覚的に「100%イコールではない」という気がしてくる。それは、「よい」ということばがいろんな側面をはらんでいるからだと思う。
適時、適切、適当ということばがある。
適時はタイミングを言うとして、適切と適当はどう違うのか。
調べてみてのイメージでは、どうやら適切は内容に当てはまっていることを言い、適当は相手に当てはまることを言うようだ。
https://iso-labo.com/wakaru/business/teki.html
これを通訳の場面で考えると、
適時…「ここだ」というタイミングで
適切…話の内容を漏らさず
適当…相手に分かるように伝える
ことがいい通訳とも言える。
ただここで気をつけなくてはいけないことは、「いつから」その通訳を始めるかということ。
舞台での通訳なら、話し手が話を始めてからになる。会場の雑談を通訳しないことに対して、何か言われることはないと思う。
でも、これが聴こえる人同士の会話に同席しているろう者とその通訳者なら?
「聴こえる人同士の話なら、別にいらないんじゃない?」と思う人もいるだろう。
でもその判断をあなたはどうやって下したのだろう。判断の材料となったのはなんだろう。
きっと、それは音なんじゃないだろうか。
何を話されているかが分かるからこそ、「この話は聞いておきたい」とか「この話はいいや」と判断できる。
その判断の重要性をいかに分かっているか、そこの感度を持っている人が、いい通訳者であると思っている。
技術の有無は試験で振り分けられる。
でも、その感度は試験では分からない。
どうやって感度を育てていくことができるのか、きっとこれから考えていかなくてはならない課題なんだと思う。
《どうして?》の手話から考える
昔からそれなりに、ことばというものに興味を持っていたと思う。
中途で難聴になった祖父と、音声言語を持たない大伯母に接する中で、ことばの多様性にはちょっとだけ敏感だったかもしれない(だからといって、外国語を習得するほどではなかったけれど)。
この前、ろうの人と話している時、《どうして?》というニュアンスで、その人がある手話表現をした。何気ない会話の流れだったし、その内容は忘れてしまっているのだけれど、その表現だけが強く残っている。
《どうして?》に該当する手話表現はいくつかある。
左手の手のひらを下にして、そこから人差し指を伸ばした右手を外に向かって2、3度振る《理由》を意味する手話、ハテナマークの上部分を模した指を額の前に持ってきて左から右へゆるやかなカーブを描くように動かす手話、アロハ~!という時に作る手の形を鼻の前に持ってきて少し前に出す手話、、、
でも、そのときに相手が示したのは、OKの手の形から伸ばしている指を全部しまって、親指を人差し指の第1関節くらいまで下げた手の形を、こめかみの脇に持ってきて手首を外側に向けてひねる手話(動きを文字にするのは難しすぎ!そして、長すぎ!)。
これは、私が暮らす地域特有の手話表現で、いうなれば「方言」ということになる。
先に挙げた3つの手話表現は、どれも《どうして?》という意味だと読み取れるし、意思疎通には何の問題もない。実際、今までの会話では、「方言」を使うことのほうが少なかった。
でも、「方言」を使ってくれた表現をしてくれたことが強烈に嬉しかった。
きこえている人からしても、自分に馴染みのあることばというものがあるように思う。例えば、“アホ”はいいけど“バカ”はどうも使いづらかったりとか、突然冷たいものに触れた時、とっさに出てしまうことばが“ひゃっこい”だったり。
標準語は多くの人に伝わるという点で便利なことばだけれど、その人の人となりや背景を知るときには、「方言」が果たす役割も大きい。
なにより、その人が馴染んだ自然なことばをふいに使うほど、自分に気を許してくれていると感じられると嬉しい。
「おっ」という驚きと、ふわっとしたあたたかさ。それを指から感じた瞬間でした。