株式セミナーと教育
私は株式投資をして9年になるが、株式セミナーに初めて参加した。
昨年の後期から始まった相場上昇で、巷は株ブームである。2005年の11月辺りから、週刊誌でも推奨銘柄を取り上げている。通常であれば、その頃が引き際なのだが、今回はさらに上昇を繰り返してきた。
セミナーでは質問を頻繁に受け付けていたが、その内容で質問者の投資レベルを推し量ることができる。レベルは千差万別であった。
セミナーを通して、確認したかったことを確認できたので損をしたという印象はない。しかし、9年間株式投資を経験してきた私にも、講師が務まるのではないかと感じられた。
もう少し正確に述べる。
セミナー参加者、約150人のうち、おそらく1割5分程度は私よりも株式投資の経験があり、実績を上げていそうであった。
学校教育で準備されている科目、例えば英語であれば、英検2級挑戦者と英検4級挑戦者は、同じ教室で授業を受けることはない。2級挑戦者は4級挑戦者の講師になることができる。
あの部屋には1級挑戦者から5級挑戦者まで揃っていた。私は、半分の参加者に基本的な事項を教えられそうだと感じたのだ。
株式投資というのは日本の社会制度の中で特異な位置を占める。学校教育から外れているにも関わらず、国民のほぼ全ての人間が株式市場の存在を知り、何割という人間が一度は興味を持つのである。
こんなものは他にエロぐらいしかない。
1級挑戦者から5級挑戦者の混在は、教育制度や資格制度の不備を明示している。
教育は100年の計。
しかし、国づくりを想定すればこの不備は、意思ある不備であろう。一方で特許制度にヒントを得れば、この不備は必然なのかもしれない。
借金とは
借金とは、お金を借りて返すことである。
これは2種類に分けられる。
1.そもそも貯えがあって決済手段に用いるもの
2.今後の収入を見込んで、決済するもの
世間一般ではこの区分けをしていないように見受けられる。
というのも同一の貸付サービスであってもそれは使い手の資産状況に依存しているからだ。
例えば、クレジットカードについて、自分の貯蓄幅で利用する者もいれば、当面の収入を見越して使う者もいる。また一人の中でも、購入額や購入時期など、場面、場面によって1.2.は切り替わる。
通常は、年齢とともに貯蓄は増えていくわけであって、若い者ほど2.に偏るのだが、果たして2.とはどういうことなのか。
金銭と労働は、貨幣経済の発達により分離してしまうわけだが
そうはいってもまだまだ大半の人々は、自分の時間を労働に従事させ、その対価として賃金を得る。
この前提に立てば、2は自分の将来の時間を労働に従事させることを約束することなのである。このため、将来の時間を他のことに用いられなくなり、機会損失の可能性が増大する。
自分の行動に、自分の意思が介在するチャンスが少なくなるわけなので、自分であって自分でなくなるわけだ。
ビジネスとは
ブログを立ち上げてからもう1ヶ月も経つが
まだ、日記をつけていない。
日記をつける動機を探している。
11月、12月と東証が活況となり
日本の産業構造の変革とその成果の兆しを見せているとよく言われる。
IPOで、高値をつける銘柄はどれもIT、情報産業だ。
物に価値がなくなることはないが、情報が価値を高めていることは間違いない。一般的には、価値が移行したとか産業構造が変わったという指標に、お金が用いられるが、実際には、僕らが時間を裂く対象が変わるということであって、時間を用いることができるはずである。
つまり市場規模という言葉から、連想されるのはお金ばかりではなく、時間でもよいのだ。
携帯電話は、月1万円以上もして、高い。4人家族の場合、その負担額は家計の大きな構成要素だ。しかし、固定電話しかなかったころに比べ、一人一人が電話に費やす時間は飛躍的に伸びている。
ブログが流行から、文化になろうとし、主婦ではインターネットに費やす時間が数時間に及ぶ人もいると聞く。
一方で、僕らの時間は1日1人24時間しかないのだ。
したがって、日本には1日に24時間×1億3千万の時間が存在するだけである。
産業とは、ビジネスとは、この24時間をいかに自分のサービスに費やしてもらうのか、ということであって、悪い言葉を使えば、限られた時間の奪い合いなのである。