ときめいちゃったんだトゥナイト

日常の尊大なる冒険

情報の不均衡が申し訳ない: とある女性Fのケース


これはちょっと昔の話だ。

もう辞めてしまった会社の話ということにしておこう。

厳密には会社での話ではないのだが、会社の話としておいたほうが、なんというか「没個性的」で、プライバシーの観点で良い。

珍しい名前よりも、ありふれた名前の方が、Google検索によって過去の所業を暴かれる可能性が下がるといった意味合いの話だ。

ちなみに私は、本名で検索すると、寝癖のある状態でインタビューを受けた画像が出てくる。

まあ、そんなことはどうでもいいのだが。

 

兎角、これはもう辞めてしまった会社の話だ。

そしてその会社には、私より先に辞めた女性Fさんがいた。

「F」はその人のイニシャルなどを当然表さない。女性Female のFだ。

 

私は、彼女との間で、情報の不均衡を発生させてしまっていた。

そのことを非常に気まずく感じ、よってその不均衡を解消すべく話しかけるのもまた烏滸がましく感じ、そのせいでより不審者めいたムーブになったのだった。

これは、コミュニケーションに不得意さを感じている男性が、一人の女性の個人情報をどのように入手し、そして勝手に不審者と化していったかの記録である。

 


 

私は、彼女すなわちFさんのことを、あまり詳しく知らなかった。

なんなら、同じ背格好の女性Gさん——当然、Fの次だからGだ——としばらく混同していたぐらいだ。

私は、人の顔を覚えるのがもともとすこぶる苦手なのだ。

 

それでも私は、彼女が、同僚の女性オタクとかなり強火のオタクトークをしているのは耳にしていて、それで彼女のことを認識していた。

女性社員Fは、かなりの強火オタク。

こうして私の中で彼女はラベリングされ、記憶されていた。

 

あるとき、社内の研修のグループワークで、Fさんと同じグループになった。

そのテーマは、キャリアの棚卸しみたいなこと。

まあ、社内研修ではありがちなテーマだ。

そこで最初に、自分の経歴について話すという箇所があった。

それは特に、学歴などによらず、自分がこれまでどんなことをしてきたか、学んできたかみたいなことを、ざっくり話すというワークだった。

彼女はそこで、自分の出身学部を言った。

 

その学部は、珍しい名前の学部だった。

経済学部とか、法学部とか、理工学部とか、そういうありきたりなものでは全然なかった。

だから、ちょと学歴厨なところもある私は、彼女の出身大学が、大学名に言及されずとも分かってしまった。

 

これは私の悪いクセなのだが、何かが推理で分かった場合に、それがクイズだったわけでもないのに、そのことを口にしたくなってしまう。

そして私は彼女に「あの地域にある大学ですか?」と、大学名でなく地名で訊ねた。

大学名でなく地名で訊ねたのは個人情報に配慮したつもりになっていたのだが、これはこれでキモいな、と改めて思った。

まあそれはとにかく、その問いに対して女性Fは「そうです」と答えた。

私の推理は当たっていたわけだ。

 

そうなると、私の悪癖はさらに加速する。

その地域にある大学、すなわちあの大学、そして学部——ということで私は、

「〇〇の母校ですよね?」と訊ねたのだ。

彼女は「はい、そうです」と言った。

改めて考えて、学部名だけ言われて、出身者を当てるのキモすぎる。

 

さて、そうなると私は、自分のものも訊ねられると思っていた。

自慢したいわけじゃなかったし、特に自慢できるような学歴でもない。

ただ、なんとなく話の流れとして、「あなたは?」が返ってくると思っていた。

いつも私はそれを予期せず人に質問をし、後悔するのだ。

「この休みどう過ごされました?」と訊ねると、決まって「あなたは?」と返ってくる。

その切り返しに、いつもうまく応答できない自分がいた。

だから、そのような「跳ね返り」があるものと今回は予期し、身構えていた。

しかし彼女は、それを訊ねてこなかった。

 

こういうと彼女に責任転嫁をする言い訳めいて聞こえてしまうだろうが、このケースで、男である私が——そう、男! なので、推理するのはキモさが伴う——訊かれてもいないのに自分から自身の学歴を言うのは気が引ける。

と言うのも、男から学歴を言うのは、偏差値はともかく、どことなくマウントの感が出てしまうからだ。

それはダセェな、と思って、言うのをやめてしまった。

 

これが一つ目の不均衡性だ。

私は、女性Fの学歴を知っていて、私のそれを女性Fは知らない。

そのことは、彼女が辞めるまでなんとなく引け目みたいなのになっていた。

また、いきなり学歴クイズを始めたことも、後々になって、キモいなという自責的な感情がじわじわと湧いてきていた。

だが、学歴クイズはいわば「確認作業」であり、それがなくとも私は彼女の学歴を、Confidence 0.8(0 < Confidence < 1)ぐらいで知っていたことには変わりがなかったと思う。

そして、その不均衡性に、私はやはり悩んでいたのだろうと思う。

 

これを生じなくさせるには、あのとき自分の方も少なくともヒントを出すべきだったのだ。

例えば「同じ文系ですね。私は法学部でした」とか、「私、文学部なんでそういうの疎いんですよ」とか。

あるいは、「学歴クイズ」のあと、恥を忍んでもっと直截的に自分の学歴も開示してしまうか。

時間が経てば経つほどに、「あのとき、〇〇大出身って言ってましたけど、自分、××大なんですよね」はキモさが増す。

どっちにしろ、学歴の話がぽんぽん出てくるなんて、キモさしかないのだから、それを受け止めるべきだったのだ。

だが私は、私が感じている不均衡性を解消できないまま終わってしまった。

 

また、あるとき、私は女性Fが別の人と話しているのを目撃した。

それだけならば、別に別になんということはない。

業務中に喋るななんていうわけじゃない。

どこにでもある普通の光景だ。

問題はそのとき、彼女が自分の最寄り駅を口にしていたことだ。

そしてそれは、私のそれと同じであった。

 

これが二つ目の不均衡性だ。

私は女性Fの最寄り駅を知っている。

そして偶然、彼女の最寄り駅と同じエリアに住んでいる。

しかし彼女は、私の最寄り駅を知らない。

 

住んでいるエリアの情報は、学歴よりも、もっとプライベートな情報だ。

学歴ならSNSのプロフィールに書く人もいるが、住んでいる地域までは書かない人が多い。

それは、それを開示すべきでない情報と捉えているからだ。

 

だが、図らずも私はそれを知ってしまった。

女性Fは同じフロアで働いていて、階層研修でたまたま一緒になったが、それだけの「よく見かける同僚」でしかない。

だから私も、同じ部署の人とかには雑談の中で最寄り駅を明かすことはあっても、彼女がそれを知っているはずはなかった。

 

しかしここで、その会話に「私も最寄り駅そこなんです!」と会話にいきなり入ることが悪手であることは私にも判断できた。

だから、「なんか、知っちゃったなあ」という思いだけを抱えてその場を去った。

 

「知っちゃった」というのは嬉しさではない。むしろ気まずさだ。

なんか、「知らない方が良かった」という感情の方が近しい気がする。

例えばプライベートで、私と女性Fが、最寄り駅の施設で会ったとしよう。

向こうは当然驚くだろう——気づかない可能性もある。そうなれば最高だ——。

しかし私の方は、彼女のようにはうまく驚ける自信がないのだ。

「まあ、いるよね」みたいな反応をとってしまいそうなのだ。

それを想像すると私は、私がキモくてキモくてたまらなく感じる。

 

立ち去った私は、しかし改めて気づいた。

後から「最寄り駅、同じなんですよね!」と声をかけるのもキモいということに。

というか、最寄り駅を知られている前提で異性に話しかけられるのは怖すぎる。キモすぎる。

だから、私が自分の最寄り駅を知らせる=不均衡性を解消する術はおそらく残されていなかった。

 

この二つの不均衡性を抱えて、以降、私は女性Fと接することになった。

私だけ彼女のことを多く知っている。

しかし、そのこと自体を彼女はあまり意識していないだろう。

だから、この不均衡性を隠して会話しないといけない。

かくして私は、女性Fのことを強く意識するようになった。

 

それは恋でもなんでもない。

ただの後ろめたさだ。

困っていることを知っていながら、早めに帰った、みたいな居心地の悪さ。

 

しかし、そのソワソワ感や、あわよくば——やり方は分からないが——不均衡性を解消したい、という思いは周囲にもバレるのだろう。

女性Fと同僚で、私とそれなりに交流のある社員からある日、「なんかキモい」と言われてしまった。

思えばあのときの私は、キモかった。

 

彼女は会社を辞め、私もその会社を辞めた。

だから、もう会うことはないと思う。

もし会うことになっても、最寄り駅以外の場所で出会いたい。

そうすれば、もう少し自然な反応ができると思うから。

自意識モンスターは歳を重ねても変わらないのだと、私は絶望した。

 

UnsplashLarm Rmahが撮影した写真 

『リズと青い鳥』感想: 彼女たちに許された特別な時間の終わり

リズと青い鳥』 (以下では、『リズ』と呼称し、作中の登場人物リズとは二重鉤括弧の有無で区別する)だが、素晴らしい映画である。

この映画については以前、こちらに移行する前のブログでも感想を書いたが、その記事を再構成して、このブログにも載せようと思う。

 

『リズ』を語る際には、スタッフがテレビシリーズと大きく変わっていることから入るのが良いだろう。『リズ』のスタッフは『映画 聲の形』と同様になっており、むしろ宣伝でもそのことが強調されていた。

スタッフの変更に伴い、キャラクターデザインも大きく変化しているが、ここからはテレビシリーズの池田晶子と『リズ』の西屋太志のセンスの違いだけでなく、『リズ』を、『響け!ユーフォニアム』のテレビシリーズ(以下、『ユーフォ』と呼称)とは異なる山田尚子のフィルムにするという意気込みも読み取れてしまう。

しかし、当然ながら『リズ』は『ユーフォ』のキャラクターたちを使い、その後の時系列の話を描くため、続編でないはずがなく、『ユーフォ』を観ていなくとも楽しめる作りにしたとしても、続編であるということ又は『ユーフォ』の磁場から完全に離れることはできない。

以上2点から、『リズ』を評価するに当たっては、『ユーフォ』とは手ざわりの異なるフィルムでありながら『ユーフォ』でなければならないという矛盾した要求に応えられているかどうかが大きな焦点となる。

そして私見ながら、それは十分に達成できていたように思う。

では、どのように上述の要求に応えられていたのだろうか。以下ではそれを書いていくことになる。

 


 

『リズ』の時間軸は『ユーフォ』の翌年の京都府大会前にあたり、3年生の鎧塚みぞれ(種崎敦美)と傘木希美(東山奈央)の2人の関係性が最後のコンクールを前に変わっていく様が、コンクールの自由曲「リズと青い鳥」および曲のモティーフとされる同名の童話に重ねられながら語られる。

リズと青い鳥」の些細な物語の紹介は公式ホームページに譲るとして、まずここでは簡単にあらすじを紹介しよう。

湖畔の家で一人暮らすリズ(本田望結)は、嵐の翌朝、家の外で青い髪の少女(本田望結(2役))が倒れていることに気づき介抱する。恢復した少女はリズと暮らし始める。その少女は果たして青い鳥であり、そのことに気づいてしまったリズは愛ゆえに少女を逃す。

童話の2人の関係は、みぞれと希美のそれに似ていると作中で幾度か言及される。また自由曲「リズと青い鳥」には、リズと青い鳥の2人の別離が描かれる第3楽章においてオーボエとフルートの掛け合いとなるソロパートが存在する*1。先ほどは童話に重ねられながらと書いたが、実際には、物語はこのパートをどう演奏(表現)すればよいのかという問いと共に進行する。

 

だが、吹奏楽をモティーフとしかつ特定の楽曲をキーアイテムとしていながら、物語全体は静謐さに覆われている。台詞は少なく、画面映えする動きのあるシーン*2もない。人間関係を描写する際に便利なのは、ぶつかり合い互いに本音を言い合うことで理解が深まるというストーリーや独白による内面の吐露だが、『リズ』においてそれはほとんど存在しない。

台詞やアクションの代わりに雄弁なのは、言いよどみ発されなかった台詞や細かな動き(作画による演技)である。

 

例えば冒頭のシーン。みぞれは校門から少し入ったところの階段で、希美がやって来るのを待っている。合流した2人は、先を歩く希美を追ってみぞれが着いていくように、ほとんど言葉を交わさないまま廊下を歩き、階段を登り、誰もまだ来ていない音楽室に入る。2人は少し離れた席に座るが、希美が絵本「リズと青い鳥」を取り出し譜面台に置き距離を詰める。

このシーケンスにおいて雄弁なのは、2人の歩く足音と距離感そして距離を詰めるという行為である。2人は仲良さそうに歩くが、しかし妙にずれ、地面や床と擦れるような音を立てる。これは2人の関係性をまず提示する。みぞれは希美の後ろを歩くので、階段を登るときみぞれは希美を見上げる形になる。これもまた2人の関係性を示す。自由曲のモティーフとなった童話の絵本を前に詰められたみぞれと希美との距離。みぞれが希美の肩に寄り掛かろうとするのは、音楽を通じて希美と繋がれるというみぞれの想いの提示であり、しかし童話の物語は、それがこれから変容しうることを示唆している。

フィルムはおおよそこんな調子で進む。つまり、台詞量は少なく、目立ったアクションもなく、ひたすら微かな動きと言いよどみを含みつつ進行していく。

 

また触れなければならないのは、フィルム上から《事件》が極力排除されていることだ。ここで言う《事件》、イベントぐらいの意味合いだ。

例えば劇中では、オーディションやプールといったイベントの存在が台詞で明かされるが、そのシーンそのものは描かれず、ただそれが終わったという結果のみが言及される。

特にオーディションは、『ユーフォ』ではその制度の導入初年度だったということもあって部内分裂に至りかける大きな出来事として描かれたし、そこまで行かずともそこには当落という非情さのドラマがあるはずだ。しかし先述の通り、そのシーンはフィルムから排除されている。

 

以上、静謐さと《事件》の排除という2つの特徴は、『ユーフォ』とは明らかに異なっており、その意味において『リズ』を台詞でなく表情や仕草、風景描写から内面を描く手法に秀でていると評価される山田尚子のフィルムたらしめている。

ここからは、『ユーフォ』がどのようなアニメだったのかを少し振り返る。

 

『ユーフォ』は2期に渡って製作・放映され、1期が黄前久美子黒沢ともよ)ら1年生の入部および滝昇(櫻井孝宏)の吹奏楽部顧問就任から京都府大会まで、2期が京都府大会後から関西大会を挟み全国大会そして3年生の卒業式までの物語となっていた。

1期冒頭は、久美子や高坂麗奈安済知佳)の在籍していた中学校の吹奏楽部の、コンクール結果発表の場面から始まる。吹奏楽部は金賞ながら上位大会に進出できない「ダメ金」という結果に終わる。部員らが金賞に歓喜するなか「悔しい」と涙する麗奈に対し、久美子は「全国、本気でいけると思ってたの?」と失言してしまう。

 

このシーンが象徴するというわけではないが、久美子はしばしば失言する。この失言が周囲の人間からの「証言」を誘発し、彼女のもとには多くの情報が寄せられることになる。

また久美子は、しばしば《事件》に遭遇する立場も担う。例えば、吹奏楽部への復帰を望む希美が初めに話しかけたのは久美子だったし、普段はしていない結婚指輪を着け亡き妻のためイタリアンホワイトの花を買う滝と遭遇したのも久美子だった。

 

作中で起こる《事件》の影響は、いつも合奏のクオリティが下がるという形で現れる。みんな集中を欠いた演奏をしてしまう、とかそんな風に。

そしてその《事件》は、本音のぶつけ合い自体やそれを重要な契機として起こる出来事によって解決に至り、北宇治高校吹奏楽部はコンクールで抜群の演奏をし、素晴らしい戦果を得る。

『ユーフォ』において素晴らしい演奏とは、メンバーが全員で一つの生命体であるかのように統合されることによって可能になるものとして描かれる。作中で幾つか起こる《事件》は、この一体感のカタルシスに向かうための困難ないし装置として用意されている。

 

『リズ』においては、2つのアイテムがフィーチャーされている。足音と希美の腕時計だ。足音については先ほども触れたが、これは足音に付随する歩くという行動および歩幅や移動といったものから「距離」と結びつく。

では、腕時計はどうだろうか。

『リズ』と『ユーフォ』の差異の1つに、画面上で《事件》が起こらないことがあると先述した。時計とは無論、時間と結びついている。時間について、2人の捉え方が異なっていることを示す箇所が2つある。

1つは、『リズ』劇中の3年生(みぞれたちの代)の多くが部の方針に反発し大量に退部した事件についてだ。このとき希美も退部したのだが、みぞれには声をかけなかった。『ユーフォ』劇中で《事件》となり、みぞれのトラウマとして描かれたのはまさにそのことだった。これについて希美は、昔のこと、と言うのだが、みぞれは、私にとっては今、というような旨のことを述べる。クライマックスも近いシーンのやりとりであり、この付近でピンクの腕時計がアップで映る。

だが、大事なのはもう1つの、コンクールに対する思いの違いだ。

 

希美は自由曲「リズと青い鳥」を演奏できるコンクール本番が楽しみであると語るが、みぞれは内心、本番なんて来なければいいと考えている。先ほどは時間の長さへの認識のズレだったが、ここでは来るべきある時間に対する認識のズレがある。

このズレは2人の心情の差異を示すだろう。とはいえ、楽しみ/来なくていいという思いはほとんど意味をなさない。何故ならば、楽しみにしていようがいまいが、時間が経てば本番はやってきてしまうからである。

先ほど、『ユーフォ』の特徴として続けざまに起こる《事件》を挙げたが、《事件》自体のシーンが排除された『リズ』を覆うのはこの否応ない時間の経過というテーゼである*3。時間は流れ、オーボエパートの後輩・剣崎梨々花(杉浦しおり)はオーディションに落ちるしみぞれたちと一緒にプールに行く。

 

コンクールの終わりは、3年生の部活引退を意味している。その後に待つのは次の進路に向けた活動(受験や就活など)と卒業式だ。

学校というのは不思議なところだ。ほとんど試験結果で測れる学力のみによって均質性を保証された生徒らが、同じような教育を受ける場であり、その他の要素は切り捨てられる。これは、特別なものと凡庸なものが同じように見せかける詐術の働く場を提供することになる。そして、特別/凡庸の対比は、『ユーフォ』で幾度となく繰り返されてきたテーマである。このテーマをハッキリと引き継いでいた故に、『リズ』は『ユーフォ』の正当なる続編であった。

 

高坂麗奈は、プロのトランペット奏者を父に持ち、彼からの英才教育を受けて育った。彼女のトランペットの腕前は超高校生級であり、1年生でありながら3年生で部のエースであった中世古香織茅原実里)を差し置いてトランペットソロの座を掴むほどだった。

そんな彼女の口癖は「特別」である。それが初めて明確に口に出されるのは『ユーフォ』1期8話である。

「私、特別になりたいの。他の奴らと同じになりたくない。だから私はトランペットやってるの。他の人と同じにならないために。」

これに対し、久美子は「トランペットやってると特別になれる?」と訊く。麗奈はこう返す。

なれる。もっと上手くなれば、もっと特別になれる。

自分は特別だと思ってるだけの奴じゃない、本物の特別になれる。

(『響け!ユーフォニアム』8話「おまつりトライアングル」より)

 

『ユーフォ』にはもう1人、麗奈とは反対に「特別」であることに対する思いを口にしないが、周囲から「特別」と評される人物がいる。3年生で低音パートリーダー田中あすか寿美菜子)である。本心が見えず、何でもそつなくこなしてしまう万能の天才。だが彼女の話は今回の主眼でないので触れるだけに留める。

この「特別」というキーワードが、『リズ』においては童話「リズと青い鳥」の、青い鳥の人間にはない空を飛ぶ才に重ねられながら語られていく。

 

『リズ』は当初、みぞれの視点に寄り添いながら進んでいく。これは冒頭で階段に腰掛ける姿がやたらと長く描かれることや、希美と2人で歩く際も2人を引きで収めたカメラから不意にみぞれ視点にカメラが切り替わることからも明示されている。

「私たちみたい」であるとして「リズと青い鳥」の物語が2人に重ねられるとき、孤独だったリズの生活に光を与えた青い鳥は希美に重ねられる*4。これには2人の過去が関係している。希美は、中学時代に友達のいなかったみぞれに声をかけ吹奏楽部に誘った。だからみぞれは吹奏楽部に入ったし、音楽を続けている。

物語の最後でリズは、青い鳥を逃がしてしまう。この別離は、みぞれのなかでは彼女が1年生のときの大量退部事件と重ねられる。知らされぬまま不意の出来事として希美=青い鳥を失ってしまった記憶と。そしてこの記憶ゆえに、自分をリズと重ね合わせていたみぞれは、青い鳥を逃がす気持ちが分からないからソロパートをどう吹けばいいのかわからないと苦悩する。

 

ここでは、みぞれの内に存在している、リズか青い鳥を分けてるものは人間関係を構築できるかどうかであるという論理が提示されている。南中時代は部長を務めた希美とそうでないみぞれ。部活帰りにフルートの後輩たちと一緒にファミレスに寄っていく希美とそうでないみぞれ。

私にとって希美は特別。大切な友達。私、人が苦手。性格暗いし、友達もできなくてずっと1人だった。

希美はそんな私と仲良くしてくれた。希美が誘ってくれたから、吹奏楽部にも入った。嬉しかった。毎日が楽しくて。でも希美にとっては私は友達の中の1人。沢山いる中の1人だった。

(『響け!ユーフォニアム2』4話「めざめるオーボエ」より)

しかし、本当にそうだろうか。希美が退部して以降も、みぞれは同じ南中出身の吉川優子(山岡ゆり)と仲良くしていた。少なくとも麗奈の目にはそう映っていた。みぞれが希美と遭遇し思わず逃げ出したときも、彼女を見つけた優子は「私には希美しかいない」と言うみぞれに、「なんでそんなこと言うの……そしたら、みぞれにとって私は何なの!?」と激怒している。

また『リズ』においてもみぞれは、希美の仕方とは異なるだろうが、仲良くしたいとアプローチをかけてくる後輩の梨々花と徐々にではあるが友好的な関係を築いている。多分、卒業式のときには抱きつかれて泣かれそうなくらいには。

だからみぞれの心の内にある論理は破綻しているし、実際、青い鳥は希美ではない。

 

リズの孤独を救った青い鳥を逃がそうと考え始める契機は、青い髪の少女が青い鳥であり、自分にはない空を自由に飛んでいける才のあることに気づくことである。だからリズと青い鳥を分かつのは、誰かにとっての特別というのでなくもっと明確なもの、能力を持つ/持たないの差、『ユーフォ』の言葉で言えば「特別」かそうでないかの差である。

そして吹奏楽において特別なのは、2人の間であれば間違いなくみぞれに軍配が上がる。希美とみぞれは、示し合わせたわけではないが進路希望調査を白紙で提出していた。しかし、滝が外部指導員として呼んでいる新山聡美(桑島法子)が、白紙で提出したことを聞いたとして音大を勧めパンフレットを渡したのはみぞれだけだった。

『ユーフォ』においても、希美が特別でないことは触れられている。田中あすかに許可を求めたい理由を「特別だから」と、特別の領域から少し引いたように答える場面もそうだし、何より花火大会のときの麗奈の発言が最も象徴的だろう。

辞めた方が悪い。辞めるってことは逃げるってことだと思う。

逃げたのが、嫌な先輩からか、同級生からか、自分からか分からないけど、とにかく逃げたの。私だったら絶対逃げない。嫌ならねじ伏せればいい。

私達は全国に行こうと思ってる。特別になるって思ってるんだから。

(『響け!ユーフォニアム2』1話「まなつのファンファーレ」より)

この台詞はこう言い換えられるだろう。「特別」であったなら、当時の部の空気がどうであったとしてもそれをねじ伏せられるはずであり、それができなかった時点で希美は「特別」ではなかったのだ、と。

また『ユーフォ』を持ち出すまでもなく、希美が青い鳥でないことは『リズ』から冒頭されていた。彼女は校門からすぐ近くの階段を登ったところで、綺麗な青い羽根を1枚見つけて拾いあげ、みぞれにそれを渡す。

このシーンは、青い鳥である希美がリズであるみぞれに施しをするシーンにも見えるが、それはミスリードだ。童話「リズと青い鳥」において、部屋に落ちている青い羽根に気づき拾いあげるのはリズであり、この行為により希美はむしろリズと重ね合わされているのだ。

 

みぞれは新山との会話のなかから、青い鳥の視点でソロパートを解釈し表現することを思いつく。そしてある日の練習で、みぞれは第3楽章をやってみたいと滝に進言し、彼女の新解釈による第3楽章が披露される。

この演奏が、また何とも素晴らしい演奏となっている。演奏後に、複数名の部員が駆け寄り「感動しました」といった旨を伝えるぐらいには。しかしこれは、この上なく残酷な場面でもある。

 

直前に希美が「わたし、音大行きたいのかなあ」と吐露するシーンがある。希美は、みぞれだけが新山から声をかけられた、みぞれが上手いことは分かっていると口にする。この発言を引き出したのは、麗奈と久美子が違うパートなのにおそらく遊びのようにやってみせた第3楽章の演奏を聴いたことである。

希美は音大に行かない理由として、フルートは好きだが好きとそれで生きていくのは違うというものを挙げる。特別であるということは、それで食べていくということ、つまりそれを「実弾」に出来るということ。それが自分には出来そうにない、と希美は口にする。

のびのびとしたみぞれのオーボエソロは、希美のほのかに感じていたみぞれとの差を顕在化する。『ユーフォ』において一体感の訪れる瞬間であったはずの演奏は、『リズ』においては分断・断絶を象徴する《事件》として表れてしまう。そしてこれが、『リズ』においておそらく唯一と言ってもいい《事件》である。

 

みぞれのオーボエは確かに私たちの感情を揺さぶる。しかしその感情は既に、みぞれが壁を打ち破れたことへの祝福でも、演奏そのものの素晴らしさへの賛辞でもない。圧倒的な断絶を軽く提示されてしまったことへの物悲しさである。第3楽章のソロパートは、オーボエとフルートの掛け合いが大事だ。しかし、こんな演奏をされては、そこにどんなフルートの音色を乗せられよう。

残酷な現実そのものとも言えるオーボエの音色を前に、希美は震える息でフルートを吹き抵抗するが、それはもう何の慰めにもならず、彼女は涙し、音楽室を抜け出すほかない。

 

みぞれは希美のもとを訪ねる。希美は、「わたしに遠慮して本気出してなかったんだね」とみぞれに言う。みぞれを遠ざけるように。

これは別に、くだんの演奏だけのせいではない。彼女がみぞれに嫉妬しているというのは、原作ではたびたび言及されてきたことらしい*5し、嫉妬していると思しき場面は『リズ』の中でも描かれている。具体的には、みぞれが新山から音大を勧められたことを聞いた場面がそうだ。つまり、前々から思っていたことがとうとう言語化されただけに過ぎない。

その言葉を受けてもみぞれは、希美が自分にとっていかに特別かを話す。そして、ハグしてお互いの好きなところを言い合う大好きのハグを求める。

さまざまな箇所を挙げながら「希美の全部が好き」というみぞれに対し、希美は「みぞれのオーボエが好き」とだけ答える。

 

みぞれはずるい。自分には飛ぶ才があり、それは誰しもが欲するものであるのに、本人はそれに対しあまりにも無頓着だ。

優子や梨々花といった人たちにも囲まれているのに希美を特別視し、彼女にあまりにも多くを期待し、持たせようとしすぎている。はっきり言ってしまえば「重い」。「希美のしたいことが、私のしたいこと」とまで言う。

 

上述のような性格や発言から、みぞれの闇がフォーカスされがちだが、希美のそれもかなり深いものと思われる。

何故ならば、そんな重いみぞれは自分に比べ物にならないーーと希美は思うだろうーー才能を持っていて、しかしあまりにも自分にベッタリしている。そのみぞれは、内心で何を思っているかわからない。

希美は梨々花に「のぞ先輩って、鎧の……じゃなくて、鎧塚先輩と仲良いですよね?」と訊かれ、「だと、思う」と曖昧な返事をするし、どこかでみぞれがまだ退部事件とその後の復帰を許していないんじゃないかと恐れている。

しかしながら同時に、希美はみぞれが今のままならいいとも考えている。自分を置いていくほどの上手さを発揮するのでもなく、また交友関係を広げるのでもなく。希美は、みぞれをプールに誘った際、みぞれが「他に誘ってもいい?」と訊いたことを受けて、一瞬顔が曇る。また、みぞれがフグに餌をあげていると言った際、「リズと青い鳥」中でリズが動物にパンをあげていることから希美は「リズみたい」と言う。不自然なほどに間髪入れず。

 

このフィルムが素晴らしかったのは、はっきりとしたセリフでなく世界観や人間関係を物語っていき、圧倒的な断絶である演奏シーンを描くことができたというのは言うまでもなくある。

しかしそれだけでなく、『ユーフォ』においては最終的に良い話だったよね、と有耶無耶にされていた2人の内面その暗い部分にもしっかり触れていた、いやだからこそ上記の演奏シーンになったということもまた素晴らしかった。

またこれらを黄前久美子という探偵なしに成り立たせたことも。

 

ラストシーンを前に、2羽でくっついたり離れたりしながら飛ぶ鳥が映る。またエンディング曲には、2本の線がくっつりたり離れたりという歌詞が存在する。あのような断絶のあとには、そんなありきたりな言葉はあまりにも軽く聞こえてしまう。

しかし、だからと言ってこのまま2人が悲しい別れを迎えると考えるのもまた早計なのだろう。

 

帰り道、2人はスイーツを食べようという話をしている。何が食べたいか。パフェ、パンケーキ、お団子。2人は「コンクール楽しみ」と同じタイミングで口にする。

音楽室の床に毛布を敷いていたとき、加藤葉月朝井彩加)と川島緑輝豊田萌絵)の会話。2人が同じタイミングで同じことを言ったとき、先に「ハッピーアイスクリーム!」と言った人は言わなかった人からアイスをご馳走してもらえるというゲーム。

みぞれは「ハッピーアイスクリーム!」と叫ぶ*6が、その会話を知らない希美は「アイス食べたいの?」と訊き、ここでもまた単に希美とそのゲームをしてみたかったみぞれと思いはすれ違っている。

だがこのすれ違いは、前のそれとは違う。

・みぞれの発言が元であり、それが帰ってくる前に希美が早合点したものではないということ

・みぞれもその勘違いを微笑みながら受け入れていること

この2点は、2人が模索してまた築いていく今までとは別の関係性の萌芽でもある。

*1:自由曲「リズと青い鳥」は、このパートばかりが演奏される。まるで他の部分は主眼でないことをアピールするかのように。

*2:例えば、『ユーフォ』1期12話の久美子の疾走。

*3:この「時間の経過」というテーゼ又はモティーフは、図書館で借りた「リズと青い鳥」の返却期限が過ぎていて、みぞれが図書委員に怒られるシーン又は同じ本を借りようとして前回の延滞を蒸し返されるシーンにも通じるだろう。

*4:だからこそ最初、先を歩く希美は階段でみぞれより高い位置におり、そのさまがみぞれ視点のカメラで映されるのだろう。

*5:原作は未読なので憶測でしか書けない。無論これは筆者の勉強不足の結果による。

*6:このシーンは、『ユーフォ』2期1話において麗奈が「3秒ルール!」と嬉しそうに叫ぶシーンの反復でもあるだろう。

ブログタイトルを変えました

ブログタイトルを変えることにした。

ブログタイトルとは住所みたいなもので——というとドメインの方が比喩に近しいのだが——コロコロ変えるようなものでもないが、さすがにちょっと、と思った。

なんだよ「めっちゃおなら出る」って。

 

このタイトルになんの含意もないわけではない。

こちらの記事に書いたように、私には空気嚥下症という持病がある。

menchblog.hatenablog.com

 

この病気は「呑気症」とも言うのだが、このほうが漢字からイメージが湧きやすいかもしれない。

要するに、空気をよく呑み込むのだ。

呑気症というのは、空気嚥下症ともいって、大量の空気を呑み込むことによって、胃や食道、腸に空気がたまり、引き起こされる症状のことです。その結果、ゲップや腹部膨満感、ガスなどだけでなく、胸焼けや上腹部痛などの症状がみられることもあります

オムロン ヘルスケア より)

そしてこの病気は、原因は第一には「ストレスとされてい」る。

私は、クラスで浮いていた中学二年生の頃からずっとこの症状と付き合っている。

だから現在のブログタイトル「めっちゃおなら出る」は、私を象徴する言葉だと、私自身が思いうる言葉なのだ。

 

しかし、そのような事情を知らぬほとんどすべての読者にとってみれば、これはあまりにもふざけていて、下品なタイトルであろう。

それにこのブログは、空気嚥下症の当事者性を押し出す内容でもない。

それよりは、雑記のようなことを主としてやっていきたい。

ならば、病気の「私を象徴する」タイトルは相応しくない。

また私自身は、その持病で「私を象徴」したいとも思っていない。

 

だからこそ、タイトルを変えたいのだ。

たまたま朝早く起きてしまった日に、その場のノリで作り直してしまった——同じはてなアカウントでもう一つブログを持っているし、なんならnoteからの出戻り民でもある——際に、あまり考えずにつけてしまったタイトルを。

 

タイトルは「ときめいちゃったんだトゥナイト」とすることにした。

特に由来は書かない。

有名な漫画がパロディ元なのだがあえて触れない。

 

アラサーの男が、三〇を超えた男が書くブログには相応しくなくも思えるが、

記事を寝かせて書くことなく、いわば突発的に書くという営みは、

「ときめき」を「してしまったんだ」「今夜」という謂は適当だろう。

 

そんなわけで、「ときめいちゃったんだトゥナイト」をこれからもぜひよろしくお願いします。

飽きなきゃいいな。飽きなきゃ、タイトル考えるとか、変えるとかしなくてもいいから。

何度もタイトルを変えるのはダサい行為なので……。

 

最後に、タイトルをそのままパクってやろうかと思った小説のリンクでも貼っておこう。

良心が咎めたというよりは、検索にヒットするかが不安だったためだ。

書きたいことを書く、アクセスも気にする。「両方」やらなくっちゃあならないってのが「個人ブロガー」のつらいところだな。

今どき「ブロガー」なんて聞かないけれど。

戦争や革命で亡くなった国が多くあるように、時代と共に消えていった言葉がたくさんある。

 

 

"火"と和解するための物語: 「君たちはどう生きるか」感想

宮﨑駿監督によるスタジオジブリ作品「君たちはどう生きるか」は、興行収入の上で快調な滑り出しを見せている。

一方、その作品評価については「割れている」と言ってもよい。

 

映画レビューサイトで評価が「1」と「5」に二分されている画像が出回った。

その画像の真偽はここでは問わない。

大事なことは、その画像がある種の説得力を持ち得ていたということだ。

そうでないと、あのように大規模な拡散はされ得なかっただろうからだ。

そしてこれを受け、評価が二分されていることを皆が了解していることを前提とした記事も著されている。

diamond.jp

 

しかし、果たして本当にそのような評価が妥当なのだろうか。

ここでは、私なりの感想を——Filmarksには一度書いたのだが——改めて、膨らませて、書いていこうと思う。

記事中にはネタバレを含むため、それを嫌う方はここで離脱することを推奨する。

 


 

上記の記事では、絶賛派と酷評派の感想に共通する要素として、下記の三つを挙げている。

  1. 内容が難しい。あるいは理解不能
  2. 過去の宮﨑駿監督作品の要素をいくつも見つけた
  3. 観客をだいぶ突き放して制作されている

この部分は、これらをどう捉えるかで評価が変わるのだと読んでも問題ないだろう。

 

これらの三つの要素について、私なりの感想を番号ごとに付け加えたい。

(1) モティーフは多いけれど、理解できないことはない。むしろ構造だけ見ればとてもシンプルな話である。

(2) 同じ作家が作っているのだから、モティーフの反復はむしろ起こって当然である

(3) むしろ観客に寄り添いすぎているとすら感じた

このうち (2) については、創作に関する思想がそのまま感想に表れるだろう。

つまり、同じモティーフを使うことは自己模倣なので避けるべきである、と述べることもできるし、先述した私の感想のように、自己模倣は当然発生する、と述べることもできる。

ここはそのひとの哲学によるものであり、そしてそれ以上でもそれ以下でもないので、ここでは私の考えを、先述したように、述べるに留める。

以下、(1) と (3) について、詳述していく。

 

(1) 内容が難しい。あるいは理解不能

これについての私の感想は、上述の通り「そんなことはない」というものになる。

ただし、モティーフや語りにおいて混乱が見られることは認めざるを得ない。

 

例えば、《上昇/下降》ないし《上層/下層》について振り返ってみよう。

これは多くの物語において採用される二分法であるし、宮﨑駿作品においても度々採用されてきた。

風の谷のナウシカ』では、腐海の《下》に清浄な空気のある場が用意されていた。

『天空の城 ラピュタ』では、シータは最初、空から降ってくる。

 

君たちはどう生きるか』においてだが、アオサギを捕らえたのち、眞人は塔の床が溶けるような形で《下降》の運動を強制される。

そうした辿り着く「地獄」*1は、そもそも《下》のイメージを持つ単語だ。

そして、「地獄」の《》」性は、フワフワが誕生するために《上昇》していく運動が描かれることによってより強調される。

 

だから眞人がアオサギと旅立ったあとの旅程は、《昇る》行程となる。

しかし一方、ヒミと合流したあとは、産屋を目指すため再度眞人は《下降》を余儀なくされる。

また、産屋のシーンを経たあとは、再度「王様」にヒミを捧げようとするインコ一行を追うため《上昇》を目指すことになる。

つまり、《上昇》と《下降》が一方向でないのだ。

 

また、《火》のモティーフの扱いも一筋縄ではない。

それはまず冒頭で、母を焼き、奪う炎となる。

病院が大きな火炎に包まれるその光景は、現実世界において何度もフラッシュバックして表れ、眞人を苛む。

しかし、「地獄」巡りの冒頭で、それは水先案内人のような役割を担うキリコにより、ペリカンから眞人を救出するための火となる。

しかし、フワフワをペリカンから守るヒミの炎は、同時にフワフワも燃やしてしまう。

だがその後、眞人はヒミと旅程を共にするし、産屋で大量の紙——それは式神を思わせるし、白に覆われるさまは、ペリカンに襲われる眞人の反復であるだろう——に覆われる眞人を救うのもやはり炎である。

このように、炎は、死をもたらすものとしてと同時に、死に抗するものとして、つまり相反するような形で作品内に存在することになる。

 

このような混乱は、やはり物語の破綻を意味するのだろうか。

そうは考えない、というのが私の立場である。

「炎」については、少なくとも物語の展開上の論理的な帰結であるとも思う。

上述したように、私はこれをとてもシンプルな話だと捉えている。

そのことについて、以下、記述していく。

 

まず、この物語の構造はシンプルな《生きて帰し物語》だ。

つまり、この世でない場所に出かけ、帰ってくる物語。

その過程で、その旅を経験する人物=眞人には、変化が起きなければならない。

では、その変化とはなんなのだろうか。

それは、《新しい母》=ナツコを受容し、《火》と和解するということだ。

 

物語冒頭にて、眞人の母ヒサコは入院中の病院の火災で死去する。

一年後、眞人の父シュウイチは、ヒサコに「そっくり」のナツコと結婚し、ナツコの実家のある地方へと疎開する。

疎開先の駅までナツコは車に乗ってやってくる。シュウイチはバスにより工場へ行き、眞人はナツコとともにナツコの実家へと向かうことになる。

この時点で、ナツコはシュウイチとの子を妊娠している*2

しかし、眞人はこの新しい家族に対し、あまり歓迎する気持ちを持っていないことが彼の表情から示唆される。

 

眞人は、何度も実母ヒサコの夢を見る。

しかしその夢のなかで、ヒサコはいつも炎に包まれている。

その夢を見て、眞人は涙を流す。

また、シュウイチはナツコに、確かな性愛の感情を持って接している。

それは、二人が接吻する場面を眞人が階段上から覗き見ることで、眞人にも知られるところとなる。

 

ここでは、眞人の、ナツコに対するアンビバレンスな感情が描かれている。

もといそれは、実母に対する郷愁の感情でもある。

アオサギはそれを利用して眞人を煽り、眞人の内なる暴力性は——自らつけた側頭部の傷としても物語上描かれるが——アオサギに向けられる。

 

眞人は机の上に積み上げた本が倒れた拍子に、実母ヒサコの遺した本を発見する。

その本は吉野源三郎君たちはどう生きるか*3である。

本の初めのページには、ヒサコからの直筆のメッセージが書かれている。

その本を読み、眞人は涙を流す。

新しい母であるナツコがいなくなったと屋敷が騒ぎになるのは、その直後のことであった。

 

この時点で、眞人はヒサコに対する郷愁を強く抱いている。

それは、ナツコを探すため使用人のキリコと共に洋館に入ったあと、アオサギが用意した偽物のヒサコに触れてしまうことでも示される。

眞人はこのあと、上述した「地獄」巡りを始めることとなる。

 

では、新しい母の「受け入れ」はいつ訪れるのだろうか。

それは、ヒミとともに産屋を訪ねる場面において、である。

 

産屋は子宮のメタファー(暗喩)として読むことができる。

細い道を辿り、開けた空間に辿り着くとき、おおよそこのメタファーが適用されていると言っても良い。

例えば村上春樹神の子どもたちはみな踊る*4での、細い路地を抜けた先の野球場もそうである。

綿矢りさ『インストール』で朝子が座り込むゴミ捨て場もそうであろう。

そして、子宮のメタファーたる空間を訪れることでなされるのは、登場人物の「生まれ直し」である。

 

この産屋にて、眞人はナツコに、元の世界に戻るよう訴える。

しかし、式神のような紙が、回転しだし、眞人の身体にまとわりつく。

それでも眞人はナツコに手を伸ばし、「ナツコさん!」と名前を呼んだあと「母さん!」と口にする。

 

この場面で眞人の身体にまとわりつく《紙》について、ペリカンを彷彿とさせる、と前述した。

しかしここが子宮であるという前提に立つならば、それは精子のメタファーとも受け取れる。

そのためこれは、下の子ども*5の誕生という事実に苛まれている眞人を表しているとも読み取れる。

その《受難》を経てなお眞人は、ナツコを「母さん!」と呼ぶのである。

つまりこれは、ナツコを下の子どものみならず、自らの母としても認めるということだ。

ここにおいて、眞人はナツコすなわち《新しい母》を受容する。

 

次に、《火》と和解するという点について述べよう。

これは端的に言えば、実母ヒサコを殺した火を受け入れるということだ。

そしてそれは、火を操るヒミが実母ヒサコと重ね合わされる——そもそも彼女はヒサコの昔の姿なのだが——ことで、運命を受け入れるということにも通じてくる。

またこの点で、この作品は二人の母(女性)をそれぞれ受け止めるという構造になっているのだが、これについてはここで触れるに留める。

 

物語上、《火》は当初、死を運んでくるものとして描写される。

もちろん冒頭で描かれる、火災による実母の死は当然そうである。

《火》は戦火にも通じる。

サイパン陥落のニュースに言及されるように、作中の舞台となる時点において、太平洋戦争における日本の戦況は芳しくないことが示唆されている。

史実では、アメリカ軍はサイパン島を手に入れたことで、日本本土空襲を本格化させることになる。つまり、爆撃により街が「焼かれる」ことが待ち受けている。

塔の最上部で出会う大叔父も、眞人に対し、現実世界を「火に包まれることになる世界」と形容している。

また、現実世界において、ジブリ作品でしばしば人気のあるシーンとなってきた、美味しそうな料理ないしその調理シーンが出ないことも注目に値する。

 

しかし同時に、「地獄」巡り以降、《死》やそれに対比される「生」は、それのみとして描かれなくなる。

新しく生まれ変わるフワフワが飛ぶエネルギーのためには、キリコによる殺生と魚の解体が必要である。

また、フワフワを食べようとするペリカンを退治するためにヒミが放つ《火》は、ペリカンのみならずフワフワも焼いて=殺してしまう。

またペリカンも、老ペリカンの告白により、死をもたらすだけの悪党としてでなく、そうするほかない運命を担わされたものとしての側面が明らかにされる。

すなわち、ある種アンビバレンスなものとして描かれるようになる。

 

そしてそれは、《火》についても同様である。

ヒミがペリカンを退治する炎を操るように、《火》は死から眞人を守るものとしても機能し始める。

上述した産屋のシーンでも、眞人にまとわりつく紙を祓ったのはヒミの火であった。

 

《火》の受容すなわち《火》との和解は、三段階で実現される。

(a) 危険を顧みずヒミを助けに向かう

(b) 大叔父から積み木を受け取ることを拒否する

(c) ヒミが(やがて火によって死ぬ運命にある)現実世界に戻るのを見送る

 

(a)については、物語の展開そのものであるから省略する。

よって、(b)と(c)についてここでは述べることになる。

 

(b)は、ヒミを追って最上階に辿りつき、大叔父に会いに行くところである。

大叔父は、「13個の穢れていない石」を眞人に渡す。

そしてその石を三日ごとに積み上げ、「世界の均衡を保つ」役割を引き継いでほしい、と言う。

しかし、その役割を眞人は拒絶する。

その論拠は、自身が側頭部につけた傷である。

その傷を指し眞人は、「この傷は自分でつけました。僕の悪意の印です」と告げる。

その後、怒ったインコ大王が積み木を叩き切り、世界は崩壊を始める。

 

ここでは「均衡を保つ」世界と、《悪意のある世界》が対比されている。

後者は《猥雑で暴力に溢れた世界》と言い換えることもできよう。

そこでは、《火》は《死》をもたらすものとしてはっきり機能する。

それは、戦火がそうだし、病院の火災がそうである。

しかしそれでも眞人は、《猥雑で暴力に溢れた世界》を受け入れる。

 

側頭部の傷を負う直前、眞人は別の暴力や悪意にも晒されている。

それは、疎開先の小学校の生徒らによるイジメである。

そこに描かれているのは、都会から来たイケすかない坊主である眞人をやっかむ、農村の子どもらの姿だ。

この「都会から来たイケすかない坊主」であり、また眞人の家が金を持った富裕層であることは、父親の運転する自動車により学校に乗り付けるシーンで、カリカチュアライズされた形で描写されている。

だが、このイジメはなにも、だからこそ起こった特殊な事例ではない。

疎開先に都会の子が馴染めないというケースは、戦争期には散見されるケースであり、ここや、軍隊経験から、知識人らが「大衆」に対する嫌悪感も抱くことになるという流れについては、終戦直後を描いた書籍に詳しい*6

 

それでも眞人は、《猥雑で暴力に溢れた世界》を受け入れるのだ。

それは、受け入れた新しい母ナツコにいるべき世界でもあるし、またナツコへのアンビバレントな感情への悔恨もそこにはあるのかもしれない。

いずれにせよここでは、受け入れたという事実が何より大事である。

 

そして最後、(c)は、崩壊する世界から脱出する場面で発生する。

眞人らは、廊下に並ぶ無数の扉から《正しい扉》を選んで現実世界に戻ろうとする。

しかし、ヒミのための《正しい扉》は、眞人のそれとは異なっている。

それは、ヒミすなわちヒサコの少女時代と繋がっている。

すなわちその先には、火災による非業の死が待ち受けている。

 

(b)の段階で、眞人は《死》の存在する《猥雑で暴力に溢れた世界》を受け入れている。

また、ナツコを《新しい母》として受け入れてもいる。

しかし、実母ヒサコが死ぬという運命は受け入れられていない。

もっと言えば、その《死》を自らみすみす見逃すことはできないと考えている。

ヒミが実母の化身であり、若い頃の姿であることは、あらゆる状況証拠からすでに明らかであり、そのことを眞人ももう認めている。

だから眞人は、ヒミに自分たちの時代へ来るよう訴える。

 

その提案をヒミは拒否する。

そして「あなたのお母さんになりたい」と言う。

これは、どのような運命が待ち受けているとしても、あなたに会いたい、という強い愛のメッセージである。

この《愛》は、遺された本を読むという過程を通じて眞人の感じる《愛》と結びつけて考えることもできるだろう。

それを聞き、眞人はヒミと抱き合い、ヒミが自身の少女時代に戻る扉を通ることを受け入れる。

ここにおいて、《運命》との和解が成立する。

それは、やがて実母を焼くことになり、また《猥雑》なエネルギーを持つ《火》との和解でもある。

 

「シンプル」と述べたわりに長くなってしまったが、「君たちはどう生きるか」が描いているのは、このような話であった、と私は考えている。

もちろんこの論考において、切り捨てられたものが多いことは承知している。

例えば現実世界パートでのシュウイチの活躍については全く触れていない。

だがこれは、眞人が、この二つを《受け入れる》話としてのナラティブを受け取った私による「選別」の結果として受容していただければ幸いである。

この論考における至らぬ点の責などは、無論筆者である私に帰する。

 

(3) 観客をだいぶ突き放して制作されている

さて、(1)についての話が長くなってしまったが、こちらの話もあった。

君たちはどう生きるか」は、観客を突き放していただろうか。

上述のとおり、私はこれについて「観客に寄り添いすぎている」とすら感じた。

ではどのような点からそう感じたのか。

それをこれから述べていこうと思う。

なおここからは、今まで以上に印象論による話が多くなることをご容赦願いたい。

 

私の宮﨑駿作品のイメージだが、まずワクワクする絵というのがある。

トトロっていたらワクワクするよね!

空にお城があったらワクワクするよね!

その絵をベースに物語られてるというイメージがあった。

しかし今回は、そうでないように感じた。

 

もちろん、アニメーションとして見るべきところはある。

ここで言いたいのは、絵が退屈というのではない。

言いたいのは、今回は、絵の魅力より、メッセージが重要視されたのではないか、という感覚があった、ということだ。

 

私は映画を観ながら、そして観終わった後に、宮﨑駿から直接に語り掛けられたような印象を持った。

もちろんこれは自惚れとしてではなく、彼はスクリーンの前にいる全員に、しかしできるだけ一対一で語りかけようとしているように感じた。

だからこその強いメッセージ性であったと思った。

 

これを、宮﨑駿も年老いて説教くさくなったな、と断じるのは誤りだと思う。

しかし同時に、加齢が原因であることも一概には否定できない。

どういうことか。

宮﨑駿は、監督作品において、全カットに彼自身の手が入るという体制での制作が行われてきた。

だが『君たちはどう生きるか』の製作において、宮﨑駿は絵コンテの制作に専念し、絵の方は作画監督に一任するという体制が取られたのだ。

www3.nhk.or.jp

 

私は、これが、メッセージが前景化したという今回の印象に寄与しているのではないか、と考えている。

そしてこれは、明言こそされていないが、宮﨑駿の老化と無関係ではないだろう。

 

さて、問題は、このメッセージの前景化および制作体制がいわば「普通」になったことが作品に与える影響である。

私はこれを、あまり良しとは受け取らなかった。

私は、もっとおかしくていい、もっとおかしな、老作家がいよいよ耄碌したと評せてしまうような、奇天烈な作品をどこか望んでいたところがあった。

であるから、こう順当な作品が来たことは、半ば「期待はずれ」でもあった。

 

しかし、無論、この動きを歓迎する人もいるだろう。

老作家が最後の作品としてこれを世に打ちだし、自分たちに語り掛けてくれる感覚。

それはたしかに、心を大きく打つ要素になりうる。

 

私に子どもはいないし、付き合いの深い親戚の子どももいない。

だが、例えば私に思春期を迎える直前の12歳ぐらいの子どもがいたとする。

あるいは、そのような年齢の子育てを一度経ていたとする。

そうした場合、この作品を見たら、めちゃくちゃ感動していたのではないか、という予感がするのだ。

その程度には、『君たちはどう生きるか』は、真摯な作品であった、というのが私の評価である。

 


 

以上が、私の『君たちはどう生きるか』の感想である。

あるいはこれを「考察」と呼んでもよいのかもしれない。

 

宮﨑駿は、「おそらく、訳が分からなかったことでしょう。私自身、訳が分からないところがありました」と語っていたという。

しかしそれは当然なのだ。

120分を超える長編には、監督の手を離れ跳躍を生む、監督にも「分からない」シーンが紛れ込むものだし、従来のやり方を踏襲しなかった今回において、宮﨑駿のなかにその感情が生ずるのは当たり前であろう。

 

私の「評」は、仔細に語ろうとすると上述のように長くなるが、短く言えば、これもまた極めてシンプルなものだ。

「難しく考える必要はない」

「興味があれば見ればいいし、分からないかもとか臆する必要もない」

そもそも、作品には作者の考える正解があり、それのみが正しいという考えが、誤っていると言っても過言ではないのだから*7

 

君たちはどう生きるか

眞人がどのように生きるかは示された。

それを受け取るように私たちは語り掛けられた。

しかし、私たちは命令をされるわけではない。

そこから「どう生きるか」の問いに向き合うのは、私たちの仕事である。

 

私たちはどう生きるか。

この問いは、まだ大きく開かれたまま残されている。

 

*1:作中でそう言及されていた記憶があるため、こう表記する。Wikipediaでは「下の世界」と記載されている。

*2:妊娠はその後の誕生を想像させるが、同時にこの場面で、戦争へ出征する男子=死のイメージが描かれていることも、触れても良いだろう。また直後、サイパンが陥落したことにシュウイチが言及する。つまり日本軍にとって戦況は芳しくない。

*3:実在する同名の児童書

*4:神の子どもたちはみな踊る』(新潮文庫)所収

*5:ラストシーンで弟であったことが明らかになるが、初めのシーンでナツコは「眞人さんの弟か妹よ」と述べており、性別を断定していない。

*6:小熊英二『〈民主〉と〈愛国〉』(新曜社)の第一部でも、丸山眞男らが同様の葛藤を吐露する文章が引用されている。

*7:尤も、明らかに誤読をしてミスリードを促すような行為な、倫理的と呼べないとも思っているが。

Web3.0ってなんだったんですかね

 

昨年(2022年)の11月に、OpenAI社がChatGPTを一般公開した。

いわゆる生成AIの一種であるGPT-3の大規模言語モデル(LLM)によって構築されており、ユーザは会話形式でAIに命令を出すことができる。

例えば、「適当な会社名10個作って」とかいうと、それっぽい会社名を10個羅列してくれる。

 

ChatGPTの反響が凄まじかったことは、私が述べるまでもないだろう。

アクティブユーザー数が1億人に到達するまでにかかった期間は二ヶ月。

TikTokInstagramの九ヶ月、二年半と比べると異常さが分かる。

 

おかげで、Twitterなどに跋扈する「情報商材屋」は一挙に「ChatGPTのすゝめ」をツイートし、挙句プロモーションするようになった。

スプレッドシートとChatGPTを連携させました! とか。

これに乗り遅れると新時代の人材になれません! とか。

なんだよ新時代って。

ONE PIECE FILM RED」じゃないんだから。

まあ、情報商材屋って『ONE PIECE』とか好きそうですからね。

 

閑話休題

私はここで何も、ChatGPTについて語りたいわけではない。

便利な使い方とか、その是非とかについて述べたいわけではない。

そのような記事なら世に腐るほど出ている。

 

私がここで触れたいのは、このブームの陰ですっかり忘れ去られたものについてだ。

つまり、一挙に《辺境》へと追いやられた哀しきものへの挽歌こそが、私の書きたいことなのだ。

みなさん、Web3.0って覚えていますか?

 

Web3.0は、明らかにバズワードとなっていた。

ChatGPTは少なくともOpenAI社のサービスを名指していると断定できるのに対し、Web3.0は使用者によってその言葉の射程が大きく異なっていた。

それは明らかに、自分にとって都合の良いWeb3.0を掲げ、自分のもたらす情報に価値があることを仄めかそうとしていたからだった。

 

なお、経済産業省は、Web3.0を次のように定義している。

Web3.0とは、『ブロックチェーン上で、暗号資産等のトークンを媒体として「価値の共創・保有・交換」を行う経済」(トークン経済)

経済産業省ホームページ より)

このWeb3.0もといWeb3は、もともとイーサリアム(Ethereum)の共同設立者であるギャビン・ウッドにより作られた用語だった。

しかし、ギャビン・ウッドがどのようにこれを提唱したのか、という元ソースの記事が見つからないため、Web3で目指されていた世界がどのようなものなのかを、いつかのサイトを見た上で要約し、ここに記そうと思う。

 

Web3とは、従来の中央集権型でなく、分散型で構築されるWebシステムのことだ。

そしてこれは一般的に、ティム・オライリーの提唱したWeb2.0、およびその比較対象としてのWeb1.0からの発展系として記述されることが多い。

歴史は発展的に進化する——進歩史観である。

Web1.0では、情報発信者が限られており、多くのユーザーは情報を読む(Read)だけだった。

Web2.0では、多くのユーザーが同時にブログやSNSを通じて情報発信者にもなった(Read & Write)。ただしこれにより、多くの個人データがBig Techのような少数のプラットフォーマーに独占される状況が生まれた。

対してWeb3.0では、情報などの所有権もユーザーに帰するようにしよう(Read, Write & Own)というのがその思想である。

そしてその技術基盤にブロックチェーンがある。

 

だが、この技術はいまだ過渡期にある。

技術者の数が少ないし、この思想がどこまで実現されるのかも不透明だ。

例えば「見かけほど分散していない」という指摘があるのもその証左の一つだ。

 

では、このような状態でなぜあんなにも多くの人が情報発信に熱狂したのか。

それは「金儲けできる」というストーリーを描きやすかったからだ。

 

2021年TwitterとSquareの創業者であるジャック・ドーシーが、自身の最初のツイートを表したNFTを250万ドル以上で売却した。

この辺りから、「あれ? NFTってめちゃくちゃ金になるのでは?」という空気ができ始める。

そして、2021年、日本の小学生(Zombie Zoo Keeper)が夏休みの自由研究としてNFTアートをNFTの大手取引所であるOpenSeaに上げたところ、べらぼうな値がつき、朝夕の情報番組で取り上げられることとなった。

これにより、Web業界やIT業界にいる人以外にも、NFTというものがなんか儲かるかもしれないらしい、という情報がインプットされた。

そして日本でも2021年から2022年にかけて、Adam byGMOや楽天NFT、LINE NFTといったNFT取引所が続々とローンチされた。

 

以降は、Twitterルノアールなどで見たり聞いたりしたことがある通りだと思われる。

「NFTに投機しましょう」

「NFTは複製ができません!」

「NFTはアート自体を保有できます!」

みたいなことが喧伝され、「このツイートうさんくさいな」という感じになっていった。

上述の「所有」(Own)の思想と切り離され、Web3.0はメタバースだ! みたいに言われたこともこれに拍車をかけたし、なんならMeta社(旧Facebook)がメタバースの開発に力を入れると言ったことも、結局プラットフォーマーがいるじゃないか、として上述の「分散していない」という批判の説得力を強化した。

かくして、Web3.0は「なんかうさんくさいもの」としての地位をほしいままとした。

 

Stable Diffusionなどの画像生成AIが2022年の上半期に上半期に発表されると、情報商材屋はすぐそちらに飛びついた。

彼らにとって大事なのは「情報」の鮮度だからだ。

彼らは、話題となったワードに、ハゲタカのように集り、犇めき合う。

また、NFTの情報で儲けるのに限界を感じてもいたのだろう。

私が思うに、NFTビジネスの参入障壁は、(画像)生成AIに対して高過ぎたのだ。

 

情報商材」の肝要なところは、この情報を買えば、自分でも簡単に儲けられる、と錯覚させることだ。

しかし、NFTビジネスにおいて儲けるのは、

  • OpenSeaなどにNFTをMintする(出品する)こと
  • 人気のあるNFTを購入して転売する(二次流通させる)こと

のいずれかが必要である。

 

しかし、一つ目は、やはりハードルが高い。

まずMetamaskをインストールして、Walletを作成して、Mintに必要なGas(手数料)のための暗号資産を保持して——と、少しばかり手間がかかる。

それに、そこまでしても、MintしたNFTが売れるとは限らない。

 

また、二つ目で儲けることも、一つ目に比べれば少しだけマシだがハードルが高い。

日本の取引所であれば、日本円での取引に対応しているところもあるから、暗号資産を持っている必要は必ずしもない。

しかし、国内の取引所はNFTの市場としては育ちきっていないのが現状である。

だから、転売によって十分に儲けられるほどのポテンシャルがそこにはない——よしんば売り抜けたとしても「お小遣い」稼ぎが関の山である。——のだ。

また、その中でもたまに売れる魅力的なNFTがあったとしても、それにはすでに高値が付けられている場合がほとんどである。

そうなると、それはとても「簡単」とは言えない。

もちろん、取引の多い海外のOpenSeaなどで取引所を使うという選択肢もあろう。

しかしそうすると、やはり暗号資産にまつわる手間を避けられない。

 

対して、生成AIのハードルの低さは凄まじい。

なぜなら自然言語で指示を出せば、AIがレスポンスをくれるのである。

そしてこれが生むもう一つの効果は「楽しさ」だ。

生成される画像が金になるかどうかは分からない。

しかし、分かりやすく「変化」が楽しめるさまは楽しいし、やりがいがある。

だから、「情報商材屋」の毒牙にかからずとも、生成AIには多くの人が飛びついた。

それは、HTMLを学習している際に、Hello, world! の文字の色を変えられたときのワクワクに似ていた。

そして、多くの人が触る本当の「ブーム」になったことは、情報商材屋にとっては願ってもない状況だった。

「気づいている人はもう動き出している」「いま始めないと乗り遅れる」というトークに、これ以上説得力を与えてくれるものはないからだ。

かくして皆が画像生成AIに熱中しているさなか、とうとうChatGPTがリリースされた。

 

Web3.0の夢は、道半ばである。

ビットコインに代表される暗号資産(暗号通貨)も、NFT取引も、その一部でしかない。

その先には、低コストで金融サービスを提供する分散型金融(DeFi)や分散型自立組織(DAO)の台頭などが待っているとされている。

また、グローバルなデータ共有基盤の創出だったり、サイバー空間とフィジカル空間が一体化したSociety5.0の基盤としてブロックチェーンは注目されている。

 

しかし、その将来像があまり共有されないまま、Web3.0はバズワードとして消費されてしまった。

こうしてまとめて見て思うのは、「あの時期やたら喧伝された『Web3.0』ってなんだったんですかね」ということだ。

その感覚は、「ハンドスピナーってなんだったんですかね」にちょっと似ている。

 

ブロックチェーンを使うことで、社会がちょっとでも良くなるのなら、ぜひそのようになってもらいたい。

そしてその道筋が、あのハゲタカどもによって潰えたのなら、やはりやつらは塵芥である。

 

そんなことを、少しだけブロックチェーンを齧って、あんまりよく分からなかった、オツムの足りない私は思うのだ。

Solidityでなんか書いたけど、全然うまく動いてくれず泣き腫らしたあの日の私にかけて、私は祈るのだ。

 

【参考URL】

Web3.0 (METI/経済産業省)

Web3.0(Web3) | サイバーセキュリティ情報局

ブロックチェーンとは?ブロックチェーン技術の仕組みや種類、ビジネス分野における活用事例などをわかりやすく解説

【NFT家族】母親のアートが13億円以上の取引総額になった理由。きっかけは9歳の長男だった | Business Insider Japan

 

* UnsplashShubham Dhageが撮影した写真 

みんなツイッターで壊れていく

私は、いわゆるアラサーと呼ばれる世代である。

ツイッターに代表されるSNSでは多様な人と知り合えるとはいえ、知り合いの知り合いみたいな広がり方が多く、またその知り合いも、共通の趣味などを介して知り合うことが多い。

そうなると、SNSでも、同世代の人と付き合うことがおのずから多くなる。

 

そういうわけで、私はいわゆるアラサー世代の発信を見る機会が多いのだが、

眺めているとなんだか、みんなが「壊れていく」過程を見せられているような気がして、なんだか妙な気持ちになる。

その分水嶺は、だいたい30歳にあるように思える。

 

さて、「壊れていく」とはなにか。

このように書いたからには、私なりのこの言葉の定義を述べる必要があるだろう。

私が思う「壊れていく」にある人は、主に下に示す二つの特徴を持つ

  • ミソジニーに染まったことを言う(こちらは男性に顕著だ)
  • 怪しい言説に基づき政治にまつわることを言う

 

ミソジニーとは、「女性蔑視」のことだ。

これはあからさまに「女はクソ」という場合もそうだが、そのほか、女性を「モノ化」して考える場合も該当する。

例えば、「恋愛工学」で称揚されるナンパも、女性を「経験人数」という数字に矮小化している点で、女性蔑視にあたる。

そこにあるのは、戦争で死者が数字になるような、人間の疎外である。

 

政治や社会に関心を持ち、それを発信するようになる人もいる。

それ自体は特に悪いことではないし、また個々人に思想や信仰の自由がある*1

だから、どのようなことを言おうと、それ自体に文句をつける気はない。

問題は、その論拠とするものが誤っていることが多いことだ。

というより、フェイクニュースを撒き散らすサイトが論拠とされていることがままある。

時には、「ゲーム速報」や滝沢ガレソのような、おおよそニュースのソースとは思い難いものを論拠としリツイートする人も見かける。

しかもそのようなサイトは、過激な言説を煽るので、より本人の主張が先鋭化し、攻撃的になっていく。

 

これらは、どうして起こるのだろうか?

どうして、30歳を境に起きてくるのだろうか?

 

クォーターライフクライシスという言葉がある。

人生を100年と考えたとき、その1/4に差し掛かる20代後半から30代半ばの頃に人生や自身の在り方、生き方などについて悩む現象のこと

カオナビ人事用語集 より)

私の書いた「特徴」は、すなわち「壊れていく」という現象は、

結局のところ、これを「原因」にしていることが多いのではないか、と考える。

しかし、これだけでは、横文字を使って、なにか言った気になっている、という批判を免れないだろう。

なのでこれ以降では、これを少し噛み砕いていこうと思う。

なお、この議論は、あくまで印象論や推論の域を出ないことはあらかじめご容赦願いたい。

それでも、内容に誤りなどがあれば、責任は私(筆者)に帰する。

 

25〜30歳あたりにもなると、己の人生の行末がなんとなく見えてきてしまう。

自分がこのまま、今いる会社に居続けた場合に、給料はこのぐらいになるだろう、という金の話にまずは行き着く。

それは、将来どこに住めるか、とか、どんな生活を送れるか、という話に直結する。

その意味で、自分の人生がどうなっていくのか、予想が立ってしまう。

ほんの少し前。学生だった頃には思いもよらなかった解像度で。

 

そうすると、人生を変えるビッグイベントを起こそうとする。

その一つが転職である。

そしてもう一つのメジャーな選択肢が、結婚および(妻の)出産である。

 

学生時代から付き合っている人がいれば、その人と結婚することになるだろう。

しかし、そうでない場合、この「クライシス」状態から結婚相手を探すことになる。

つまり、婚活を始めるわけだ。

 

婚活やマッチングアプリは、当然ながらマーケティング的なゲームの世界だ。

いかに他者と自身を差異化し、交際の先にある未来が明るいものであるとセルフプロデュースする術が必要となってくる。

このゲームで消耗した先に、くだんの「女性蔑視」ないし「女嫌い」が待ち受ける。

 

これは、選ばれない自己でなく、選ぶ相手にこそ問題があることから始まる。

あいつらが高望みをしているからだ。

そのようになっていくと、次第に、女性自身において思考の介在する余地を否定するようになる。

その果てに、この「思考への不満」は普遍化されていく。

これは明らかに「モノ化」の過程ではないか、と思われる。

 

マッチングアプリにおいて、ゲームに参加するのは女性も同様である。

実際に、マッチングアプリで成果が出ないことを話題にするSNSアカウントには、女性であることを開示しているものもいる。

しかし、彼女らにおいて、ミサンドリー(男性蔑視)が顕著であるという特徴は見られないように思う。

ここには二つの理由があるのではないか、と考える。

 

一つは、マッチングアプリが構造上、女性が男性を篩にかけることを前提としているからだ。

これはアプリのシステム面、つまりゲーム環境の点からそのようにデザインされている。

このため、アプリにおけるゲームで受ける心象が男女で異なることは十二分に考えられる。

もう一つは、女性の方が男性よりも恋愛話を同性間でする頻度が明らかに高いからだ。

これにより女性の方は、「ガス抜き」のようなことができるのではないだろうか。

反対に男性の方は、一人で悩みを抱え、「壊れていく」ことになるのではないか、と想定される。

 

なお、(妻の)出産がビッグイベントであると上述したが、これにもまず結婚していることが前提となる*2

そのためここでは詳細は避けるが、なぜこれが「ビッグイベント」たり得るのかも少しだけ記述しておこう。

それは、子供というのは「予想がつかない」からだ。

子供が何をするか分からないというのもそうだが、将来がどうなるかも、そもそもどのような子が生まれてくるかも、多くのことが分からない。

そのような子供を持つということは、人生に「不確実性」を与えてくれる。

人生の先が見えるような気がすることへの不満を解消するには、「もってこい」である。

 

さて、もう一つ、政治的な発言の方を取り上げよう。

どうして「政治にまつわることを言う」ようになるのか。

これは端的に、そのようなイシューに関心を持つようになるからである。

というより、年齢が上がってくると、関心を持たざるを得ないのだ。

 

なぜなら、自身が「わかりやすく」納税者になるからである。

学生時代も消費税を納めていただろうし、稼ぎが多いなどの理由で扶養に入っていない人もいただろう。

しかし、やはり納税ないし社会保険料を支払うことを強く意識するようになるのは、給与をもらい、給与明細を見ることになる会社員になってからの方が多い。

そして、こう思うのだ。

「あれ? マジで? こんなに引かれるの?」

 

また、私たちは、「日本は衰退する国家である」という言葉をたびたび目にしてきた。

人口(特に生産年齢人口)の減少、生産性の低下、国際社会でのプレゼンスの低下。

私たちはそのような国で、どうにかサバイブしなければならない状況にある。

その覚悟が決まってくるのが、およそアラサーぐらいの年齢なのだろう。

そのような「絶望」もまた、政治のマクロ的政策への関心を高めうる。

 

しかし問題はここから先で、いざそのようにして政治に関心を持っても、肝心の「政治」についてどう知れば良いのか分からない。

ひとまずネットなどで検索する。

すると、フェイクニュースを載せるサイトや、YouTubeのソースの怪しいゆっくり解説動画などがヒットする。

そうして、人びとは、怪しい言説(陰謀論など)に取り込まれていく。

またそのようなサイトは、より過激な発想を煽る。

かくして、人々は先鋭化への一歩を踏み出す。

あとは、SNSのエコーチェンバー効果により、その道はきれいに舗装されている。

「エコーチェンバー」とは、ソーシャルメディアを利用する際、自分と似た興味関心をもつユーザーをフォローする結果、意見をSNSで発信すると自分と似た意見が返ってくるという状況を、閉じた小部屋で音が反響する物理現象にたとえたものである

総務省ホームページ より)

 

人が「壊れていく」、言い方を換えれば「狂っていく」。

そんな過程を見せられるのは、あまり気分の良いものではない。

だが、そこには、さまざまな構造的な問題が横たわっている。

だから、その人だけを批判するわけにはいかない。

それでも、その「現象」は私をひどく落ち込ませる。

 

自分も、いつかこうなってしまうのだろうか。

あるいは、他者のことがそう見えているだけで、実は狂っているのは自分の方なのではないか。

そのような疑念も、私を苛む。

 

私は楽しくインターネットをしたいだけなのに。

楽しくインターネットをしたいだけなのに。

 

*1:私はここで、政治的アパシーや「中立」を称揚したいわけではない。

*2:日本では、婚外子はとても少ない

バカみたいな柄のシャツが着たい

 

タイトルのとおりだ。

私はいま、バカみたいな柄のシャツが着たい。

派手な柄のシャツを着たい。

とにかく、そんな気分なのだ。

 

詳述は省くが、私の最近の日々は「うだつが上がらない」。

そんなときは、否応なしに、気分も沈むものだ。

だから反対に、服から、気分が上々なやつを演じたい。

そんな気持ちになる。

だから私は、派手な柄のシャツを着たい。

それも、バカじゃねえの? ってぐらいのやつを。

 

しかし、ここで困ったことが発生する。

その「派手な柄のシャツ」をどこで買えばいいのか分からないのだ。

 

まず、ユニクロではあまり期待ができない。

あそこは、着ていれば無難な服を買うための場所であり、バカみたいなシャツを買うような場所ではない。

しかし、あそこほど、どの駅にも入っている店はない。

それ以外となると、実地で調べるには、まずどこに店舗があるのか調べる必要が出てくる。

それが存外に面倒臭い。

 

では、ネットで探してみるのはどうだろう?

ストライプ柄とか、花柄ならば、ZOZOでもそれを検索条件に指定できる。

しかし、私がほしいのは「バカみたいな」シャツなのだ。

花柄、ボタニカルなデザインが流行りらしいけれど、努めて流行に乗りたいわけじゃない。

「バカ柄」みたいな検索条件は、当然ネットショップには存在しない。

当然フリーワード検索でも「派手」とかで引っ掛かるわけがない。

自らそんなふうには名乗らないからだ。

 

そんなわけで、私は、「バカみたいな柄のシャツ」探しに困っている。

どこで、「バカみたいな柄のシャツ」を買えばいいのだろう?

BEAMSとかか? ZARAとかに案外あるのか?

もしくは、下北沢の古着屋にいけばいいのか?

さすがに、古着屋に行くのは、なんだか大麻とかやってそうで怖いぞ。

(当然これは、ただの偏見である)

 

ああ、バカみたいな柄のシャツを着て、夏を過ごしたいのになあ。

私の最近の日々は「うだつが上がらない」。

だから、服だけでも気分が上々なやつを演じたい。

そうすれば、なんか、そのうち気分も本当に上々と錯覚できるかもしれないから。

 

私は、派手な柄のシャツを着たい。

それも、バカじゃねえの? ってぐらいのやつを。

着たいなあ、そんなシャツ。どこで買えばいいの? そんなシャツ。