なにかし道場(仮)
「なにかし道場(仮)」という〝学び〟の場をつくります。
コンセプトは【〈その子〉と〈わたし〉の〝学び〟を考えよう】
以下が説明です。抽象的ですが…。
〈その子〉と〈わたし〉にとっての〝学び〟とは何でしょうか?
この問いの答えを考えるとき、ぼくは、従来の教育現場のやり方である「教えるー教わる」という関係だけでは語ることのできない〈わたし〉としてのあり方と、〈その子〉との関係があると感じています。
それはどんな本にも載っていない、または、メソッド化や、一般化もできない〈その子とわたし〉だけの〝学び〟なのではないでしょうか。
ぼくは、人は1人1人がそれぞれ違っていることを知っているからこそ、〈みんなが同じのやり方〉ではなく、〈その子とわたしのあり方〉について考えたいです。
なぜなら、ぼくはそこにこそ人が人としての本当に大切な〝学び〟があると信じているからです。
これまでの教育に関わる研修も「教えるー教わる」というやり方が多かったように感じています。
ぼくは、その枠を超えて、〈あなたとわたし〉から〝学び〟を考えてみたいと思っています。
さぁ、一緒に〝学び〟をはじめませんか?
「子どものため」から考える「働き方改革」の「考え方改革」
「子どものため」を考え始めたのは、初任者研修のときだった。 初任者研修のとき、合言葉のように出てきた言葉「子供が1番」。
この言葉に引っかかりを感じた。それは怒りとも似た違和感だった。
…
違和感を探っていくと、この「言葉」は教師を必要以上に頑張らせてしまう重たい言葉だということに気がついた。
そして、怒りの根源は、それを声高らかに初任者研修という場で“正義”として発せられていたことに対してのものだった。
土日休みに出勤すること、夜遅くまで残って仕事をすることが美化される風潮。
“指導”というマジックワードが付くだけで、その全てが教師の仕事として任されている実態。
今や「学校現場はブラックだ」と叫ばれ始めているけどまだまだ、本当にまだまだ考えていかなければいけないところ。
「子どものため」だから。
その「言葉」によって、教師が人として生きる権利がボヤけてしまう。
更に酷いのは、その「言葉」に従えない教師は、「教師としての自覚がない」というレッテルが貼られてしまうということ。そして、「子どものため」にできていない自分自身を責め、自分を傷つけてしまったり…。この「言葉」が教師を追い詰めてしまう。
初任者研修だからこそ気をつけて使わないといけない、そう思った。
それが怒りの根源だった。
…
とは言いつつも、〈子どものため〉や〈人のため〉に仕事をするって、とっっっても大切だし、そうしてるからこそ励みになったり、生きる活力になったりする。
確かに僕自身、〈子どものため〉がなかったら教師はやっていない。
なんとかこの微妙なニュアンスの違いを表現できるいいイメージをつくれないものか…。
…
僕がやっと辿り着いたメタファーは、〈子どものため〉や〈人のため〉は“土”だということ。
そして僕らは“植物”。
僕たちが生きる為に、成長していく為に〈子どものため〉や、〈人のため〉は必要不可欠。でも、それが僕たちに覆い被さってきてしまったら…。
たちまち僕らは枯れてしまう。
僕が苛立った「子どもため」という言葉の正体はここだった。土が上から覆いかぶさってきている状態。初任者研修で、土で埋められそうになる危機感が怒りとして現れた。
“土”と“植物”の関係ってそうじゃない。
“土”としての〈子どものため〉を栄養源としながら、自分を大きく大きく成長させていく。ゆくゆくは僕たちは、大きな大きな木となって、土の上に葉を落とし、本当の意味での〈子どものため〉に繋がっていく。
“土”で“植物”の成長を妨げてしまうこと、これは巡りに巡って“土”のためにはならないということ。
もしかすると、大きな木になるまでには時間がかかるかもしれない。でも、その成長は必ず“土”のためになる、そう信じること。
そして、“植物”は“土”から栄養をもらっているということを忘れないこと。
これがとっても大切だと思う。
…
去年、こんな素敵な本がでました。
ブラックからワクワクへ。とってもいいキーワード。
みらいの教育―学校現場をブラックからワクワクへ変える (ワクワク対話シリーズ)
- 作者: 内田良,苫野一徳
- 出版社/メーカー: 武久出版
- 発売日: 2018/10/23
- メディア: 単行本
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youtubeにも!
ブラックからワクワクへの提案。〈子どものため〉は“土”だってこと。これが僕の一つの答えです。
新年「あいらんど」宣言
明けましておめでとうございます。
2018年、「ブログ更新するぞ!」と意気込んだはいいけど、全然できず…
不甲斐ない…。
ブログ名に込めた「あいらんど」という思いを胸に。改めて今日から進んでいこう。
…
思えば去年は、「バレットジャーナル」「コーチング」「働き方改革」の三つが繋がったところから学びが始まった。
去年は、バレットジャーナルを実践し始めた年。
インスタグラムで見つけて「面白そう!」と思って、即この本を購入した。
ライダーさんには学習障害があり、集中力を欠きがちなために、学校生活に困難を感じることが多かったといいます。大事なことを即座にとらえ、ひと目ですぐ理解できる記録のしかたを試行錯誤し続けた結果、でき上がったのがこのバレットジャーナルというシンプルなシステムなのです。
インスタグラマーの方達のデザイン性の高いノートに圧倒されてたけど、この文を読んで、安心したと同時に、「連絡帳」のあり方にモヤモヤしていた当時、「うおー!!」って興奮したんだよね。
「連絡帳」をバレットジャーナルにしてみるって挑戦したきっかけになった。
まだまだ全然の実践だけど、これもちょっとずつアップしていきたいな。
バレットジャーナルのやり方、詳しくはこちらで。
バレットジャーナルのいいところは、
移行作業しながら、「これは本当に必要か?」と考えること
つまりは自分の目的に向かって、常に問いかけながら、毎日を丁寧に過ごしていくこと。
ここと繋がったのが、
この本。
「コーチ」っていうと、サッカーをやっていた自分からすると、なんか「ドリブルの上手くなり方」とか「シュートの打ち方」とかを上手に教えてくれる人というイメージだった。それはそうなのかもしれないけど、コーチの本業はそこじゃないってことに気づいた。
印象に残っているのは、目標と目的の違いについて。
「〜中略〜目的のための最終的な目印がゴールで、そのゴールまでの途中の目安や、通過点として置くのが目標なんですね。」
「〜中略〜目的、ゴール、目標の関係性を理解して、区別しながら、人生の様々な場面で設定することが大切です。」
鼻血がでるほど興奮したなぁ。
自分の「目的」をしっかりもつことの重要性がわかった。「コーチング」って、「目標」とか「目的」とか「ビジョン」を明確にすることを支えて勇気付けることなのかなって気づいたんだよね。
ちなみに僕が好きなコーチは、youtuberのクリスさん。
めっちゃいいです。
クリスさんの動画も、見つけたの去年かぁ。
そして、最後に繋がったのは、「働き方改革」。
当時は、「職場から早く帰ること=働き方改革」ってイメージだったんだけど、全然違ってたんだよね。
「働き方」の概念が崩れたのがこの本がきっかけだった。
働き方革命―あなたが今日から日本を変える方法 (ちくま新書)
- 作者: 駒崎弘樹
- 出版社/メーカー: 筑摩書房
- 発売日: 2009/05/01
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「働きマン」だった、駒崎さんが、ルー・タイスさんというコーチとの出会いをきっかけにして、「働き方」の概念が変わっていくという実体験を元に書かれた本。
そう、ここで「コーチ」が出てきてるところで、震え上がったんだよね。
僕は小さな組織の経営者なんて、忙しいのが当たり前だ、という自己のイメージを作り、それを繰り返していた。無意識のうちの思い込みが、職場に影響し、職場で働く社員に影響していた。〜中略〜
これは怖いことだ。「僕が」社員を殺してしまう、ということだ。「僕が」妻の自由を奪い取るということだ。全く知らないうちに。そして環境が原因だと思っている。
ではどうすれば僕は殺人者に、また最愛の人の監禁者になることを防げるのか。それは自分の自己イメージを書き換えることだ。
目標を言語化し、明示化することによって、とりあえずやることがわかってモチベーションが湧いてくる。そう思うと、今まで考えたこともなかったが、仕事を含めて人生全体、それ自身も仕事の、あるいはプロジェクトのようなもので、こうありたいな、というものを描いて、それに向かって手と足を動かしていくとゴールまでは意外と行けるかもしれないぞ、と。〜中略〜「働き方革命」によって仕事もプライベートも統合して、それを一つのプロジェクトとして捉えることで、日常の日々そのものが歯ごたえのある、やりがいのある毎日に変わっていくのではないだろうか?
「『働く』を『他者と自分のために価値を生み出すこと』」として捉え、「自分はどういう自分でいたいのか」という「ビジョン」を描くことで、それに向けて行動していく。つまり、「働く」という考え方自体を変える、これが「働き方革命」なのだと。
そう、「働き方改革」は早く帰ることが目的なんじゃない。
自分がどう生きたいかの先に、「働き方改革」があるんだということ。
この気づきは本当に衝撃的だった。
「バレットジャーナル」「コーチング」「働き方改革」という一見何にも繋がりのないぶつ切りだった3つが繋がった。
まとめると、「コーチング」の技術を踏まえて、自分はどう生きたいのかという「目的」、「ビジョン」、「目標」を明確に明示化した先に「働き方改革」があり、それを達成する最適なツールが「バレットジャーナル」といったところか。
…
あ〜、学ぶことが楽しい2018年だったなぁ。
そして、2019年。
僕自身の「目的」は、「あいらんど」って言葉に集約される。
・自分自身(アイ)の“プロフェッショナル”になること。
・「1人」でも「みんな」でもない、「1人1人…」(アイ&アイ)がゆるやかにつながっていく承認の社会を目指すこと。
・奪う人ではなく、常に与え続ける人(愛)になるということ。
さぁ、また「あいらんど」始めます。
大田尭先生とセンス・オブ・ワンダー
大田尭先生が亡くなられた。
大学時代、大田先生の言葉に勇気付けられ、支えられた。
訳あって、教育学部なのに、レイチェル・カーソンの生涯を調べた、大学1、2年生。
必要性は感じながらも、ただ事実を並べるだけで、教育学との繋がりを感じられずにいた。要はワクワクしていなかった。
そんなとき、大田先生の本と出会った。大田先生の言葉が、レイチェル・カーソンと教育を繋いでくれた。
以下、引用。
子どもたち一人ひとりのもつユニークな驚く心(センス・オブ・ワンダー)の中から、知性、道徳性、芸術性などと人たちが名づける人間の諸能力が湧き出てくると考えられます。残念なことに大人たちはこうした子どもたちを自分のような『今』の『大人』にするために、せっかちにもろもろの既成のマニュアルをおしつける傾きが強く、せっかくの活力に水をさすことになるのです。そして、それを子育て、教育と思いがちなのですが、子どもたちは、『明日の大人』世代として、この地球と、そこでの人およびあらゆる生きものとつきあう全く新たな主体となっていくのです。
あの活力にみちた子どもの内面にうずまく星雲とでもいうほかはないもの、感性、情動、そして世界の理によって探検せずにはいられない好奇心が一体となった『驚く心(センス・オブ・ワンダー)』の中に子どもの人権の座があるということです。『今』の私たち『大人』の常識、制度、もろもろのきまり(マニュアル)の枠組をも『はみ出る』、ほとばしり出てくる生命力と表現してもよかろうと思います。
生きることは学ぶこと 〔教育はアート〕 (第1巻) (大田堯自撰集成(全4巻))
- 作者: 大田堯
- 出版社/メーカー: 藤原書店
- 発売日: 2013/11/19
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この大田先生の言葉に出会ったときの興奮は今でも覚えている。
言葉から伝わる大田先生の教育への熱意と優しさ。
何か自分が認められたような気がして涙が出るほど嬉しかった。
このとき、「卒論」がワクワクするものに変わった。「学ぶことが楽しい!」というあの感覚は、自分にとって初めての経験だったかも。「生きることは学ぶこと」というこの本のタイトルがスッと体の中に入ってきた。
「卒論」は自分にとって大学での学びの集大成。そして、今の軸にもなっている。
…
迷いに迷ったけど、「卒論」を公開します。
一番の理由は、大田先生からいただいた、自分の中の遺産をここに残しておこうと思ったからです。
どれくらい読まれるかは、わかりませんが、魂込めて書きました。
穴だらけなのは百も承知。
言葉として表現しきれなかった部分もある。
日本語としておかしなところも多々あるでしょう。
何か感じたことがあれば教えていただければ幸いです。
…
最後に、大田先生本当にありがとうございました。
ご冥福をお祈りいたします。
振り子のその先へ。〜「個」と「集団」の考え方〜
去年1番向き合って、1番苦しんだ問い。
何となくまとまらなくて、「下書き」にしまってあった。
今改めて読み返してみて、これはアップしておこうと思った。
多分考えは変わっていく。でも、ここまで辿り着けたその成果をあげていこう。
自分の成長に敏感でいたい。
…
ここ1年のモヤモヤ。
「教育」で大切なのは、「個」を育てることなのか「集団」を育てることなのかという問いについて。
「教育」を語る上で、「個」と「集団」という2つを巡る論争は、避けては通れない。言葉を変えながらずっとずっと続いてきた課題だ。
「教育」は、「子ども」のためか「社会」ためかという二元論。
「詰め込み教育」もそう。
「ゆとり教育」もそう。
「アクティブラーニング」もそう。
「個別化」も…、そう。
「教育」は「個」か「集団」かをめぐって、振り子のように揺れ動いてきた。
新しい言葉が生まれても、そこに「個」か「集団」かという見えない付属要素みたいなものが付き纏う。
そしてまた同じ論議を繰り返していく。
「個」を育てることも大切。「集団」を育てることも大切。
それはよくわかる。
そして言われるのが、
「要はバランスが大切だよね。」
ってこと。
「バランス」
この言葉に対する違和感。モヤモヤ感。
共感する部分はもちろんある。
けど…、何か違う。
この言葉では教育の問題を解決することはできない…、と考えている。
僕の「バランス」って言葉に対するイメージは天秤だ。
「個」と「集団」が別の要素としてあって、2つのお皿の上、それぞれに「個」と「集団」が置かれている。
天秤が水平になっている。
それが僕の「バランス」が取れた状態を表すイメージ。
僕はこの言葉では、この論議を終わらせることができないと思っている。
もしある拍子に「個」が重くなって、天秤が偏ってしまったら…。
「バランス」をもとめて、僕たちは「集団」の重さを足すことになる。
そして、「集団」の方に重さが偏っていく。
そしてまた、「個」の重さを足して…。
これって結局、振り子のときとおんなじだ。
問題は、振り子の時だって「バランス」を取ろうとしていたということ。
なんだか「バランス」が悪い。
そうして、右往左往しながら揺れ動いてきてしまったんだ。
では、この問題はどう考えていけばいいのか。
この課題を僕なりに問うてきた中で、今のところの到達点を何とか言葉にしておきたい。
僕の答えは、「個」と「集団」は切り離されて議論されるものではないということ。
「個」と「集団」を別の要素として、それぞれ違うお皿に乗せてはいけないということ。
2つを合わせもった言葉はないだろうか。
ずっと考えていた。
そこで辿り着いたのは「1人1人」という言葉。
「1人」でもなければ「みんな」でもない。「1人1人」
強いて言うなら、「1人1人1人1人…以下略」
「1人」としていれる。でもどこかで繋がっている。そんな感じ。
「個」が育つこと、それは「集団」が育つことと同義。
「集団」が育つこと、それは「個」が育つ基盤であり、「個」が育っているという証明になる。
そこに、どっちが先か後かもない。
バランスなんかもない。
僕はこの大きな問いにこの考えで立ち向かいたい。
…
この問いには苫野さんと岩瀬さんの講義「教師の学校」を受けているときに出会った。
それは、岩瀬さんからの「学級はチームなのか?」という問いだった。
「個」か「集団」かという問い。
考えていたつもりだったけど、「乗り越える」だとか、「考え方の違い」に逃げていたんだと自分の甘さに気付かされた。
グサッと心に突き刺ささったあの感覚を今でも覚えてる。
僕にとっての大きな大きな「宿題」になった。
教員1年目、本当にこの問いに振り回されたなぁ。何より、煮え切らない考えで、子どもたちに迷惑をかけてしまった。うぅ…、反省…。
今では、この問いに出会えたこと、本気で向き合えたことは、とてつもなく大きな力になっている。本当に有難い。
この問いを考える上での必読書。『せんせいのつくり方』。
とてつもなくいい本です。
せんせいのつくり方 “これでいいのかな"と考えはじめた“わたし"へ
- 作者: 岩瀬直樹,寺中祥吾,プロジェクトアドベンチャージャパン(PAJ)
- 出版社/メーカー: 旬報社
- 発売日: 2014/09/25
- メディア: 単行本(ソフトカバー)
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この問いには何度も何度も戻ってくることになるだろうな。
何度も何度も吟味したい問いでもある。
さぁ、お次はどんな問いに出会えるのだろう。
自分の前提が覆される問いに出会うとワクワクしてくる。
何でもかかってこ〜い!!
「クエスト」から「あいらんど」へ
思い立ってブログ名を変更してみました。
大きな理由は2つ。今回はその理由についてちょこっと独り言。
1つ目は、「クエスト」って言葉もとってもお気に入りだけど、「あいらんど」の方がしっくりきたってこと。
「あいらんど」って言葉を思いついたとき「これだ!」って思ったんだよね。
…
「クエスト」って、とってもワクワクする言葉でとってもお気に入り。
もともとは「探求」って意味だけど、あの某大人気RPGゲームのおかげもあって「冒険」ってイメージもくっついてくる。
教員1年目、イエナプランでいうブロックアワーのような自習の時間を作りたくて、その時間の名前を考えていたときに見つけた言葉。
「自習の時間」っていうとなんかワクワクしないし、「ブロックアワー」もいいけどイメージがしづらいよなぁと、兄に相談してみた。
「クエストは?」「おぉ!!それだ!!」
早速実践!クエストタイム!!
「次の時間は、クエストタイムがいい!」
「クエストタイムはいつなの!?」
そんな声が飛び交う程、子どもたちに大人気の時間になった。
「クエスト」
岩瀬さんの言葉を借りると、学びのコントローラーを自分でもつこと。
無限の知の世界を自分を磨きながら冒険していく・・・本当にあのゲームのようでピッタリの言葉だ!!我ながら感動してしまった。
「こんなにワクワクする言葉だからブログ名にもつけちゃおう!」と命名。
これはこれでよかったんでけどね…。
さてさて、こんなに「クエスト」をベタ褒めしてきといて次に出てくる「あいらんど」をどう褒めちぎればいいか…。
…
一番の理由は、“僕らしい”ということ。
僕は、今の人生の半分以上、年数でいうとお年長さんから、小中高の13年間をとある島で過ごしてきた。なんていうか自分自身のアイデンティティみたいなものを島で培ってきた。
この島で過ごした13年間は、ちょっとした僕の自慢でもあるし、自信でもある。僕の根本、初心が島(あいらんど)って言葉に集約されている。
これだけでも十分ブログの名前を変えるだけの価値があるんだけど、もっと「あいらんど」って言葉には魅力があるなーって思ってる。
…
「あいらんど」っていうブログ名に込めた思いは3つ。
1つ目は、“わたし”のプロフェッショナルになる為に、このブログがあるってこと。(Iを追求していく=あいらんど)
「僕」は「僕」という人間を追求したいし、完璧な僕になりたい。
教育についてもっともっと知りたいし、よりよい先生になりたい。おしゃれになりたいし、好きな文房具や雑貨に囲まれて暮らしたい…。もっともっといっぱいあるけど、恥ずかしいのでここまで。
小学校の先生として僕は、岩瀬さんや沼田さんを大尊敬している。
・岩瀬さんのブログ記事、新たな気づき盛りだくさん。
・沼田さんの実践はこちらからワクワクしてきます。
岩瀬さんや、沼田さんの本を読んで、「こんな先生になりたい!」と思っていたけど、だんだんとそれはどうあがいても無理なんだってことに気がついてきた。
本を読めば読むほど、お二人の姿勢に感動するし、なるほどとも思う。
でもそれは、岩瀬さんだから、沼田さんだからできることなんだ。
今はただの真似っこになってしまっているかもしれない…。でもその中で、僕にしかできないことを見つけていきたい。僕は僕でしかないから。
今思うと、お二人は、唯一無二なんだ。僕はおそらくお二人の唯一無二感に惹かれていたのだと思う。僕も岩瀬さん、沼田さんのような唯一無二の先生になりたい。
このブログはそういう意味で、僕が僕自身のプロフェッショナルになるための1つのツールなんだ。
自分で自分を追求する、この意味で言えば、「クエスト」とけっこう同じ意味合いなのかもしれない。
…
2つ目は、ぼくの目指す社会。“わたし”と“わたし”が緩やかに「つながり」を紡いでいけるように。(IとIがつながっている社会=あいらんど)
自戒を込めていうと“わたし”のプロフェッショナルになること、これに終始するとちょっと危うい、と思っている。それは、いきすぎた利己主義になりかねない。
それは、本当に困っている人を置き去りにしてしまう社会になってしまうかもしれない。誰かが1人ぼっちになってしまうんだ。
助けてと呼んでいる人に気付けない、気付かない社会になってしまうかもしれない。ひょっとすると気付いても気付かないふりをする社会に…。
社会って、「社会」という枠組みがきれいな円でドンっと描かれているのではない。その「社会」ではやっぱり、「社会」という枠組みの中で、1人ぼっちがでてきてしまう。もしくは、無理に社会の円に納まろうと、自分らしくいることができなくなってしまう人も出てきてしまう。
社会ってそうじゃない。
一人一人が繋がりあっていて、地続きになっている。でもその繋がりは、決して縛り付けているわけじゃない、緩やかで誰かがそっと見守ってくれている感じ。
そうした緩やかな“つながり”の大きな外枠が“社会”なんだ。別にきれいな円じゃなくたっていい。形は一人一人で変えていける。
僕はそんな“社会”を目指したい。
…
3つ目は、愛がある学級・学校・社会を創りたいということ。(=愛らんど)
1人ぼっちの人に手を差し伸べられるか。それを喜びに感じることができるのか。
その人がいてこその自分でいられるか。その人をその人として受け止める愛をもてるか。
座標と同じだ。その人がいてこそ、その人との距離があってこそ、自分の位置がわかる。その人がいて初めて自分の居場所ができるんだ。
ゆるやかに“つながり”を紡いでいく愛が溢れている。そんな社会を創っていきたい。まずは自分が愛ある人にならないと。
「あいらんど」は、僕の根本からビジョンまでの軸を一言でいった言葉なんだ。
…
ここまで読んでくださった方は、ブログ名で何を大げさな話をしているんだと思われたかもしれない…。
まぁ、ここまでは、ブログ名を変更した理由の1つ目。
しかも本当の目的はもう1つの理由の方にあるのです。
「まだあんのかよ!」って言うツッコミが聞こえてきそう…。
ブログ名を変更した理由、2つ目。
「今年こそブログをコツコツ書くぞ!アウトプットするぞ!!」っていうちょっとした自分なりの宣言です。
はーい!頑張りまーす!!
『よい』教育ってなんだろう?
『よい』教育ってなんだろう?
小学校時代、先生が「よし」と思っていることが何となくわかってしまう僕は、いわゆる「いい子」だった。
「これを答えてほしいんでしょ?」「こう動いてほしいんでしょ?」それがわかってしまうのだ。
いわゆる“空気を読める子ども”だった。
こういう経験って僕だけのものではないと思う。先生に言われたから動く。先生が思っているから動く。
一例を挙げると宿題。自分は子どもの頃、宿題を自分から「やりたい!」と思ってやったことは一度もない(そもそも宿題ってもの自体、自分からやるものじゃないかもしれないけど…)。
やっぱり、先生がやってほしいと思っているから。やらないと嫌われそうだから。怒られそうだから。
「しょうがない、やってあげるか。めんどくさいな。」
そんな変な上から目線で宿題をやっていた。
逆に宿題をやってこない“空気の読めない子ども”は先生たちから厄介者扱いされたりして…。
そんな宿題をやってこないで怒られているクラスメートを僕は心の中で「バカだなぁ」と思ったりしていた。またまた変な上から目線で。
そんな僕は“やらされる”勉強というものをどんどん嫌いになっていった。
心の中で人を小馬鹿にするようになってしまっていった。
教育のあり方って、本当にそれでいいんだろうか?
この“違和感”は多分小学校の低学年の頃から思っていた。でもそれを言葉に表すことができなかった。先生に嫌われたくなかったから、言われたことを言われた通りにやるしかなかった。自分がどんどん悪い方向にいっていることにも気付かずに…。
もしかしたら、僕が小馬鹿にしていた“空気の読めない子ども”って本当は、「やめてよ先生!僕は学ぶことを嫌いになりたくない!」って心の中で叫んでいたのかもしれない。それを説明できないまでも、直感的に感じて行動に移していたのかもしれない。
それって、とっても人間的で僕より数倍頭がいいと思う。
中学校、高校時代はもう勉強なんて大嫌い。授業中は寝たり、漫画を読んだり、落書きしたり、先生の口癖を授業中に何回言うか数えたり…。
テストはもちろん一夜漬け。テストでは、平均点を取れればいいかなくらい。
いつしか僕も“空気の読めない子ども”になっていた。
「つまらない授業をする先生が悪い!」
またまた変な上から目線で言っていた。
一つの幸運は、反骨精神を抱いて学校の先生になろうと決意したこと。こんな先生たちにはなるもんかって。
そうして大学の進路は決まった。
僕がもっていた“違和感”をやっと言葉にできたのは、大学生になって卒論を書いている時。
何を書くか、自分が何を考えているのか、自分の“違和感”を言葉にすることができず、モヤモヤが募っていた。
本を読むのは苦手、勉強も嫌いな僕だったけど、先生に対する憎しみから「書かなければいけない!」「この怒りを卒論でぶつけたい!」そう思っていた。
ブレイクスルーは一冊の本との出会いだった。苫野一徳先生の『教育の力』だ。
教育とは何か、そしてそれはどうあればよいといいうるか。
〜中略〜とりわけこの数十年、日本の教育政策は、どのように教育をつくっていけば「よい」のかという指針を見失い、右往左往してきた感が否めません。
もちろんこの問いに絶対に正しい答えなどありません。しかしそれでもなお、「なぁるほど、たしかに教育とはこのような営みだし、このような教育なら『よい』といえるな」とだれもができるだけ深く納得できる“答え”は見出せるのではないか、わたしはそう考えています。
最初の言葉から引き込まれた。
自分の中の“違和感”がすっきりと言葉として並んでいた。
「腹に落ちる」、言葉では聞いたことがあったけど、実際に経験したのは初めてだった。
そのとき初めて、僕は自分が「『よい』教育とはなにか」を小さい頃から問いていたんだということに気がついた。そしてそれが未だに解明していないことにも。
今のところの出した答えは、誰もが生まれながらにもつ「センス・オブ・ワンダー」に手がかりがあるのではないかということ。
- 作者: レイチェル・L.カーソン,Rachel L. Carson,上遠恵子
- 出版社/メーカー: 新潮社
- 発売日: 1996/07
- メディア: 単行本
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「センス・オブ・ワンダー」を僕は「衝動」と「承認」の感度だと捉えている。それは平和への創造を導く可能性だ。その可能性を広げていく、伸ばしていく、教育ってそういうものなんじゃないのかな。
今僕は小学校の先生として働いている。僕が嫌いだった先生たちになるまいと日々悪戦苦闘している。そうして見えてきたのは、子どもの頃には見えなかった先生たちを取り巻く制度の問題。先生になってみて初めて、「先生が悪い!」とも言えない問題がたくさん見えてきた。
そしてそれが僕の小学校時代のように、またはそれ以上に、子どもたちにも伝わってしまっている。
なんとかしないといけない。
この僕の「衝動」を言葉として残しておきたい。
子どものため。先生のため。
それもそうだけど、まずは自分のために。
その一歩をここから始めてみようと思う。