自己愛の過剰摂取

メンヘラオタクが暇つぶしに何か書きます 

自己嫌悪

感情は思考を鈍らす。自分の理想を相手に押し付けて勝手に期待してしまう自分が嫌だ。

 

人を好きになることが嫌だ。人間にはそれぞれ思考があって感情があるのに、あたかも自分の都合の良いように相手のことを考えてしまう。本来好きという感情はただ相手のことを愛おしく思うためのものなはずなのに、感情の返答を求めてしまう。

 

隣を歩くのが嫌だ。ただ時間と空間を共有していればいいはずなのに、気づいたら相手を求めて触れたくて見て欲しくて醜くなる。ただ笑っていて欲しいだけなのに、その笑みをその目を私に向けて欲しくなる。

 

一緒に遊ぶのが嫌だ。ただ相手が楽しい時間を探して欲しいだけなのに、私もその感情の輪の中に入れて欲しくなる。私の楽しいことを相手にも楽しいと思ってほしくなる。私のわがままに付き合わせているだけなのに、さも相手も喜んでいると勝手に脳が変換してしまう。

 

一緒に××するのが嫌だ。相手の体を心を、私の快楽のために利用したくない。彼女の指が舌が私の気持ちいいところに触れて、ただよがって頭がびりびりしてしまう。私がただ気持ちよくなっているだけなのに、ただ利用しているだけなのに、彼女が私のことを求めているように思ってしまう。そう願ってしまう。ただ好きなだけなのに、ただ愛おしいだけなのに、どうして求めてしまうの。どうして触れて欲しくなるの。

 

ほんとはどう思っているかもわからないのに、どうしてそこに愛があると思ってしまうの。

生存報告

久しぶりにブログを開きました。いまだに閲覧数が更新されているようで、どういう人が開いているかはわかりませんがあまりにも更新がないのはどうなのかなと思ったことと、たまには自分の感情を言語化することも大切なのかなと思って近況を書いてみようと思います。

 

現状はいまだに精神科に通いながらフリーターを続けている状態です。特にこれといった出来事もなく、ただ死なずにだからといって何かを頑張れるわけでもなく生を続けています。

 

彼女のことに関しては本当に何も考えなくなりました。ただ、暑い夏の日になるといまだにあの時の情景がふと頭をよぎりインターネットで彼女のインターネットの名前を検索して少し思い出すということを繰り返しています。

あの時の自分は就職したてで、会社と自宅の往復を慣れないながらも続けながら空いた時間で彼女と通話する日々を送っていました。家が山の麓にあったので周りには田んぼしかなく、かろうじて歩いて行ける距離のコンビニに飲み物を買いに行くなどしてたような気がします。

若い頃は、人間の人生は極端に生と死があるように感じていましたが、今では生と死は地続きで繋がっており自分は今死へとのんびり歩いているような状態に感じます。

彼女はまだ若く、人生の全体像を掴むにはまだ先が長すぎて体を傷つけてしまうほどの苦しみを抱えていて死を選ぶ力を持っていました。

こうやって文章を書いていると、当時の情況が思い出されなぜ自分が共に傷つかことができなかったのかという後悔と、何度繰り返しても自分の愚かさゆえに共に生きていくことはできなかったんだろうという無気力感があります。

 

同じようなことをずっと書いていても仕方ないですよね。自分はいまだに生きてしまっているので生きているからには生を続けて死に向かって緩やかに進んでいかないといけないので、まだまだ苦しみの中でもがいていくと思います。

もう文字で謝罪しても仕方ないですよね。現に今まで忘れてしまっていたわけですし。

このブログを読んでいる方々も、おそらく生を全うできるわけではない人が多いと思います。これからも苦しみはたくさんあるかもしれませんが、人間は1人で生きていけず誰かの感情の一端を担っているように思います。死にたくなるほどの苦しみや悲しみは世の中にたくさんあります。けれども死以外の選択肢というものも世の中にはたくさんあるんじゃないかと思います。無責任かもしれませんが、生は死につながっています。しかし死んでしまったら生を続けている人たちはより苦しみを味わうことになると思います。私が何かできることがあったら言って欲しいです。私は自殺をすることができないので、生を続けます。人は1人じゃ生きていけないなどと言うのは簡単です。もし今辛かったし悲しかったり寂しかったりしたら誰かを頼ってください。私でもいいです。少しでも助けになれるかもしれません。

 

こんな偽善者のようなことを書いてしまいましたが、ただ単に自分が寂しいだけなのかもしれません。人間利用し合うものだと思います。

2021年7月

元カノが死んでしまったことに関して、彼女に会ったことのない人たちがインターネット内で悲しんでいたりYouTubeに動画を投稿していたりするようです。

 

自分は昨日が元カノが死んでしまった日であることを忘れていて、インターネットでそうツイートしている人がいて思い出しました。現実逃避も上手くなったものですね。

 

現状は精神科に通いながらバイトをして継続して現実から逃避している状態です。死にたいという気持ちも罪の意識を次第に薄くなっていて、何も感じずただ死から目を背けています。償おうという気すらなく、無くなってしまったものはしょうがないだったり、そもそも自分が人を支えられるほど強靭ではなかったり、死んでしまったのは自分のせいではなかったり、そういう逃げ道がだんだん増えていって死へと遠ざかっています。

 

自分ができることはなんだろう。死ぬことが最善であることは分かっているが、死は怖くて相当の覚悟がないとできないらしい。自分が死んだほうがいいと思っていて殺したい人間がいたら殺してください。連絡待ってます。あとは忘れないことは大事なように思います。自分は彼女にかなり近い人間であったので、彼女のことをそれなりにわかっている気もします。他にできることがあったら、教えてほしいです。

 

ご冥福をお祈りするなんて、殺した人間が言うべきではないし、もし次があるとするのなら、次は幸せになってほしいなと思います。自分みたいなだめな人間とは関わらずに良い人たちだったり、まぁ人じゃないかもしれないから良い仲間?とかに恵まれて欲しいです。もし次がないのなら、一緒に死にたかったです。一人で苦しい思いをさせてごめんなさい。支えるなんて偉そうなこと言えなかったから、せめて一緒に傷つければよかったなって後悔です。

生きている意味

「生きている意味はあるのか」という質問にうんざりする。世界中数多なる人間がいて、自分よりも頭の良い人間が山ほどいる中で、自分の納得できる生きている意味を誰も言っていないということは、生きている意味なんてものは存在しないということが少し考えれば分かることなのに、答えのない問にいちいちうじうじ考えているのは気持ち悪いなと思う。

 

まぁ自分も、このブログを読んでもらえば分かるのですが、永遠に同じことでうじうじなやんでいて、人のことは言えないんだけど、最近はちゃんと病院に行って薬飲んで早く寝て、なんとか努力して現実逃避しているので許してほしい。気持ち悪いものは気持ち悪いし、うじうじ考えている自分のこともあとから見返したら気持ち悪いと思っています。

 

けど、誰も生きている意味があると言っていないからと言って、そんなものは一蹴するのも良くない気がするのでちゃんと考えてみる。

そもそも自分が産まれてきたのは親のエゴであり、なんとなく子供がほしいという理由で作られたのだと思う。ということは自分は親の所有物なわけで、自分が生きている意味は親に生かされているからだと思う。殺そうと思えば殺せたわけだし。ということは生きている意味が欲しかったらとりあえず原点に戻って、自分が親の所有物であることを自覚して、親に何をすればいいかとか聞いてみるのがいいと思います。

自分は親のことが嫌いなので聞くことはないですけどね。

 

よくよく考えたら「生きている意味がない」とか言っている人たちは基本的に寂しくて他者に求められたいだけなので、「おれは〇〇ちゃんと一緒にいると楽しいよ」とか「おれは〇〇ちゃんがいないと嫌だな」とか言っておけば良いと思います。

 

他者の求める行動をし続けるのってめんどくさいですよね

2021年

もう遠い昔のような話。事実としてあったことも、時とともに脳内から薄れてしまっている。思いだそうとして、調べて見てみても本当にそんなことが合ったのか疑わしくって、本当は何もかも自分とは関係のない話なんじゃないか、と思えてくる。何もかも事実で、無くなったもの失ったもの確かにあったもの、たくさんたくさんあったはずなのに、ごめんなさい。

 

寂しくて人と関わる。間違えて嫌われる。そもそも本当に大きな間違いをしている人間なのだから仕方ないのだろうか。どうしたら正しくなれるのだろうか。いるのが間違いだとか、死ぬのが正解だとか、言うのは簡単だけれども、本当に正しいことへの距離は遠く、間違えるのはあまりにも簡単なのに、気づくことに遅れてしまう。

 

嫌だな、忘れてしまうのは。インターネットでよくわからない人間たちが未だに内容を呟いたり映像を見たりしているらしい。映像を見るなんてことは一生できないと思う。目を背けるしかない。謝ったって許されないし帰ってもこない。いつになったらちゃんと死ねるのだろうか。

 

もう関係のない生活を進んでいるのだろうか。それとも存在していないのだろうか。もしおれを見ているのだとしたら、どう思っているのだろうか。もし恨まれていたら、殺したいほど憎まれていたら、許された気持ちになるのだろうか。自分がどれだけ彼女の救いになっていたのか、どれだけ傷つけていたのか、わからないことばかり。

 

関わってしまった。好きになってしまった。間違えたくないな。何もかも。存在しなければ間違うこともないのに、死ねずに、どうしたらいい。答えなんてないんだよね。こわくて、醜くて、こんな夜中にうじうじ考えているのに、起きたらまたバイトとかするんだと思う。死にたいと思い、生きるために動き、何もかもから逃げている。間違い続けて、救われるわけでもなく、救えるわけでもなく、許されるわけでもなく、憎まれるわけでもなく、ただ死んだこと、何もしていないこと。

思い出

私は物持ちのいい方の人間で、気に入ったものをずっと使い続けるのが好き。元カノから貰ったこのイヤリングも、元カノと色違いで買ったこのワンピースも、私のお気に入りだ。

 

思い出の品というものが世の中にある。他人から見たらそこらへんで買える1万円くらいのイヤリングでも、彼女がくれたときの表情、このイヤリングをつけてでかけたときの楽しい時間、イヤリングをつけた私を満足げに見る彼女の表情、様々な思い出が蘇る。物と私の記憶がリンクして、感情が動くこの現象が好き。

 

「そんなイヤリングより、こっちのほうがずっとかわいいよ」

 

彼女は私が思い出の品をつけていることを嫌う。彼女の中には私しかいなくて、私の中にも彼女しかいない世界を望んでいる。彼女にとって過去は憎むものであって、良いものではないらしく、私の中の過去も同様に憎しみの対象らしい。

 

彼女がこれらの思い出を塗り潰そうと行動するたびに、私の中で思い出が増える。彼女が見たことのないアクセサリーを見て不機嫌になる顔、私が普段着なそうな系統の服をクローゼットから見つけたときの不満げな声。彼女は自分の愚かさや醜さを隠そうとせず、私にぶつけてくる。それはまるで子供のようで、おかしくって、けど愛おしくて、好きになる。

 

彼女は弱かった。何かを受け入れるにはまだ未熟すぎるようだ。けど私だってすべてを受け入れるわけではない。時に悲しくなったり嫉妬したりだってする。けどそれを表現するには、精神が摩耗しすぎてしまったように思う。彼女は未熟で純粋で、とても可愛らしい。私は彼女のそういう部分も好き。

 

そしてまだ、思い出の品を捨てずにいる。

わからない

生きている理由が何もない。生きていても何もいいことがないと思っている自分が嫌いだ。自分の容姿がもっと良ければ、自分の学力がもっと高かったら、きっとこんなことで悩む必要もないんだろう。仲良くしてくれる人もたくさんいて、社会的地位もあって、きっと精神病にもならなくて、好きな人を傷つけることもなかった。全ては自分が愚かであったから起こったことであって、自分が自分じゃなかったら、もっと楽しい人生を送れていたと思う。

 

人と関わりたいと思うのが嫌だ。自分には他者とコミュニケーションを取れるような価値がないのに、人として生きるため、社会の中で生きるために人と関わらなければならない。人として生きなければ、例えば俗世から全く離れて暮らしたり、死んだりしてしまえば、こんな悩みに囚われることもないのに、いちいち人間との関係について思考してしまう自分が嫌だ。

 

何もかも間違っている気がする。どこから間違えてしまったんだろう。産まれてきたときからか。もう取り返しがきかないんだろうか。生きているだけで苦しいことが多い。それは自分が生きているからで、自分が自分として生きているせいだからで、死んだり、孤独を受け入れたりしたらすべて解決するのに、逃げ続けている自分が嫌だ。