犬も歩けば

犬も歩けばなんとやら 日々の暮らしで出会う 些細な出来事や思いについて

検査のおまけ

ホルター心電図の検査機器をつけたあとは普段通り過ごしてください、と言われたが、何時ごろに何をどれだけやったか、という行動記録をつける義務を課せられた。

数項目あるうち当てはまる行動のところにチェックを入れ、時間やちょっとした説明を書くくらいなのでさほど面倒ではなかった。

 

問題はその用紙に書かれた、検査に対しての注意書きである。

 

携帯電話・PHSは使用しないように、ということと、体に貼った電極を触らないように、という内容。

読んだときには、既にそのどちらともやってしまっていた。

テープを貼ったところがどうしてもむずっとして手が行ってしまい、おっとっとと気づいてすぐやめはしたものの、ちょいちょい触ってしまっていたし、スマホも常時ではないものの、使ってしまっていた。

第一私自身が使わなかったとしても、電車で娘のところへ行くときには、スマホ包囲網の中にいるようなもの。

 

これが影響してうまく検査結果が出なかったら、検査代がもったいないよなぁ・・・などと思いつつ、一応自分だけはスマホを使うのはやめておこうと決めた。

 

翌日、用があって銀行に行くと、偶然かかりつけ医も来ていて声をかけられた。

実は・・・と事情を話すと、どちらも「そんなに気にしなくていいから」と軽く言われて拍子抜け。

でもやっぱり安心して娘のところへも出かけ、丸1日経った夕方、機器を外しに再びかかりつけ医へ。

外したあとは案の定かぶれていて、そのあとかなり痒みを伴ってボロボロと発疹が出来たが、家にあった痒み止めを塗ったらよく効いて痒みは比較的早く収まった。

 

結果が出るまで2週間ほどかかるということだが、その後は動悸が激しくなることもない。

ただ一度ああいう経験をしたので、その後は食生活など少し気を付けるようにしているし、血圧も日に数回計っている。普通にしていれば上が120~130程度。動悸が起きた夕方はかなり高め(180を超したことも)だったことを思えば、まあまあかといったところだろうか。

 

ようやく舅を送ったところ。

まだ姑が残っている。

彼女より先に逝く、なんてとんでもない!

なんとかは世に・・・というから、多分大丈夫だとは思うのだが。

 

通勤、そして異変

月曜から金曜まで、毎日娘の家に通っていた。

理由は、娘が先週初めて出産し、先週の日曜に退院。

実家に戻らず、というより戻れず、3月から住んでいる新居で育児することになったためである。

本来なら出産直後の心身ともに大変な時期、実家でのんびり過ごすべきなのだが、軽度とはいえ認知症の姑がいてそちらに手がかかることと、娘が赤ん坊を連れて帰っても居場所がないために、こういう決断をしたのだ。

 

同じ県内とはいえ、車で高速を使って1時間、一般道ならプラス30分。電車でも行けるけれど、向こうの駅から娘の家まで徒歩15分は充分かかるので、我が家の玄関から向こうの玄関までちょうど1時間、と言ったところ。

50を過ぎてから免許を取った私に、都市高速はハードルが高い。

一般道でイライラしながら往復3時間、というのも肉体的精神的にも苦痛。

消去法で残った電車を利用して「通勤」することにした。

 

一昨日で5日通ったことになるけれど、天気が悪く外仕事の夫が現場に出られないこともあって、水曜の帰路と金曜の往復は夫の運転で出かけて少し楽が出来た。

しかし、空梅雨気味の今年、夏至が過ぎたものの一年で一番日が長く、真上から太陽が照り付けて日陰がほとんどない道を15分歩くのは結構堪えるものがある。

おまけに往路はたいていの場合荷物が多く、重い。

これで体重がいくらか減ってくれればまだ報われる思いがするのだが。

 

ところで、この「通勤」の初日の明け方、私の体にある異変が起きた。

動悸がして目が覚め、やたらに大きく鳴る鼓動を観測?していると、規則正しく打つべき鼓動が時折「スキップ」するのである。

元々心拍数は多いほうなのだけれど、どういうわけかそのときはいつもよりややゆっくりめな感じで、一拍一拍が大きく、はっきりとしていたのだった。

 

普段の心拍数は比較的多いのだが、そのゆっくりさが妙に気になる。

もしかして、このままだんだん止まっていくのではないか。

 

という不安が沸き上がり、隣で寝ている夫に異変を訴えて、しばらく様子をみてもあまり変化がない。

 

落ち着かなくなって布団から起き上がり、着替えを済ませてしばらくすると、ようやくその動悸は収まっていった。

ただ、気味が悪い。

その日から金曜までの5日間は姑をショートステイに預けることにしていたし、「通勤」初日でもある。

このタイミングで、こんなことが起きるとは・・・

 

なんとかいつもの感じに戻ったので、予定通り姑を送り出してから娘の家に向かった。

私の役目は、要するに「家政婦」である。

主なものは食事つくりで、他に洗濯物を干したりたたんだり、掃除をしたり・・・と言ったところ。もちろん赤ん坊の世話の手伝いも。

娘にとって初の出産は、我々夫婦が初めて祖父母となったということ。

血がつながっているからかわいいのか、ただ単に小さいというだけでかわいいのか未だにわからないが、とにかくふにゃふにゃの赤ん坊はかわいいの一言に尽きる。

「通勤」は正直面倒だし大変だけれど、赤ん坊の寝顔を見ているとそんなことはどうでもよくなってくる。

 

初日の家政婦の仕事を終えて、急いで帰宅してかかりつけ医へ診察に出かけた。

心電図をとってみたものの、正常範囲内、とのこと。

頓服をもらって様子見となり、もし気になるようならホルター心電図を、と言われた。

24時間連続して心電図をとる検査だが、ここで問題になるのは私の皮膚。

顔はどんな化粧品を使ってもほぼかぶれることのないほどの丈夫さなのに(厚顔無恥?)、頚から下はちょっと何かを貼ってもかぶれやすい性質なのだ。

おまけにこの汗ばむ季節に風呂に入れないのは、厳しいものがある。

 

そんなわけで、翌日一日様子を見て特に何ごともなかったけれど、やはり一度ホルター心電図検査を受けてみることにした。

水曜、娘の家を少し早めに出て帰宅。お風呂を沸かしつつ夕食の準備も少ししてから入浴。これで一応昼間の汗は流せたことになる。

それから夜の診察に出かけ、器具を装着。

町医者でこの検査をするのはそれほど頻繁ではないためか、看護師さんふたりが説明書を見つつ少々手間取りながら取り付けていた。

ちょうど胃の真上にあたる部分に何本かぶら下がったコードをまとめて、太いテープ2本でしっかりと固定。

 

これを取るときは痛いかも・・・

 

まあとにかく着け終わって、検査開始。

ちょっと長くなってしまったので、本日はここまで。

 

縦横

パソコンにしてもスマホにしても、その表記はほぼすべて横書きである。

日々横書きを目にし、読んでいても、これが本や雑誌のような紙に書かれたものになると、私は急に読みづらさを感じてしまう。

もちろん文字の大きさや字間・行間の広さ狭さもあるのだろうけれど、横書きの本を読むスピードは多分縦書きのそれの2割減くらいではないだろうか。

 

読むばかりではなく、書くのも横は苦手。

多少書道をかじったことがあって、縦書きは行書の連綿という続けて書く方法で、読みやすいとかきれいに書けているかはさておき、横書きよりは少しは速く、そして幾分読みやすく書けているのではないかと思う。

それが横書きになると、

・まっすぐ書けない

・字の大きさがバラバラ

・横書きでもどこか続けて書こうとしてしまって、ミミズののたうち回ったような文字になる  などなどの理由で、自分の書いた文字が判読不能に陥ることがしばしば起きる。

 

これで困るのが、とったメモが読めない、ということ。

 

電話の途中でのメモくらいならすぐ書き直せるのでよいのだけれど、仕事などで少し多めの指示を書きとめるときなど、相手の話す言葉をとりあえず書くには書いても、後で見直すと

 

これは、何?

誰?こんなわけのわからないこと書いたの!?

 

はい、自分です。

 

という事態に陥る。

 

幸い私の職場(不定期なバイト)の上司はどなたもさほど気難しくなく、後で質問しても嫌がられることなく(本当は我慢しているのかも)きちんと応えてくださるのだが。

 

このときのメモは、苦手と言っているのに、どういうわけか縦ではなく横書きになっているから不思議。

それから、読んだ本から気に入った文章などを書き写すのも、縦ではなく横。

ノートの罫線が横だから、ということもあるのだろうが、そのノートを90度回転させてまでして縦書きで書こう、とも思わない。

 

仕事上、たくさんの申請書類など、手書きで書かれたものをよく目にするが、たまにとてもきれいで整った横書き(この手の書類はもれなく横書き)で書かれたものがあると、うらやましくてならない。

文字ひとつひとつが丁寧に書かれているのはもちろんのこと、大きさが揃っているのがキモのような気がする。

大きさが揃っていても、私のように、行のなかで字が踊ってしまう=上下にぶれると、それはまた美しくない。

 

そういえば舅が亡くなって、相続などで必要だった戸籍謄本を見ると、電子化された現代戸籍は横書きになってしまって、なんだか戸籍らしくないなぁという気がした。

しかし出生を記載した古い戸籍は、書いた人の文字が読みづらく、おまけに漢数字で昔の表記(例えば十なら拾、など)でよりわかりにくい。こちらはもちろん縦書きである。

そういえば、電子化された戸籍では、いわゆるバツイチのバツもない。【除籍】の文字があるのみ。(言っておくが舅に離婚経歴はない)

 

いずれにしてもこれから世の中はますます横書きだらけになっていくのだろう。

そのうち縦書きなのは国語の教科書かお経の本くらいになってしまうのかも。あ、時代小説も縦だよね、やっぱり。

 

 

捨て派

「捨て派」である。

昔からというわけではなく、結構いい歳になってからなのだけれど、そうなったきっかけは自分の片づけ下手を克服したいと思ったから。

 

面白いもので、同じ親から生まれたすぐ上の姉は、誰から教えられたわけでもないのに、子ども時代から整理整頓が得意で、机の上は常に片づいていた。

平屋の長屋住まいで独立した子ども部屋などなかったから、きちんとした姉の机と、ありとあらゆるものが山積した私の机はどうしても比較され、私はいつも親から片づけるように言われ続けていた。

そんな頃は片づけに対して面倒くさいという気持ちしかなく、それに一応自分でどこに何があるのか把握は出来ていた。貧乏だったし今ほど豊富にものがない時代(昭和40年代)だったから、ものがごちゃごちゃに置かれていても知れていた・・・と思う。

 

そんな私に片づけろと言う親、主に母親は整理整頓が得意だったか、と言えば、私よりは片づけていたかもしれないけれど、見た目にはすっきりとはしていなかった記憶である。

今のように収納用品が多種多彩にあるわけではないので単純に比較は出来ないものの、小津安二郎の「東京物語」に出てくるような、すっきりとした昭和の暮らし、というのとも違っていた。

それでもどこに何があるか、ということはちきんと把握出来ていたのだから、整頓はともかく整理は出来ていたということになるだろう。

 

結婚するまで実家にいて、私の片づけ能力は向上しないままだったが、夫の両親と同居ということもあって、あまりだらしない嫁と思われたくないとか、子どもには自分のようになってほしくないという気持ちもあって、子育てバタバタ期間が終わってから少しずつ整理収納についての本を読むようになっていった。

いろいろな人の本を読み漁ったが、大別すると不要なものは処分してすっきりさせる派、すなわち「捨て派」と、ものはたくさんあるけれどどれも好きでちゃんと見た目もよく管理出来る「捨てなくてOK派」に分かれていて、どちらの本も読んだけれど読んで腑に落ちたのは私の場合「捨て派」だった。

 

ただ、読んで得た知識を実践することはなかなか出来ずにいた。読むは易し行うは難し、というところだろうか。

 

当時我が家は6人家族で、そのうち結婚前の私のように、出したものをそのまま放置し、その上にどんどん積み重ねていく、という家族が数人。

それを姑が見苦しくない程度に移動させるのだけれど、そうすることで片づけない家族は片づけてもらうのが当たり前、のようになってしまった。

 

片づけ能力が身につかないままの家族は、夫、息子、そして舅の男3人。

その原因は、やってあげることが愛、と大きな勘違いをしてきた姑にある。

 

姑にも非はあるのだが、そんなふうに姑に手を出されるのが嫌で、彼女より先にものを片づけてしまった私もほぼ同罪ではある。

 

今は当時の半分、3人家族となって、ものの散らかり方もかなり収まってきた。

なにしろ散らかし屋だった舅が今年に入って亡くなり、息子もその後彼女と暮らし始めたため(結婚はしていない)。

 

ただ、3人家族には少々広い家には、使っていない、または使わないものが見えるところにも、そして見えないところにもうんざりするほど残っている。

特にもう絶対用のない舅の服など、彼の死後、認知症の姑がデイサービスで不在のときを狙って、かなりの量を処分した。

にも関わらず、まだまだ出てくる。

それほど数を持っていなかった舅の服でさえこれだから、姑のときはもっと大変だろうと考えるだけでぞっとする。

 

なので、自分の死後は家族に出来るだけ負担をかけないように、まずは自分のものから着ない服や使わないものなどさっさと処分するようにしたら、なんだか気分がとてもすっきり!

多分ものを手放すときに苦しい思いをするひとは「捨て派」にはなれないのだろう。

そういうひとに無理にものを捨てなさい、とは申し上げないが、生きていく上で本当に必要なものは、自分で思っているよりうんと少ないのではないだろうか。

 

もちろん私にだって、必要ではないけれど、簡単に捨てられないものはある。

それでも私が死んだら家族や他人にとってはただの不要品にすぎない。

死ぬときに持っていけるものなど何もない。

残りの人生を身軽に生きていくためにも、私はこれからも「捨て派」を貫く所存である。

 

蛇足だが、散らかし屋の息子と違って、娘は誰に似たのか整理収納が大得意で、今年引っ越した新居もモデルルームの如く、きれいに片づいている。

今どきの家なので収納スペースも充分あるにはあるのだけれど、ようやく子どもが生まれたばかり。これからどんどんものが増えていくにつれ、家のなかがどんなふうに変化していくのか、興味津々で見守りたい。

 

飽き性

はてなブログは初めてだけれど、ブログ自体はかなり長く書いている。

最初のブログが2005年の4月からなので、途中ブランクはあるものの、もう12年も書いていることになる。

飽き性の私としては、これはかなり稀有なこと。

でもブログを書く場は数年ごと、短いと数か月で替えている。いわゆる「引っ越し」。

実際の住まいはそんなにしょっちゅう引っ越すわけにはいかないので、せめてブログだけでも、というわけでもないのだけれど、なにかこう、ちょっとした変化が欲しくなってのことなのだろう。

 

私とは逆に、夫はひとつことを始めるとかなり長期間それを続けるひと。

とっかかりは時間がかかるのだけれど、お尻を一旦上げればずーっと継続できるのは、私にはまったく持ち合わせない才能だと思う。

でもたまに、やめるにやめられないのかも、とも思ったり(ただのやっかみ?)。

 

私は興味を持つ対象は決して少なくないけれど、いざ習い事とか新しい趣味を始めるとなると、まず資金面で気持ちがつまづいてしまう。

言い訳になってしまうが、夫の趣味はお金が結構かかるものばかり。そこへ私が何か始めようとするには、家計のやりくりをしてなんとか資金を捻出しなくてはならない。

 

それから、形あるものが残るようなもの、例えば陶芸とか絵画とか手芸とか、そういうものも後々始末に困りそうでなかなか手が出せない。

以前クラフトテープを使ったかご作りに凝った時期があったのだけれど、ある程度数を作ったらもう我が家では充分になってしまった。

かと言って、軽々しく誰かにもらっていただくのも躊躇する。

自分がそういう手作り品をもらって困った経験があるので、なおさらのこと。

なので手芸もしないわけではないけれど、作るのはもっぱら実用品。

 

作る、と言えばお菓子とかパンなどは食べれば消えてしまうけれど、体重や体脂肪の増かという要らないおまけがつきものだし。

 

そんな具合で、今の私の趣味と言えば、まず読書、そして美術・音楽鑑賞くらい。

音楽も若いひとのように、常に音がないといられない、ということは全くない。

運転中も無音。

これは私の耳の聞こえが悪いこともある。今も特に左耳がひどいのだが、耳鳴りが常時していて、最近よりその耳鳴りが大きくなっている兆しがあるため、余計な音はないほうが危険を察知しやすいから。

 

若い頃は自己流でピアノを弾いていた。

結婚するとき、アップライトピアノを持ってきたけれど、湿度が高いせいでピアノ線が錆びてしまったり、鍵盤を押すと元に戻りにくくなったりしたため、電子ピアノに買い替えた。

でもそれも弾く時間がなかなかとれず、いつしか物置と化したことと不具合も出るようになってしまったため、部屋の模様替えをするときにこれも処分。

夫がギターを(決して上手ではないけれど)弾いているのを見聞きすると、自分で演奏するのっていいなぁとやっぱり思ってしまう。

また電子ピアノでも買おうか、とも思うけれど、88鍵盤のそれはかなり場所をとってしまうため、今の我が家では置き場所がない。

それならば、とひらめいたのが、キーボード。パソコンの、ではなく、楽器の。

これなら少し鍵盤の数が少ないけれど、その分置き場所に希望の光がちらっと見える気がする。

 

おまけに、値段も電子ピアノよりお手頃だし(ここも重要)。

 

鍵盤楽器のよいところは、誰でも押せば音が出る、というところ。

上手になるかどうかより、今度は飽きずに続けられるか。そっちのほうが重要だ。