ランク帯の低い卓で半荘戦を打つメリットが薄いのは何故なのかの話

雀魂なんかでも銅~金くらいまでは「東風でいい」と言われます。

雀傑くらいまではポイント的にも半荘で打つほど収支が大きくならないので、50ptや30ptで昇段するには十分という点もあります。

くわえてサクサクと進行しやすいのでテンポが良いのも利点でしょう。

 

雀豪くらいになるとポイントの上下が100ptを越えてくるため、東風戦のトップ1回60ptほどではプラスに傾きにくくなります。

東風戦で雀豪以上となると相当戦績をよくしないとポイントを増やすのが難しい。4位率が15~20%では無理でしょう。それは通常の麻雀の戦績とはいえないくらいです。

だからこそ天鳳や雀魂で「東風戦だけで上位卓で昇段した」というのは話題にもなりやすい。

 

・ランク帯の低い卓では戦略が通じない

下位のランク帯で半荘戦を打つメリットが薄いのはこの点です。

上位卓では当たり前に通じる戦略が効きません。

そのために予想外のことばかりが起こって卓がメチャクチャになってしまい、予想も想定もできません。

 

例えば上位卓なら南場に入ってからダントツの人がドラポンの相手に無理押しなんて起こりません。「ツモられたらしょうがないけど、振り込むのはバカバカしい」と降りてしまうのが当たり前です。

ところが下位卓だとこれに何の手役もドラ赤もなく突っ込みます。

上位卓ならそもそも自分の手に打点があろうと勝負する必要のない場面です。しかし、下位卓では通用しません。点数が横移動して要らぬ世話を焼くことになります。

 

他にも下家への鳴きケアであるとか、親のリーチ、ラス目のリーチへの対応であるとか、下位卓の半荘戦では「黙って見ていればトップで終わりなのに自分から事故に遭いに行く」ということが絶えません。

こんなことされては周りは人の行動を計算に入れて打てないわけです。上位卓でもそれは無くはないですが、可能性としては低いです。

よく「麻雀なんて人の好きに打てばいい」というのはありますが、それでもやはり上位陣には通じるセオリーというものがあります。

 

ラス目の親を協力して落とすだとか、打点の高そうな相手に振り込まないだとか。それは別に誰がやっても同じになる行動です。

下位の卓ではこれらの押し引きができていないために「トップ目からわざわざラス目のリーチに振り込みに行く」といった自殺行為が当たり前に起こります。

玉の間でも雀豪1の打ち手はこういったことばかりしていると思います。それでは通用しないのが上位卓です。

 

「人のことなんてコントロールできるわけないがないんだから無駄だ」という返答をもらったことがあり、そのときは「まぁ、そうかもな」と思いましたが、今は「こんなことも判らないのが下手すぎるだけだろ」としか思いません。

麻雀は実力差がある者同士で同卓しても、卓が成り立たないゲームです。そのときは運だけになりがちです。「牌での会話」「読み合い」なんてものは成立しなくなります。

ただ運が良いだけの人が勝つゲームです。麻雀は確かに最終的に運ですが、その過程までも運任せなのは運ゲーが過ぎます。

 

正直、雀豪1以下の実力者と打つのであれば、こういった事故や自殺行為を考慮して諦めなければならないところがあります。

まぁ、雀傑クラスでもちゃんとできてる人もいますけどね。結局は人によるところが大きいですけど。単純なランク帯だけの話じゃなく。

久々にサブ垢で下位卓の半荘戦をやってみたら「おもんねー」「なんだこれ」と思った話でした。

 

 

麻雀はほどほどでいいな…の話

和了率23%、放銃率10%

聖坂になるとこのくらいの成績でも普通にポイントが減ります。上がったり下がったりするだけで安定しなくなります。なので10半荘や20半荘、100半荘や200半荘打ったくらいでは大してポイント変化しないのも日常です。

ある日、調子が良くて1000ptあっという間に稼いだとしても、すぐに調子を落としてマイナスになってしまうのも日常です。

 

そんな毎日を繰り返して、+50ptや+100ptを刻んでちょっとずつ上乗せしていくのが雀聖坂の状態です。

しかし、そうして積み上げたポイントもまた突然-1000ptしてしまったりします。そこで打牌が荒れてさらに-2000pt、-3000ptと溶かしていくのも珍しくありません。

麻雀配信者のこれらを見ていると、もう「上手いとか下手とか関係ないな」という気にさせられます。(メンタルゲー!)

 

Mリーグで打っているようなトッププロでさえ翻弄されるのが麻雀。「長期的に打てば実力が出る」とはいえ、それはつまり「運任せで実力ではどうしようもない」とも受け取れます。

以前も例えに出しましたが、この領域になると麻雀は「銃座を固定して、的のほうが射線に飛び込んでくるのを待つだけのゲーム」になります。

飛び出すポイントはランダム、飛び出してくるタイミングもランダム。それらが自分の狙っていたポイントと合致したときにだけ当てられる。そんなゲーム性になります。ひたすら「待ち」のゲームです。(釣り・・・じゃん)

 

ランダム性を相手にしたときに人間側が受動的になって、能動的にやることがなくなってしまう、というのはゲームとしては退屈になる面もあります。

パチンコはただボンヤリと眺めているだけで面白くない、という人がいるのと同じです。(スロットや麻雀も能動的な部分はあれど最終的には同じなんだけど…)

まぁ、疲れた社会人なんかにはそれがウケたりもするのですが。

 

そればっかりっていうのも飽きがきてしまうものでしょうから、っていうか、そのタイミングで麻雀に飽きるのが一番いいかもしれない。

やっぱり雀豪か雀聖になるくらいまでで十分ですよ。その先を続けて幸せになっている人を見るほうが少ない・・・。

みんな阿鼻叫喚しながら吐きそうになって呻きながら麻雀打ってる・・・。

 

 

労力と報酬の話

先日、ワケあって役所のレビューを眺めていたのですが、少なくない数で不評のレビューに「手続きや審査を散々やったのに申請が通らなかった」「手続きを通して最初はOKをもらっていたのに後からNGにされた」などなど不平不満が溢れていたのですが・・・。

まぁ、何らかの申請が通らなかったとして、その理由は行政から説明されていると思うので、それで納得できなかったとしたら不満が出るのも頷ける。自分が同じ立場なら同様に不満を覚えることでしょう。

(大体、理由も書いてあるけど8割が理不尽な事例なので役所がどうなんだと思ったけど、役所側の言い分を聞いたら話も変わりそうだけど)

 

この事例で憤る人が多いのは「これだけ手間をかけたんだから、報酬が得られるべきだ」と考えているからでしょう。

それは当然のことで社会に出てからタダ働きなんて御免です。趣味がボランティアでもない限りは、何らかの信念や理念がない限りは余程生活に余裕がない限りはボランティアなんてやっていられません。

だから「役所の申請や審査にかけた時間や手間」という労力に対して、「報われるべきだ(報酬や対価があるべきだ)」と考えてしまうのも普通のことだと思います。

 

低評価レビューにはそういった不満が爆発した人たちが大勢いるのです。

 

・麻雀も報酬は確約されない

息抜きに麻雀をするべきではない、というのは当ブログで度々語られていることですが。

上記の出来事と同じで「時間や労力をかけても、必ずしも報酬は得られない」というゲームだからです。

ただ「打った」ということのみで満足できればいいですが、ネトマの段位戦でそれができる人も、対人戦でそれができる人も少ないでしょう。

 

打つのであれば何かしら成果報酬が欲しくなるものです。トップを取って段位ポイントをプラスにしただとか、役満や高い手をアガって満足感を得られただとか。座学で勉強した成果が実感できた、などなど。

そういったものが一切ないまま終わってしまうのも麻雀です。そして「座ってるだけで何も無かったな、もう一局やろう」というのは無限地獄の始まりです。

それで寝る前にちょっとやるつもりだったのが気が付いたら朝方まで打ってしまった、なんてのはあるあるでしょう。

 

日本のRPGがゲームという分野において発展を遂げたのは、「努力すれば必ず報われる」という成功体験ゲーだからです。

ボスに勝てないならレベルや装備を強化すれば必ず勝てるようになるし、マルチプレイで友達や猛者に助けてもらってもいい。

条件さえ整えれば失敗することがほぼ無いのです。もちろん、それじゃつまらないと低レベルクリアや高難易度や縛りプレイをする変態も出てくるのですが・・・。

 

時間に限りのある社会人や学生が趣味や息抜きとするにはうってつけです。

夜に寝る前の21~0時までの3時間でゲームをするとして、十分な満足感を得やすいゲームです。

対してギャンブルというのは「負けるからこそ勝ったときの刺激も大きいが、必ずしも勝てるとは限らないもの」です。

 

その理不尽さやランダム性と向き合うには勉強となる部分もありますが、「息抜きや趣味に向いているか」と聞かれたら、私は絶対にNOと答えます。

中級者くらいまでなら成長は確実にあるので、そこまでは良いとしても雀魂で言えばやはり雀豪以上はやってもやらなくてもいい程度です。

そこから先の勝ったり負けたりは単なる上振れか下振れかのランダムによる部分が大きくなりすぎて、ゲームとしての安定性を欠きます。

 

それでもプロ雀士などは魂天に挑戦したりしていますが、一般人が娯楽としてそこまでやるのは負の連鎖であるように思います。

もちろん金玉ルーパーになって勝ったり負けたりして、段位が上がったり下がったりしていても、そのあたりの実力帯で打っているのが楽しいというのであれば結構ですが。

「勝ち越したい」になってくると地獄です。プロでも200半荘以上打っても、上下するのが普通です。安定することは絶対にありません。

 

そうなると精神を病みます。

息抜きの娯楽になんてなりません。劇薬みたいなものです。一歩間違えれば毒です。

摂取するのが難しい娯楽になります。

 

時間もたくさん使ったのに、勉強したり、休日を潰したり、寝る時間を削ったり、労力もかけたのに、それなのに見返りがない!

アプリのレビューを見ればそういった憤りと吹き溜まりみたいな低評価。

貴方もその仲間入りをしてしまう日が来るかもしれません・・・。もしかしたら、もうすでに・・・。

 

 

麻雀にフォールドが無いのは欠陥な話

ポーカーをやっているときに自分の手札がブタ(ゴミ手、価値の無い手)だと『フォールド』といって、ゲームに参加せずに降りを選択できます。プレイヤーは最小の罰符を場に支払って、後のゲーム展開は眺めているだけです。
ポーカーは賭け金をプレイヤー同士で吊り上げるゲームという面もあります。どれだけ強い手を張っていようと得られるポイントはプレイヤーが場に出したポット(麻雀でいう供託)だけになります。

いくら自分の手が良くないと言っても、だからといって相対的に相手が必ずしもポイントの高い手をアガるわけではありません。あくまで場に賭けられたポイントしか得ることができません。

 

だからこそ「自分の手が勝負にならないのにわざわざポットの賭け金を大きくする必要はない」「相手が圧倒的に強い手のときに最低のポイントしか稼げなくさせる」といった押し引きがフォールド(オリ)を選択させるのだと思います。

以前も書いていると思いますが麻雀にこの概念はありません。自分がどう見てもアガり目の無い手でも強制的に場に参加させられ、相手がツモった倍満などの点数をこれまた強制的に支払わされます。「こうなることが判っていても」です。

もちろん麻雀はランダム性の高いゲームなので必ずしもそうなるとは限りません。しかし、確率の上では「自分が負ける確率が高いのが判っている」状態です。それでも強制参加で、強制的に点数を徴収されます。

 

麻雀が理不尽なゲームだという側面がよく表れている部分だと思います。

自分の親番はもう終わって、持ち点も少なく、あとは国士でも狙うぐらいしかやることがない半荘で、親が何度も連荘して1時間も2時間も終わらないまま席に座らされる。ただの拷問です。麻雀にも投了を付けろというのも頷けます。

プロのリーグ戦の後半などは殆どそんな対局ばかりで見ているほうも正直飽きれてしまうというか、むしろそれでもきちんと打っているプロの姿勢は本当に凄いなと思ってしまいます。(まぁ、その場に居たらそりゃそう打つだろうけど…)

 

ポーカーのフォールドも点数はマイナスです。

しかし、そのことに腹を立てるプレイヤーはあまり居ないでしょう。人間というのは「自ら選択した」という概念がある限り、あまり腹は立てないのです。

逆にAのワンペアが手札に来たのに強制的にゲームを下ろされたらどう思うでしょう?「ふざけるな!こんなに良い手なのに!」と思うことでしょう。(麻雀は…まぁ、どちらかというとこちら側です)

 

麻雀でもオリることは多々あります。半荘…どころか東風を一回打つだけでも大半はオリになります。降りるだけで小一時間のゲームが終わることもあります。なのに参加しなければならないのは非常に怠い・・・。

そのうえ自分はミスなく判断して打っているのに点数を強制的に支払わされる。ストレスは溜まり続ける一方です。

まぁ、毎度言いますが自分がそう思う時もあれば、それを相手に味わわせているときもあるのだから文句ばかり言ってられませんが。(だからこそ麻雀は心に余裕がある時でなければ打ちにくい)

 

スポーツなどでも攻撃している時間よりも守っている時間のほうが疲れると言われます。体力的にも精神的にも疲弊しやすくなる。

逆に攻めているときというのはアドレナリンが出て興奮状態でハイになるので疲れ知らず。どんどん来い!となっているわけです。

麻雀も勝っているときは調子がいいですけどね、負けだしたり、ただ相手が勝っているのを眺めさせられているだけの展開が何時間も続くと・・・。さすがにいい加減ウンザリして席を離れたくなるものです。

 

 

損切りとかの話

なんか巷でマンガの「つまらない映画を最後まで見るか」みたいなエピソードが話題になっていて。

簡単に解説すると映画館でクソ映画を掴んでしまって、これ以上見ても時間の無駄ってくらいにつまらないので出て行ったほうがマシだという流れ。

でもそこで席を立つのはどうなんだ、という話。

 

マンガでは「興味が持てないなら見続けても時間の無駄だし、最後まで見ても別に払ったお金が返ってくるわけでもない」という観点から、「じゃあサッサと劇場を出て別のことをしたほうが時間の無駄にならない」という流れになっている。

ただ、映画館や鑑賞のマナーでいえば「最後まで見てやれよ・・・」という倫理的な意見もありつつ、合理性でいえば「見ても無駄なものは無駄」と漫画ではバッサリ切り捨てている。

まぁフィクションなので大袈裟に言い切っている面もあるとして、SNSなどではこれに対して「お金を払ったんだから最後まで見ないと勿体ない」という意見が少なくないのが気になるところだ。

 

このブログでも度々、例として取り上げているが「これだけやったんだから続けないと損してしまう」と思うのは、すでに冷静な判断力を欠いている状態だと言っていい。やめるに止めらない状況というのはすでに平静ではないのだ。

麻雀でもロジカルに「これは追っても損だな」「勝負しても自分が不利になるだけだな」という状況でも、「でも役満だし押したいな」とか「ずっとアガってないからチャンス手を崩したくない・・・!」と無理して放銃に回ってしまうことは少なくない。

これがいわゆるポーカーでいう「ティルト(冷静・合理的ではない状態)」だろう。

 

逆に攻め手でも「いやぁ、ここで満貫放銃してもラス落ちは無いんだし押していいでしょ」「この1pが当たる確率ほとんどないんだから勝負」といった判断ができるかどうかが分かれ目になることもある。

今回このSNS上の反応を見て、思った以上にほとんどの人は「ギャンブル慣れしていない」のだなと思った。

まぁ普通に生活していれば地道に積み上げていくことのほうが多いだろうし、無理に不確定要素の高いものに手を出すこともないと思っていることだろう。

 

ただ実際には実生活においても我々は常に不確定要素の高い選択を迫られているのだが、それに気づいていなかったり自覚していないだけのこともある。

人付き合いにしても「何年も付き合ったんだから結婚しないと勿体ない」なんて考えたら危険かもしれない。

麻雀の押し引きで言ったら「付き合った数年よりも、結婚後の何十年も過ごす時間のほうが長い」「一旦、結婚して離婚してからやり直すのと、いま何事もないまま別れるのとどちらがよいか」といったことを考えると、「よくわからんけど結婚すれば何とかなるだろう」はかなり危険なギャンブルだとわかる。

 

どれだけ詰めても未来はギャンブルなのだ。良いパートナーを見つけたと思って結婚生活を始めても上手くいかない可能性もある。(逆に結婚後にたまたま上手く収まるパターンもあるだろう)

麻雀をやっている我々にはよぉ~~くわかることだろう。これ以上ない正解を選んでもハズれるときはハズれるのだ。かと思えばハズれを選んだと思ったのがラッキー自摸になったり・・・。

だからといって確率の低いほうを常に選んでいたら負けが込む。外れても正解を選び続けるのがギャンブル・・・どれを選んでも常にギャンブル。

 

ギャンブルっていうのは、そういうもの・・・。

 

 

AIとの対戦の概念の話

昔はチェスや将棋でも「人類はAIに負けるな!がんばれ!」といった考え方が主流でした。しかし今では「人類がAIに勝つのは難しい」というのが結論づけられているでしょう。

将棋における人間とAIの戦いである電王戦も2010年頃には正着で勝つようなパターンは無くなり、どちらかというとプログラムの死角や隙をつく、不具合を利用した打ち筋になっていました。

麻雀で言えば第一打に必ずドラや赤を切ることでAIが正常な手順を踏めなくなり自滅する、というようなものです。

 

それは実戦的ではないわけです。ゲームいえばバグ技や裏技とでもいうような。それを100戦続けたとしても麻雀や将棋が上手くなることはないのです。

ダークソウルなどのアクションゲームでも「ハメ技」で相手を倒すことは可能です。「この地形に誘導したら相手は攻撃できないので一方的に攻撃して勝つことができます」という攻略があったとして、それを100回繰り返したところで「アクションゲームが上手くなった」とはならないわけです。

そのことは皆さん自覚的だと思います。

 

では正面きってチェスや将棋や囲碁や麻雀のAIと勝負して勝利を目指すのかという話。

ここで勝ち負けを持ち出すのが「旧い価値観なんだな」と思ったのです。

おそらく麻雀に限らずAIと対戦する事の利点は「全員が正着で打ってくる」という点だと思われます。

 

人間と対戦すると、どうしても「紛れ」が起こります。

麻雀の段位戦など余計にそうです。クリックミス、エイムミスのようなヒューマンエラーの他に、打牌の選択ミスや考え方の損もあるでしょう。

そうなるとそれに影響されてこちらも変な手順を踏まざるを得ないことが出てきます。

 

それは麻雀(卓上ゲーム)の勉強としては歪みが生じるわけです。

王座の間や天鳳卓であれば、そういった「なんでダイミンカンしたんだ!?」とか「オタ風からポンは何かあるのか!?」というケースにおいて、「実は何もなかった」なんてふざけた展開は無くなっていくでしょう。(ブラフはあるにしても)

玉の間くらいだとこういったケースが無数に出てきてしまうわけです。

 

それだったら正着を打ち続けるAIと打ったほうが練習になるんじゃないのかという。

チェスや将棋も下手な打ち手とやるよりは「勝ち負けではなく、勉強相手としてAIがベストなのではないか」という考え方が出てくる。

もちろんAI相手に勝てない勝負を一生続けていても、それはそれでよくないとは思います。しかし打ち方のクセを無くすとか、調整という意味ではAIを相手にするのが良いのではないか。そんな風にふと思いました。

 

旧世代としてはAIを相手に「勝つか負けるか」という思考がどうしても入ってきてしまう。しかし、そこに価値を持つべきではないな、と今更ながらに考えたのです。

 

 

 

 

 

 

ランクマの悩みはどこも同じなんだなぁ…の話

麻雀でも「牌での会話」と言われますが、下家へのアシストであるとか、ラス回避の差し込みとか。

そういったものは「相手にある程度以上の実力があるから出来る会話(意思疎通)」なんですね。

そして、それは協力プレイの他にも手牌読みだとか打点読みにも共通して言えることになってくる。

 

下記の動画でも「上手い人が相手だと”自分のミスで負けたな”とか”相手が上手かったな”って思えるんですけど・・・、”なんだコイツ?”とか”コイツ話通じねえな”ってのが来て負けると萎えるんですよね」と悩みを打ち明けている。

麻雀でもあるあるだろう。「なんでここでその牌でてくんだよ!」「その切り順でこれ当たらんのかい!」「何やってんの下家・・・」などなど。

どういうことなのか理外の打牌なのに、それなのに運よく勝たれてしまう。そういうことをされると同卓している側としては「ハァ~~~(クソデカため息」となってしまう。

 

youtu.be

 

アドバイスを送るどぐら氏は「コンボミスとかで負けたのはさ、もうそれ決めきったら勝ってたわけじゃん。それはもう勝ち勘定に入れてもいいくらいだよね」と語る。これはおそらく中級者以上の上級者向けの思考にはなるだろう。

コンボミスがあまりにも多ければ反省点になるが、少ない部分でそれが出てしまうのは人間の不完全さゆえに仕方のないところでもある。そこを受け流す思考も大事ということだ。

麻雀で言えば、打つべきリーチを打って放銃して負けたが、それは正着として負けでもOKとされるようなもの。他にも格ゲーでガチャプレイ的な相手に偶然負けてしまっても、麻雀でもラッキーだけのダマ12000点で事故ってしまうことは誰にでも起きうる。それは実力とは無関係だ。

 

助言されるXQQ氏もFPSでは上位ランカーの実力者。勝負ごとの距離感は肌で理解している。

「このぐらいは許されるけど、これは駄目でしょ」という反省の仕方は身についているはずだ。だからこそどぐら氏のアドバイスにも素直に従えている。

格闘ゲームという新しいジャンルに手を付けて、壁にぶち当たってやや不安な時期なのかもしれない。だからこそ先駆者からの「いや、それは大丈夫」「それはしゃーない」という言葉が身に染みる。

 

様々な勝負事にも運は絡む。それはFPS格闘ゲームやスポーツでも同じだ。

その日の相手の組み合わせや、自分や天候のコンディションなどなど。

麻雀でも牌の巡り合わせと同時に、その日の同卓者で結果が変わることも多い。

 

牌での会話ができない相手と当たってペースを乱されたり、調子を狂わされたときは一旦時間をあけるのも手かもしれない。

・・・しかし、アツ続行してしまうのが人間なのである。