幼児教育がなんか恐い

ウチの子供が成長し、そろそろ幼稚園という頃合になってきた。NHK教育の「おかあさんといっしょ」やら「ピタゴラスイッチ」など一緒に見て、歌ったり踊ったりして遊ぶ事もあるんだけど、「おかあさんといっしょ」を見ている時にある事に気が付いた。
おかあさんといっしょ」には、歌のお姉さんや体操のお兄さんなどといった定番の人達の他に、小さな子供達が出演している。概ね、3歳から5歳だろうか。子役みたいなプロの子供達というよりは、明らかに素人な子供達。お姉さんが歌い、お兄さんがダンスをしているにも関わらず、勝手に歩き回ったり、寝そべったり、部屋の隅に座ったままだったり、みんなが踊っているのに、全く無関心であったり。
そんな状態なので、恐らく、視聴者のパパママ達が、可愛い我が子をテレビに出して、みんなに見てもらいたいとか、あわよくば見初められてスター子役になったりするかも?!みたいな山っ気があるパパママ達が子供を出演させているものと思う。しかし、広く一般に出場者を応募している様子はテレビを見ている限りは無いので、何らか積極的にNHKにアプローチしていかないと、子供を出演させるまでには至らないと思われる。
そんな積極的にテレビに子供を出したい。という親が一生懸命なら、子供にはなんらかの訓練をするのではないかと思う。みんなと一緒に踊れるとか、定番の歌を歌えるとか、何がしかの訓練をするだろう。小さな子供だから大変だろうけども。
で、そんな積極的に出演させられているであろう子供達なのに、先に書いたような、かなりルーズというか自由なのだ。ダラダラしているのだ。これはもう長い期間を通してそういう雰囲気になっている。まれに突出した個性の持ち主もいたりしてそれも面白い。


おかあさんといっしょ」はたまにロケがある。どこどこ県のなになに幼稚園に遊びに来ています。とか言って、どっかの幼稚園で、歌ったり踊ったりが行われる。大人側の出演者はいつものメンツ。子供の出演者が幼稚園の子供達。
幼稚園といっても様々なんだろうけど、ワリと普通というか平均的というか、特にどこぞのお坊ちゃんやお嬢様がいるような幼稚園ではない。一般的といった感じ。
そんな普通の幼稚園児が、ビシっと整列して、寸分の狂いの無い踊り、歌を歌うのである。やる気の無い奴は皆無。かなり全力を出し切っている感がある。もしかしたら何々組のお友達とか言ってるけど選抜メンバーばかりなのかもしれないけど。
パパママ達が積極的な子供達は、かなり自由に出演しているのに、そこらの幼稚園児は軍隊並の統率で出演。見るたびにこのギャップが恐い。いったいそこらの幼稚園ではどんな教育が行われているのだろうか。

一億総八百長

相撲界の八百長の話がニュースを賑わしている。
あちこち見てみると、大筋として、

  • 7勝7敗時の勝率
  • 全部ガチでやったら体が持たない
  • 昔からそういうのはあった

というのがほとんど。
個人的には、ずいぶん昔に、大相撲ニューヨーク場所だかハワイ場所とかいうのをテレビでやってて、外人さん向けにヤオ丸出しの試合をしていたのを見てから何か変だなと感じ始めた。ヤオ丸出しというよりも、サービス精神溢れる試合内容だった感じ。土俵際で際どく競って見せたり、吊ったり吊られたりしながらもみ合ったり、土俵中央で何分も動かなかったり、ツッパリの応酬をしてみせたり、立ち合い時にヒラリとコミカルにかわして見せたりといった感じ。
あーそういう事かと。考えてみりゃ、同じ会社内で同じ給料貰ってる仲間なんだなと。インチキしやがってというよりも、プロレス的な何を感じた。


んで、その八百長関連のニュースを見たとき、もうホッテントリにならんでいる記事のタイトルがだいたい想像ついていたのです。
しかし!自分が想像していたタイトルや内容のものが全然無かった・・・何故だろうか。とても不思議に感じた。
自分が想像していたものは、「雇用規制と八百長」的なもの。雇用規制があるから、八百長が起きるのだ。という話があるだろうなと思っていたら、あらまあ全く無いのです(探しきれていないだけかもだけど)。
相撲取りって、相撲取りじゃなくなっちゃったら、ちゃんこ屋開くしか道がないので、インチキしてでも相撲界に居座り続けるしかない、とかなんとかって話があるんだろうなと思ったら無い。何かあったら雇用規制が悪い。ってなんでもそっちに持って行く人達にしてみれば最良のネタであるはずなのに・・・


雇用規制がある為に、なんでもガチで勝負出来なくなって来ているのは確かなんじゃないかと自分は思い始めている。
仕事をやっていて最近、特にそう感じる。
自分が仕事を始めた頃、世間には「ことなかれ主義」という言葉があった。摩擦を起こさないように、揉め事が絶対に無いように、前例の無い事はやらないようにといった事なんだけど、当時は、そのことなかれ主義は、みっとも無いというかダサいというかあまり良く思われていない雰囲気の意味を持っていた。そういう主義を持つ人は後ろ指をさされたものであった。
しかし、今ではことなかれ主義なんて言葉を聞くことは無くなった。全く無い訳ではないけど、もう一般的に使われない。そう、いつのまにか、ことなかれ主義が当たり前の世の中になってしまっていたのだった。もう何がしかの摩擦があったり、そうなりそうだったりするものは全てやらなくなった。考えの違いで起きる議論ですら、やっちゃいけない感じ、前例の無い事はやってはいけない事になっている。


あたって砕けろ、とにかくやってみろといった話も聞かなくなった。計画して、実行、それを評価して、改善して、さらに良い計画にする事を前提に計画する事が当たり前になった。だから高い目標にチャレンジしてダメになるよりも、あえて改善の余地を残した状態でチャレンジして小さな成功を得て、さらに改善してまたちょっと小さい成功を得る事が持てはやされる時代になった。失敗は絶対に許されない時代となった。
とはいえ、やってみなけりゃ解らないという事も全く無い訳ではない。そういう場合は、失敗したらどう言い訳をするか、完璧な責任転嫁を設計してから、チャレンジする事になる。その時点で失敗する絵を書いているので、完璧な責任転嫁が厳しくなる状況にちょっとでも近づくと、"正しい失敗"にすぐに落とし込む作業に入ったりもする。いったい何をやってるのか解らなくなる事が増える。
もう何もかもが八百長なのである。


これって、こういう事になってるんですよ。というワクから抜け出す事が困難な時代。こういう筋書きになってますから頼みますよ。という八百長がとにもかくにもついて回っている。いやな事だな。と思いつつも、はてなに蔓延る、クズ経営者やクズ学者などが「これは解雇規制が」「デフレが」などといった毎度おなじみの論が出てこないと、よし、いつも通り、通常営業だなと納得できない自分がいる。八百長の美学を認めてしまっている。

「コミュニケーション至上主義社会」へ疑問を感じる人への疑問

元2ちゃんねる管理人ひろゆき氏との対談で芽生えた「外に出ない=ダメな人」という固定観念とコミュニケーション至上主義社会への疑問

この上の記事だけじゃないんだけど、ここしばらくアンチコミュニケーション至上主義的な話が目立って来ている様に思う。
記事内容に関しては、概ね賛同出来るんだけど、でもなんか変。
世の中、コミュニケーション至上主義から離れてきているからこそ、引きこもりやニートが可能になっているはずなのに、世の中は、コミュニケーション至上主義が強まってきていると言う。
どう考えたって、昔よりも、メール1本、書類1枚、電話1本で済む事が多くなっている。間違いなく。昔はネットなんてものがないから、間違いなく、メールやWEBサイトから入力で処理できるようなものが無い。それが今はかなりの部分でそれで済んでしまう。
きっと、目が見えないとか耳が聞こえないという人にとって確実に暮らしやすい世の中になってきていると思う。それだけコミュニケーションが簡単になってきている。


就職だってそうだ。今は新卒者は各企業に連絡を取るのにネット経由から進むのが一般的だと思うのだけど、コミュニケーション能力なんて必要ない。登録して待つだけでいい。勿論、その先は昔と変わらないんだけど。昔はなんのツテもない企業に連絡を取る事すら大変だった。それこそコミュニケーション能力を最大に発揮しないと、履歴書の送り先すら教えてもらえない。
入社してからでも同様。各種いろんな手続きは、上司やお局様に頭を下げて、ああしろこうしろという助言の元、様々なことを経て完了。上司やお局様の機嫌が悪いだけで先に進めないといったこともしばしば。お局様へはお菓子の差し入れ必須。でもコージーコーナーのお菓子はダメらしいぞなどなど、大変だった。
それが現代では、決まったフォームに記入して提出すればokな書式が整っているし、イントラネット内で入力すればそれで済んだり。コミュニケーション能力なんぞいらない。出張手当や経費精算なんかにコミュニケーション能力が必要な時代があったなんて恐ろしい話だけど。まあ少なくとも絶対的な権力を持ってるお局様なんてものが現代ではいない。もちろん、お局様はいるんだろうが、権力はほぼ持っていない。
そのお局様だって、コミュニケーション能力がめちゃめちゃ高かったからこそ、コミュニケーション能力さえあれば権力が手に入れられたからこそ、そういう状態になっていただけであって、現代でコミュニケーション能力がいくらあっても権力は手に入らない。古い体質の企業はまだあるかもしれないけど、まっとうな企業では「あの人に挨拶しておかないと出張旅費が出ない」なんて事はありえない。


職安=ハローワークについても思い出した。今では自分のスペックや希望する職種などを入力して検索すれば、誰でも求職情報が手に入る。コミュニケーション能力なんぞ一切いらない。昔は、職安職員にへこへこしながら、自分はこんな事が出来ますとアピールして、少しでも条件の良い職を紹介してもらうしかなかった。職員は「こんな使えないっぽいやつを紹介したら俺が怒られちゃうよ」なんて心配をしながら、この程度のやつなら、この程度の会社が適当だろ。なんて紹介をされていた訳だ。今ではそんな心配はいらない。検索するだけでいい。
就職もいつかは、年齢記入も履歴書の写真も必要の無い時代がやってくる。それこそコミュニケーションなしで企業は判断する時代が来る。


現代ではむしろ、コミュニケーション能力が邪魔な場合ですらある。居酒屋チェーンの無粋さ加減は異常でも書いたように、マニュアルの範囲を超えてしまうと何も出来ないといった状況がよくある。コミュニケーション至上主義なんて全くのウソだ。


世の中が進めば進むほど、コミュニケーションはいらなくなるよ。そしてコミュニケーションがいらなくなるようなサービスが増える。老人ホームしかり、様々な自動販売機しかりだ。インターネットなんて最たるものだ。一定のコミュニケーションはあるけど生生しいコミュニケーションからは遠ざかる方向だ。ツイッターだって草食系だって非モテだってコミュニケーションから離れていく方向だ。
もう一度言おう、今の時代がコミュニケーション至上主義なんて全くのウソだ。
もし、そういうものがあるとするならば、各個人が自分のワクの中で自分だけの判断、趣味嗜好で動きたい、我侭を通すにはコミュニケーションしないと自由に動けないから、そんなのイヤだっていうことで、「コミュニケーション至上主義の世の中はいやだ」と言っているだけなのではないだろうか。そりゃ我侭通したいならそれなりに周囲と手続きを取らないと我侭は出来ませんね。なんの障害もなく我侭と通したいという意味でコミュニケーションを取りたくないってのはちょっと・・・って感じ。これはこれで別の問題で、病気って事なのかもしれませんけど。

チビ、デブ、ハゲ、ブサイクな皆様へ

以下の増田を見ていてなんだかイライラしたので記事を書いてみる。
茶髪から見た差別社会日本


世の中にはルックス的に恵まれていない人はかなり多いと思う。自分も近頃はデブって来たし、ブサイクだし、上の増田の言葉を借りれば、髪が茶色かかっています。自分の年代だと茶髪にするのはあまりいないので、ほんの少しだけ目立つかもしれない。でも言うほど茶色くは無いんだけど、中学、高校の時はワリと言われた方か。
で、茶髪は差別されるとかって話。茶髪以外でも表題に書いたように、低身長だったり髪の毛が薄かったり肥満気味だったり不細工な顔をしているという事で、からかわれたり、イジメられたりって話は現実にあると思う。だけどね、本当にそうなの?それが原因なの?って思うわけさ。少なくとも主因じゃないんじゃないのか。
世の中には三拍子揃った非モテ人間とかザラにいると思うんだけど、みんながみんなイジメられてないと思うんだよね。ハゲている人だからって、ハゲだのズラだのって影で悪口言われている人ばかりではないと思うんだよね。例えば、ソフトバンクの社長、孫さんはハゲているんだけど、あの人は社内でどう呼ばれているんだろう、社内はともかく、仲の良い一般社員同士が居酒屋でグチを垂れる時、どう呼ばれているんだろう?
あくまで、想像でしかないんだけど、「社長」「孫さん」「孫」「正義」って表でも裏でもそう呼ばれてるんじゃないかな。ハゲとかクソハゲとかって呼ばれてないんじゃないかな。ネット上の一部ではハゲって呼ばれているみたいだけどね。
同様に、知り合いや会社の人の事を考えてみると、チビ、デブ、ハゲ、ブサイクってのはたくさんいるんだけど、心の中で「ハゲ」だの「デブ」だのって呼んでる人って少ないんだよ。信頼できる上司がハゲていても「ハゲ」っては思わないし、「あのクソハゲがああ」などと心で叫んだりもしない。
もちろん、心の中でそう呼んでいる人物も間違いなく存在するんだけど、そういうやつは「クソ」なんだ。クソだから、ハゲだのなんだのと言いたくなるんだよ。だって、こっちにとって、ハゲやデブという存在以外の何者でもないから。


こちらからすると、邪魔な存在、気に入らない存在のやつは「クソハゲ」「クソデブ」扱いなんだ。
「仕事もロクに出来なくて迷惑ばかりかけてるにも関わらず全く反省すらしない、例えば、いつも世話になっている業者さんに高圧的な態度を取るばかりでなく、段取り不足で後戻りの仕事ばかりで儲けるどころか損ばかりさせているんだよ、あのAさんは」
なんて長い文句なんて言いたく無いんだ。「またあのクソハゲがやらかしやがった」って表現でいいんだ。
「みんなそうやって俺をハゲだのなんだのって言うけど、バカにするな」そのAさんはたまにひねくれる。まだわかってねえ。ハゲだからバカにされてんじゃなくて、みんなに迷惑をかけてるクセに俺はエライみたいな事を言ってるからバカにされてんだ。バカにするのに簡単だから「ハゲ」って言ってるだけだ。いちいち正確に嫌ってる理由を説明させんなって事だ。一応、言っておくと「仕事が出来ない」だけでバカにされてる訳じゃないからな。


この世界には、黒人というだけで暴力を振るわれたり殺されたりといった事がある国や地域があるので、ハゲてたりデブだったりするだけで、殺されたり迫害される事があってもおかしくない。小学校の頃なんかもそうかもしれない。しかし、中学、高校、大学、社会人となるにつれて、そんなものは薄れていく。
ハゲだから、デブだからイジメられる事なんて無いんだよ。もしハゲてたりデブだったりしてイジメられているなら、原因は他にあると考えたほうがいい。カツラかぶったり、ダイエットしたらイジメられなくなるなんて事は無い。ハゲやデブをイジメの原因にするんじゃない。もしそれをイジメの原因だと思うのなら、自分で自分をイジメているのも同じだ。
自分が知っている大半のハゲている人や太っている人は、結婚してたり彼女がいたり、優秀だったり、面白かったり、信頼できる人だったりと、とてもイジメの対象になってる人達ではない。


まあグダグダ書いたけど、日本がどうだとか、差別社会がうんぬんなんてどうでもいいんだよ。差別はダメだって、そう思うんなら乗り越えて見せろ。非寛容だ?そんな事は無い、俺だって普通に生きてる。いや楽しく生きている。非寛容なのは増田の方じゃないのか。寛容でいたいなら好きなだけ言わせておけ。茶髪だろうが何だろうがどうだっていいだろうが。茶髪だからってなんなんだ。
コツコツと理路整然っぽく書くと何やらもっともらしい感じになるから、なんだか真に受けて「あー差別はいけないね」なんて、つい考えちゃうんだけどさ、なんか変だよ。まさに「俺は気にしないけど、お前のために言っている。なにかあったときに困るのはお前だ」みたいにさ、元から言ってる事は間違ってんだけど、なんとなくうなずいてしまっちゃうような、そういう空気を感じたよ。俺の方が正論なんだみたいな。俺が正論、お前はおかしい。とかって変に叩いてくる連中と同じ論理じゃないか。まあ俺も増田がおかしいって言ってるような感じになっちゃってちょっとアレなんだけど。
イジメられてる側が理不尽さを嘆いてるのに、それがなんか理不尽なんだよ。だからなんかイライラしたんだ。
まあ、なんだ、もっと強くなれって事だよ。泣いてばかりいるんじゃねえ。細かいこと気にしてんじゃねえ。増田でも無いところで言わせんな恥ずかしい。

物事の効率化は幸福に繋がるのか

「勝間和代vsひろゆき」討論はとても大切なことを世に問うている

『正義』や『正しさ』をたてて人を論難したり主義を通そうとする姿勢そのものに潜む欺瞞をこの対談はひどく意識させてくれる。このことは、吉本隆明氏が親鸞上人について語る時に繰り返し出てくる観点でもあるのだが、『正義』を自分の内に持って自らを正そうとするのはよいが、これを外に出して、他人や世間に押し付け、人を裁くようになると、どうにも怪しさと危うさが漂うようになることが多い。

昨今の日本は、安心/安全の旗頭の下に、徹底的に正義を押しつけ合い、社会全体が非常に窮屈になっている。私などこれこそ幸福度を下げる重要な要因の一つなのではないかとさえ思う。どんな細かいことでも始終『善』や『正義』でお互いを責め合う社会に私は住みたいとは思わない。

私は、主に工場を相手に、建物や生産設備や付帯設備にまつわる業務の効率化や省エネ化を目的とした、システム・装置等を提案して、納入、工事を行う仕事をしているのですが、上記の記事を読んで、ピンときたというか、なんとなくぼんやり思っていた事が明確になりました。
顧客に対して、この提案を実行すれば、安心低リスク/安全/低コスト/省エネ/人件費低減/効率化/利益率UP等などといった効果が見込めますよ、投資金額はhogehoge年で回収できますよ、といった話で、ウン十万からウン億円の案件を多数こなしているのですが、どうも何かがおかしい。
概ね、プレゼン通りに投資した分の効果は出ているし、効率化も進み、顧客も満足し、満足するからこそ、こちらの更なる提案も受け入れてくれるといった感じで、もうまさにwin-winなんですが、そこで働く従業員の顔色が悪いというか覇気が無いというか、何かがおかしい。


こちらが顧客に提案する場合、たいていが顧客担当者は課長クラス。その担当者が、さらに上司なり、一部役員なりが参加する投資確認会議のような場所でこちらの資料を持って、説明をし、そこでokが出れば、さらに上の会議に出され、そこでokをもらえると発注が来るという感じなのだけど、その際に使われる資料は私が(こっそり)作成しています。
この資料は、法律や条令などを引用し、順法であること、使われている計算式の説明、専門家の意見/見解、業界のトレンド、利益率改善などなど、善や正義を徹底的に入れ込んで、暗に「年にhogehoge円をドブに捨てているようなものだ、株主に訴えられたら、この担当の部署や役員はタダじゃすまんよ」といった感じの資料になっている。
私はあくまでも"ご提案"の範疇でしか作成しないし、提案を採用するかどうかは、顧客が考える事だと思ってるけど、一部の同僚や上司は、顧客に圧力をかける為に、顧客の経営者に直接連絡したり、その経営者の友人(リアル戦友)とか有力株主にチンコロしに行ったり、同業他社がいる業界団体の集まりの席で、あそこは遅れてるとウワサをしたりといった行動を取る人もいる。そういうのが営業活動だともいうらしいけど。


こちらが提案する案件は、まず基本的に「善」であり「正義」であり「効率」が上がり「利益」がアップします。これはもう間違いは無い。それじゃなくちゃ誰もお金を使ってくれない。作成された資料に不備があったりする事もあるし、ツッコミが入ることもしばしばだけど、法令順守/善/正義/効率化/利益up/CSRの念仏を唱えていれば、ほとんど問題はおきません(まあもちろんそう簡単ではないけど)
もうとにかく、正義の押し付け、押し売り。とにかく正義なんで、誰も逆らえない。

  • 重油ボイラーを都市ガスで動かせるように改造(CO2削減、燃料費削減、燃料受け入れ等の手間削減)
  • ボイラーを有資格者が必要ではないタイプに変更(効率UP、人件費削減)
  • 工場のあちこちに点在している装置の警報信号を一括管理(人件費削減、効率化)

↑あくまでも一例で一般的な事しかここでは書けませんが、このような事を実行したりします。
すると、数字上はとても効果が出ます。お金が浮きます。会社の業績も上がります。
でも、そこで働いている従業員にとって良い事が実はあんまりない。例えば、資格手当てが付かなくなったり、のんびりとやってた業務が無くなり、プレッシャーの大きな業務が増えたり、今までとは違う、難解な装置を扱わないといけなくなったり、定年で退職する人がいても補充の人間がいないといった事が起きるようになる。
大変な仕事が減るといいよね、機械やPCにやってもらうといいよねと言ってはいたものの、実際にそうなってくると、残された仕事にゆるいものが無くなって来る。たんに仕事が忙しくなるというよりも、余裕、バッファーが無くなって来る。するとなんとなく暇な人が掃除をしていた部分が掃除されなくなってきたりする。
余裕が無くなって来ることで、いろんな問題が噴出してくる。この余裕がなくなる事によって出てくる問題というのは、現場の人間でも把握するのは難しい。
新しい提案がなされる前に、これこれこう言う事をやろうとしています。こういう仕事は少なくなると良い、PCでやるのが良いって言ってましたよね、という説明会を行うのだけど、こっちが用意した、練りに練られた提案書(善と正義のてんこもり)には誰もケチが付けられない。


とある工場に関わって7年になる。そこでかなりの仕事を行った。今後も行う予定でいるのだけど、現場の人に私は嫌われている。みんなお前に騙されてるという事らしい。
もう何度も言われているが「おい、年収400万の工業高卒おっさんに何やらせようとしてんだ、俺達はそもそも、工場のパシリで雇われたようなもんだ、難しい事は出来ないぞ、大変だと言ってる仕事は減らなくていい、他の難しい仕事が増えるだけだ。あんたの仕事は「大変な仕事」を減らす事だろ?その「大変な仕事」は俺達にしか解らない。俺達がしゃべらなくなったら、あんたらは仕事が出来なくなるぞ、メシの種がなくなるぞ」
クチは悪いが良い人で、何度も酒を飲んでいる。酒の席で聞き出した「現場の俺しか知らない」話を、それとなく表面化して効率化して、結果、その人の現場への影響力が下がって発言力も落ちた(=会社側にとっての効率化)。こういう事が3度はある。露骨にやらないようにはしていたが、酒を飲んでも、あまり話をしてくれなくなった。
話をしてくれなくなるのはすでに折り込み済で、現場には社員の他に、業務請負で入っている人達や、派遣で来ている人もいる。社員以外の人達は、期限があるので、微妙な時期に担当課長と同席で話をすれば、大抵のことは話してくれる。話しにくい事を話してくれた人は契約延長、悪い意味で現場に染まってしまった人は、契約書に基づいて契約終了。汚い、管理職、さすが汚い。


日本全国でこれに近いことが行われているんだと思う。閉塞感とはこう言う事をいうのではないだろうか。善と正義押しでやってくる相手には、それよりもさらに上の善と正義押しで対抗しなければならない。しかし相手は用意周到にやってくる事がほとんどだからかなり困難。グチや罵倒で返しても全く勝てないし、ソレ言っちゃったら負けを認めるようなもの。
就活の酷い話を聞くとなんかさみしい。新卒なのに即戦力を求められるらしいんだけど、昔は新入社員なんて何にも出来なくて良かったんだよね。自分もそうだったし。それがさまざまな効率化によって、テキトーな仕事はほとんど全て機械やパソコンで置き換えられている。ある程度までの効率化はあった方がいいんだろうけど、いきなり「男ならバック転くらいできるよな」みたいな話になってる事が多いような気がしている。

居酒屋チェーンの無粋さ加減は異常

よしもとばななデスノート世代in居酒屋、または8月15日的な一億総マニュアル化の雑談
http://semiprivate.cool.ne.jp/blog/archives/000984.html


自分は元記事を読んで、そういう店はそういうもんだから、いちいち突っかかるのは無駄だろうにと思った。と同時にその辺の世代の人間なら、昔と違った居酒屋になっているのは今時、当然のように知っていなかったのが不思議だ。
自分もそういう店で何度も不機嫌な思いをさせられている。例えば、焼酎のお湯割りに梅干が入っている。あれを2個にしてくれと言っても対応できない店が多い。1個と決まっているのだと言われる。いやだから2個にしてくれというんだから、100円でも200円でも取ればいいじゃないかと言っても、出来ないものは出来ないと。
焼酎のお湯割りに梅が入っていて、その梅を潰さずに飲む人がいる。2杯目、3杯目と同じ梅でお湯ワリを作り、梅がぶよぶよになって行く変化、味の変化を見ながら飲み進める人がいる。そのリクエストにも、ああいう店は応じてくれない。梅が余計に消費しないんだから、店からすれば楽だろうにと思うが、マニュアルと違う事が悪であるから、個別の要望には答えられない。
酒の飲み方は千差万別。趣味嗜好個人個人それぞれで違うにも関わらず、ああいう店は店のスタイルを押し付けてくる。
ヤキトリをオーダーした後、七味をくれと言ったら、そのメニューには付かないので出せない。といわれた事もある。
もうこんな店、二度と来るもんかと何度思ったことか。他人に付いていったりする時は仕方が無いが、自分からは絶対に行かないし、飲み会幹事であっても二次会はおろか三次会〜反省会まで絶対に予約しない。


ふとここまで書いて気が付いた。タバコだ。ある頃から、タバコへの締め付けが非常に厳しくなり、職場でタバコが吸えなくなった。かろうじて許されたエリアで吸えるだけで机の上では吸えなくなったのだ。自分は、デスクワークをしながらガンガン吸う方だったので、これからは下のフロアのあそこでしか吸っちゃいけませんとなった時、ふざけるな、そんな所に押し込められて吸うくらいなら、タバコなんて二度と吸わないと思って、きっぱりとタバコを止めた。


酒の飲み方、タバコの吸い方というのは、個人個人千差万別。それを無理やり周りから変えられるから我慢ならんのだ。癪に障るのだ。タバコに関しては吸わない人の迷惑になるから、そうなる事も当然と言えば当然なのだけど、酒に関しては我慢ならん。だから自分は絶対にそこらにあるチェーン店は絶対に利用しない。仮に安くても、可愛い女の子が働いていても、行きつけのババア2人でやってる居酒屋以上の店なんて絶対に無い。悲しいことにホントに無い。年齢を重ねれば重ねるほど、居酒屋チェーン店の流儀にはイライラさせられる。
これはたぶん、よしもとばななだけじゃない、持ち込みはマナー違反ではあるけど、そんな話以前に、居酒屋チェーン店はとにかく酷い。


・入店5分で料理のオーダーストップになってしまった。事前の案内も無し。それは仕方ないとして、とりあえずビールだけで頼んでたらつまみが何も食えない状態に。せめて漬物の盛り合わせだけでも食わしてくれとの懇願にも対応できないとのこと。
・サワーに入ってるレモンを2枚にしてくれ。50円でも100円でも追加すればいいでしょ。いやいやそれはできません。
・サラダをドレッシングではなく、塩とコショウで食べたい。いやいやそれはできません。
・となりのテーブルのアレがうまそうだ、同じものを大盛でください。大盛とかありません。
・この酒を燗で下さい。その酒は冷だけで出してるのでできません。
・この刺身の盛り合わせ、イカ好きなので、イカだけ多めに入れてください。いやいやそれはできません。
もうこんなんばっかり。冷奴にしょうが乗せないでくれというだけでもイヤな顔をされたりする。うんざりだ。マクドナルドなんかの方がよっぽど対応良い。あんなマニュアルの典型みたいな業態なのに、居酒屋チェーンよりも対応力が良い。それすらもマニュアル?と思わせるところもあるけど、たぶん、客のリクエストには、店員自らが考えるようになっているのかもしれない。居酒屋チェーンは恐らく、店員の意思なんてものは無視するようになってるんだろう。


上野界隈にはまだまだ自分の愛している居酒屋はたくさんある。いい店ばかりだ。
だからと言って、若者を連れて行くとイヤな顔をするかもしれない・・・まれに店のババアが余計に料理作ったり間違って作ったりすると、安くしとくからと言って頼みもしないものを押し売りに来る。断れるんだけど、他のテーブルで断られ続けたものがやってくると、どうも断りにくい。そういう店なんだから仕方ないんだけど、初めて若い人達が行ったら、断れなくて酷い目に会ったみたいな話になるんだろうな・・・
チューハイ残り1/3で、そろそろ帰ろうとしてるときに、特大ホッケを食べないか、若い人は魚を食べないと。なんてやってくるのは流石に閉口するけど。

花見という文化は、桜の力だけで支えられてはいない。花より団子だし。

「ドラッグになんて頼らず音楽の力だけで支えられている日本のクラブカルチャー」ってほんと?
http://d.hatena.ne.jp/metamix/20090812/1250094080


私はクラブシーンなどというものと全く縁が無いのですが、このエントリを見て、「上野公園の桜の花見」が思い浮かびました。時期になると数回、花見に行きますが、やはりアルコールは付き物。もちろん、酒を飲めない体質の人もいるので飲まない人もいます。
飲んでる人、飲んでない人、飲んで騒いでいる人、泥酔している人、寝ている人、歌っている人、楽しい会話、美味しい食事、美しい桜、その場所を流れる空気、たくさんの人々、傍らに居るカミさんや恋人、子供、家族、老若男女、それら全てが合わさって、楽しい花見になっていると思います。
ハッピーな人が、ハッピーな場所で、集団でハッピーに包まれる。クラブも花見も同じなんだろうなという気がしました。法で定められているのでドラッグなんかは論外ですが、花見会場でも、泥酔して胃液をぶちまけたり、脱いだり、セクハラしたりという事もありがちです。
この辺のアルコール酔いから来る行動もかなり違法な部分があると思いますが、個人的には花見の時なら、仕方が無いというか、アリという感覚があります。迷惑をかけられた方はたまったもんじゃないだろうけど、まあしょうがないだろ、花見なんだから的なものがあります。
クラブ、レイブでのドラッグ容認発言をする人は、そういう感覚だったりするのかなと気がしました。