論理というと、理性の領域で、感受性や感情には通じない、と思っていましたが、
感受性や感情にも歴とした論理は貫いている可能性は高いです。
その論理が、かなり複雑で、物質世界の自然界のイージーなロジックと比べて、おそらく複雑で精緻な論理が貫いていると思います。
で、理性と感情のどっちの論理が強いか?、優位か?については、さて置いといて、
どっちを基礎に置くか、という点がけっこう重要になってきます。
論理Aの上に論理Bを積み重ねるのか、それとも逆で、論理Bが「基礎」で論理Aが「上部」なのか、という問題です。
これによって、行動の背景が正反対になったりします。つまり、行動の質が変わってくる。
感情の論理を基礎としての「あなたが好きです」のセリフと、
理性の論理を基礎としての「あなたが好きです」のセリフ。
この2つは、言葉だけ宙ぶらりんにして意味を問えば、「同じ意味」ですけど、
背景が異なっていますので、「違う行動」になってきます。
女性の「愛してる」と男性の「愛してる」の背後関係の意味が異なるように、です。
これを「決定論」と「そこからの逸脱」の対比で見てみます。
一般的な人は、あるいは「大人」の人は、
基本的に「すべての物事は『大いなる他者』によって決定されているんだ」という発想をすると思います。
慶應高校が甲子園で優勝したときも、主将の子は「優勝できたのは、野球の神様が・・・」という言い方をしていました。
勝てるかどうか、それは自分では決められない、「決定論的」であって、
そこから「逸脱」しすぎるとやばい、でも、逸脱しても許されたら愛されてると感じるし、サボれるしめっちゃ嬉しい、良い逸脱をしていきたい、それが人生の醍醐味。
っていう発想だと思うんですよ。私の推測ですが。
これって、人間の感情からすると、自然なんですけど、
「決定論」を基礎論理として、その上に「逸脱」を構築しているんです。
客観的に評価すると、こういう精神構造によってもたらされる行動原理としては、
「高確率で、一定水準以上、逸脱する」と確定します。
「はい、私は逸脱しますよー!逸脱しまっせ~!許してね!」っていうモデルになります。
精神構造がそうだから、行動原理もそうなっちゃうんです。
つまり、アメリカ横断ウルトラクイズの○✖クイズで、「✖」の方に走っていく人ですね。
これは、行動を起こす前から、「確定してしまいます」。
私はそれをやりたくないんですよね。だって自分から「✖」に行きたくないですから。
「○」の可能性を自ら消す必然性と動機がないです。
なので、私の精神構造はどうなっているかというと、
「逸脱」を基礎として、「決定論」をその上に構築しています。
これって、ぱっと見、
逸脱である「✖」を基礎としているので、ダメなように思えますが、
行動原理としては、「がんばって、決定論に寄せていく」というものになります。
行動が、ある側面において、良い意味で洗練されていくんですね。
ただ、基礎が「✖」なので、結果としては「✖」なんですけど、
限りなく「○」に近い「✖」になるんです。
簡単に言うと、「最初っから『完璧』は諦めて、ダメであることを自ら認めているけれど、限りなく○に近い洗練された✖を追求する」という行動原理になるのです。
客観的事実としては、私は明らかに「✖」です。どうあがいても。
それは、「事実に即している」、よって、私にとっての「最善」となる、
というカラクリです。
あと、根源的に自分が「✖」なのはいいけど、自ら進んで「✖」に走って行きたくない、という希望もあります。自滅してどうする?ってことです。
このように、
一番下の論理の基礎と、そこから何を積み上げていくのか、その「順番」によって、
人間としての性質が全く異なってくる、ということです。
性質が異なっている人間それぞれの「アウトプット」だけ見ても、この構造には辿り着けません。
先ほども言いましたが、
Aさんの「自民党を支持します」と、Bさんの「自民党を支持します」は、背景・・・つまり行動原理が異なっているもの同志が、たまたま「同じアウトプットをした」という可能性がめちゃくちゃ高いので、
アウトプット基準で、人の性質を測るのは無理がありすぎるのです。
この情報は、論理の世界では、ある意味「当たり前」のことですが、
この「当たり前」を、学があっても、けっこう平気で無視している人が多いので、
私は「どうなってんの?」と不思議に思います。
あなたの基礎はなんでしょうか?
それによって、確定してしまうことがある事を、知っておいたほうが良いと思って書きました。
これは良いアイディアだと思います。
おわり